そのひと夜は夢か現か

『ごめん遅れる』
『大丈夫、その辺ぶらついてるね』
『三十分連絡なかったら今日はごめん』
『はーい』

待ち合わせ十分前、区長の仕事で忙しいのだろうかPeChatで遅れる旨の連絡がきた。かくいう私も待ち合わせに間に合うかどうかの瀬戸際でなんとか仕事を終わらせてきたわけだけれども。

「三十分か」

もし三十分連絡なかったらごめんということは仕事の目途がまだつかない状態なのだろうか。大学に区長の仕事に随分と忙しそうだから仕方ない。私だって残業でドタキャンしたことがあるからお互い様だ。
三十分ならSNSを見たりソシャゲでもやっていればあっという間だし、飲み物テイクアウトして隅の方で時間を潰そうかな。そう思い立ってすぐホットココアを購入し邪魔にならないよう建物の壁に寄りかかった。

「うま……」

スピネでHAMAツアーズのアカウントを見れば新しい情報が解禁されていた。詳細はまだだけれど、他の区長に並んで一区長という文字が目に止まる。添はあまり顔を出していないがその文字を見るだけで嬉しくなった。ふふん、私の彼氏だぞってね。
それから十五分程経った頃に画面上にPeChatの通知が表示され、名前を見れば添からのものだった。

『ごめん今日無理かも』
『わかった。仕事頑張れー』
『もう遅いからなるべく明るいところ通って』

まだ二十時半、大人なら特段遅い時間というわけでもないのに珍しく過保護みたいな添のPeChatに思わず笑ってしまった。そんなタイプとはかけ離れてるのに。
『心配しすぎ』という一言と大丈夫というスタンプを送って、近くにあるゴミ箱へ空になったカップを捨てた。少しだけ満たされてしまったお腹で何を食べようかなんて考えていると、私の横をすり抜けた女性が何かを落としたのが視界に入る。

「あ、あの」

声をかけるも届かなくて、落としたものは路地裏へ転がっていく。拾って渡した方が早いとそれを追いかければ薄暗くて地面が汚いためよく見えない。
思ったより勢いよく転がっていったけど何だろう?まさかハムスターサイズのペットロボとかじゃないよね。なんて思いながら探すと楕円のケースのようなものが落ちていた。少し汚れているが周囲のものと比べればこれで間違いないだろう。

「まあでもこの形は流石に転がるか。なんだろこれ、リップ? とりあえずさっきの人に届け……っ!?」

落し物をティッシュで拭き確認しようと顔を近付けた瞬間、小さな機械音と共に何かが噴きだす。

「うぇ……」

油断していたため驚いて転びそうになるもしゃがんでギリギリ耐えた。
不意打ちだったためいくらか吸い込んでしまったけれど、身体に害はないものだろうか。少し甘ったるいような、でも決していい香りとは言えないそれは鼻にも口にも入ってしまい気分が悪い。
うがいしたい。もう怖いし触るのやめとこう……でも警察には伝えておいた方がいいよね。
立ち上がろうとすれば目の前が霞み思わず壁に手をついた。心なしか力も入らないような気がする。
……え、もしかしてもこれ変な薬だったりしないよね。救急で見てくれるかな、それとも警察が先?

「……っんん!?」

来た道を戻ろうと踵を返す直前、後ろから布のようなもので口元を押さえられた。身体ごと押さえられ振りほどこうとしてもさっきの霧状のもののせいか力が入らない。なに、怖い、意味がわからない。どうして。通り魔? 死ぬの? もしかしてさっきの女の人もグル……添の元カノとかじゃないよね?

「こいつで間違いない」
「あぁ、画像と同じだが……こいつで合ってるんだろうな? 人違いだったらただの無駄足だぞ」
「合ってるよ、俺の懐からカードキー盗ってった時に二曲輪の顔もみた。マスクはしてたが間違いない。まさか意識があると思ってなかっただろうからな」

後ろから男性の話し声が聞こえる。なんとなく若そう、ということくらいしか予測できないし、何を話しているのかよくわからない。
にのくるわって誰、私そんな名前じゃないのに画像と同じってどういうこと? 完全に人違いじゃん。
品行方正とまでは行かないけど、悪行に手を染めたこともないし殺される程恨まれるようなことをした覚えもない。私に似た人のせいでこうなったってこと?
逃げたいけれどどうしたらいいかわからない。とりあえずすぐそこは大通りだし叫ぶことさえできればと、口元を押さえている指を思い切り噛んだ。

「ってぇ! なんて言うとでも思ったか」
「力入らないくせによくやるなぁ」

手袋なのか、硬くて寧ろ私の歯が痛い。なんで、神様仏様、なんなら閻魔大王でもいいからこの人たちなんとかしてよ。警察も路地裏まで見回りしてよ、どうして。

「薬も効いて暴れられないだろうしこのまま連れて行くか?」
「とりあえず声出せないように口に布詰め……っ」
「な、は!? お前っ」

会話が途切れたと思ったその直後、恐らく私を押さえ込んでいる人の恐怖ともとれる声が響く。誰か来たの? 今までと打って変わって動揺しているその人がぐるりと向きを変え、私もそれにつられて振り回される。

「あ、ごめ〜ん当たり所悪かったかな。倒れちゃったね」

するとそこにはいつもと違い黒が基調の服に身を包んだ添の姿があった。なんでここにいるのかはわからないが神様仏様の前に添様だった。

「んーっ」
「あらら〜なにしてくれてんの」
「テメェが二曲輪だな、時間はかかったが個人的に調べさせてもらった」
「へぇ〜すごいじゃん。てかお前誰だっけ」
「っざけんな! カードキーはどこにやった。……こいつお前が目をかけてるやつだろ?」
「さあ? どうだったっけ」
「ふん、しらばっくれるのか」
「んん!?」

どこから出したのか男は小さいナイフを握りこちらに向ける。
脅しのおもちゃ……じゃないよね。おもちゃであってほしいけどここまできてそんなことないよね。無理無理無理! 死にたくないって、添助けてよってか助けられるのか。ダンスはできても格闘とかは別物だよね。ああもうわけがわからないし怖いし泣きたくなってきた。
添へ視線を向けるも、マスク越しだとどんな表情をしているのかも何を考えているかもわからない。
微動だにしない彼に苛立ちを覚えたのか、男は私のスカートをナイフで破った。

「これ、偽物じゃないことくらいお前ならわかってるよな」

そう言って腿にナイフの先を突きつけられた。
え、なにもしかして次刺される? 添はなんで黙ってるの。大声上げて助け呼んでよ、まだ死にたくないよ。

「ちょ〜っと大人しくしてて」

添がそう口にした瞬間、布のようなものが飛んできて視界が遮られる。それは私を押さえこんでいた男も同じで、何かを叫びながら飛んできたものを払うためにもがいているようだ。焦っているのか私を抱え込んでいる腕に一層力が入り首元が締められる。抜け出したいのにまだ力が入らない。もうむり、苦しい。

「う……っ!」

そう思った直後、呻き声と共に男の腕が緩み支えるものがなくなった身体は前に倒れる。……が、即座に抱きとめられた。その衝撃で口に詰められていた布も外れようやく息が吸い込める。私を支えるその腕に、よく知っている香りに既に泣きそうだ。

「ちなみに、オレじゃなくて依頼主を恨むべきじゃない? ねぇ」
「……彼女に被害がいかないようこちらで処理しておく。行け」
「言われなくとも。じゃ、上乗せもよろしくお願いしま〜す。……立てそ?」

添は私に被せられていた布を剥ぎ、そう尋ねるも手足に上手く力が入れられない。小さく首を横に振ると「だよね」と少し眉を下げて笑った。暗いしマスクをしているため、どう思っているのかは相変わらず読み取れない。
それにもう一人の男の人は誰なのだろう。なんで添がここにいるのか、彼に向かって二曲輪と男が言っていたことや、依頼主とか処理とか不穏な言葉が出てくるのは一体なんのことなのか。……聞きたいことは山ほどあるけれど、今は少しでも早くこの現実味のない状況から抜け出したくて口には出さなかった。

「おんぶしよっか、お姫様抱っこでもい〜よ」

お姫様抱っこで街中歩くなんて恥ずかしい絶対に嫌だ。「おんぶ」と一言呟けば「了解」と言って、安心させるためかさらりと私の髪を梳いた。

「あ〜そういえばスカート破れてんね。これ腰に巻こうか」

先程まで私が被っていたものはどうやら添の上着だったらしい。

「あとこれも飲ませておけ。何もせずとも治るが、早い方がいいだろう」
「……もらっときますね」

添は私をおんぶし、無表情な男の人から何かを受け取るとその場から歩き出した。
路地裏から一歩外に出れば今までのことが嘘のように思える。……けれど力の入らないこの身体がそうではないと物語っていた。

「じゃ、家までいこっか」
「……てん」
「ん?」
「ホテルでも、なんなら漫喫でもいいよ。少しすれば治るんでしょ」
「流石にこの状態じゃ入りにくくない?」
「確かに……でも重いでしょ。公園のベンチでもいいし」
「え〜オレそんなか弱く見える?」

「見える」と言えば「酷いなぁ」なんて笑っていた。体重も気になるが、人目も気になり恥ずかしいという気持ちも少しある。

「恥ずかしいなら目つむってたら」
「……うん」

私の考えを見通しているかのように添はそう口にした。そういうところなんだよなぁと思いながら小さく返事をし、お言葉に甘えてそっと目を閉じた。
……視界を遮った中で添の背中にぴったりとくっつきゆらゆらと揺られるのは存外心地の良いものだった。



「鍵、ある?」
「カバンの中」
「ちょっと漁るよ」

添は手際よく私のカバンから鍵を探し、鍵穴に差し込む。少し重い扉を開ければ見慣れた玄関が視界に入り安堵した。
何度もここに足を運んでいる彼は器用に私の靴を脱がし迷いなくリビングへと向かう。

「ちょっと待ってて、寝室入ってもいい?」
「いいよ」

私をソファーへと寝かせ、添は寝室へと消えた。
残された私はと言えばどれくらい身体が動くのか試してみようと手足を動かす。感覚はあるし、なんとなく動きはするけれど立てるほどの力も入らないしポケットに入っているスマホも取り出せない。
うーん……てのひらに力が入らなくて握力が根こそぎなくなった気分だ。

「布団、寝かせられるようにしたけど。とりあえずこれ飲める?」

ポケットから取り出したのは恐らく先程男性から受け取っていたものだ。三センチばかりの透明な容器になにかの液体が入っている。
飲めるかと言われてもラベルもなにもついてないし怖いんだけど。
それが表情に出ていたのか添は「今の症状早めに治すくすりだよ」と付け加えた。
薬かぁ……嫌だな飲みたくないな。

「でも手に力入らないから飲めないし……少し休めば治るんでしょ?」
「まあでも飲むに越したことはないし」
「……薬いやだ」
「子供なの? 仕方ないな〜」

添がおもむろに容器のフタを外すのを見て、強制的に流し込む気かと口を固く引き結ぶ。しかしそれを私の口元へ持ってくることはなく、空いている片方の手で私の頬を挟んだ。
……なに、どういう状況? なんて頭の中にはてなを浮かべているも添は無言のままだ。
そして彼の顔が静かに近付き柔らかく触れたかと思うと、彼の舌が唇を開けてとでもいうように小さくつつく。
そうやって油断した隙に薬を流し込む気だろ。ほだされないぞと私は頑なに口を開かない。
それを察したのか添は唇を離して「へぇ?」と呟き私の首筋に顔を埋める。なんだか嫌な予感がして身を捩ろうとするも上手くいかず、そこに這う生温かい感触に思わず声が出た。そこが弱いと知ってだ。
「弱いね〜」とそう呟いた彼は唇を押し付け隙間から舌を侵入させる。丁寧に愛撫するように咥内を侵され、溶けるような口付けに思考まで絡めとられた。息をするのも忘れてしまうくらいには。

「……ッはぁ、てん、」

唇が離れ新しい空気を取り込むように肩を上下させた。
そしてつむっていた目を開ければまたすぐに唇が塞がれる。身を委ねるように目を閉じかけた瞬間、違和感が咥内に広がり思わず目を開けた。

「〜〜〜〜〜っ!!」

驚いてごくりと喉を通してしまったそれはあまりにも苦かった。そのせいで先程の甘ったるい雰囲気が全て吹き飛んでしまうほどには。信じられないという眼差しを向ければ「どう? 口移しは」なんて口端を上げている。

「み、みず……」
「はいはい」

添はペットボトルの水をひとくち分口に含むとそのまま唇を重ねた。口移しで飲むなんて初めてだから上手くできず、いくらか口端から漏れてしまう。

「……な〜んかエッチなんだよね」
「何言ってんの……」

頬を伝った水をぺろりと舐められそのままついばむように口付ける。
……なんかいつも以上に添が優しいし甘い。先程のことが関係あるのだろうか。

「多分二、三時間休めば治ると思うからとりあえず寝よっか」
「うん」
「あ、その前に汚れてる服だけ着替えさせていい?」
「自分で……は無理か」
「もう見るもん見てるし大丈夫でしょ」

添のあけすけな物言いに「そういうことじゃない」とつっこむ。しかし現状彼に着替えさせてもらう他ないので最低限汚れている服だけ替えてもらうことにした。
上着は汚れていたが中に来ていた服は無事だったため、上半身は上着を脱ぐことで簡単に解決した。……が、問題は下半身。スカートは破けストッキングも汚れているのでこちらはどうしても部屋着に履き替えなければならない。

「スカートはもう破っていい? ここまで破れてたら着れないでしょ」
「あ、うんいいよ。……でもちょっと、目のやり場に困るっていうか恥ずかしいから目つむってていいですか」
「ど〜ぞ」

布を切る音が聞こえ、お腹周りを覆っているものがなくなり手際よくスカートが開きにされたようだ。……ただ、なによりもここからが恥ずかしい。
ストッキングのウエスト部分に彼の指がかけられ、破らないように気を遣い丁寧に脱がせてくれているのがわかる。目をつむって視覚が遮られているからか肌に触れる彼の手の感覚が一層感じ取れてしまう。撫でるようにストッキングを脱がすその手がこそばゆくて変な気分になりそうだ。

「かわい〜下着履いてんね」
「見ないで……」
「不可抗力で〜す」

優しい手つきでするりと脱がし終わっても添は何故か無言のまま。なんでスウェットを履かせてくれないんだろう、なんて思いながらそっと目を開けるとこちらを向いた彼と視線がぶつかった。

「……えろい気分になってくるね。次するときまた脱がせてよ」
「なっ、何言ってんの……」
「いやぁ〜つい」

なんて口にしながらテキパキとスウェットと履かせてくれた。なんつーことを考えていたんだ添は。
着替え終わったらいわゆるお姫様抱っこで寝室まで連れていかれ、整えてくれたベッドへと寝かされた。電気を常夜灯に切り換えそのまま帰るのかと思いきや添も布団へと潜り込んでくる。

「帰るんだと思ってた」
「え〜オレそんな薄情に見える?」

……絶対に見えないと言ったら嘘になる。あれだけ女の子の恨みを買っているんだから薄情じゃないわけがない。けどなんて言ったらいいのか……別にそこまで薄情だとは思ってないし、優しいなと思うことも少なくない。考えがまとまらず言いあぐねていると私の返事を待つより先に彼は「ひど〜い」と笑っていた。
さりげなく頭の下に回された彼の腕枕に安心感を覚え瞼が落ちそうになる。でもまだ言いたいことを伝えられてないからせめて落ちる前にそれだけは。

「てん」
「ん?」
「ありがとね、助けてくれて。何から何まで」
「……別に。意図せず巻き込んだのこっちだし。ところでさ、なんも聞かないの」
「逆に聞いていいの?」
「まぁ、言えないことの方が多いけど」

いつもの愛想がいい彼の表情ではなく、ほんの少しこわばったような表情でそう口にした。
そりゃあよくわからない薬吸い込んだし、殺されるかと思ったし、聞きたいことは山ほどある。でもきっと聞いたところで私に何かできるわけでもないし、危害を加えないようにするって薬をくれた男の人も言ってたから首をつっこまないほうが多分身のためだ。流石にまだ死にたくない。

「じゃあいっこだけ教えて」
「答えられたら」
「にのくるわって、てんのこと?」
「……そう」
「そっかぁ。叢雲添じゃなくて、にのくるわてんなんだ。どう書くの?」
「数字の二に曲がるに輪っかの輪」
「叢雲も珍しいとおもってたけど、二曲輪も絶対ハンコそこらへんにないね」
「そこ?」
「珍しい名字だとつい。……教えてくれてありがとう」
「これ、他にしゃべんないでくれる」

添は表情を無にした顔でそう口にした。決していつものように軽い口調ではない。私はそれに対してできるだけ柔らかく「もちろん」と答えた。誰にだって絶対知られたくないことのひとつやふたつはあるだろうし、私だって同じだ。
それに不謹慎かもしれないけれど、これは本当に特別に感じられてい教えてくれただけでも嬉しい。そしてそれを易々と他の人に言うつもりもない。彼の雰囲気から察するに言われて困ることでもあるだろうから。
思いもよらず秘密を共有することができたし、お礼も言えて少し気が抜けた。
低くて落ち着いている添の声と身体を包む温もりに意識が溶けていく。

「あとは?」
「んー……てん、かっこよかったぁ……」
「……はいはいど〜も。って、もう寝そうじゃん」
「うーん、てんの声がASMR……」
「なにそれ」

わけのわからないことばかりだったけれど、今はこうして添の腕の中にいて安心感がある。「おやすみ」という声と少しばかり力が入った彼の腕に身を委ね、既に朦朧としていた意識を手放し夢へと微睡んだ。



てんの裏事情に知らず知らずのうちに巻き込まれる。
※添の区長ストのネタバレ含みます。