49.きもちの理由

いつもなら嫌なことがあればすぐに寝てしまうのに、今日は寝れそうになかった。目をつぶるのが怖いと思ったのは初めてだ。起きていても寝ていても、私が何も知らされないということに変わりはないのに。私が寝ている間になにか悪いことが起きていたらと思うと、眠ることなんてできなかった。食欲なんてないのに、なにかしてないと気が気じゃなくて、二人分で作り置き用にと思って用意した料理を全部ひとりで食べた。テレビをつけたくない。ニュースを聞きたくない。何が起こっているのか知りたいのに、知りたくない。わたしはとんでもなく臆病なんだと思い知った。

時間が経つにつれ、不安はどんどん増していった。明かりをつけるのが面倒だからと、普段は薄暗い部屋でダラダラと生活しているけど、今日は暗闇を絶対に見たくない。部屋中の電気をつけた。お風呂もお手洗いも全部だ。この部屋は私だけのものじゃなくて、他に帰ってくる人が居る。安室さんは帰ってくる。そう信じたくて、電気をつけた。帰ってきたら電気代がもったいないと叱ってほしい。
震える手でスマホを握りしめた。何度メッセージを送ろうとしただろう。何度文章を消しただろう。ソファーで小さく丸くなって、自分の体を抱きしめた。

考え過ぎだと笑い飛ばしてほしい。こんな不安は消し去ってほしい。来週には帰るよって言ってほしい。来年でもいい。帰ってくるって信じたい。言葉が欲しい。それだけでいい。

お腹が痛い。この世界で生きてきて、こんなに不安になったことはない。事件に遭遇したときに感じた恐怖とは別の恐怖だ。体の中が気持ち悪い。これは普通に食べすぎかも。おなかを壊した。お手洗いで貧血になった。
ろうかにぺたりと座り込み、動けない。まだ体の中が気持ち悪い。急に吐き気がして、お手洗いで吐いた。わたしが無理矢理詰め込んだ料理が出ていく。無駄にしてしまった。のどがひりひりする。まだ吐きそうだったから、お手洗いから動かなかった。

それから数分おきに吐いて、胃液しか出なくなってもまだ吐いた。脱水になって死にそうだと思った。いつの間にか夜が明けて、窓から光がさしこんでいる。もしかして気を失っていた時もあるのかもしれない。
彼が死すら覚悟した声で電話をくれた。危険だということが分かったから、私に連絡をくれた。所属も正体も、なにも明かしていないのに、知らせてくれた。それは嬉しかった。だけど、あの人が居なくなるという恐怖で、私はこんなにもボロボロになってしまうんだと知った。愛してしまったんだ。愛してしまったから、失うのが怖いんだ。こんな自分を情けなく思う。

よろめきながら立ち上がり、冷蔵庫にあったスポーツドリンクを手に取った。一口だけ飲んだ。胃酸で焼けた喉にしみる。携帯が光っていることに気付いて、恐る恐る手に取ると、ニュースアプリの通知だった。東都水族館観覧車横転の文字を見て震えあがった。やっぱり観覧車だ。見たくない。じっとしていたけど、また吐きそうになって、お手洗いに駆け込んだ。
水分をとったから吐きやすくなったのだろうか。たった今飲んだ水分も出て行ってしまっただろうか。耳鳴りがして、目が回る。自分の心臓の音しか聞こえない。

ふと背中にぬくもりを感じた。
顔を上げると金色の髪が日光に当たって光っている。夢だろうか。夢なんだろう。

*


ノックリストがキュラソーの手に渡ったとき、自分の終わりを考えた。自分だけでなく、たくさんの人間の生死にかかわる情報だ。なんとしてでも組織全体にわたる前に取り返す。そう決意していたが、万が一のことがあったときは?僕だけじゃなく、他の優秀な警察の人間がたくさんいる。僕が死んだとしても遺志を継ぎ、組織壊滅のために動いてくれるだろう。だけど、名前は?
何も知らされないまま、帰らぬ僕を待つだろう。風見は事情を知っているから、彼女の今後も上手にサポートしてくれるはずだ。遠く離れた知らない街で一人生きていくことになるだろう。警察の監察もあるだろう。安全を保障されるだろう。でも、ひとりだ。

あの子はすべてを僕にくれると言った。ぼくはあの子のすべてを持っている。そのまま僕が死んだら、彼女は抜け殻だ。絶対に帰らなければならない。それでも、未来はわからない。
キールと共に拘束された状況から抜け出したとき、一刻を争う状況に覚悟を決めた。彼女には何も知らせていない。僕の落ち度で一度すべてを失っているのに、また僕が彼女のすべてを持って行ってしまうかもしれないということ。謝らなければならない。希望は捨てていない。だけど、現実から目を背けることもできない。
彼女に電話をかけた。帰れないかもしれないと告げた。「一生」なんて言葉は言えない。僕がどういう立場なのかを知らせてはいけない。彼女からの返事はないまま、一方的に通話を終了させた。
絶対に家に帰る。僕は彼女を幸せにしたい。辛い思いをさせたいわけじゃない。婚約者だなんて役を押し付けて、無理矢理側に置いていた責任を取っていない。わがままな僕を受け止めて、抱きしめてくれるあの子に、僕は幸せを返したい。返さなければならない。帰らなければならない。

アクセルを踏む。あの家に帰るんだ。どうせ彼女は、僕が居ないからと言って自堕落な暮らしをするだろう。突然帰って驚かせてやろう。そして少しは叱ってやろう。帰れないかもってい言ってたのにと不満げな顔をするのを笑ってやろう。そのために生きるんだ。