晴と会えずに五日が経った。魔の研究に没頭していれば珍しいことではなかったが、長尾くんや弦月さんにも会えないことに胸騒ぎを感じた。
かといって今私にできることと言えば、彼の家を訪ねて会えることを願うだけ。
研究所をノックしても相変わらず返事は返ってこない。もしかして討伐に行って帰ってきてないのだろうか。遠征とは言ってなかったのに、五日間もなんてそんなことあるのだろうか。不安ばかりが押し寄せる中、今日もまた諦めて踵を返すと私が来た方向から走って来る人物が見えた。
「あの、もしかして〇〇さんですか」
「……はい、そうですけど」
「会えてよかった。俺、甲斐田さんの元で働いている研究者です」
「え!?あの、晴は今どこにいるかわかりますか?」
「そのことなのですが……」
彼の口から発せられたのは耳を疑うような話だった。正直途中から話が頭に入ってこなくて、恐らく理解することを脳が拒否したのだろう。
そこから少し歩いて先程の男性から晴の職場のある一室へと案内される。ドアの外には経過観察中と面会制限のプレートが掛けられており酷く物々しい雰囲気だ。
「もし貴女がよければ、会って行かれませんか。難しければ小窓から姿を見ることもできますので、そちらも案内します」
「……会います、会いたいです」
だからと言ってすぐこの部屋に踏み込むことができるかと言われれば、なかなか踏ん切りがつかない。そんな私を急かすわけでもなく、晴のところで働いている彼はただ静かに待ってくれている。
「……ふう」
一度深呼吸して目の前のドアノブに手を掛けようとしたその瞬間、ガチャリと音がしてドアが開いた。
「あ、○○さんときみは晴くんの」
「ご無沙汰しております」
「おー久しぶりだな」
「弦月さんと長尾くん……その怪我もしかして魔の討伐での」
「あーもう聞いたか流石に。俺らは大丈夫なんだけど……その、悪いな」
バツが悪そうにそう口にしたのは長尾くんだった。大丈夫と言ってはいるが、二人とも頭や腕、足などいたるところに包帯やガーゼがあてがわれていてとても大丈夫と言える様子ではない。
「私が謝られることなんて……。それより、二人とも酷い怪我で全然大丈夫なんかじゃないじゃん」
「俺らのことは気にすんなって、まじで大丈夫だから」
「晴くんのことだけど……会ったらきみが辛い思いをするかもしれない。でも、よかったら会ってあげてくれないかな」
「……うん、そのつもりで来たよ」
「そっか。ありがとう、じゃあぼくらは行くから」
そう言って私と入れ違いで二人はこの場を後にした。
少しだけ開いたドアの隙間から「誰かいる?」と問いかける耳馴染みのある声。このまま無視するわけにもいかない。……けれど、もう入ってもいいのかわからず研究者の彼へ視線を移せば軽くお辞儀をし部屋の方へと促される。
意を決して「失礼します」の挨拶と共にドアに手を添え押すと、ベッドに医療機器と少しの本がある殺風景な部屋が目の前に広がった。
「こんにちは。……っと」
「こんにちは、○○です」
「初めまして……ではないよね多分。ここに来てくれるってことは」
「……はい」
自分の名前を告げると、晴は私の名前ではなく名字を口にしにこりと笑う。
そこに佇んでいるのは私のよく知っている人。……知っている筈なのに、こちらへ視線を送る彼はまるで知らない表情をしていた。
「……なんか、せっかく来てくれたのにごめんね。思い出せなくて」
がつんと、頭を殴られたような感覚が襲う。魔の討伐での事故とはいえ、簡単に記憶がなくなるなんて。
ここに入った時の彼の雰囲気も笑顔も違う。だけど私の脳がそれを受け付けなかった。……しかしそれも彼の「思い出せない」の一言で、それが現実だと突きつけられた。
全く覚えていないのだ、自分のことを。私が誰なのか、晴との関係も、今までふたりでどんなところに行ってどんなことをしたのか。……記憶の一部がなくなったと聞いていたけれど、この様子だと自分のことはひとつ残らず抜け落ちてしまっているようだ。
一時的なものだと言っていたから、もしかしたら今すぐ記憶が戻る可能性もあれば何年もかかる可能性だってある。
自分だけが晴との記憶も好きだった気持ちも全部知っているのに、目の前の晴はもしかしたら一生自分のことを思い出せないままかもしれない。このまま時が進めば、晴の隣には私ではない他の誰かが立っているのかもしれない。
そう考えたら今この瞬間から彼にどう接していったらいいのかわからず途方に暮れる。こんなことじゃだめなのに。
「……あの、○○さん。来てくれたってことは僕のこと知ってるんだよね?もしよかったら話してくれないかな。きみのことと、きみの知ってる僕の話」
「え……っと」
穏やかな口調で晴はそう口にした。思ってもみなかった台詞に返す言葉がすぐに出てこない。
今の晴は確かに彼本人だけれど、私を好きでいてくれた気持ちを持っているわけではなくて。そんな彼に「私は晴の彼女です」なんて言ったところで信じてもらえるかわからないし、拒否されたら立ち直れなくなる。自分が美人だったり可愛ければもう少し自信を持てただろうか。
「立ってたら疲れるでしょ、こっちの椅子にどうぞ」
「ありがとう……」
ベッドのすぐ横に置かれている椅子へと促されるままに座った。話してもいいのだろうか、そう考えると心臓がどくどくと大きく脈打つ。あなたの彼女ですなんて言葉にしてしまったら、これからどう転ぶかわからない彼の人生の選択肢を狭めてしまうかもしれない。自分が晴の足枷になるのは嫌だ。
とりあえずは彼の様子を見ながら話そうと、自己紹介から始めることにした。
「……さっき名前は伝えたと思うんですけど、私の名前は〇〇。は……じゃなくて、甲斐田さんの少し年上です」
「え!?ごめん……じゃなくてすみません、普通に年下かと」
「や、いいんです。敬語なんて使ってなかったから」
「そっか、よかった。じゃあきみもやめてよ、敬語」
「確かに……じゃあそうする。で、私はこの近くの図書館の職員をしてて、その関係で甲斐田く、さんと長尾くんと弦月さんと知り合ったんだけど」
ずっと晴って呼んでいたから久々の甲斐田呼びに、さんと言ってみたり、くんと言ってみたり話しながら混乱してしまう。そんな風にしどろもどろになっている私の話を彼はただ黙って耳を傾けてくれていた。優しい顔をして。
「じゃあきみから見て僕はどんな人だった?」
本当のことを言ってしまおうか、それとも当たり障りのない答えで留めておこうか、言葉に詰まってその先が出てこない。全部伝えたいが、それで晴を嫌な気持ちにさせたくないし自分も傷つきたくない。……なんて自分勝手なんだろうと、胃がキリキリ痛む。
「私からみた甲斐田、さん……」
「あとそれ、普段甲斐田さんなんて呼んでないでしょ」
「え、なんで」
「だって名前言う度に詰まるし、気付くよ。晴くん?それとも晴?いいよ、いつもの呼び方で」
「……じゃあ、晴」
「うん」
名前を呼ぶと目を細め柔らかく相槌を打つ彼。その表情が記憶をなくす前の晴と重なって、じんと目頭が熱くなる。ここで泣いたら迷惑なのに、自分の意思に反してゆっくりと視界が滲んだ。
「え、どうしたの、僕何か良くないこと言った?」
「違う……何も、言ってない」
ここで泣くわけにはと、俯いて誤魔化そうとしても私の涙腺は堪えることを知らない。「え、どうしたの」と戸惑う晴には申し訳ない気持ちもあるが、一度溢れてしまったものを意識的に止めることはできなかった。
「……嫌だったらごめん、失礼するね」
ゆっくりと伸びてきた晴の手がそっと私の頬を撫でた。驚いて顔を上げれば、眉を下げ憂いを帯びた瞳でこちらを見つめている。
「ごめんね、今ハンカチとかなくて。……なんかさ、きみの悲しそうな顔を見ると少しもやもやするんだ」
「は、る」
「ねぇ、何か言いづらい、言うのを迷ってることでもある?」
「言いづらいこと……」
晴はその答えを求めるように私の顔を覗き込むため思わず目を逸らした。勿論そのまま素直に言えるはずもなくただ彼の言葉を復唱するだけ。
……こういう時、いつもそうだ。自分のことには鈍感なくせに他人の言動には敏感で、その水色の瞳に自分の気持ちが全て見透かされているのではないかとすら思えてしまう。
「当ててあげようか。きみ、僕の恋人じゃない?」
「え、なん……っ」
「はは、あたりだね。わかっちゃうんだよね、僕のことは僕が一番よく知ってるから」
軽く笑って備え付けのテーブルに頬杖をつく彼に、私の思考が追いつかない。私が彼女だとわかって嫌じゃないのかとか、なんで驚かないのだろうとか、思うところは沢山あるけれど。
「……なんでわかったの?」
「言ったじゃん、僕のことは僕が一番よく知ってるって」
「どういうこと……」
「僕は恋愛なんか二の次三の次で、研究と自分の時間を大事にする人でしょ?そんな僕のところまでわざわざ面会に来てくれる女性がいるとすれば母親か恋人くらいかなって」
実際間違ってたら死ぬほど恥ずかしいんだけどね、なんて少し照れくさそうに晴はそう口にした。彼の方から言葉にしてくれたことにはほっとしたけれど、その事実を知ったうえで晴の中ではこれからどうしていきたいのかが気になる。……けど、もし否定的な意見かもしれないと思えば、聞くのが怖い。
「でね、これからなんだけど」
「き、距離を置きたい……とか?」
否定的な言葉は晴の口からは聞きたくなくて、最後まで聞かずに彼の言葉を遮った。一瞬目を丸くしてぽかんと口を開けていたが、彼は慌ててそれを否定する。
「違う違う!そうじゃなくて、もし今の僕でよければ一緒にいてほしいなって」
「なんで……逆にいいの?記憶が戻ってない今、晴からしたら私は見ず知らずの人だよ」
「や、寧ろお願いしたいっていうか……なんか、きみが同じ空間にいるのは嫌じゃないし、心地良いんだよね。記憶が戻ってないのに変なんだけど」
「……っ、変じゃない。そう言ってくれて、嬉しいよ……」
「ちょ、待っ、泣かないでよぉ。……知ってると思うけど、僕は元々他人を自分のパーソナルスペースに入れるなんて殆どない。そんな僕の記憶がない中、気持ちを許せる女性がいるなんて自分自身でも驚いてるよ」
「はる……」
「きっと、記憶をなくす前の僕はきみのことがすごく好きだったんだろうね」
彼の言葉の節々に、記憶をなくす前の晴を感じてせっかく止まった涙がまた頬を伝う。
私が彼女であった証拠も記憶もないのに受け入れて、一緒にいて欲しいと言ってくれた。これ以上に嬉しいことなんてあるのだろうか。
「泣かせるつもりはなかったんだけど」と私の頬に伝うものを拭う彼の手を、両手で優しく握った。晴は頭の上に疑問符を浮かべ、なされるがまま様子を窺っているようだ。
私は片手で晴の手を握ったまま、もう片方の手を持って来た鞄のポケットへと滑り込ませた。そこから五センチばかりの小さな巾着を取り出し彼の手のひらへ乗せた。
「開けていいの?」と呟く晴に頷けば、人差し指で袋の口を開き中身を取り出した。
「水色の、石?」
「……綺麗でしょ。あまりにも晴に会えないのが不安で、昨日無事を祈りに森の奥の神様に祈ってきたんだ。真剣なお願いほど叶えてくれるって有名でしょ?」
「え!?あんな深くまでいったらいつ魔が出たっておかしくないのに」
「あはは、戦闘はからっきしだけど足止めするための銃は持っていったし大丈夫だよ」
「そんなこと言ったって……無事でよかった……」
「それでね、この石なんだけど」
ブルートルマリンにもよく似たそれが乗せられている彼の手を包むように自分の手を添えた。晴は不思議そうにその石と私の顔を交互に往復する。
見た目はただの綺麗な石だけど、もしかしたらお守りにはなるんじゃないかと思って持って来たのだ。
「晴が無事に戻って来ますようにって祈ってから目をあけたら、目の前に浮いてて。受け止めなきゃって慌てて手を出したら、そのまま私の手のひらに乗っかったの」
「それって……」
「もしかしたらそこの神様がお守りにくれたのかもって持って来た。晴に持っててほしくて」
「いやでもこれ何かの加護があるかもしれないから、きみが持ってた方がいいよ」
「ううん、大丈夫。……晴を守ってほしいから」
もう今回みたいに不安な思いをするのはもう懲り懲りだ。研究者としても魔の討伐には行かなければならない、ならせめて危険から晴を守ってほしい。私にできることは何もないから。晴の手を包み目を閉じて、改めてそう願った。
「ねぇ○○さん、見てこれ」
「え……?」
晴の声に目を開けると手のひらにあった石は、控えめに輝きゆっくりと溶けるように消えていく。何が起こっているのかわからず、青白い光と共に薄れていくそれをただ茫然と見つめるしかなかった。
「……っ!」
彼に視線を移すと、こめかみを押さえ唇を噛み締め小さく漏れた声はいやに苦しそうだ。もしかして余計なものを持ってきてしまったのかもしれないと、彼の腕に手を添え顔を覗き込んで名前を呼んだ。
どうしよう、誰かに診てもらわないと。汗が滲む晴の額を袖で拭いて周りを見渡すも誰もいない。案内してくれた研究者の人の名前を呼んでも返事はなかった。人を呼びに行きたいけどこの状態の晴を一人にしておくのはあまりにも怖い。一体どうしたら。
「晴、ねぇ、どうしたの、頭痛い?苦しいの?はる……っ」
苦しんでいた声がぴたりと止まり、彼が大きく息を吐いた。
「……れ、僕、魔に何か引っ張られてそのあと」
「晴?もう苦しくない?」
「っていうか、ここどこ?なんで○○泣いて……」
「ねぇ、晴。私の記憶飛んでない?」
「記憶が飛ぶ?何意味わかんないこと……きみが頭でもぶつけたの?」
「……っはる!」
「え、なに、いったぁ、身体痛いって!なに、泣いてるの!?なんで……っ」
記憶が戻ってる、晴の記憶が。あまりにも嬉しくて勢いのまま彼の胸に飛び込むと、反射的に受け止めてくれた。本人は何が起こったのか理解が追い付いていないようで「何事……」なんて呟きながらも慰めるように私の頭に手を滑らせる。
顔を上げて晴と視線を交わせば困惑している様子が窺える。その表情も、さっきの話し方も、全部私の知っている晴に戻っていた。
「なんで泣いてるのねぇ……泣かないでよ」
「晴のせいだから。……おかえり、もう心配させないでよ」
「や、本当に意味わかんないんだけど……ただいま」
その彼の言葉に心の底から安心した。