ううーん、あつい。
エアコンをつけるほどではない、けれどなんだか寝苦しくて目が覚めてしまった。時計は深夜一時半を回ったところで、殆どの人は寝静まっている頃だろう。
布団を蹴飛ばしたり、ゴロゴロしてみたが、一度目を覚ましてしまったからか全然寝付くことができなかった。
「……水、飲も」
少し涼めば寝れるかも。と、むくりと起き上がり誰も起こさないように部屋のドアを静かに開け、足音を潜めてキッチンへと向かった。
「うわ気持ちいいー」
冷蔵庫を開けるとひんやりした冷気が肌に触れて。そのまま冷えた水を手に取り、勢いよく流し込んだ。火照った体に染みわたり、熱がすっと引いていく気がした。
……けれど、勢いよく飲み込んだせいか逆に目が冴えてきたかも。このまま戻ったところでなんとなくモヤモヤした部屋では寝れそうにない。明日は休みだからよかったけれど。たまにあるんだよなあ、こんな日。
「――えっ」
不意に玄関からカタンと聞こえた気がした。
まさか、ポルターガイストとかじゃないよね。なんて時計に視線を移したが、まだギリギリ丑三つ時ではない。
足を忍ばせ、恐る恐る玄関を覗けば頼りないほどの明かりがついていた。音の正体を掴むべく近づくと、あく太くんの靴が玄関に転がっている。もう一つの靴も宙ぶらりんでなんとかバランスを保っている状態だった。
「……あーもー、びっくりしたぁ」
音の正体が分かればもう怖くはない。靴棚に近づいてあく太くんの靴を戻せば、ふとある人がまだ帰っていないことに気が付いた。
……添くん、今日外泊だったかな。飲み歩いているだけならいいんだけど。
ちらりとドアの方へ目を向けるも、しんとしているばかりだ。
「……タイミングよく、なんてないよね」
ぽつりと呟いて、なんとなくポケットに入っているスマホを手に取った。PeChatを開いたけれど明日は休みだし、連絡するほどのことでもないと思いとどまる。添くんだって、心配されるほどの子供じゃないのに。
ただ、自分が一方的に気にしているだけ。そうわかっていても、画面を開いたまましばらく指は動かなかった。
*
こういう時に限って睡魔はどこかで遊んでいて、一向に戻ってくる気配がない。眠くなるまで本でも読んでようかな、と薄いブランケットを片手にバルコニーへと向かった。
「ん一気持ちいい」
暑くもなく寒くもなく、ここにベッドを持ってきたいくらい。
少し行儀が悪いが、今の時間は学生の子たちが来るわけでもないしと、ソファーから足を投げ出して寝ころんだ。
そして気になっていた本の続きへと目を滑らせる。
・
・
・
「……にん、主任、〇〇さーん」
私を呼ぶ声に薄く開いた目でその声の持ち主を確認する。「ん……てん、くん?」と寝返りをうてば、彼の香りが鼻腔を満たした。ここに添くんがいるはずもないし、多分夢だ。
「そんなにオレの足が寝心地いいんです? こんなとこで寝てたら風邪引きますよ」
「布団だから、だいじょぶ、」
「……どこが布団?」
夢ならなにしてもいいか。と、思考が働かない頭で「てんくん」と、彼の名前を呼んだ。何か用があって呼んだわけでもなく、ただ呼びたかったから口にしただけ。
「はいはい、どーしたんで、す」
少し屈んだ彼の頬を両手で挟んでぐっと顔を引き寄せた。
その行動に彼は珍しく目を見開いていて、思わず笑みがこぼれた。添くんでも驚くんだ、なんて思ったけれど、これは夢だから都合のいい反応を見れているのかもしれない。
もう一度彼の名前を呼べば「どーしました」なんてまたいつもの声色で返事をしてくれる。なんだかんだ優しいよね。
「――夢だから言うけど、好きだよ」
「え、」
「あはは、びっくりするんだ」
「……夢じゃなかったら?」
「好きだよ、言えないけど」
頬に添えていた私の手を彼は優しくすくいとり、その手のひらへと唇が触れる。その色気と、髪が頬を掠める程の距離に心臓がどくどくと耳に響いた。
「こういう意味の好きで合ってます?」
「……うん。私にも、して」
「はは、大胆ですね。でも今は」
視界が彼で埋まり、思わず目を閉じる。今まで以上に近い気配を感じて、その瞬間を待つように息を止めた。……が、触れたのは唇ではなくて。思っていたところと違うことに少し力が抜ける。
けれどキスされたことには変わりなくて、気づいた途端触れられた頬がじわじわと熱をもった。
「誘っておいてそんな反応なんですか」
「――それは、だって、夢だし……」
「夢から覚めても忘れないでくださいね」
「すぐ忘れちゃうから自信はないけど」
「……きっと覚えてますよ」
彼は私の頭に手を滑らせ、小さく笑った。何の確信があって口にしたのかはわからないけれど、ここは夢の中だ。彼が何を言ったって不思議じゃない。
こんなに幸せなのに、やっぱり起きたら忘れてしまうのだろうか。それとも彼が言うように覚えているのだろうか。できれば、覚えていたいけれど。
「まだ眠いんでしょ、夢の中だけど寝ちゃいましょ」
「ーーもったいない」
「また明日も会えますよ」
そう言って頭を撫でる手が心地好くて、もやがかかるように思考が奪われる。私は睡魔に誘われるがまま、ゆっくりと目を閉じた。
*
「あ、起きました? おはようございまーす」
「…………え」
その呑気な声とは裏腹に、思考がぴたりと止まる。今、どういう状況?
外の明るさに薄く目を開けて、最初に視界に入ったのは私を覗き込む添くんの顔だった。
私の頭の下は枕ではなく添くんの腿があって、横になっているのはベッドではなくソファーの上。薄いブランケットと添くんの上着がお腹に掛けられて、読みかけだった小説はソファーの背もたれと私の間に落ちている。
「あれーどうしたんです? 〇〇さん」
「え、あ、ごめ!」
「いっ、」
「──ったぁ……」
物事が整理できていない頭で慌てて起き上がると、覗き込んでいた添くんとおでこをぶつけた。あまりの痛さに涙が出そうだが「ごめんなさい……」と重ねて謝った。
「あっははー、積極的ですね。キスでもしたかったんです?」
「え、なっ! なにを言って、」
思わぬセリフにどっと心臓が音を立てる。
なぜ突然そんなことを。……何か、何か抜けているような。
「えーまさか忘れてませんよね? 昨晩のこと」
「さく……ばん、」
昨日は眠くなるまでってここで本を読んで、そのまま多分寝落ちして。そのあとは……。添くんに昨晩のことと言われ、一つずつ順を追っていけば少しずつ思考がクリアになっていく。
そうして思い出したのは、あの夢のことで。この状況から察するに、もしかしてあれは――。
急激に体の熱が沸騰するような感覚に襲われる。
……夢じゃなかった!?
「あ、思い出しました?」
なんて口角を上げる添くんをまともに見ることができず、手で顔を覆った。恥ずかしさでどうにかなりそうだ。
今度はぶつからないように起き上がろうとするも、あっけなく肩を押さえつけられる。少し暴れれば彼の膝枕からは逃れられるだろうけど、下手に大きな音を出してこんなところを誰かに見られたら。
……そう考えると、どうあがいたって逃げられない。
「ねえ〇〇さん」
「…………」
「寂しいなあ、無視しないでくださいよ」
彼が私の手首を掴んでそっと顔の上から寄せた。顔の熱は引かないけれど、もう全部さらけ出してしまっていたとわかった今、抵抗する意味もない。
「はは、真っ赤」
「――もう放っておいてぇ」
「ヤダ、って言ったらどうします?」
「……どうするって、」
「どうしましょうか」
意地の悪い顔で至極楽しそうに笑う添くんがこんなに近くて、心臓が壊れてしまうんじゃないかってくらい煩い。もう晒すものは全て晒したというのに、これ以上なにを求めるのか。
「とりあえず、お望みの通り唇にでもキスしましょうか」
「なっ」
「え一昨日のは冗談だったんです?」
「じゃ、ない、けど。だ、だって付き合ってないし」
「──オレも好きだって言ったら」
いつものへらりとした表情ではなくて、真っすぐ視線を絡ませ、そう口にした。思いもよらない言葉に「え」と小さく驚きが口から零れる。
今までの添くんなら、きっとすぐに「なーんて」と誤魔化すはず。でも今は……冗談めいた言葉は、彼の口から出てこなくて。彼の言葉が嘘なのか本当なのか、判断がつかない。
「──やめてよ」
どうしたらいいのかわからなくなった私の口を次いで出たのは否定の言葉だった。彼は表情こそ変わらなかったが、私を掴む手に少し力が入る。
「……なにそれ」
これまでと違う、一気に温度のない言葉が降ってきて。思わず肩を震わせた。何が気に障ったのかわからないけれど、私にだって言い分はある。
「だってそんなこと言われたら、期待……しちゃうから。からかってるだけなら、言わないで」
「──はは。なーんだ、そういうことですか」
「なっ、なんで笑うの」
「いえ別に。○○さんも可愛いところあるんだなと思いまして」
彼の中で何か答えが出たのか、一転して元の軽い口調に戻った。私の手首を掴んでいた手はするりと指が絡んで、そのままソファーへと固定される。鼻先がくっついてしまうほどに距離を詰められ、視界は添くんで埋め尽くされた。息遣いも、瞳の色も、深くわかってしまうくらいに。
「別に、からかってるつもりないんで」
「それって、」
合図のように添くんは指の腹で私の頬を撫でながら「……抵抗するなら今しかないですけど」なんて口にする。彼は明確な答えを言葉では示してくれない。
けれど、からかってるつもりはないってことは、添くんも同じ気持ちだと思ってもいいのだろうか。そうだとしたら、私が拒否する理由なんて――。
「じゃあ、それが答えだって受け取りますよ」
彼が薄く笑うのと同時に静かに目を閉じれば、ついばむように唇が重なって。離れてすぐもう一度降ってきたキスは、唇を割って侵入した舌に深く絡めとられた。
自分のものとは思えない漏れた吐息に、全身がちりちりと熱くなるのを感じる。唇が離れたあともその余韻は残っていて、ぼうっとしたまま彼を見つめた。
「顔が緩みきってて、いい眺めですね」
「……っ、添くんの、せいだから」
「それは光栄なことで」
そう口にしてへらりと笑う彼に翻弄されてばかりだ。恋愛に関しては一枚も二枚も……いや、きっと何百枚も彼の方が上手なのだろうけど。ずっと私ばかりが振り回されて、それが少し悔しい。
「そろそろ起きるから!」
「もう少しゆっくりしててもいーんじゃないですか」
彼は意地の悪い顔で私の肩を押さえつけると、上手く力が入らず起き上がることができない。
振り回されるからというのもひとつの理由だが、流石に誰かが起きてきてもおかしくない時間ではないかという焦りもある。
そんな私の考えを知る由もなく、彼は起き上がろうとする私を笑って押し返した。
「もう! 誰かに見られたら」
「主任ちゃん、添、何してるのかな」
「あーらら」
ぴしゃりと、私の言葉を遮る声が聞こえてきた。振り向かなくったってわかる、けれど振り向かずにはいられなくてバルコニーの入り口へとゆっくり顔を向ける。
「――可不、可」
「おはよう二人とも」
そこには想像していた通りの人物が、有無を言わせないようなにっこりとした笑顔でドアに寄りかかっていた。
いつから、いやでも今だとしても非常にまずい。変な汗が背中を伝っている私の真上で、添くんはと言えば飄々としている。
……もしかして、わざと?
「おはようございまーす、社長」
「お、おはよ……可不可、これは」
「主任ちゃん、そこに並んで座って?」
「…………はい」
笑顔を崩さない可不可に弁明することも許されず、大人しくソファーへと座りなおした。
こうなってしまっては、もう逃げることもできないだろう。
隣の添くんをちらりと見れば、目が合うといつものようにへらりと笑っている。さっきのことなんかまるで夢だったみたいに。
……それでも、ぴたりと体を寄せるその距離は変わらなくて。先ほどの熱がまた少しぶり返した。