「コマンド使っちゃいますよ、先輩」
まさか、こんな状況になるなんて。
*
「もう何年経ったと思ってるの。そろそろパートナー見つけた方がいいよ」
「十二分にわかってます」
耳にタコができる程主治医から言われている言葉。Subと知ったのも社会人になってからすぐ、原因のわからない体調不良を起こす様になり検査で発覚した。最初に調べた時はノーマルだったから、自分とは無縁だと思っていたためすぐに理解できなかったのを覚えている。
パートナーを探せと言えど、普通に生活したところで相性のいいDomと知り合うのはかなり難しい。何度か国の公認であるマッチングアプリを使っても、自分と相性のいい人はそう簡単には見つからなかった。紹介文を見て穏やかそうだと思ったDomと何度かプレイを試みたが、お互いこの人だとは思えず最終的にはパートナーにならずじまい。いざプレイをすると偏った思考のDomも多く、最後に会った人に関してはSubドロップ寸前で酷い目にあったためマッチングもかなり慎重になっている。
そもそもパートナーって言ってるけど彼氏になるんだよね。流石にパートナーと彼氏を切り分けて考えるのは難しいだろうし。……そんな簡単に見つからないよ。
そうだったらいいなと思う人はいるものの、その人は恐らくダイナミクス持ちではないし職場の人だからこの気持ちを伝えようとは思っていない。……ダイナミクスなんかなければこんなに悩むこともなかっただろうな。
「はいこれ、抑制剤効きが悪くなってるから少し強めのも出しておいたよ。この強めの薬は本当にきついなって思った時に使うんだよ。これでも完全には抑制されないと思うけど」
「はーい。ありがとうございました」
今までだったらこんな薬いらなかったのに、忌々しい。もう何度見たかわからないその袋を受け取り、鞄の奥へと押し込んで診察室を後にした。会計も一気に済ませられるのがこの病院のいいところでもある。
ここは個人情報を守るため全て予約制で入口と出口も別の場所になっていた。ダイナミクスを専門とする病院の中でも珍しい。自分の第二の性が分かった時ここを紹介してもらい、誰とも鉢合わせることなくラッキーだと思っていた。……はずだったのに。
「あれ?先輩……」
「え、か、甲斐田くん?」
じわりと変な汗が出た。まさかここで会社の後輩に会ってしまうなんて。職場でも性を公にしている人もいれば一部の人にしか伝えていないという人もいる。私も絶対知られたくないというわけではないけれど、身近な人にバレるのはなんだか気まずい。……でもここで会うということは、甲斐田くんもダイナミクスを持っているっていうこと?
「あ、ここから入るんですね」
「え、あ、違う違うここは出口。入口はもうひとつ奥のドア」
「そうなんですか。今まで通院したところが閉院しちゃって……専門のところなんて初めてだから迷っちゃいました」
「へぇ、そうだったんだ」
「はい、ではまた」
そう言って私が指をさした方向へと歩いて行く。
甲斐田くんはイケメンなのにいじられキャラで、人当たりも良く可愛い直属の後輩だ。かっこいい、彼女いるのかな、なんて噂する女子社員も見かけることがあるので結構人気があるのかもしれない。
そんな甲斐田くんとは仕事が長引いた時などたまに一緒に飲みに行ったりする仲だけど、まさか彼もダイナミクスを持っていたとは思わなかった。
もしもパートナーになってくれるのがこの人だったら、そう思っていた人とまさかここで会うなんてと驚いた。会社の後輩という立ち位置なのに、一緒にいてもあまり気を遣わずリラックスできる彼からDomという感覚を今まで感じたことはなかったから。自分がSubだから彼がDomであれば今までの中で何となく気付きそうな気もするけれど。……ということは甲斐田くんは私と同じSubなのかもしれない。
少し残念だななんて勝手に思っているけれど、こんな気持ち絶対に知られてはいけない。実の先輩からそう思われてると知ったら、仕事もしにくいだろうし気持ちのいいものではないだろう。
相性のいいDomさえいればこんなこと考えなくてもいいのに。どこか身近な人以外で相性のいい人はいないかな。
「はぁ……とりあえず帰って薬飲むか」
こんなところで会ったのだから甲斐田くんは自分に第二の性があることを確実に勘づいているはず。でも彼のことだから職場でも不用意に口にはしないだろうし、逆に知られたのが甲斐田くんだったのが不幸中の幸いなのかもしれない。
ただまた他の人に会わないとも言い切れないのでそそくさとその場を後にした。
*
「今日係長の代わりに先輩がお客様と図面の不備について話してくれるんですよね?」
「うん、これの担当甲斐田くんだったよね。午後少し早めに応接室取ってるから、先に話だけ合わせようか」
「はい!よろしくお願いします。あとですね……どうせならお昼も一緒しませんか?」
「うん、丁度外に行こうと思ってたしいいよ行こう」
「やった、ありがとうございます!いいとこあるんですよ」
「ほんと?じゃあ場所は甲斐田くんにお願いしようかな」
「任せてください!」
じゃあお昼に、と打ち合わせの資料を持って自分の席へと戻って行く。よかった、いつもの甲斐田くんだ。昨日のことで態度が変わったら嫌だなと、心のどこかで思っていたため内心ほっとした。気にしていたのは私だけだったのかもしれない。
身近な人にバレたのは家族以外で初めてだったから必要以上に動揺していたのかも。
マッチングアプリは合わなければその日限りだが、職場の人や友達はそうではない。だからこそどう思われるかが怖くてなかなか踏み切ることができなかった。学生の頃Subの友達を見ているから余計に。
「……でもまぁ薬の効きも悪いし、そろそろバレるのも時間の問題かもしれないけど」
誰にも聞こえないようにぽつりと呟き、業務の続きに取り掛かった。
…
「こっちに食べるところあるの?」
「はい、隠れ家みたいなとこなんです」
お昼休みに入り「早く行きましょう」なんて急かされ甲斐田くんの後をついて行くと、少し入り組んだ道に入り表通りからは遠ざかっていく。本当に飲食店なんかあるのだろうか。
些か疑問に思いながら後を追えば、花壇に色とりどりの花が植えられている場所へと辿り着いた。一見おしゃれな民家のように見えるが、控えめに置かれているスタンド看板には英語で店名のようなものと時間が書いてある。どうやらランチのみの営業のよう。正直、自分だったら知らずにスルーしてしまいそうだ。
「ここの庭も綺麗ですよね。さ、行きましょう」
程よい距離のアプローチを進み甲斐田くんがお店のドアを開け、店内に入るよう促してくれる。さり気なくこういうことが出来る人ってやっぱりモテるんだろうか、なんて思ったり。
「予約してた甲斐田です」
「甲斐田さまですね、こちらへどうぞ」
「わぁ……おしゃれだしなんかすごく静かだね」
「ここ全部個室なんですよ」
シックな雰囲気の店内を進み、ひとつの個室へと案内される。個室の割に広く、大きめのソファーに向き合って腰をおろした。タブレットのメニューに目を通すといたって一般的な金額で少しほっとする。
「料理が来るまでそんなに時間かからないと思うので」
「そうなんだ、ここよく来るの?」
「いえ、気になって一度だけ一人で来たくらいで……今日が二回目です」
「そうなんだ。本当に隠れ家みたいだね」
「はい、あの実はですね……」
そう途中まで言って口をつぐんだ。何か言いたいことがあるようにも見える。もしかして昨日のことだろうか。
「えっと……個室だから言っちゃうけど、もしかして昨日のことと関係ある?」
「あ、いえ、いやあの……はい」
分かりやすく慌てふためく彼に思わず笑いそうになってしまった。昨日の今日だともしかしてそうかなと予測はできていたので、思ったよりも落ち着けている。
そんな私と裏腹に、甲斐田くんは申し訳なさそうな顔でこちらの様子を窺っていてさながら大きい子犬のようだ。「何かあるなら言って大丈夫だよ」と声をかけると、彼はおずおずと口を開いた。
「実はここ、ダイナミクスの人しか入れないお店なんです。予約する人は事前の身分証明も必要で……前に僕を担当してくれていた先生に教えてもらったんです」
「身分証とか提示してないけど私は大丈夫なの?」
「同行者は基本的に予約した人の良心に任せられる……って感じですね。ネットにも載ってないし、簡単には辿り着けないかもしれないです」
思わず「すご……」と声が漏れた。確かに通常の内科などと一緒に見てくれる開業医もあるが、周りにあまり知られたくないとい人のプライバシーを守ってくれるところもある。私が通っている病院のように。そう考えるとこうして隠れ家のような飲食店があってもおかしくないのかもしれない。
「お待たせしました」
軽いノックの音が聞こえ、店員さんが顔を出したと同時に食欲をそそる香りもする。料理をことりとテーブルに置くと「何かあったらタブレットでお呼びください」と、そう言って戻っていった。
「美味しそうだね、食べよ!」
「どっちも美味しそうですね」
いただきますと手を合わせ、届いた料理を口に運びお互い顔を見合わせた。
二人前はいけそうなくらい、すごく好みの味で思わず口元を押さえる。美味しいねと呟けば「そうでしょう!」と何故か得意げにしている甲斐田くんに笑ってしまった。なんできみが得意げなんだ。
「やー前回来た時、本当に美味しいなって思って。こうして先輩と食べることができてよかったです」
そう言って笑う甲斐田くんを見ると何故かこっちまで嬉しくなる。
他愛のない話や午後の打ち合わせについて話しているとあっという間に昼休みの半分が終わってしまった。
名残惜しくも残るはデザートだけ。タブレットで注文して待っている間に、もう今しか聞くタイミングはないと本題を切り出した。
彼の名前を呼び「もう聞くタイミングここしかないと思って。何か私に言いたいことでもある?」と聞けば、図星だったからなのか甲斐田くんは空笑いをしながら項に手を当てる。
「……あからさますぎてすみません。昨日のことなんですけど、先輩もダイナミクスをもってるってことですよね」
「まぁ……うん、そう。あそこ専門の外来だからお互い誤魔化しようないし」
「ですよね」
あはは、と彼は困ったように目を逸らした。
ただの確認だけであれば職場でもできる。それなのにわざわざここに誘ったということは他にも何かあるのかもしれないと、わかりやすくそわそわしている彼から容易に想像ができた。
昨日会った時に専門のところは初めてだって言ってたから、ダイナミクス持ちなのを隠していないと勝手に思っていたけれど。わざわざ他の人がいないところで話すということは、私と同じで秘密にしてほしいと言うところだろうか。
「それでなんですけど、僕がダイナミクス持ちだって内緒にしてもらいたくて」
「ふは、予想が当たった。こんなデリケートなこと言いふらしたりしないよ。ていうか、私も隠してるから秘密にしてほしい」
「勿論ですよ。っていうか、予想されてたんですか……」
「ずっとそわそわしてたからね。……私も秘密にしてって言ったけど、もう時間の問題かなって思ってる。抑制剤の効き目も悪くなってきてて。だからバレても気にしなくて大丈夫だから」
「あ、それわかりま……」
「失礼します。お待たせしました、こちらデザートです」
扉をノックする音が響き、ことりと可愛らしいスイーツがテーブルの上に置かれた。甲斐田くんが頼んだマカロンと私の透明なガラスカップに入ったショートケーキ、どちらも可愛いくて食べるのがもったいない。食べるけど。
並べて一枚写真を撮り、スプーンを持った瞬間ふいに視界が揺れた。反射的にテーブルに寄りかかるも、頭がぐらぐらする。あれ、今日薬飲んだっけ。
「先輩大丈夫ですか!?」
いつの間にか隣に甲斐田くんがいて、滑り落ちそうな身体を支えてくれている。
……とりあえず薬を飲まなきゃ。彼に薬を取ってもらうようお願いしたが「んー……。ちょっと靴脱がしますね」とそう言って、座っていたソファーへと寝かされた。
「嫌だったらすみません、失礼します」
甲斐田くんも私が横になっているソファーに座り、彼の膝へ頭を乗せられる。膝枕なんていつ振りだろう。「大丈夫ですよ」と彼はその大きな手を私の頭へと滑らせた。
その落ち着いた声と手の温かさのお陰か、回っていた視界は落ち着いて今は酷く心地が良い。
「甲斐田くん、手、かしてほしい」
「はい、どうしました……っ」
差し出された彼の手を頬へと寄せた。大きくて、温かくて、ずっと触れていたくなる。なんだかふわふわして満たされて、今までになかった私の知らない感覚。
そんな中メッセージの通知音が耳に入り、膝枕をしてくれた甲斐田くんと視線がぶつかる。彼の少し驚いた顔を見て、自分の取った行動の恥ずかしさに思わず両手で顔を隠した。
「ごめん」と慌てて起き上がろうとしたその瞬間「Stay、そのままでいいですよ」そう彼が口にした言葉で私の身体がぴたりと止まった。……もしかしなくても、これは。
「Look、顔隠さないで先輩……」
じわりとDomの欲求を肌で感じる。その言葉に従うように彼の膝に頭をあずけたまま、顔を覆った手は下へとおろされた。また目が合った甲斐田くんの表情は、さっきと違い目を細めて柔らかく笑っている。
「よくできました」
彼は私の頬に手を添え耳元でそう呟くと、ぶわっと身体が熱くなり言葉にできない高揚感に包まれる。少しのコマンドでこれまでのDomとは全く違うのを身をもって感じた。怠い、重いと思っていた身体が急に軽くなったような気さえする。
「いい子ですね」なんて頭を撫でられることさえ心地良い。
「先輩、やっぱりSubだったんですね」
「やっぱり、って気付いてたの?……私は気付かなかったよ甲斐田くんがDomだったなんて」
「でも今ならわかったんじゃないですか?僕、今の時間にわざと抑制剤の効果が薄れるように飲んできたので」
「うん、感じたよ。……甲斐田くんさぁ全然そう見えないのに意外と策士だね」
「はは……すみません。何度か先輩からSubの欲求のようなものを感じることがあって、気のせいかと思ったんですけど昨日のことで確信しました」
「うーわ、言ってよ。昨日そんな素振りなかったじゃん」
「言えないですよ流石に」
……それもそうか。こんなデリケートなこと簡単に口に出せるわけがない。隠しているなら尚更だ。それを聞くことによって自分の第二の性までバレるリスクがあるのだから。
お礼を言って起き上がりソファーへ座れば、本当に身体が軽くなったことを実感する。思わぬところでのプレイではあったけど、こんなに違うんだ。これなら午後は薬を飲まなくてもいけるかもしれない。嬉しい誤算だ。
「もうそろそろ昼休み終わりますね、急いでデザート食べますか。はい先輩、あーんしてください」
甲斐田くんは隣に座ったまま、ケーキを掬って私の口元に持ってくる。思わず「一人で食べれるけど」と言ったものの「いいじゃないですか」なんてにこにこしている。
「ほら、午後は抑制剤飲まなくていいと思えば。僕がしたいんです」
「いや……ちょっと恥ずかし……」
「ダメですか?」
わかりやすくしゅんとする彼を見ると罪悪感が生まれる。その顔やめて欲しい、こっちが悪い事をしている気分になるじゃないか。
彼も引く気はないようで、諦めて口を開ければ待ってましたとばかりに食べさせられる。……甘さ控えめで美味しい。これは何個でもいけそうだ。
「美味しいですか?」と優しい声で言う彼に食べながらこくりと頷くと、また甲斐田くんも嬉しそうに笑った。
これだけなのにどうして穏やかな気持ちになるのだろう。これもプレイの一種なのだろうか。経験がないため私にはわからないけど、今この空間が居心地のいいものなのは確かだ。
「先輩、美味しそうに食べてくれて僕も嬉しいです」
「あ、ありがとう……」
結局全部甲斐田くんに食べさせてもらい、テーブルを見れば彼のマカロンがまだ置かれたままなことに気が付いた。軽く困らせてやろうと、ちょっとした意地悪のつもりでマカロンを手にし彼へと差し出した。
「お返し。はい、甲斐田くんもあーんして」
「食べさせてくれるんですか?」
「うん」
「じゃあ遠慮なく」
「え」
甲斐田くんはマカロンを持った私の手首を優しく掴み顔を寄せる。そして小さなそれをぱくりと口に含んだ。あまりの躊躇のなさに私が怯んでしまうくらいには。
「……っ」
「これもすごく美味しいですよ、先輩。……先輩?」
そう言って甲斐田くんは笑うけれど、私はそれどころではない。
一瞬指先に彼の唇が触れたような気がして、じわじわと顔に熱が集まるのがわかる。
天然で気付いていないのか、それともこういうことには慣れているのか彼は動じていないように見えるのが少し悔しい。
「もう食べさせてくれないんですか?」
「甲斐田くん自分で食べれるでしょ!」
「えぇーいいじゃないですかぁ」
結局また押しに負けてマカロンがなくなるまで甲斐田くんの口に運んだ。大型犬にご飯をあげていると思い込んで、なんとかそこは乗り切った。Domのことを詳しくわからないけれど、満足そうにしているところを見てこれで少しは解消されているのだろうかと思ったり。
「また来てくれますか?」
「……考えておく」
「なんでですかぁー」
*
立て続けに予想外のことが起きたけれど、お店を出る頃には平静を取り戻し無事打ち合わせを終えることができた。身体も軽いし頭もクリアで、こんなに体調がいいのは久しぶりな気がする。
「代理で打ち合わせ大変だったね。でもなんか……朝より顔色よくなった?」
「そうかな。もう定時で帰れるし明日休みだからかも」
「それはそうだね。じゃ、また来週お疲れー」
「お疲れー」
同僚から指摘されたことによって、そんなに違うのかと少し驚いた。確かに毎日こうだったらいいのにと思う反面、Subになった以上一人で解決するのは難しい。どうしてもパートナーの存在が必要不可欠で、それを今日これまでにない程実感した。
マッチングアプリでも多少は解消できたものの今日ほどではなく、どれも心地が良いとはあまり思えなかった。だからからずっとなぁなぁにしていたけれど、先生があれだけパートナーを探せと口酸っぱく言うのもようやくわかった気がした。
……でもまぁ甲斐田くんとはその場限りでパートナーになったわけでもない。また明日からは抑制剤頼りになってしまうことを考えると今から憂鬱だ。
机に置いているペン立てをしまい、挨拶をして職場を後にした。
「先輩」
「甲斐田くんお疲れ様。もしかして何か資料に不備でもあった?」
「いや……ちょっとお話したくて」
「いいよ、いつもみたいに居酒屋でも行こうか」
「いえ、えっと、僕の家で飲みながらとか……ダメですか?あ、いや、その前に彼氏さんとかいたり……」
「いないけど……え、もしかしてお昼に話した続き?」
「そんなところです」
わざわざ追いかけて来た甲斐田くんに聞けば、どうやら他にも話したいことがあったようで彼の家へと誘われた。
本来であれば付き合ってもいない男性の家に二つ返事でお邪魔するほど警戒心が薄いわけではない。……ただこればかりは外で話せる内容でもないからどうしたものかと頭を悩ませる。
都合よくお昼のような居酒屋が……あるわけないよね。
「じゃあ……お邪魔しようかな」
「いいんですか、ありがとうございます!」
「長くなりそうなら一回帰って着替えてきていい?この格好じゃ窮屈だし、夕方外出してべたついてるし……」
「大丈夫です、僕買い物して準備してるので。あ、あとメッセージで自宅の住所送っておきますね」
「ありがとう。私も適当につまめる物買っていくね」
「はい!」
そう約束をして甲斐田くんとその場で別れ、私は先に買い物をするため近くのスーパーへと向かった。
…
「お邪魔します」
ドアを開けて迎えてくれたのは、職場では絶対見ることのないラフな格好に眼鏡姿の甲斐田くんだった。きっちりしているイメージだったので今の姿を見るとなんとなく親近感が湧く。かくいう私も部屋着を着てくるわけにもいかないので、それに近いゆったりめのカットソーではあるけれど。
「梅酒とかチューハイとか甘いもの中心になっちゃった」
「先輩殆ど甘いものしか飲みませんもんね、僕も買ってますよ」
「あとかずのこあったから買ってきた。甲斐田くんお店にあればいつも注文してるから」
「いいんですか!?うわ嬉しいほんとにかずのこだー!って、すみません玄関で。どうぞ入ってください」
甲斐田くんに買ってきたものを渡せば、袋を覗き込んで目を輝かせている。子供のようで思わず笑ってしまった。メニューにあると頼んでいるから好きなんだろうなと思ってはいたけど、本当に好きなんだな。
はっと我に返った甲斐田くんに促され、靴を脱いで部屋へとお邪魔する。
――……甲斐田くんちの匂いだ。
入った瞬間、甲斐田くんの香りに包まれるようで少し緊張する。いつも以上に意識してしまうのはきっとお昼のことがあったからだろう。
「ソファーでもクッションでも好きなところにどうぞ」
「ありがとう」
おずおずとリビングへと入りローテーブルのところにあるクッションへと腰をおろした。甲斐田くんは買ってきたものをキッチンへ持っていきお皿に移し替えてくれているが、ただ待っているのは忍びない。
そのうえ初めて来る男性の部屋だからかなんだか落ち着かなくて、すぐに腰を上げこちらに背中を向けている彼の後ろへこっそりと近付いた。
リビングダイニングになっているのでリビングとキッチンを隔てるものは何もなく、真後ろにいるにも関わらず甲斐田くんは私に気が付いていない。
……でっか。ただでさえ小さいのに、ヒールがないためいつも以上に彼の身長が高く感じる。……これが本来の身長差なのだろうけど。私は肩くらいまでしかないのか。
「んぶっ」
「うわびっくりしたぁ!大丈夫ですか!?」
ぼーっと眺めていたら、何かをしようとした甲斐田くんが後ろに下がって思い切りぶつかった。これは身長比べしていた私が悪い。
「ご、ごめん、何か手伝うことないかなって思いながら背を比べてた」
「意味がわからないんですけど……。先輩、なんか小さいですね」
「普段はヒールで人並みまで武装してるから」
「あれ武装なんすね!?今移し終わるんで冷蔵庫から好きなお酒持ってってもらえますか?」
「おっけー、じゃあちょっと失礼して。甲斐田くんは?」
「僕のはチューハイでお願いします。もう座っててもらって大丈夫ですよ」
「ありがと」
必要最低限のものしか入っていないすっきりとした冷蔵庫から買ってきたお酒を取り出しテーブルへと並べる。お言葉に甘えて先程のクッションへと腰をおろし、仕事の連絡がないことを確認しマナーモードにして鞄へと戻した。
じろじろ見ないようにしないとと思っても、初めて来たので部屋の中が気になってしまう。綺麗な色のギターや多種多様なゲーム機がテレビ周りに置かれていて、ゲーム好きとは聞いていたけど……これは絶対ゲーマーだ。
「できましたよ先輩、飲みますか!」
甲斐田くんがお皿に移したおつまみをテーブルに並べてくれ、綺麗でしょうなんて得意げな顔をしていた。はいはいありがとねと軽く受け流せば、ふざけてむすっと頬を膨らませる。職場の時よりもなんだか幼く感じるのは気のせいだろうか。
彼はテレビが見えるようにと私の隣のクッションに座り、お酒の缶を開け顔を見合わせる。
「一週間お疲れー」
「かんぱーい!」
コン、と缶を合わせて乾杯の一口を流し込む。キンキンに冷えた梅酒が美味しい。甘いお酒は好きだけどあまり強くないのがネックなところ。ザルだったらよかったのにって何度思ったことか。
そんな私の横で、珍しく結構な勢いで一口目を流し込んでいた。今日の打ち合わせがよっぽどストレスだったのだろうか。
「明日が休みの日のお酒はやっぱ美味いっすね!」
「一口目から結構いったね。打ち合わせそんなに緊張した?」
「そりゃそうですよぉ。でも休み前に片付いてよかったです」
「ほんとだね」
それから暫く話題にのぼったことと言えば、仕事の話とか流れているテレビの話とか、いつもと同じ他愛ない話だった。
程よく酔いが回ってきて、本来の目的も忘れてゆるりとお酒を交わす。甲斐田くんは自分の家だからか、度数が弱いものだからか、外で飲むときよりも少しだけペースが早く感じた。かといって酩酊するわけでもなく、寒いギャグを口にしてはケラケラと楽しそうにしている。私もこの空間が酷く心地良い。
「せーんぱい」
「なにー」
「ここ、ここに寝てください」
そう言って甲斐田くんは得意げな顔をしながら自分の膝を叩いている。これは……デジャヴ?
このまま何も考えずに彼の言う通りにしたいという欲求と、職場の後輩に膝枕をしてもらうという羞恥心の狭間で葛藤している。お昼に関しては体調を崩していてどうしようもなかったけれど、パートナーでも恋人でもない、ただの職場の後輩だから。
「や……えっと、なんで?」
「僕がしたいからです」
「いやその、恥ずかしいというか……先輩と後輩だし」
「……ダメ、ですか?」
その大きな子犬がしゅんとするみたいな顔本当にやめてほしい。普段しっかりしているところや、見てもいじられているところくらいだから。昼にも見せられたその顔に私はめっぽう弱いみたいだ。
じっと私を見つめるその瞳にじわじわと欲求が駆り立てられる。一度あの安心感を覚えてしまったら、抗う方が難しい。
「……お願いします」
「じゃあ先輩、はい、ここに頭乗せてください」
いそいそと足を伸ばした彼の腿に頭を乗せた。柔らかく髪を梳いてくれる彼の手が温かくて目がとろんとする。頭の中がふわふわするのはお酒のせいなのか、もしくはこれで欲求が満たされているからなのかはわからない。
「先輩、体調よくなりましたか」
「……うん、午後は久しぶりに身体が軽かった」
「ふふ、よかったです。実は僕も少しは解消されたんですよ」
「そうだったんだ。でもそっか、少しか……ごめんね私ばっかり」
「いえ、あの場は先輩の体調が優先だったので。それでなんですけど……先輩さえ良ければ僕のパートナーになってもらえないかな……って」
「……え?」
想像してなかった提案に思わず目を見開いた。
彼が私のパートナーに?どうしてまた突然そんな話になったのだろうか。私は甲斐田くんだったらと思っていたから願ったり叶ったりではあるけれど、今までそんな欲求も感じられなかったし彼が私を選ぶ理由がわからない。
ただ甲斐田くんの表情からも冗談で言っているようには感じないし、どう返事するのが正解なのだろう。
正直なことを言えばこのまま了承したい。でも今後甲斐田くんに好きな人が出来たら?仮にそうなったとしたのなら、それを知った上でパートナーを継続することは考えられないし自分の気持ちを考えてもきつい。その上同じ職場だから気まずくなりそうだという懸念もある。
「えっと、嬉しいんだけど……パートナーって恋人じゃないし、今後甲斐田くんに好きな人とかできたら困らない?」
「困りません。もしかして先輩今好きな人とかいるんですか」
ほんのりと赤く染めた顔で甲斐田くんは唇を尖らせた。この子は無意識でこういうことをしているのだろうか。あざといという言葉がよく似合う。
でも……うん、私の好きな人はもう目の前にいる。
甲斐田くんに好きな人ができても困らないということは、もしかしたら彼はパートナーと恋人をはっきりと区別できる人なのかもしれない。もしくはパートナー兼恋人でもいいと思っているかのどちらかだと予測はできる。でも後者は……お互い好きでもないのに恋人っていうのはリスクが高い。私が彼に好意を寄せているため、甲斐田くんに好きな人が出来た時のことを考えると余計にそう思う。
……どちらにせよ甲斐田くんの中ではどれくらいの温度感なのかもわからないため、どう答えたらいいのかわからず言葉を詰まらせた。
「……ダメですか」
「え?」
「先輩のパートナーも恋人も、僕じゃ……ダメですか」
口ごもる私を見て彼はそう呟く。「……あーもうこんな格好悪く伝える筈じゃなかったのに」と甲斐田くんは手の甲で目元を隠した。覆いきれないところからのぞく頬や耳は先ほどよりも赤みが増している。
かくいう私も彼の言葉を飲み込むことに必死だった。これは酔っぱらって寝てしまった夢なんじゃないかとさえ思う。
「あの甲斐田くん、恋人って……」
彼は覆っていた手を寄せ、少し困ったような拗ねているような、何とも言い難い表情を見せる。くるくると変わる初めて見る表情に私も戸惑うばかりだ。
そんな甲斐田くんは一呼吸おいてきゅっと結んでいた口を開いた。
「……先輩が好きです。職場の後輩がそんな目で見てたなんて引かれるのが嫌だったから、予防線でパートナーって言ったんですけど。そんなの口実でしかなくて」
「え、ちょっと待っ」
「先輩が好きだから恋人っていう立ち位置になりたかったけど、同じ職場で簡単には言えないし……。そこで先輩がSubかもって気付いた時、もっと近付く口実になるって思ったんです。狡いですよね」
彼は不安を隠しきれない表情でぽつりぽつりと気持ちを打ち明けてくれた。その一方で当の私は本当にこれが現実なのかわからなくなりこっそりと腿をつねったり、途中から恥ずかしさのあまり顔を両手で覆うと「先輩聞いてます?」なんて口をへの字にした甲斐田くんから手を寄せられる。
「今日のプレイは想定外だったんですけど、してるうちに好きだなっていう気持ちが我慢できなくなって。先輩が他のDomのパートナーになるのは嫌だったから今日こうして声をかけました」
甲斐田くんが私のことを好きだとか、他のDomのパートナーになるのは嫌だったからとか。もしかしたら半分くらいは私の願望が幻覚となって見えてるんじゃないかと思うくらいにはあまりにも都合がいい話だ。その言葉をゆっくりと咀嚼しているが、上手く頭が回らない。
嬉しいのと恥ずかしいのと困惑と、感情が交錯する。何か言わないとと思えば思うほど、上手く言葉がまとまらない。仕事ではそこまで困らないのに、どうしてこういう肝心な時にポンコツを発揮するのだろう。
彼は私の目元にかかった前髪を指先で寄せ、少し寂しそうに笑った。
「すみません、困らせたい訳じゃなかったんですけど」
「ちが……っ、私も……私も好きだよ、甲斐田くんが」
「……先輩?」
「なんていうか、甲斐田くんが私と恋人とパートナーになりたいなんて、自分にとって嬉しいことばかりだったから。その反面結構驚いてて、だから困ったわけじゃないんだけど……もう恥ずかしすぎて無理」
私は勢いっで起き上がり顔を隠すように身体ごと反対側を向いた。すると彼は後ろから私の髪を耳にかけて「ねぇ、こっち向いて」と囁く。耳にかかる甲斐田くんの吐息にぞくりとして、思わず手で押さえるもすぐに手首を掴まえられる。
「お願い、顔見せて」
「……恥ずかしい」
「コマンド使っちゃいますよ、先輩」
「ちょ、それはずるい」
「あはは、こっち見てくれましたね。……でも、言って欲しそうな顔してる」
「そんなこと……」
全くない、と言えば嘘になる。昼のプレイを思い出し、またあの感覚に浸りたいとさえ思う。もう今は自分の気持ちを我慢しなくていいのだから。
「……したい」
「先輩素直で可愛いなぁ。先にセーフワード決めましょうか」
「うん、じゃあ……」
甲斐田くんとの間でセーフワードを決め、緊張からか少しの静寂が訪れる。
いままでプレイする時はここまで緊張することはなかったのに、今日は違った。どういうプレイをするのだろうとか、彼はどんな表情をするのだろうとか、考えるだけで自分でもわかるくらいには心拍数が上がっている。
顔を見合わせるも、恥ずかしさからなんだかいたたまれなくなって視線を逸らした。
甲斐田くんはおもむろに立ち上がると、すぐ近くのソファーへと腰をおろすのが視界の端に映りこむ。
「先輩、Look」
「……っ」
「かーわいい」
紡がれたコマンドに反応し、じわりとした熱を感じながら逸らした視線はまた甲斐田くんの方へと誘導された。前の人の時は言葉の通り身体が動くことに対して少し怖いと思っていたが、今は寧ろもっとしてほしいと欲求が内側から滲み出る。
「Come」の言葉にゆっくりと立ち上がり、穏やかな表情で待っている彼の方へ吸い寄せられるように歩いた。
「目がとろんとしてる。気持ちいい?」
「なんか……ぽやっとする」
「ふふ、じゃあここ来ますか?……Sit」
「ん……」
甲斐田くんはぽんと自分の腿を叩いて次のコマンドを口にした。
彼のコマンドがあまりにも心地が良くて、少しの抵抗もなくそれを受け入れる。今まで感じていた強制力ではなく、自分の欲求が満たされていく感覚だった。
コマンドの通り彼の腿にまたがり向かい合うようにして座ると、先ほどよりも余程距離が近くなる。
頬へ掛かる髪を撫でるように梳いて耳に掛ける、その大きな手が温かくて無意識に頬を擦り寄せた。
「先輩、それお昼もしてましたよね。僕の手好きですか?」
「うん、すき……」
「じゃあ僕のことは?」
「……好き」
「――っ、なんて顔してるんですか。……じゃあ次はどうしてほしいか教えて?」
耳の奥に響く「Say」という言葉で身体の奥からじわりと浸食する熱にくらくらする。目の前にいる甲斐田くんのことしか考えられなくて、夢と現実の間にいるような温かくてずっとこうしていたいそんな気分だ。
「ほめて……ぎゅってだきしめてほしい……」
「よく言えました」
「ん」
私の背中に腕を回しそのまま引き寄せられた。意外とがっしりしている彼の肩に顔を埋めれば、彼の香りに包み込まれる。さらりとした髪が少しだけくすぐったい。
そして彼が私の髪を撫でながら「いい子ですね」と耳元で囁くと、多幸感に満たされもう何も考えることができない。
「ね、先輩の可愛いところもっと見せて」
蕩けるような甘い声と目を細め笑う甲斐田くんへ、全てを委ねるように身体をあずけた。