77.ここで二人 生きていくんだよ

午後からのシフトだったので、先に毛利さんに挨拶に行った。ちょうど蘭さんも居て、七ヵ月ぶりに現れた安室さんに驚いている様子だった。私も安室さんか。な、慣れね〜〜〜

「ご無沙汰してます」
「おう。半年振りか?オメー苗字さん放ってどこほっつき歩いてたんだよ」
「ちょっとお父さん。お仕事だって言ってたでしょ?お父さんと違って優秀な安室さんには大変な依頼が来たりするのよ。お父さんも見習って少しはまじめに働きなさいよね」

蘭さんの辛辣な言葉が毛利さんに突き刺さる。私も零さんも苦笑いしかできない。

「よかったですね、名前さん。安室さんが帰ってきて」
「ええ。これからもちょくちょくいなくなるかもしれないそうですけど、ひとまず」
「そうなんです。ひとまずけじめとして、入籍しました。そのご報告に」

私と透さんが肩を並べてにっこりと結婚を報告すると、毛利さんは飲んでいたコーヒーを吹いた。蘭さんは驚いた顔をしたけど、すぐに祝福の言葉をくれた。毛利さんは零したコーヒーを拭くのに忙しい。

「本当におめでとうございます!どうしよう、園子と新一に連絡してもいいですか?二人も絶対聞きたいですよ」
「ありがとうございます。今日はこの後ラストまでポアロに居るので、もし会えたら嬉しいです」

入籍したら何が変わるのか。扶養に入ったり、制度的なところではいろいろと変化があるけど、実感はない。苗字が苗字でなくなったっていうのは大きいけど、これもまた安室だったり降谷だったり曖昧で実感が薄い。だけどこうやって祝福の言葉を貰うと、ああ結婚したんだなって思う。結婚したのか、わたし。婚約期間は長いわりに、全然準備もしないまま突然の入籍になったから、現実味がない。

暫く毛利さんと蘭さんと話した後、私たちはポアロに行った。時間帯的にも人が少なかったので、キッチンの奥でマスターと梓さんに結婚の報告をした。二人ともすごくにこやかに祝福して蔵。私は今後扶養が外れないようにシフトを調整してもらわなければならないのと、色々な書類手続きが待っている。それは少し面倒だけれど、嬉しい面倒だ。

「ほんの少し前まで大喧嘩してませんでした?」

ほどなくして、工藤君がポアロに来た。カウンターに座り、アイスコーヒーを飲みながら苦笑いだ。喧嘩したことを知ってるなんて、と工藤君の隣に座る零さんを見ると、気まずそうに目を逸らした。

「何はともあれ、おめでとうございます」
「ありがとう、工藤くん」

彼はきょろきょろと周りを見回してから、零さんと私にに小さな声で言った。

「これで名前さんの戸籍もちゃんとしたものになりますね」

零さんは驚いた顔で工藤君を見る。わたしはさすが名探偵だなと感心するばかりだ。実際偽装工作をしてくれたのは零さんたちだから、どれほど巧妙に苗字名前という人間を作ったのかはわからない。けれど零さんの表情からするに、暴かれることは無いという自信があったようだ。

「さすがだね。いつ見つけたんだい?」
「確証を得たのはほんの少し前ですよ。正直その時は心底名前さんに同情しましたけど、幸せそうでよかった」

思い返せば、案外壮絶な人生だったかもしれない。なぜか前世(?)の記憶のようなものがあって、なんとなくこの世界に生きる人たちのことを事前に知っていて。遠く離れた土地に住んでいたはずなのに、たった一度の遭遇で人生が大きく変わった。なすがままにここまで流されてきたようなものだけど、彼に出会ったことにより、私の人生は色づき始めた。彼が私を幸せへと導いてくれたのだ。この人生においての産みの親は笑えるほどカスだったけど、それも清算できた。二人とも刑務所で健やかな生活を送っているだろう。彼が与えてくれた名前と新しい人生によって、ようやくわたしは地に足が着いたような。この世界に生きる一人として、生まれ変わったような気持ちだ。

「そうなんです。このひとが、私の幸せです」

なんだか感慨深いというか。わたしの目の前にいる零さんが、あまりにも愛しくなった。
お客さんはいない。工藤君はお手洗いに立った。マスターは冷蔵庫の中を物色している。

「透さん」
「ん?」

彼が顔をあげた瞬間、私はカウンターから身を乗り出し、両手で彼の頬を包んだ。包んだというより、掴んだ、の方が正しいのかもしれない。こちら側に引き寄せて、くちびるを重ねた。

そんなに長い時間じゃない。一秒くらいの短いキスだ。彼は呆然と私を見上げて、仕事とプライベートは分けるんじゃなかったのかと言った。耳が赤い。照れていらっしゃる。かく言うわたしも自分でしておきながらそれなりに照れた。

「ついうっかり」
「僕は良いけど、君は大丈夫かな」

何が?と思う間もなく、答えが分かった。通りに面した大きな窓ガラス越しに、鈴木さんと蘭さんがこちらを見ていたからだ。

「見られたのかな」
「見ていたんだと思うよ」

いい歳した大人が職場で夫とキス。あはは。恥ずかしい。笑えてくる。
もうすぐ彼女たちが花のような笑顔で私たちをからかうだろう。こんな日だって悪くない。この人が、降谷零という男が、誰にも知られないところで一生懸命守っている平和な日々だ。すべてが愛おしい。
彼女たちが扉を開ける音がする。工藤君がカウンター席に向かって歩いてくる。マスターがカウンターに立ち、グラスの支度をする。わたしも零さんから離れて、カウンターで仕事をしようとする。そうすると、今度は零さんが立ち上がり、カウンターに立つ私の顔に両手を添えて、熱いキスをくれた。今度はたっぷり長いタイプの。しかも全員が驚いてこちらを見ている。私も驚いて固まったが、すぐに彼の肩をたたいて抵抗した。近すぎてぼやける零さんの表情は薄っすら笑っていて、この男!と思う反面、めちゃくちゃに幸せで、めちゃくちゃに愛したいと思った。彼も私も重症である。

この場所に入れることが幸せだ。降谷零という人が、わたしを愛してくれて、それを幸せだと感じてくれていることが、この世で最も尊いしあわせだ。わたしはこのくちびるが離れた後、全員の前で彼に抗議することになるけど、それすらも幸せなんだ。

どうかこの先なにがあっても、この人と一緒に居られますように。私の幸せが零さんであるのと同じように、零さんの幸せが私でありますように。心から祈った。


2020.07.27 FIN