50.ただ一瞬の愛を知る

少々手荒なことをしてボロボロにはなったけれど、キュラソーは死亡し、ノックリストが組織の手に落ちるのは阻止された。本庁で処理に追われたり、組織側の対応もあって死ぬほど疲れた。ぐったりと椅子にもたれかかる。風見が近づいてくるのが視界の端に見える。まだなにか残っていただろうか。今日僕ができそうなことは片付けたはずだけどな。

「降谷さん、すみません。お話があるのですが、よろしいでしょうか」

ここではできない話のようで、場所を移動した。別室で、扉を閉めてから話し始める。

「些細なことかもしれませんが、気になったので、お耳に入れておくべきかと」
「話してくれ」
「キュラソーの身柄を確保する際に向かった警察病院で、苗字名前さんをお見掛けしました。どうやらあの時介入していた子どもたちと一緒に帰って行ったようでしたので」
「名前が?」

彼女との連絡に使用している携帯のメッセージアプリを開く。組織の人間に見られてはならないと思い、取り急ぎアンインストールしていた。名前からの連絡は2件。12時に「コナンくんたちと東都水族館へ行ってきます」、15時半に「色々あって、家に帰りました。夕食作っておきます」とある。昨日は昼までのシフトだったはずだから、仕事終わりに東都水族館へ向かう予定だったのだろう。しかしコナンくんたちはキュラソーと共に警察病院へ行っていたので、そちらへ向かったことろに風見が遭遇したということだろうか。15時半に家に居るということがわかってひとまず安心した。あの観覧車の事件には巻き込まれなかったようだ。

「報告ありがとう」
「それで、すみません、思わず声をかけてしまいました。子どもたちの知り合いと知らなかったとはいえ軽率でした」

子どもたち…いや、コナンくんは風見が公安警察と名乗るところを見ている。その後名前と行動を共にした。話しているとすれば、風見が公安であることも名前に伝わったかもしれない。名前は呼ばなかったとしても、この東京都で名前とかかわりがある人間の数は限られる。彼女はそれほど狭い世界で生きているんだ。自分が知られていることから風見と僕に何らかのつながりがあると考えてもおかしくはない。僕が警察関係者だということも話してあるから、名前ならすぐにそこに思い当たるだろう。僕の所属もそろそろ隠し切れなくなってきたのかもしれない。彼女に本気で隠そうとしたことはないし、話すこともなかった。自分から打ち明けるのと、彼女が気付くのとでは意味が違ってくる。コナンくんには一応口止めしてあるし、現在まであの子から伝わった様子はない。

「大したことじゃない。気にしないように」

風見にそう言って、退室した。仮眠室で寝ようかと考えていたが、家に帰ることにした。
名前に聞かれたら答えるつもりだ。嘘はつかない。彼女にとって僕の本業なんてどうでもいいことかもしれないし、聞いても来ないかもしれない。僕はどこかで彼女に暴かれるのを望んでいる。風見が失態だと感じている行いも、偶然にしては嬉しい出来事だった。彼女が僕の正体を知りたいと言ってくれたら嬉しい。彼女が安室透だけじゃなくて、降谷零すら求めてくれたら嬉しい。僕はそれに、答えたい。自ら彼女の手を引いて抱き寄せることはできない臆病者だ。
どれだけ大切に思っても、何度抱いても、彼女が僕を抱きしめてくれても、安室透には終わりがある。それがわかっている。終わりのある関係で彼女を縛ったのも僕だ。彼女が断らないとわかっていて縛った。指輪を贈ったときも、初めて抱いた夜も、名前は泣いた。僕は君を逃がさない。君が心から幸せだと泣くまで逃がさない。泣いたら、離さない。

エレベーターから出て、部屋の鍵を開ける。
まだ早朝だ。名前は寝ているだろう。扉を開けると、明かりがついている。珍しい。テレビの音も、物音もしない。おかしい。キッチンもリビングも電機がついている。廊下を進むと、お手洗いから水音が聞こえた。足早に音の方へ向かうと、便座にしがみつくように座り込む名前の姿があった。床にはペットボトルが転がっている。苦しそうにうめいたかと思えば胃液を吐いた。慌てて背をさする。名前のうつろな目が僕を移す。ゆっくり瞼が閉じる。顔が真っ青だ。体も汗でひんやりと湿っている。化粧も落としていないから、瞼に滲んでいる。夜からずっとこんな状態だったのか。僕を呼んでくれればよかったのに。
名前を横抱きにして、彼女のベッドへ運ぶ。キッチンでタオルを濡らしたとき、シンクに調理器具やタッパーが置いてあるのを発見した。大きめのフライパンと大きめのタッパーがいくつか、当然だけど箸は一つ。冷蔵庫を開けると、先日買い置きした食材がほとんどなくなっている。
自分で作った料理で食あたりじゃないよな、なんて思っていたけど、量が異様に多いと思った。過食嘔吐?どうしてそんなことに?
タオルで汗を拭く。洗面所に置いてあったふき取りのクレンジングで化粧も落とす。名前が普段使っているクリームを塗ったところで、うっすらと瞼を開ける。

「大丈夫?何かしてほしいことは?」 

彼女の左手が、僕の左手を掴んだ。


「一人にしないで」


名前の唇が動くのをじっと見ていた。少し間があいて、彼女は微笑んだ。血色の悪い唇に、僕はゆっくりと顔を近づけた。