41.誓いを契約

顔の怪我が治ったころ、明日には退院ですねと言われた。ありがたいことだ。肋骨の骨折があるので自宅で安静にしているようにと説明を受けた。

結局、一度も安室さんは来なかった。
これは本格的に愛想をつかされたのかもしれない。果たして、退院して帰る場所はあのマンションで良いのだろうか。ていうかお金もないし、どうやって帰ればいいのか。目覚めたときには安室さんが用意してくれたのであろう私の入院セットがあったので、それも持ち帰らなければならないし。病院のロータリーでタクシーを拾うしかないようだ。一度部屋にお金を取りに戻ればいい。明日はタクシーに決定。そして家に帰ったら、少しずつでも荷物を整理しよう。いつ追い出されても良いように。つぎの家はここだよと田舎のボロアパートの住所を渡されてもいいように。これは心の準備だ。自分で探すのではなくて、次の家も用意されている前提で考えているところから、自分の甘さがよくわかる。

一応、安室さんに連絡したほうが良いのだろうか。明日退院ですとメッセージを送る。またもや秒で既読。早い。何時?と返信があったので、迎えに来てくれるのかもしれない。いいのかな。同居人の入院中に一度もお見舞いにこれなかったほど忙しいか、呆れて愛想を尽かしているのではなかったのだろうか。どちらかといえば今日の今日までめちゃくちゃ忙しかったけど明日の朝からは余裕がある状態だと願いたい。叶うのなら、今までのような関係で今後も同居生活を続けていきたい。嫌われたくない。離れたくない。この数日めちゃくちゃ忙しかっただけだと言ってほしい。

翌日。連絡した時間通りに安室さんはロータリーに車を停めた。わたしが病院から出ると、手に持っていた荷物をトランクに積んでくれた。いつものように助手席に乗ろうとしたけど、後部座席のドアを開けられたので、おとなしくそこに座る。運転席の後ろだ。

「調子はどう?痛むところは?」
「気を付けて呼吸しないと折れたところが痛いです。お腹まわりも動いたり触ったりすると痛みますが、他は元気です」
「そうか」

車内は無言だ。いつになく重い空気を感じる。やっぱり「出てってくれないか」とお話があるのだろうか。言い出しにくくてこうも空気が重いのだろうか。確かに出ていきたくないしまだ安室さんと過ごしたい気持ちはあるけど、気まずい思いをさせたいわけじゃない。言い出しにくいことなら、私から言うべきではないだろうか。そう思い至ったので、覚悟を決めて口を開いた。

「怪我が良くなったらでいいですか?」

覚悟を決めた割に、相変わらず図々しい。出ていくのは怪我が治ってからがいい。そういう思惑を込めたのだが、安室さんの返事はない。やっぱりだめだった?もしかして今から部屋に荷物を取りに行ってそのまま次の住まい?さすがに放り出されはしないだろうけど、執行猶予もないの?眉がくしゃりと歪んで垂れたのがわかる。前髪で隠れていてよかった。見られたくない。

「もしかして、出て行こうとしてる?」

ルームミラー越しに、青い瞳と視線が重なる。前見てください、なんて言えない。ゆっくりと減速して、コンビニの駐車場に入った。なんで?そのまま安室さんが降りて、後部座席のドアを開けた。私も降りるようだ。コンビニで彼は缶コーヒーと、飲むヨーグルトを買った。私が好きなやつだ。そのままイートインスペースに入って行くので、着いていった。彼の隣の椅子に座る。ゆっくりとだ。肋骨が痛まないように。安室さんが私にヨーグルトを渡す。ありがたく頂戴して、ストローをさした。

「君が出ていきたいと思うのも仕方ない」

耳を疑った。私が「出ていきたい」と思ったことはない。なんのはなし?黙って安室さんを見上げる。分からないときは、話の内容から分かるまで黙っているタイプだ。彼はそのまま話し続ける。

「あの日、僕に出会ってしまったばかりに、君は人生を失った。この短い期間で何度怖い思いをしただろうね。今回は怪我まで負わせてしまったし。君が家を出たいと言うのなら、引き留めるつもりはなかったんだけど」

安室さんが飲み終えたコーヒーの缶を捨てる。わたしのヨーグルトはまだ残っている。まだ彼の話が見えない。やはり私の方から出ていくと言わせたいのだろうか?視線がぶつかる。安室さんは人の良さそうな笑顔で爆弾を落とした。

「結婚しようか」
「はい?」

驚きすぎて思わず声が出た。どういうこと?話が読めないにもほどがある。結婚とか。本気じゃないことなんてわかりきっている。本気じゃないからなおさら意味が分からない。どうしてこんなこと言うんだろう。彼は立ち上がって車へ向かう。慌てて残りのヨーグルトを吸いきって、私も車へ向かった。
後部座席に乗って、ジェルで固めた爪を見る。結構伸びてきてしまったから、またネイルサロンに行かなきゃ。車は私たちの家に向かって走る。沈黙の車内で、彼が口を開く。


「君には悪いけど、まだしばらくあの家で暮らしてくれる?」
「はい。そうします」

結局彼の頓珍漢な発言の意味はわからないまま。それでもなぜかしばらくはあの家に居られるようなので、わたしはこのままこの流れに身を任せることにした。意味が分からないけど、追い出されるようなことはないみたいだ。

マンションに着いて、久しぶりの家に少し感動する。キッチンを見ると、最後に私が洗って水切りのためにラックに置いた食器がそのまま出しっぱなしになっている。珍しい。もしかしてこの家を使っていなかったのだろうか。気になったので、聞いてみた。

「もしかしてあの日から帰ってませんでした?」
「ああ。忙しくてね。登庁してそのまま泊まってばかりだったよ」

そうなんですか、と答えようとして、とあることに気付き、声が詰まる。やっぱりめちゃくちゃ忙しくてお見舞いに来る時間なんて無かったんだ、呆れられて放置されていたわけじゃなかあったんだと思うと同時に、一つとっても気になった。彼は「とうちょうして」って言った。盗聴ではないだろう。文脈から考えて、登庁だろう。彼が公安警察なのは極端に言えば前世から知っているわけだが、私は彼から聞かされたわけではない。新しい身分を用意して保護してくれたけど、彼から「警察関係者」であると聞かされたこともない。ポアロと探偵が本業でないことは聞かされているけれど「登庁」なんて言葉を使われたのは初めてだ。自分は公務員ですと言っているようなものだ。知ってるけど、知らされるということに驚いた。なんで?

「登庁、ですか」
「そう。どうしても調べたいことがあってね。ちょうど一昨日かな?一区切りついたんだ」

病院から持ち帰った荷物を整理する。洗濯機を回さなければならない。

「君は本当に何も言わないな」

振り返ると、安室さんは腕を組み、不満そうな表情で立っていた。結婚も登庁も結構なワードだと思ったんだけど、と言う。そりゃそうだ。私もその二つのワードに驚かされている。しかし彼が詳しく話すまで、聞いてはいけないと思った。微妙な線引きがあるのだ。彼にとって私の反応が微妙だったのがご不満らしかった。

「聞いてもいいものなのかわからなくて」
「教えられないことならそう言うよ」

仰る通りだ。二人でソファーに腰掛ける。安室さんは視線を合わせずに、話し始めた。

「僕は警察だ。安室透は本名じゃない」
「それはなんとなく」
「そうだろうね」

なんとなくどころかすべて知っている。本名だって知っている。しかし私が彼の本名を知る機会なんて一生来ないとも思っている。呼べる日も来ない。彼はずっと安室さんだ。

「君は僕の願いを断らない」

なんの話?雲行きが怪しくなってきた。確かに安室さんにはお世話になりっぱなしで、彼に望みがあるのなら、可能な限り応えるだろう。彼もそれがわかっているようだ。その上念を押して言ってくるとはどんな無理難題なんだ。

「安室透の婚約者になってくれ」
「どうして?」

ここにつながるのか、結婚しようかの話。思わず出た言葉は「どうして私がそんなことしなければならないのか」という拒絶の意味ではなく、「どうして私にその役が回ってくるのか」という疑問の意味が込められている。安室さんもそれがわかっているのか、それとも拒否したとしても押し通すつもりなのか、今度はしっかり顔を合わせて口を開いた。

「僕らは結婚を前提に同棲中だ。そういう役だから、君はこの家を出ていくことはできない」

安室さんからの願いによる設定付けがされたが、なんだか私に得があるようにしか思えない。婚約しているからこの家から追い出されない。そして今後なにかしらで表立って安室さんを頼るとき「婚約者だから」という理由付けができるようになる。どうしてこんなことをするのか分からないけど、安室さんにとっての理由と事情があるはずだ。Win-Winの関係になるのであれば一番ありがたい。

「それで、私は何をすればいいんですか?今後どのように行動を変えればいいんですか?」

今日婚約者の設定になったらと言って、ポアロに出勤した途端に「安室さんの婚約者の苗字です」なんて自己紹介はできない。婚約者になった私に「してもらいたいこと」があるのだろうか。顔が綺麗すぎるが故に女除けが必要だからと言われても納得できそうだ。めちゃくちゃ顔がきれいだから。

「僕の行く場所に着いて来てくれれば良い。側から離れないようにしてくれればそれでいいよ」

それだけ?安室さんからしてみれば、私の面倒を見る時間が増えて大変になるだけではないだろうか。別行動でと言われない限り、ともに行動することになるようだ。探偵のお仕事の時も、一緒に着いていくらしい。ぶっちゃけ邪魔じゃないかな。足を引っ張るのは嫌だな。

「じゃあ、そういうことで。君との関係は僕から言うから、名前は普段通りに。ひとまず怪我を治すために安静にしていて欲しいね」
「わかりました」

安静は得意だ。部屋で寝転がって天井を眺める。どうしてこうなったんだっけ。