76.絶対いい日になるからね

ソファーで彼に後ろから抱きしめられながら、色々なことを考えた。同棲も遠距離恋愛(?)も、喧嘩も仲直りもした。世の中の一般的な恋人が経験するようなことは大体経験したかもしれない。喧嘩した時はこの世の終わりのような気もしたけど、終わってみれば呆気ない。

「体調はどう?」

彼がわたしの首元で呟いた。

「まあまあです。いつもと同じ感じの」
「そっか。夕食は僕が用意するから、休んでて」

そう言って彼はソファーから立ち上がり、わたしに毛布とクッションを持たせてキッチンに向かった。冷蔵庫の中を漁る彼の背を見る。本当に帰ってきたんだなあ。帰宅して真っ先に喧嘩だったから、ようやくじわじわと実感が湧いてきた。ソファーに横になり、彼を目で追う。愛おしくてたまらない人が、やっと帰ってきてくれた。そのことが嬉しくって、じわりと涙が滲む。

「おかえりなさい」

小さな声だったけど、彼には届いた。具材を切っていた彼は、顔を上げて、ゆっくり微笑んだ。

「ただいま」


夕食は、わたしが先日買っておいた冷凍の餃子と野菜のスープと、冷凍してあった豚肉のソテー、一昨日衝動買いしたアボカド(固かったから熟れるまで置いといた)が添えてある。トマトのサラダもある。

「久しぶりに作ったら献立が纏まらなかった」
「そうですか?全部おいしいですよ」

安室さんが作ってくれたのなら何でもいい。全部嬉しい。おいしい。心も体も温まる。お皿洗いくらいやろうと思って席を立ったけど、結局安室さんがやってくれた。仕事で疲れてるんじゃないのかな。いいのかな。

鎮痛剤を飲んで、ソファーでのんびりする。洗い物を終えた安室さんが隣に座って、わたしの顔を覗き込んだ。

「聞いてほしいことがある」
「はい」

嫌に真剣な顔だ。何だろう。真面目な話のようだ。さっき喧嘩して仲直りしたばかりだけど、嫌な話だったらどうしようなんて思った。今までにないくらい真剣な顔だから、いや、いつもふざけてるとかそういうわけじゃないんだけど、なんというか。わたしも彼にしっかり向き合って、話を聞く姿勢をとった。

「僕の名前は、降谷零。本当の職業は警察だ。君の周りでこの事を知っているのは、工藤くんだけだ」

彼の口から本名と本職がはっきり伝えられた事に驚きすぎて、口が開いてしまった。馬鹿みたいな間抜けな顔だろう。言っていいんだ。え?言っていいの?わたしに?降谷さん、と呟くと、穏やかに笑った。

「名前で呼んで。零だ」
「零さん」
「そう。これからも外では安室透として接するけど、君だけは僕の名前を呼んでほしい。仕事以外で僕の名前を呼ぶ人なんてもう居ないんだ」

彼はわたしの手を取る。薬指に光るリングに口付けして、わたしを見上げた。

「これからも忙しくて、いつになるかわからないけど、ちゃんと式も挙げる。絶対に休みを取って新婚旅行の時間も作る。毎日はむずかしいかもしれないけど、できるだけ家に帰るし、夕食も一緒に食べたい。正直苦労しかさせないと思うけど、それでも、君にそばにいてほしい」

青い瞳がきらりと輝く。息も忘れて、彼を見つめた。

「僕と結婚してくれ」

言い終わる前にわたしは頷いていた。早い。焦りすぎ。何度も頷いて、涙が溢れた。いつのまにかじわりと泣きそうになっていたのも気付かなかった。
そのまま零さんを抱きしめて、彼もわたしを抱きしめてくれた。泣き止むまで背をさすってくれた。わたしは結構ガチで大泣きしていたのでしばらく時間がかかった。
幸せな時間だ。幸せすぎて頭が働かない。この時のことを一分一秒逃さず全て覚えていたいのに、自信がない。

わたしが落ち着いた頃、彼は立ち上がり、自室からクリアファイルに挟まった書類を持ってきた。わたしの目の前に置く。

「これ」
「え?!婚姻届?!」
「そう。僕の分はもう書いてある。あとは君のところだけ。最初に銀行に口座作った時に使った印鑑があるね。明日にでも提出したいんだけど」
「明日?」
「大安吉日だし」

翌朝、私たちは婚姻届を提出した。実感が湧かない。わたし、結婚したんだ。降谷名前になったってこと?マジ?

「ポアロにも挨拶に行こうかな。結婚の報告だ。もちろん安室透としてね」
「わたしは今日から安室名前として働くってことでいいですか?」
「そうなるね」

零さんはわたしの手をしっかり握って歩いている。こんなこと今までなかった。恥ずかしい気持ちもある。しかし夫婦なんだし?え?夫婦なの?マジ?
この人が婚姻届の記入も済ませて、大安の日を調べてあって、わたしに結婚しようと言ってきたという事実を噛み締めている。めちゃくちゃ結婚したがってるじゃん。なに?零さんって実はめちゃくちゃわたしのことが好きなの?もともとそれは伝わってたけど、昨日今日で突然伝わりすぎてるというか。
大安吉日とか、縁起の良い日だなんて全く調べてなかった。全く知らなかったけど、今日が大安なんだという事を彼のおかげで知った。良い日だ。よくわからないけど、この人とわたしが入籍した日だ。例え仏滅だとしても、最高の日になるのは間違いない。

「結婚記念日ですか」
「そうなるね」
「午後からポアロなので、毛利さんのところにも?」
「一緒に行こうか」

まるで普通の夫婦の休日のようにのんびり歩く。手土産に持っていくお菓子を選んだり、外で「透さん」と呼ぶ練習をしたり。わたしも安室さんになるらしいから。楽しい。嬉しい。しあわせだ。こんな日が訪れるとは、思ってもなかった。

「零さん」

車の中で彼の名前を呼ぶ。彼は、なに?とわたしの方をちらりと視線だけで伺う。

「愛してくれて、愛させてくれてありがとう」

恥ずかしいから、彼の方を見ずに言った。

この日、わたしは苗字名前ではなくなった。