40.そこは桃源郷だった

体から力は抜けているのに、手は固く握られている。手を重ねて一本ずつ解いていく。つるりとコーティングされた硬い爪が食い込んで、手のひらに深く赤い痕が残っている。あの時もそうだった。コナンくんが誘拐された日の夜。不安や恐怖を、この手のひらで強く握りしめていた。
昔からこうしていたのだろうか。父親に暴力を振るわれて、母親のヒステリーを受けながら、手のひらを強く握って耐えたのだろうか。今のように泣きもせず、痛みも口にせず、手を強く強く握って耐えてきた人なのだろう。
彼女は言葉を発さない。僕の瞳を見つめたまま、浅く呼吸を繰り返す。何も言ってあげることができなかった。
まもなくサイレンが近づいてきて、警察と救急車が到着した。犯人の二人はそのまま連行されていき、名前は病院に搬送された。


*


めちゃくちゃ怖い思いをした。殴られ怒鳴られ、また殴られ。全身痛いところだらけだ。なによりも犯人の男が私の髪を掴み、「お薬入れてあげようか?」と言った時は完全に終わったと思った。薬が大好きになっちゃうね、薬を買うお金を稼ぐために店を紹介するよと男が話したときに、私が連れ去られた理由がわかった。父と母が薬物依存症だったと知らされていたためである。

おそらく警察は、両親の薬物入手ルートを追い、売人とかヤバイ感じの人にたどり着いて一斉検挙でもしたのだろう。そういえばそんな感じのニュースを最近新聞でちらりと見かけたような気がする。まさかこの状況につながるとは考えもしなかった。それに焦った薬物関係の男がどうにかバレたルートを探り当て、私にたどり着いてしまったのではないだろうか。
母と不倫相手の密会(?)に遭遇したお店での予約名だろうか?あの時は確か苗字の名前で予約していたし。
難しいことはよくわからないし、事件の真相を聞くつもりもない。もうあの恐ろしい時間は終わったということだけが重要だ。

検査の結果、肋骨が折れていた。初めての経験だ。内臓が傷ついていたらどうしようと不安でいっぱいだったけど、内臓は問題なく元気だった。ありがとう丈夫な私の内臓。
体中が痣だらけだし、殴られたところは熱を持ってとっても痛いし、顔も腫れているし、とてもじゃないが人前に出られるような状態ではない。めちゃくちゃ不本意だけど、今回ばかりはポアロのシフトを休むことになった。果てしなく申し訳ない。つい先日頑なに「休まない」宣言をしたばかりだというのに。宣言するとよくないことが起こるような気がしてきた。今後は明確に宣言するのをやめる。単独行動と明言は凶。

私を救い出してくれた安室さんとは、あの晩以降会っていない。安室さんが助けに来てくれた時点で意識が朦朧としていたので、安室さんの登場が夢か現実かもわからなかった。だけど彼の瞳の青が視界に入ったとき、体中から痛みがなくなったような錯覚があった。錯覚だ。めちゃくちゃ痛かったに決まっている。
今回の件だとシャレにならない言い回しだけど、彼の瞳は麻薬のようだと思った。シャレにならなすぎる。麻酔とかそういうマイルドな表現にしておこう。彼の瞳は麻酔だった。強く握りしめた手をいとも簡単に解いてくれた。それだけよかった。
あれ以来一度たりとも顔を合わせていないけど、それがどうした。なんとも思ってない。いくら朝から晩まで忙しい人であってもちょっとはお見舞いに来てくれても良いのではないだろうか、なんて思ってない。こんなに放置されたのが久々で、少し感覚がおかしくなっているだけだ。
彼のことを待ったりなんてしていない。

「待ってないんだってば」

かすれた声で呟いた。個室なので、返事もない。ひとりで白い天井を見上げるだけの生活。自堕落な私にはお似合いだ。体中が痛いのだけは、もう勘弁してほしい。

あきれられてしまったかもしれない。忙しい合間を縫ってほぼ毎日送り迎えしてくれたのに、わたしの勝手な行動で水の泡だ。この怪我と痛みも自業自得と言えよう。いや、それは訂正する。怪我と痛みは100%犯人が悪いので、自業自得ではない。暴行に関してはただ私がかわいそうだった。被害者である。
とにかく、面倒な送り迎えまでさせたのに、結局拉致されてしまったのは1割くらい私に非があるかもしれない。9割犯人が悪いけど、言ってしまえばすべてにおいて犯人が悪いけれど、自衛しきれなかったという面で私にもほんのわずかに危機感が足りなかったという点でダメだったのかも。こんな凶暴な人とは知らずとも、誰かに狙われてることがわかっていたのだから、軽率な行動は控えるべきだった。
彼が呆れてしまうのも無理はない。甘えに甘えまくったあの生活ともそろそろお別れかもしれないと思うとちょっと切ない。都会で他人のお金で暮らす生活はとっても贅沢だったし、何より彼との暮らしは嫌いじゃなかった。家事の分担で生活が楽というのはもちろん、家に自分以外の誰かが居るという状況が嬉しかった。この2度目の人生で最も幸せな時間だったと言っても過言ではない。
あの家は、暴力も暴言も飛び交わない。安心できる場所だった。名前と呼ばれるたびに、他人の中に私が生きているという自覚が育った。始めこそ、どうにでもなれと半ば投げやりだったけれど、気付けば欲しいものもやりたいことも増えて行った。それもこれもどれもすべて、安室さんと暮らしたからだ。彼以外の…例えばちょっと小汚いおじさんとの暮らしだったら、こうはならなかっただろう。家出というか、逃亡しただろう。つまり、私は彼が側に居てくれて、申し訳ないなーとは思いつつ、とっても満たされていた。幸せだった。

だから、その幸せや喜びを知っているから、今はさみしい。認めたくなかったけれど、どうやら私は、さみしい。