*小説 info アネモネ


博愛主義の二乗



「寂しいな…」
保健室のベッドで1人呟いても、誰に聞こえたかなんて分からない。
嫌という程見た景色。
白いシーツに白い布団、薄ピンクの仕切り、それから白い天井。
真っ白だとなんだか病院みたいで気が滅入る。
しばらく誰にも構ってもらっていないと途端に寂しさが押し寄せてくる時がある。
携帯を取り出してSNSを開こうとしてやっぱりやめた。
最近あんまり織くん以外の人とむやみやたらに仲良くしないように気を付けている。
以前の自分はとにかく周りに人がいたし、多分今も呼びかければすぐに返事はあるんだろうけど、それも減ったことは大きな変化だった。
「ん〜…」
織くん授業中だしなぁ…。
れーも授業の時間だけど保健室は自由な幼稚園みたいな場所だからあまり気にしたことがない。幼稚園児は携帯をしないけど。
既読もつかないラインを寂しく眺めて頰をぷくっと膨らませた。
こんな時、構ってって友達に10人ぐらい声をかけたら必要以上に満たされる、みたいなのを前は普通にやってたのに。
最近あおともみよっちとももっちともハグしてない。
因みにもっちはちーくんって呼ばれてる保健室メイトのお友達で、みよっちは保健室の先生だ。
望月だからもっち。三尋木先生だからみよっち。
もっちはよくみよっちに甘えている。
おうちで足りない分の愛情を保健室で補っているみたいに。
「寂しい…」
さっきも言った言葉をもう一度言ってお布団にぱたりと倒れこむ。
れーはこんなに一人ぼっちだったっけ?
こんなに寂しがり屋だったっけ?
沢山の人に求めなくなった愛を、織くんは1人で埋めてくれるだろうか。
1人にこんなに集中して、れーは上手くやっていけるんだろうか。
あおと一緒の時は上手くいってたのにな…。
沢山人がいて、あおがいて。
でも今は、織くんが望むなら、織くんに全部尽くしてあげたい。
それってなんか、依存っぽいのかな。
-寂しい-
-(ㆀ˘•з•̥`)-
「あ、送っちゃった」
考えるより先に織くんにラインを送信していた。
思ったことすぐそのまま伝えてしまう。
告白した時もそんな感じだったし、ほんと変わらないなと自分で苦笑してしまった。
会ってから考えればいいや。
気楽にそう考えて布団に転がると、織くんのことばっかり考えてしまった。
これが恋かな?
なんだか新鮮。
織くんと出会ってから今まで知らなかった気持ちに沢山なる。
こんな気持ちは本当に今まで知らなかった。
中学まで病気であんまり学校に通えてなくて、今もちゃんと教室に行ってるとは言えないけど、恋したり友達と遊んだりって凄く青春してるって感じで楽しい。
れーはみんなが好きなのにな。
なんだか変だよね。
あおのことだって大好きなのに。
どうしてこんなに無責任なことしちゃったんだろう。
結局誰かを傷付ける。
分かっていたことなのに。
また息苦しいな…。
「…はぁ…」
体の苦しさに、枕元から可愛いうさぎさんの付いたネブライザーを取り出すと、そのまま吸入薬を吸い込んだ。
慣れてしまった日常の動作で、喉が潤いを取り戻していくのを感じる。
ほっとした。
体が元に戻っていく。
いつもいつも、先の事を考えて不安になる。
また発作かな…。
ため息をついて枕に沈み込む。
発作は身体的なものではない。
むしろ精神的にくる"いつ死ぬか分からない不安"の方を勝手に発作と呼んでいた。
たまにこうやって落ち込むのだ。
もうあおは頼れない。
こういう時側にいてくれたら心強かったんだろう。
裏切ってしまったのはれーの方だ。
織くんに迷惑かけて悲しい顔をさせてしまうのだろうか。
織くん1人に頼っていいんだろうか。
その時携帯の通知で画面がパッと明るくなるのが目に入った。
織くんだ!
そのまま画面を覗き込んだら、"ごめんな。放課後会う?"と書いていた。
れーはにこにこしながら"会う!いっぱいあう!"って返事して枕に顔を埋めてほっぺを赤くして足をばたばたさせた。
やっぱり織くんの返事1つでれーは嬉しくなれるから織くんのことが大好きなんだな。
そのまま織くんが構ってくれている間だけずっとれーは文字でお喋りしていた。


屋上に続く階段は何だかんだしんどい。
でも織くんが待っててくれると思うと上る元気になった。
わくわくしながら、ドアを開けてみたが、探していた姿はなかった。
「あれぇ、まだきてないのかな?」
大好きな黄色い癖っ毛の後ろ姿がそこにある事を想像していたれーは、人1人いない屋上に立ち尽くす。
「おりくんは〜?」
独り言を言いながら携帯を取り出すと、丁度ラインの緑のアイコンが目に入った。
ロック画面のままそれを見てみると、織くんから、クラスの用事で少し遅れるという内容のメッセージが入っていた。
「ありゃ…」
待ち遠しかったのに更にお預けを食らって、ちょっとため息をついてフェンスの側まで歩いていった。
そこで座るとぼんやりと外の様子を見た。
部活をする人たち、下校する人たち、お喋りしている人たち。ありふれた夏を待つ景色。
れーも体力があったらあんな風に部活動とかできたのかなと思いながらじっとその様子を眺める。
時間を潰している、という状況に反応して少し口寂しさを覚えた。
無性に煙草が欲しくなる感覚がして、最近控えてたのにな…と思いながら、鞄の奥のポーチを開いた。
「怒られちゃうかなぁ」
ぼんやりそんなことを言いながら、慣れた手つきで煙草を一本取り出すと、ジッポで火をつけた。
フィルターから少しだけ息を吸う。
独特の苦味と煙たさが広がって、気持ちが少し落ち着いた気がした。
ふぅ、と息を吐き出して立ち上る紫煙を眺める。
本当は吸っちゃいけないのは分かっているんだけど……こういうのって、自傷行為っていうのかな…。
れーは気管が弱いから。
「おいし…」
誰にも聞こえない声が風に流されていく。
紫煙を眺めるのは、凄く綺麗で好きだった。
なんだか1人ぼっちになってしまったみたいだ。
放課後の運動部の音、風の音、吹奏楽部の楽器の音色。
そのどれもがどこか遠くて、また煙草をゆっくり吸い込んだ。
健康に悪い事をして、いつかれーに何かあったら、織くんを悲しませてしまうだろうか。
そんなこと、あおといる時だって何百回と考えたの筈なのに。
病弱なせいだからか、命のことを凄く諦めているし、同時に凄く執着している自分もいる。
いつまで生きられるのだろうかなんて、きっと普通の高校生は考えない。
れーはいつも余命の近いおじいちゃんみたいなことを考えてるなって、たまにそんなことを学校とか電車で考えていた。
だからやっぱり羨ましかった。
元気に部活をしている人たちが、教室で授業をしている人たちが、友達を普通に作っていける人たちが。
れーが多分、自分の人生を諦めたみたいにあおに半分あげられていたのって、そういうこともあるのかなって思う。
あおが幸せになったのを見て、自分も同じように幸せを感じた気になっていたかった。
考え事をしながら、空に上る煙をぼんやりと見ていたせいで、一瞬名前を呼ばれている事に気付かなかった。
「衣…零衣‼」
はっ、と振り向くと、少し怒ったみたいな表情で走ってきた織くんの姿が目に入った。
「あ…バレちゃった」
そう言ってれーは、困ったみたいに小さく微笑んだ。
多分こういう反応をすると、相手がもっと困ってしまうのをれーは無意識に知っていた。
「煙草は吸うなって、言っただろ…続けてたのか?」
怒りを抑えるように、それでもなんとか穏やかに言おうとしてくれている織くんを見ながら、れーはコンクリートに押し付けるように煙草の火を消して、ポーチから携帯灰皿を取り出して中に吸い殻を捨てた。
「ううん、すっごい久々に吸った…。寂しくなっちゃったんだもん」
座ったまま織くんを見上げて少し笑うと、織くんはれーに目線を合わせるみたいに正面に座った。
「遅れてきたのは悪かった。でもだめだ、喘息が悪化するだろ」
言葉がなんとなく入ってこない。
身体に悪いことも、れーが吸っちゃいけないこともとっくに全部わかっていた。
むしろ、もっと悪くさせようとしてるみたいに。
「悪化しちゃ、だめ?」
「なっ、だめに決まってるだろ!」
今日のれーは、なんだか調子が悪いってずっと思っていた。
凄くマイナス思考なことばかり考えてしまう。
だから、ぼんやりと、今日のれーは口にしてしまった。
いつも言わないことを。
「れーが死んだら、悲しい?」
そう言ったら、織くんが何かに怯えた子供みたいにはっと息を飲んで、目元を少しだけ潤ませた。
「悲しいに決まってるだろ⁈」
急に大声で言われ、そのあまりの迫真さに思わずビクッと震えると、後ろでフェンスがカシャンと揺れた。
そんなに必死になられると思わなかった。
「やっと、やっとなんだぞ…。やっと好きになれたのに、お前を…お前に会えて…」
その時のれーはもしかしたら意地悪だったのかもしれない。
我儘を言いたかったのかもしれない。
少しでいいから心配して欲しかったのかもしれない。
巻き込みたかったのかもしれない。
いつだって悩みなんて1つもないよって言って、そう自分でも信じてるれーが、1つだけ抱えてた大きくて無力な悩み。

「ねぇ教祖、れー悩みあった。…ほんとはもっと生きたいよ…」

あえて呼んで欲しくないあだ名で、困ったように微笑みながられーはそう言った。
「ぁ…」
織くんは、絶望したみたいにみるみる涙目になっていって、泣きながら、いっそ縋るようにれーをぎゅっと抱きしめる。
凄く強い力で、むしろれーの方がびっくりしてしまった。
「っ…ならこれは、……やめろ」
織くんは絞り出すみたいに言って、片手でれーのポーチから煙草を取り出すと、無理矢理ぐしゃっと握り潰して自分の鞄に入れた。
れーはその様子を唖然と見ていた。
中毒じゃないから、煙草を一箱取られても、悲しいなんて気持ちは微塵もない。
今まで口で止めてくれる人はいても、結局はれーの意思を尊重して、煙草を取られるまで本気で止められたことは無かった。
それをこんな風に強く言ってもらったのは初めてだった。
左肩に織くんの涙がぽたぽたと染みる。
生きたい、そう思ってもそれを本当に叶えるのは医療の力だ。
それかられーの生命力と、意思と。
賢い織くんは何よりもそれを理解していると思う。
学生の織くんにはどうしようもないことをわざとぶつけて、八つ当たりでもしてるつもりなんだろうか。
大事な恋人をこんなに泣かせて、一体俺は何をしてるんだろうか。
「零衣…」
「ごめんなさい!」
ほとんど言葉が被るように織くんに謝った。
「ごめん…悩みなんかじゃないよ…れーが、怖くなっただけだから…」
そう言って、今は自分より小さく見える恋人をぎゅっと力強く抱きしめた。
「…置いていかないでくれ…」
上擦ったみたいな涙声で、織くんは絞り出すようにそう呟いた。
そうして初めて、れーはとんでもない事をしてしまったと、いろんな感情が込み上げてきて涙が零れた。
織くんを傷付けてしまった。何度も友達に置いていかれた気持ちになっていた織くんを、また悲しませてしまった。
現実を突きつけてしまった。
もしれーがいなくなったらって、織くんを不安にさせてしまったんじゃないだろうか。
れーが死んだら、織くんが、あおが、みんなが悲しむ筈なのに。
…なのにどうしてこんなことをしてしまったんだろう。
なんで自分から諦めてしまっていたんだろう。
どうして命のことを、こんなにいつも諦めぎみなんだろう。
「織くん…」
保健室で、れーがいなくても、みんな教室で当たり前に生きていくみたいで。
もし早くに死んだら、れーが必死で生きていたことを誰が覚えていてくれるんだろう。
れーを心に残しておいてくれるんだろう。
「置いていかないから……忘れないで…」
自然と口から出たそれが、きっと、れーの願いだった。
抱きしめ合う鼓動が近い。
織くんの体温が、息遣いが、全部れーと混ざっていくみたいに。
「忘れるわけないだろ…お前は俺の恋人だろ…。ずっと一緒に生きていくんだろ…?」
確かめるように言う言葉の1つ1つが、答えを切望しているように、そんな風に聞こえた。
「うん、生きたいよ…ずっと」
そう言って、ぎゅっと抱きしめた。
屋上で二人っきりで抱きしめ合いながら、初めて心の底からそう願った。
織くんと何十年もずっとずっと未来まで、一緒にいる姿を望んだ。
生きないといけない、そう、初めて本気で思った。
もう泣かせたくないから、1人にしたくないから、絶対に守っていきたいとそう強く思った。
家族以外で、初めてそう思った。
こんな風に真剣に考えたのは初めてだった。
溢れる涙を左手で全部拭う。
「生きるよ、ずっと一緒じゃん」
そう言って抱き締めた。
不思議なぐらい心が落ち着いている気がした。
織くんが側に居てくれるから、頑張れる気がした。
"好きだよ"
心の中でそう言って、愛しい人を抱きしめる。
ただただ、お互いの唯一無二で、特別になりたかった。

それからどれぐらい経ったんだろう。
ぽんぽんと織くんの背中を優しく叩きながら、ただその温かさを腕の中に閉じ込めていた。
「ずっとさ、諦めてたんだ、心の中で」
ぽつぽつと話し始めるれーの言葉を、黙って織くんは聴いていた。
何かを告白する時って、心臓が、すごくどきどきって早くなる気がする。
「ずーっと病院でさ、教室に行けるだけの体力も無くて。れーこのまま、病気に負けちゃうのかなって思って」
なんとなく、話していると子供の頃の光景を思い出した。
「なんかさ、れーちっちゃい時とかさ、ずっと病院のベッドで寝転んでて、真っ白で寂しいなって言ったら、あおがピンク色の物をいっぱいいっぱい持ってきてくれたんだよ」
まだ子供だったあおが、ピンクの物を沢山持ってきてくれて、れーの周りが凄く華やかで色鮮やかになって嬉しかったのを覚えている。
「だから、あおが来てくれるだけで嬉しかったんだ。大きくなっても、ピンクばっかりの入院セット、いつも持ってきてくれた。いつも側に居てくれた。だから自然とれーはあおの為に生きよって思ったの」
固唾を飲んで聞いている織くんの目を見て、そっともう一度引き寄せて、頭を優しく撫でた。
「どうせみんなみたいに生きられない人生なら、れーの人生全部、あおにあげてもいいやって…自分のことなんて全部諦めてた。あおと2人で1人なら…あおの幸せを感じられるなら、それで良いのかなって…」
気持ちがそのまま涙として溢れていく。涙声になっていく。
本気で考えているからこそ、あおのことを考えると自然と目頭が熱くなった。
織くんがれーの左腕を取って、じっと瞳を見つめてくる。
「今も…そう思ってるのか?零衣」
凄く真剣な目で、織くんはれーにそう尋ねた。
分かっている、今はそれじゃ駄目だと思っている。
織くんのためにもっともっと長く生きるには、まず自分の人生を諦めてしまったままじゃ駄目だ。
煙草もやめないとだめだ。
珍しく言葉が上手く出てこなくて、口も半開きのまま、縋るような気持ちで首を左右に振った。
それは違う、と伝えたかった。
「諦めなくてもいい。零衣は零衣で、蒼音は蒼音だ」
織くんが言ってくれた言葉は、れーの心には凄く響いた。
いつも入れ替わって遊んでた零衣とあおでも、2人で1人の人生を生きてた双子のれーでも、そんな風に思っていいの…?
零衣は、零衣なの…?
「ほんとうに?」
「ああ」
子供みたいに、何度も何度も確かめるように織くんに問いかけた。
その度に織くんは肯定してくれた。
「ほんとにほんと?」
「ああ、本当だ」
「…本当、なの?」
「うん、ほんとだ」
頭を撫でる織くんの手に甘えるように、織くんの胸に顔を埋めた。
れーとあおは違うんだ、別々でもいいんだ、そう言ってくれたみたいで嬉しかった。
「れー、あおのおまけじゃなくてもいいの?」
「零衣は蒼音のおまけなんかじゃない。零衣は、自分自身の人生を生きていいんだよ」
吸い込まれるように織くんの目を見つめた。
言葉が自分の中に染みていく。
そのままこくりと頷いた。
「お前の存在証明は俺がする」
「…うん…!」
思わず大粒の涙を零しながら、こくっと頷いて織くんに抱き着いた。
れー自身として、こうやって弱って本気で甘えたのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。
織くんの力強い言葉が凄く嬉しかった。
こんな風にボロボロ泣いて、縋って、等身大のれーでいられたのは初めてだった。
零衣だけを見てくれた。それが本当に嬉しかった。
「織くん、すき…」
ぽつりと呟くように言って甘えると、織くんは少し照れたようだった。見なくても分かる。
「…俺も」
恥ずかしいけど頑張って言ってくれたんだろう。
そんなところが凄く大好きだった。
もう一度抱きしめる。ずっとここにいて欲しかった。
「れー、今生きてるのにね。なんか、ちっちゃいことで悩んでばかみたいだよね…」
「いや、他と比較して小さい悩みだって思ってる時点でそれは違う。零衣の悩みは零衣にしか持てないものなんだから、お前がつらいとかしんどいって思ってる時点で、それは重大な悩みなんだぞ」
それはどこか、れーにも織くん自身にも言い聞かせてるみたいで、れーの悩みって、やっぱりおっきな悩みなんだって、目から鱗だった。
「ありがと。織くんって凄いね、なんか元気になっちゃった」
ふにゃっと笑うと、織くんが頭を撫でてくれた。
「…零衣が元気になったならよかった」
織くんは、多分尊敬で距離を置かれたくないんだと思う。
だったら、れーは、そんなことしないから。
「うん、だから織くんのこともれーが元気にしてあげるからね」
にこっと笑って抱き締めると、織くんも照れたみたいに笑ってくれたから通じ合えた気がした。
織くんの手の感触が気持ちいい。その温もりが心地よかった。

対等になるように抱き締め直して、ゆっくりとお互いの鼓動を感じていた。
微睡みの中でいちゃいちゃしてる時みたいな、そんな感覚だった。
「織くんがれーのこと決め付けたりしないで、ちゃんと言うまで待ってくれるとこ好きだよ」
「そうかな…?」
ぽつりと言うと、織くんはよく分からないという風に首を傾げたから、れーはふふっと笑った。
そういう無意識に優しいとこが好き。
織くんは深くは踏み込んでこないから。
なんとなく物足りないような、なんとなく心地いいような、そんな織くんの距離感だから大好きになった。
れーを知ろうとしてくれてありがとう。
「うん。分かんないでもいいよ。織くんには、良いところいっぱいあるんだから」
そう言って、れーは見えないように小さく笑った。
織くんには、あおにも内緒にしちゃうような自分の気持ちでも、なんでも素直に話せちゃうから不思議だった。
誰にでも同じように素直に接していたはずなのに、それを深く飛び越えて、初めて本当に心を許せた、そんな気持ちだった。
「織くんはちゃんと言葉選んで話してくれるし。れーの言ったこと、覚えてくれてるもん」
頬擦りすると、織くんはそのままれーを抱きしめてくれた。
織くんの体温が、ずっと温かくて心地いい。
「零衣だって、他人のことよく見て覚えてるよ」
「そぉ?」
そんな風に言ってくれるのは嬉しい。
れー、みんなのこと結構気が付いてると思うよ。
お兄ちゃんだもん。
「うん、凄いよ」
頭をなでなでされて、凄くくすぐったさを覚えた。
「変なの」
そこまで意識してるつもりなかったんだけどな。
織くんにそこを褒められたのはなんだか意外で嬉しかった。
「あ、でも病院で看護師さんのこととか全部覚えちゃう。お友達になるんだ」
「そういうところが零衣らしいよな」
「うんっ」
くすくす笑って織くんの横顔を見る。
今日も綺麗な顔してるなぁって思って益々惚れ直した。
「それでも、ずっと明るくいると疲れることもあるんじゃないか?もしそういう時は、弱ってもいいんだからな」
織くんの優しい言葉は的を射ていて、れーは嬉しくてにこっと笑った。
「それは織くんも同じだよ」
そう言って織くんのほっぺを両手でむにっと挟み込んだ。
「れーは、織くんが弱れる相手になりたいんだから!」
にっこり笑って織くんの目を見ると、織くんは少し恥ずかしそうに目を逸らした。
そして「…敵わないな」と小さく言ってれーの肩口に顔を埋めた。
満足気に微笑んで、れーは抱き締めながら織くんの背中をぽんぽんと叩いた。




*******



零衣に背中を撫でられる感覚が心地いい。
抱き締められたまま、そこから中々動きたく無かった。
零衣の明るさに何度も何度も救われている。
時々心を読まれているのかと思うぐらい内心を見抜いてくる、その鋭さが零衣の凄いところだと思っていた。
「あ、もっちだ。あんな早く帰ってるの珍し〜」
不意に零衣の口から出た名前に俺は思わずびくっと体を強張らせた。
慌てて零衣の視線を追って校庭を見ると、遥か遠くにいる下校中の千羽の姿が目に入った。
望月千羽───俺の小学校からの幼馴染で、特別以上の感情を抱いていて、1番守りたくて、上手く守れなかった相手だった。
どうしても、千羽の事となると我を忘れたみたいに必死になる。
元々教祖なんて事をやるようになったのだって、千羽の複雑な家庭環境から早くあいつを完璧に救ってやろうと思って、中学の頃から人の悩みに乗って知恵を蓄え、経験を積んでいただけなのに。
全てはあいつの為。あいつの為に、積み上げた立場も全部捨てていいと思う程に、必死にもがいて、人の相談に乗るうちに教祖なんて呼ばれるようになったりして……千羽にまで、教祖なんて呼ばれるようになったりして、とてもショックだったのに。
それなのに…。
あいつが…まーくんとやらが───同じクラスの横山真乎が、側から掻っ攫っていって…。
それで千羽が救われてくれるなら、まだ良かったのに、あいつは最終的に前より良くなったとも思えなくて。
むしろ状態的には悪くなっている気がして。
結局、千羽との距離は開いたままで、今も変わらず頭を悩ませる存在で…。
「ねぇ」
校門の外に消えるまで目で追いながら考え事をしていると、零衣が優しい声で尋ねてきた。
「喧嘩でもしちゃった?」
首を少し傾けた零衣は、とても純粋そうな目で俺を見てくる。
零衣が居なかったら、教祖のまま宙ぶらりんで、弱ることも出来なかった俺を救ってくれる人もいなかったんだろう。
「いや…喧嘩なんて、していない」
言葉は合っている。
でも実際は疎遠になっていて、本音を言うと千羽との関係はもどかしかった。
もう2年も経つんだろうか。
子供の頃から毎日隣にいた存在が、離れていくのはこんなに苦しい事なのだろうか。
「でも、すっごく大切そうなのに、近くにいないよね。幼馴染なんでしょ?」
なんでそれを…と聞きかけて、聞くだけ無駄だと思った。
零衣は学年のほぼ全員と友達らしいし、何より当人の千羽と保健室で常に一緒に過ごしている。
零衣の人脈なら知っていてもおかしくはないことだろう。
「いいんだ、あいつのことは…」
色々な感情が込み上げてきそうになるのを無理矢理全部押し込んで考えないようにした。
「俺がもっと、千羽を完璧に支えてあげられるようにならないと…」
その為に教祖をやってきたんだ。
それなのにあいつは、家庭の問題だけじゃなく、授業も追試ばかりになって、教室に来られなくなって、卒業すらきっと危うくて…。
どうしてこんな風になってしまったのか…。
そんな奴じゃなかっただろ…?
あいつは努力して、いつも後ろを付いてきてくれたのに。
どうして知らない間に変わっていってしまうのか。
何も言ってすらきてくれないのに、どうやって助ければいいのか。
1人で考え込んでいると、零衣はずっとその様子を見ていたみたいだった。
「そんなことないよ。そのままの織くんでいいんだよ。話してみなきゃ分からないでしょ?」
「…そんな簡単だったら…苦労してない…。今関わっても、役に立てないから…」
視線を逸らした俺を、零衣は再び抱き寄せてくれた。
「そうかなぁ?案外もっちは、今関わってほしいって思ってるかもよ?」
それをどうにか否定したくて、俺は首をふるふると横に振った。
自分らしくない反応だと思った。
そんな俺を怒るでも笑うでもなく、零衣は落ち着いた声音で続ける。
「例えばね、完璧なクオリティを追い求める人がいつまでも作品を出さない横で、荒削りでもどんどん作品を出してる人が、いつの間にか経験とか実力を何倍もつけて、最初の人を追い抜いていくんだよ。…って物作ってるあおが言ってた」
えへへと笑う零衣の話に、俺の心臓は早鐘を打っていた。
その話はそのまま、俺と横山真乎の千羽への関わり方そのものみたいで、凄く、心の底で抱いていたコンプレックスを刺激された。
千羽を奪って救い出したあいつが、俺にとって酷くコンプレックスだったのだ。
そんな俺を気にしていないかのように、零衣は抱き締めながら俺の頭をよしよしと撫でた。
「話さなきゃ実際なんにも伝わらないって織くんも分かってるでしょ?」
零衣の言葉にどきっとする。
実際それを理解していない訳ではないのに。
零衣の言葉は本当にシンプルで単純なのに、いや、だからこそなのだろうか、真っ直ぐ心を突いてくる。
「織くん、他の人には相談に乗って、聞いたり考えて話したりできるのに、もっちはだめ?…みんなは練習で、もっちは本番…?それは、待ってるもっちが寂しいんじゃないかな?」
零衣の言葉はどれも的を射ていて、呼吸が止まりそうになる。
「それに、時間は待ってくれないんだよ」
「っ…」
心の奥底で感じていたことを言われ、思わず涙が滲みそうになる。
分かっている。高校生活なんてあっという間に終わる。
1日でも早く千羽を救い出さないと、時間は刻一刻と過ぎて生活にも進路にも影響してくるのに。
それなのに…。
「大丈夫だよ、織くん。れーがちゃんと織くんの力になるよ」
そう言って零衣は抱き締めて背中をぽんぽんと優しくさすってくれた。
零衣の方が2回りぐらい小さいのに、今は自分が零衣より小さくなってしまったみたいに抱き締められていた。
「でも…」
「大丈夫。もっちは毎日変わっていってるよ。良い方に前に進んでるよ。保健室でいっぱい愛されて、れーと遊んで、なんだかんだ学校、楽しそうだもん」
零衣の言葉を聞いて、少し安心した気がした。
保健室で1番千羽の側にいる零衣が言う、俺が知らないあいつ。
だけど、少なくとも良くなっていると零衣が言うなら、少しは救われたような気がした。
「本当に…?」
「うん」
ああ、なんだかさっきの零衣とのやり取りを繰り返しているみたいだ。
人間、信じたい嬉しい事があると何度も確認してしまうものなのだろうか。
零衣の言葉が嬉しかった。
「そうか…」
「うん、だから元気出しなよ!織くんも弱って、って言ったじゃん!いつでも力になるよって」
零衣の底抜けの明るさが眩しかった。
そんな人が側に居てくれるだけで凄く救われた気がした。
だから零衣は人に好かれるんだろうなとぼんやり思った。
「どうやったらそんなに素直に生きられるんだよ…」
気付いたら思わず口から出ていた。
そんな生き方は俺には選べなかった。
零衣の真っ直ぐさが羨ましかった。

「素直に生きようとしてるだけだよ」
「え…?」
返ってきたのは意外な言葉だった。
顔を上げた拍子に零衣と目が合う。
零衣は俺を見てにこっと微笑んだ。
「れーだって、人に対して疑問に思ったり、れーも、相手も、もしかして嫌いなのかなぁ?って思うこともあるよ」
それはとても、子供みたいな声だった。
考えたまま口から出ている、そんな本心の言葉のように聞こえた。
「でも、まず話してみないと。みんなと仲良くする、みんなと平等にする。って、キャラじゃん、れーの。だから自分のポリシーに従わないと!それで話し合ってみて、れーのこと嫌いじゃないなって思ったら全部許しちゃう。そういうのが今のれー、なのかなぁ?」
零衣は顎に手を当てながら、いつもよく使っている絵文字みたいに頭に疑問符を浮かべた表情をしていた。
とても真似できるものではない。
零衣だからこそできることだ。
その反面、そういう風に生きられる事が凄く羨ましいことに思えた。
言葉は簡単なのに、零衣は時々本当にはっきりした意思を持っている。
自分の言葉を持っていて、自分の信念を分かりやすく口に出来る。
零衣は素直に生きられるんじゃなくて、そうする事を自分で選んでいるのだ。
そうしたら、周りが安心することも、人から好かれやすいことも知っている。
その為に自分を曝け出して行動できる事。
それは並大抵の事ではないような気がした。
「…………」
「織くん?」
底知れない内面に唖然としていると、零衣が不思議そうに俺に甘えてくる。
出会った時はただの子供っぽい子だと思っていたのに、今は全く想像の域を超えていた。

眩しい。
下手したら劣等感を抱いてしまいそうなぐらいなのに、それは、本当に唯一無二で、何故かは分からないけれど憧れの方が強く感じられた。
愛情のせいだろうか。
少しも同じように出来ないのに、否、敵わないからこそ憧れなのかもしれない。
自分の手の中に居てくれるから、だからなのだろうか。
零衣は味方で居てくれるから。
だから眩しい。例えるなら強烈な光だった。
こんなにも自分と違う人がいたのかという、いつか、子供の頃千羽と出会った時のような衝撃だった。
「いや…零衣は眩しいな」
「ほんと⁈いっぱい眩しい?」
「うん…」
元気な零衣に答えながら、その腕の中でぼんやり考える。
千羽。
千羽の側にずっと居たのはどうしてだったんだろう。
彼は子供の頃から特別だった。
勿論守りたい、大切にしたい、救いたい、そんな気持ちもあっただろうけど、自分より学力が下の千羽を引き上げてあげたい、あいつを1番分かるのは俺だ、あいつを救えるのは俺だけだと、そんな気持ちは無かっただろうか。
ただ力になって守りたい、それだけなのに…。
悦に浸った訳ではない。
あいつが居なくても俺が首席な事は変わらないし、見下して安心なんてまずしない、全く別の次元の話だ。
確かに力になってあげられるのは嬉しいし安心する。だけどそれ以上に、それ以上に…。
「友達だったのに…」
ぽつりと呟くと、零衣がぎゅうっと抱き締める腕に力を込めて、小さく笑った。
「今も友達でしょ?喧嘩とか、3日も寝たら忘れてるよ、もっちだもん」
零衣の気楽な言葉に少しだけ救われた気がした。
本当にそうだったらいいのにな。
今の自分ではどうする事もできないけど、そうであってくれたら嬉しい。
そう思いながら零衣に体重を預けた。
零衣の側に居ると、守ってあげたくなるのに、時々それがいらないぐらい1人で立っていて、逆に眩しくて頼りになる、そんな気持ちになる。
頼りになるのに、甘えてくれる。
それは零衣が意図してそう振る舞っていてくれてるのかもしれないし、元来の性格も純粋で真っ直ぐだからなのかもしれない。
零衣と居ると心のくすぐったいところが満たされる。
そういうところが、ずるい。
「ね、織くんもれーの前では素直になりなよ。悩み聞くばっかりじゃ織くんも疲れちゃうでしょ?」
零衣の指が髪を梳く。そのまま背中、そして腰をなぞっていく。
「誰も聞いてないし、誰も見てないよ。辛かったでしょ。泣いてもいいんだよ」
不思議なぐらい落ち着いている零衣の声が沁みてきて、そんな、泣いたりなんて…と思っていた俺の目が勝手に涙で滲んでいく。
「わーんってなっていいんだよ。ちょっと子供になろうね」
「っ…」
そう言って子供みたいに甘やかされた俺は、何故か不思議と堰を切ったみたいにぼろぼろ声をあげて泣いていた。
「だって…俺が…っ千羽を、助けたかったのに…!」
本当に、小さい子供になってしまったみたいに、一度箍が外れると止まらなかった。
零衣に抱きつきながら、もう自分で何を言っているのか分からないぐらいに何も考えずに喚いていた。
どうしてあんな奴のところにいってしまったのか。俺が1番好きだったのに。俺が1番の友達なのに。
そう言いながら、ぼろぼろと惨めに本音を零す俺を零衣は全部受け止めてくれた。
どれぐらいそうしていたのだろう、もう分からなかった。
「っ…ぅ……ずっと、辛かった……」
「つらいね。れーが側に居るよ」
そう言って、唇が重なった。
不意打ちだった。びっくりして目を見開いている俺をよそに、零衣は深く唇を押し当てて舌を口内に差し入れてくる。
零衣の目尻にも涙が滲んでいるような気がするのは気のせいなのだろうか。
自分も涙で視界が霞んでしまっていてよく分からない。
頭を撫でながら抱き締められ、さっきまで何度もハグされたのを上回るような安堵感が押し寄せてくる。
舌が気持ちよくて、心地いい快感がぞくぞくと脳を抜けていく。
零衣に全て委ねてしまいたくて肩の力を抜くと、零衣は何度も頭を撫でながら舌を絡めてくれた。
「ん…」
荒れた気持ちが、すっと収まっていくのを感じながら、零衣の舌が離れていく。
ぼんやり何も言えられずにいると、零衣が俺の頬を人差し指の関節でぷにっと突きながら笑った。
「可愛いね」
それはまるでいつもの会話と変わらないみたいに。
そこで、先程まで子供みたいに喚いてしまった事が途端に恥ずかしくなってきて、俺はどこか逃げ場がないのかと視線を右往左往してしまった。
本当に穴があったら入りたいぐらい、死にたいぐらい恥ずかしかった。
そうしていると零衣に左腕の方からがっつり抱き着かれた。
「捕まえた!照れ屋の織くん」
「は、離せって!」
顔まで真っ赤になりながら、本当に逃げようとしていると、零衣の顔が耳元に寄ってくる。
「大好きだよ」
そう言われてしまうと、抵抗出来なくなってしまうのはもう…惚れた弱みかもしれない。
俺が抵抗をやめたのを見ると、満足そうに零衣は笑った。
零衣を見ていると、賢くいることが全てじゃない、みたいな生き方を強く実感する。
俺とは対照的なのに、それでも凄く自然に尊敬できた。
零衣は本当になんだかんだ頭の回転は早いと思う。
それに、人のちょっとした悩みに関しては人一倍敏感だ。
そういうところがキラキラと眩しくて、好きなんだと思い知らされる。
「…俺も、好きだな」
自覚してしまった。
弱さを曝け出せた時点で、零衣は特別だった。
「ほんとーーー⁈織くんデレた!」
煩くはしゃぐ零衣を照れ笑いしながらぽんぽんとたしなめた。
「もっちと織くん、早く仲直りできたらいいね」
急に落ち着いた零衣は、芯の強そうな瞳で俺を見ながらそう言った。
そんな零衣の存在が頼もしくて、俺はこくっと頷いた。
「もしなんか嫌なこと言われたら、俺が怒ってあげるよ。な?」
にこっと笑ってくれた零衣の言葉が嬉しくて、安心した。
いつか千羽に向き合えるだろうか。あいつの友達で居られるだろうか。
それでも、零衣がいつも側にいてくれるだけで何倍も心強かった。
なんとなく、零衣が居てくれるなら、大丈夫なような気がした。
「ありがとう」
そう言って抱き締めると、零衣は、へへーっと子供みたいに笑っていた。
今だけ、甘えたいし甘えられたかった。
「……好き、か…?」
あえて答えの分かっている事を聞く。恥ずかしくて零衣の首筋に隠れた。
「!…だーいすき‼」
零衣は満面の笑みで笑って、予想通りに甘え返してくれる。
俺もつられて笑うと、その唇にそっと触れるだけのキスをした。