例えばどっちのおかずが微妙に大きいだとか、人の服を勝手に着てただとか。ポンコツな片割れと喧嘩するのは日常茶飯事で、顔馴染みの近所の人たちはそれを風物詩みたいに眺めている。
恋という感情に初めて向き合った彼女との出会いは俺が中学生の時のことだった。
「派手にケンカしてるんだね、双子?ほら、コロッケ食べなよ。おねーさんのおごり」
顔馴染みの中に突如現れた関西特有の訛りがないその人。いつも通るお肉屋さんのショーケースのところに、いつものおばあちゃんではなくその女性がいた。
初めて出会ったその女性に、言い争っていたケンカもぴたりと止む。それよりも口の端に衣をつけて、コロッケを差し出すその彼女から目が離せなかった。
「……おばさんありがとう」
そうツムが手を伸ばせば、その人はサッとコロッケを手の届かないところまで上げた。「お姉さんでしょ」なんてにっこりと笑いながら。
珍しく、本当に珍しくその笑顔に気圧されたのか、ツムが「お、お姉さんありがとう」なんて言い直せばいとも容易くコロッケを手の届くところまでおろしてくれた。俺も続いてお礼を言いその温かいコロッケを受け取った。
「おば……お姉さん、いつから働いとるん?」
「最近かな。働き始めたばかりだからよろしくね」
「なぁ、歳なんぼなん」
「おいツム失礼やろ」
「女性に歳は聞くもんじゃないよ」
「俺が当てたる、三十路」
「失礼だなまだ二十二だよ!」
「わはっ、自分から言うたやん」
「きみ……わざとか……」
分かりやすくツムの手に引っかかる人は初めて見たかもしれない。コロッケのお姉さんは悔しそうにショーケースの上でこぶしを握り締めている。
俺が想像している大人よりどうも子供っぽくて可愛い、そんな印象の人だった。
*
それからお姉さんに会いたいという気持ちを隠しながら、週に何度かそのお肉屋さんへ寄るようになったしお使いも進んで引き受けた。
帰り道にそのお店があるのは本当にラッキーだったと思う。周りの人にお姉さんに会うために寄っているなんて思われないよう、いない日も適度に寄るようにしていた。コロッケやメンチカツ、唐揚げなどを買い、少しでもその人と接点がほしくてお小遣いの範囲内でできるだけ通った。そのお陰で一ヶ月が経つ頃には顔も名前も憶えてもらうほどになり、その嬉しさを密かに噛み締める。
今までは、極端に言えば食べ物とバレーくらいしか興味がなかった。でも初めて会ったあの日、コロッケを美味しそうに頬張り口の端に衣をつけている姿をずっと忘れられずにいる。多分これが好きということなのだろうと、少し時間が経ってから気が付いた。
「あれ、治くん今日は早いね」
「今日部活休みやね……え」
「どうかした?」
今日もいつもと変わらない光景、その筈だったのに気が付いてしまった。彼女の左手の薬指へと佇んでいるそれに思わず声が出てしまう。
「……お姉さん、結婚してたん?」
「え、うんしてるよ。旦那の転勤でこっち来たからね、どうしたの急に」
「指輪、初めて見た」
「今日外してくるの忘れちゃって」
がつんと、頭を殴られたような衝撃だった。
どうしてその可能性を全く考えてなかったのだろう。大人で、地元の人ではなさそうで、ここには仕事で来ていて、少し考えれば十分予測できることなのに。
「どしたの、治くん」
「え、あ、何でもない。コロッケちょうだい」
「一個でいい?」
「二個がええ」
「おっけー。じゃあ私がさっき練習で揚げて失敗したやつ、おまけするね。いつも息子さんが作ってるのと味は変わらないんだけど形が……」
「ええの?めっちゃ嬉しい、ありがとう」
「いっぱい食べてバレー頑張りなよ」
いつものコロッケ二つとおまけで入れてくれたお姉さんが揚げたコロッケを受け取った。飛び跳ねたいくらい嬉しいのに、先ほどの指輪が脳内をちらつき心臓がじくじくと痛む。もう出会った頃には手遅れだったということがすぐに受け入れられない。
いつもであればまだ雑談を交わしているところだが、今日はもうそれどころではなく話もそこそこにこの場を後にした。
「うわっ、なんなんサム、ただいまも言わへんで」
「……なんでもない」
「俺の目誤魔化せるとでも思っとんのか。……コロッケ姉ちゃん関係やないの」
「なっ」
「ビンゴやん。で、なんやったん。バレーに影響出られると困るしな」
本当にこいつは人の感情に疎いなんてもんじゃないのに、なんでこういう時だけ察しがいいのだろうか。腹が立つ。ベッドに寝ころび「結婚しとった」と呟けば、ツムはワンテンポ遅れて大きな声を上げた。「あんなコロッケ姉ちゃんでも結婚できるんやな」なんて心底失礼なことを口にしながら。
「やからもう放っておいて」
「放っておいてもええけど、バレーではしゃんとしとけや!」
バタンと乱暴にドアを閉めていくツムにイラつきながらも枕に顔を埋める。
成人したら気持ちを伝えようだとか、一緒にご飯食べに行ったら楽しいだろうななんて妄想したりもした。それなのに彼女はもう既に別の人と結婚していて、隣に立つことすらできない。それを今日思い知らされるとは思わなかった。
「ツム!」
「なんやうっさいな、少しは空気読んで感傷に浸らせろや」
「これ食え。コロッケ姉ちゃんが作ったからあげおにぎりの試作やて」
「……お前は励ましたいんか傷を抉りたいんかほんまわからんな」
「精一杯の励ましやろが!」
お姉さんが作ったというおにぎりは少し不格好でご飯の割合が多くて、でも食べてみると中の甘辛いからあげがご飯に合っていて美味しかった。これを差し出してドヤ顔しているツムは気に食わないし、お姉さんが結婚しているという事実も変わらないけれど。もらったおにぎりを噛み締めて、まぁ少しずつ切り替えていけたらいいのかなとそう思わせてくれた。
*
あれから高校生活はバレーに打ち込み、お姉さんとはもちろん何も進展はないまま卒業した。あっちは既婚者だから、何かあればそれはそれで問題だけど。
ただ好きな気持ちは一向に消えることはなかった。……正直叶わない恋愛に対してこんなに諦めが悪いなんてと、自分自身呆れながらも切り替えられずにいる。
もちろん高校を卒業してからお姉さんを忘れるために何度か友達のすすめで付き合った人もいた。同年代や年上の人とも付き合ってみたけれど、それでも事あるごとにあの人が脳内にちらついてそれを塗り替えることはできなかった。
初恋の人は忘れられないなんてよく言うが、その原理はよくわからない。でも実際そうなのだからあの言葉は間違っていないんだと身をもって知った。
……きっと忘れられない原因のひとつに日常的に接点があるからだとも思っているけれど、それを変えようとも変えたいとも今は思わない。自分の気持ちが届かなくても笑って話せるだけで、それだけでいいと思っているから。
「おはようございます。お願いしとったお肉あります?」
「おー治くん待ってたよ。おばあちゃんがこれも持っていってって。あと息子さんからこのお肉どうかなだって」
「助かります」
高校卒業と共に殆ど接点はなくなってしまうと思っていたが、念願の飲食店を構えたことによってこうしてまた話す機会ができた。
自分のお店で使用するものの仕入れ先は知り合いのお店が多く、その中のひとつがこのお肉屋さんだ。お姉さんがいるから、ではなく元よりここのばあちゃんや息子さんとは顔馴染みだったからだ。
仕入れの話を申し出たところ快諾してくれ、開業当初から応援にきたよなんてばあちゃん家族やお姉さんもたまに店へ顔を出してくれている。
「これで全部やな。ありがとうございます」
「また食べに行くからね」
「待ってますね。なんか疲れてそうなんで元気の出るもの用意しておきますよ」
「え、そう見える?」
「なんか、そうかな思って。違ったらすんません」
「ううん、ありがとね。じゃ、またごひいきに」
別に彼女の顔色も悪くなかったしテンションもいつも通りだ。
ただ会話の合間に何かを思い出したようにほんの一瞬だけ無表情になる。結構前から気になっていたが、会話していて気が付くほどのものではなかったので知らないふりをしていたけれど。今日はそれに加えて疲れた表情にも見えたので声をかけてみたが、軽くはぐらかされてしまった。
本当に杞憂だといいけどな、そう思いながらお肉屋さんを後にした。
*
ちらりと時計を確認するともうそろそろ閉店の時間が近づいている。今いるお客さんのお皿も空っぽになっていくらか時間が経っているのでぼちぼち帰りそうだ。新規で入って来ないよう暖簾を外すため引き戸を開けると冷たい風が店内へと滑り込む。ドアに近いカウンターで食べていた魚屋のじいちゃんはそれにぶるりと身体を震わせた。
『うっ、めっちゃ寒いやん外!俺泊まってこかな』
「ははっ、もっとさむなる前に帰りましょ。早よ帰って明日の新鮮な魚準備しといてくださいよ」
『せやな、いっちゃん美味いもん準備しといたるわ!』
「いつもありがとうなじいちゃん」
暖簾を降ろすより先に最後のお客さんであるじいちゃんが立ち上がったため、引き戸を閉めて先に会計を済ませる。『ごちそうさん、今日もめっちゃ美味かったわ』と奥さんへの手土産を片手ににこにこしながらお店を後にした。
最後のお客さんを見送ってから暖簾に手をかければ「治くん」と不意に後ろから名前を呼ばれる。聞きなれた声に振り向けば肉屋のお姉さんがひとりそこに立っていて、思わず手に取った暖簾を落としそうになった。
「暖簾おろすってことは、もう終わる時間……だね」
「まぁ……でもよかったら何か食べていきます?」
「えっ終わりなのにそれはさすがに悪いよ」
「大丈夫ですよ、暖簾おろしてから食べてる人もいますし。でも仕込みとかしながらなんで、さすがに知り合い限定ですけどね」
「えー……じゃあ、お言葉に甘えようかな?」
「どうぞ」
「ありがとう」
まさかこんな時間に来てくれるなんて思ってもなかった。来るとしてもいつもはもっと早い時間だから、思いがけないことに変な汗が出る。嘘は言っていないけれど、動揺していて変に思われなかっただろうか。
不倫相手になりたいとかそんなことは断じて、全く、思っていない。でも店内で好きな人と二人きりだなんて初めてだから柄にもなく緊張する。小学生かて。
なるべく意識しないようにと脳内でサムが煽り散らかしている姿を思い浮かべる。「既婚者と結婚できるわけないやろ!」と言われた時のあの顔、当たり前に理解しているからこそ腹が立った。……お陰で今少し冷静さを取り戻したけれど。
「寒かったぁ……わ、眼鏡くもった」
「ははっ、うちによく来る編集者もよくなっとってますよ。急にぐっと冷えましたもんね」
「せめて気温だけでもあったかくあれって思っちゃうよ」
カウンターに座った彼女は頬や鼻をうっすらと赤くしている。温かいおしぼりを渡すとすぐにおしぼりを広げ冷えた手を温めるように拭いていた。
「おしぼりあったかくて嬉しいー」
「お茶もありますよ。あったまってください」
「ありがとう」
ことりと彼女の前にお茶を置いた時、ふと違和感を覚える。少し考えたがその正体もわからず、気のせいかと自分の手元に視線を落とせばメニューとにらめっこしていた彼女が口を開いた。
「治くん、鮭ひとつと、卵黄の醤油漬けひとつにお味噌汁お願いしたいけどまだある?」
「ありますよ。なんなら鮭おにぎりお茶漬けにもできますけど」
「お茶漬け食べたい!じゃあ鮭の方はお茶漬けで」
「少し待っとってくださいね」
お茶漬けの準備をしながら先に卵黄の醤油漬けのおにぎりを作る。こちらはすぐにできるので、お皿におにぎりと付け合わせを乗せ「どうぞ」と彼女前にの前に置いた。「ありがとう、いただきます」と丁寧に手を合わせおにぎりを口に運ぶ。
「美味しい……ここのおにぎり、全制覇してみたいって密かに思ってるんだよね」
「めっちゃ嬉しいこと言うてくれますね。味噌汁もどうぞ」
「わ、すっごい具入ってる……最高」
にこにことおにぎりを頬張る姿は可愛くてずっと見ていたくなる。年上だというのも忘れてしまうほどに。
他愛のない話をしながらも手はお茶漬けの用意と明日の仕込みで忙しい。おにぎりと味噌汁を食べ終わる頃に合わせて彼女の前にお茶漬けセットのお盆を置き、空いたお皿を下げた。「お店で食べるお茶漬け初めてだからなんかわくわくする」と、早速薬味をおにぎりに乗せお茶をかけて口に運んでいる。猫舌なようで念入りに息を吹きかけて冷ますところもまた可愛い。
「……お茶漬けも美味しい、これが幸せか」
「そう言うてもらえると、もっと美味いもん作ったろ!って思いますよ」
「ふふ、楽しみにしてる。治くんと侑くんに初めて会った時は中学生だっけ?時間の流れって早いね」
「俺もあの時のお姉さんの年齢になりましたよ」
「待って、なんかこう突き刺さるものがある」
お姉さんはわざとらしく胸を押さえダメージを受けたふりをしたので「同じ目線になれて俺は嬉しいですけどね」と伝えれば「治くんももう大人だもんね」と笑った。
話ながらと言えど、器に入っているお茶漬けは着々と減っていく。この時間の終わりが近いことを告げられているようで少し、いや正直かなり名残惜しい。
「そういえば今日は旦那さんへのおにぎり、どうします?」
先程のおじいちゃんのように、彼女もここへ寄る度に旦那さんへのおにぎりをお土産だと買ってくれる。気持ちとしては複雑だけど、美味しいから食べさせたいと笑ってくれるのは素直に嬉しい。
いつも通りな筈なのに、その言葉で彼女の表情はぴたりと固まった。
「あー、うん。今日は、っていうかもう大丈夫かも」
「……そう、ですか?」
彼女の表情と歯切れの悪さに思わず手が止まった。秒針を刻む時計の音がやけに大きく聞こえる。何かまずいことを言ってしまったのかと今日の会話や彼女の様子を思い返すも、焦りからかすぐに思い当たるものは何もない。
おしぼりを握りしめる彼女の手に視線をおとすと、最初に感じていた違和感の正体に今気が付いた。それはそのままの意味でとってもいいのだろうか。けれど今日何か理由があってたまたま外している可能性だって捨てきれない。昔のように。
なんと声をかけたらいいのかわからず彼女の顔色を窺うと俺の視線に気が付いたのか「……まあ、いずれわかることだしね」なんて眉をさげて笑った。
「今日、離婚成立したんだ。治くんに言うことでもないけど。指輪、気になったんでしょ」
「え、あの……はい、すみません。なんて言うたらええのか」
「あはは、気遣わせちゃったね。落ち込んでないし寧ろようやく開放されたってスッキリしてるよ。一年くらい前からもう気持ちはなかったし」
離婚だなんてどう考えても軽い話ではないし、口ではそう言っているけど自分の前だから無理しているのではとすら思えてしまう。
「でもなんか疲れとるように見えたんで」
「それはもう、ものすっごく疲れたよ。でもさ、今は嬉しい気持ちが強いからお疲れとかおめでとうって言ってもらいたいくらい」
「そんな感じなんですか」
「そんな感じだよ」
もう冷めているであろうお茶を口にして、あっけらかんとそう口にした。「友達からも祝杯あげるぞ、なんてメッセージもきたし」と笑っている。ただどんな経緯でそうなったかもわからないのであまり手放しでおめでとうとは言いにくい。……が、もしも彼女の言葉が嘘ではなく本心なら、何か労えないかと少し考える。
「……ちょっと待ってください」
冷蔵庫からプリンを取り出し、絞った形で冷凍していた生クリームをそれに乗せそれを彼女の目の前にスプーンと共に置いた。
「即席ですみません。おやつ用に作っとったプリンなんですけど、デザートにどうぞ」
「メニューにないけどいいの?」
「気にせんといてください、食べてもらいたいだけなんで。俺には事情も何もわかりませんけど……これからええことあるようにって思うてますよ」
「……なんかそう言ってもらえると嬉しい。ありがとね治くん」
少し照れたように笑う彼女はスプーンを持ちプリンを口に運んだ。
もう堂々と好きだと言っても良くなったんだと、美味しそうに食べるその表情を見てじわりと愛おしさを感じる。
正直離婚したと聞いた時は驚いた反面夢ではないかと思うほどに嬉しかった。こんなこと思うなんて最低だってわかってる。でも出会ってから初めて、俺が彼女に恋をしても赦された瞬間だったから。
ただそれ自体はかなりデリケートなうえ、どんな理由でそうなったのかはわからない。一年くらい前からもう気持ちはなかったという彼女の言葉も本心なのか嘘なのかも。だから今すぐ気持ちを伝えようとは思っておらず、彼女の口から聞くまでは静かに見守るつもりだ。事を急いてもメリットはまるでないし、自分の性格が悪い部分にも気付かれたくはなかった。
「んー全部美味しかった、ごちそうさま。治くんスイーツ系も作れるんだね」
「そっちはまぁ、趣味程度ですけどね。ちょいちょい作ってますけど知り合いにあげるだけでメニューにはせんと思います」
「そっか、それは残念」
「……もし作ったら食べてくれますか」
「えっ食べたい!」
「じゃあ作ったとき連絡しますね」
「ありがとう……って、連絡先知らないよね。よかったら教えてくれる?」
「そうでしたね、ぜひ」
不自然じゃなかっただろうか、と柄にもなく心臓が駆け足で動いているのがわかる。
いつ通りに、自然にと、はやる気持ちを抑えながらスマホを取り出し連絡先を交換した。
「連絡先ありがとう。と、もうこんな時間!?遅くまでごめんね、つまんない話までしちゃって。お会計お願いします」
スマホの時間を見るなり彼女は慌てて立ち上がった。俺としてはゆっくりしてもらってもいいんだけど、なんて思っていたがもちろん顔には出さず「大丈夫ですよ」伝えるだけ。
「じゃあまた食べに来るね」と言って背中を向けた彼女を見送り、静かな店内へと戻り鍵を閉める。今になって力が抜け、背中を引き戸につけたままずるりとその場にしゃがんだ。
「っ、はぁーほんまに」
スマホを取り出し追加された彼女の連絡先を表示する。まさかこんな日が来るなんて。
別に両想いになったわけでもないし、俺のことはあの頃のまま子供だと思っているかもしれない。恐らく恋人になるまでの課程のスタートラインにも立っていないだろう。
でもこれからは堂々とアプローチしても問題のない環境になったから。どうやって一人の男性として見てもらおうか、そう考えながら彼女のプロフィール画面を指でなぞった。