「一緒に居酒屋来ると思い出すわ」
「え、なに」
「元彼に一発食らわせたことー」
「人聞きの悪い! 手も足も出てないでしょ、普段あんな感じじゃないし」
「でもほんまにああいうとき啖呵切れるのかっこええと思うよ」
「あれもう振り切っちゃってたんだよ……恥ずかしいから忘れて……」
それはもう、あの日の私は酷いもので。
残業して疲れてるなら真っ直ぐ帰ればよかった。いい匂いにつられてうっかり居酒屋になんか入らなければよかった。そんなことを思っても今更時間は巻き戻せない。
……でも結局後々ダメージを負うのなら、あの居酒屋にふらりと立ち寄ったのは間違いではなかったのかもとそう思った。
*
帰る前にお手洗いに行っておこう。そう思って席を立ち少し歩いたところに、良く知っている人が座っていて思わず足を止めた。……いや、止めざるを得なかった。
『なんでここに……』
「いや、こっちのセリフなんだけど」
『……はぁ、めんどくさ』
彼氏であるはずの目の前の男は私の顔を見るなりそう口にする。その向かい側には可愛いというよりも綺麗という言葉が似合う女性が座っていて。この状況から嫌でも察しがついてしまった。
女性はそのすらりとした指を折り曲げ頬杖をついている。そして私と彼の会話のあとにゆっくりとこちらへ視線を向け、ふっと息をもらした。
『あ、もしかしてこの人? 勘違いしてる人って』
『まあ。……見ればわかるでしょ、お前とはもう会えないから』
「は?」
なんの前触れもなく、急にもう会えない? 勘違いってなに。付き合ってもないのに彼女だと勘違いしている女だと、この人にはそう伝えたのだろうか。……だとしたら、それはあまりにも心外だ。
彼とちゃんと話がしたくて声をかけても目を逸らしたままこちらを見てくれない。……何も話すことなくこのまま別れるってこと? 仮にも彼氏だと思っていた、お互いに好きなんだと思っていた人だ。どちらが先に付き合っていたかなんてわからないけれど、それでも話さないまま別れるのは腑に落ちない。……でも、口をきいてくれない以上どうしたらいいのだろう。
お互い黙ったまま途方に暮れていると、突然服から冷たいものが滴り思わず「つめたっ」と声が出た。
『ごめんね? 手滑っちゃった。……すみませーん、お酒こぼしちゃって』
わざとらしくグラスを倒し、それを指差しながら彼女が申し訳なさそうに近くの店員さんへと声をかける。そして私の状態を見るやいなや「ただいまお拭きするものを持ってきます」と慌ててお店の奥へと消えていった。そこまで大きく濡れたわけではないけれど、服の裾からスカートや足を伝い床へと落ちるお酒が今のこの状況を余計惨めにさせる。
『ごめんね? わざとじゃないから』
絶対わざとでしょ、そう思ったけれどあまりにも今の自分が恥ずかしくて何も言い返せない。一刻も早く目の前から消えろということなのだろうと汚れた服を握りしめる。
周りの人はきっと自分が思っているより私のことを気にしてないはず。……そうわかっていても視線が気になり、足が床に張り付いて動くことができない。どうしよう。こんなところで泣きたくはないのに。
「あれー久しぶりやなあ。ってどうしたん? 結構濡れとるね、これで少しは隠せるかな」
肩へとかけられた大きい上着に驚いて振り向けば、おっとりとした関西弁で話す男の人が立っていた。久しぶりだなんて言われる覚えもなく。戸惑いからもれた「え」という声は、ちょうどよく戻って来た店員さんによってかき消された。
『すみませんお待たせしました、こちら使ってください』
「お借りしますー」
見知らぬ彼は自然な流れで店員さんからタオルを受け取り「ちょっと失礼するわ」と口にしてその大きな身体を屈ませた。そして「可愛いスカートやからちゃんと落ちるとええなあ」なんて口にしながら優しい手つきで私のスカートをタオルでトントンと叩いてくれる。
突如現れた彼に驚いたのは私だけでなく、目の前の彼氏と女性も同じようで。その二人の表情を見て我に返った。
「え、あの、ごめ……」
謝りかけたところで関西弁の彼は目の前の二人に見えないように「しー」と口元に指を当てる。……喋らないでということなのだろうか。私は途中まで出た言葉を飲み込み、視線が泳がないよう目の前の彼へと視線をおとした。
見知らぬ男性がこの場に来てくれただけでも助かるのに、私の服を丁寧にタオルで拭いてくれていて。今はその優しさに涙腺が刺激される。
「店員さん、タオルありがとう」
『いえ』
泣きたいのをぐっと堪え、目の前の彼がつくってくれた時間で少し落ち着くことができた。
先ほどまで惨めで、恥ずかしくて、顔も上げることができなかったのに。どこからともなく現れた彼のおかげで床に張り付いていた足を動かすことができそうだ。
彼女と浮気していたのか、私のほうが浮気相手だったのかはわからない。……でもどっちが本命かなんて火を見るよりも明らかだ。
初対面の女性からお酒をかけられ、彼氏であったはずの人は「やめろ」の一言も言ってくれない。更には一方的に「もう会えない」なんていう始末。もちろんショックは大きかったけれど……そこまでして縋らなければならない人ではない。寧ろこちらから願い下げだ。
「ほな汚れてしもたし、洗わなあかんね」
そう言って屈んでいた彼が立ち上がると見上げるほどの身長で驚いた。先ほども見ていたはずなのに……それほど余裕がなかったのだろう。
そんな私をよそに彼は「はい、どうぞ」とごく自然に手を差し出し目を細めて笑う。
……窮地に立たされた今、全く知らない目の前のこの人がヒーローのように感じた。私は迷いなく手を重ねると、彼は「行こか」と出口へ向かって歩き出した。
「……待って」と呟けば関西弁の彼はぴたりと足を止めて振り向き、私がとる行動を待ってくれているようだ。それに甘えて手を繋いだまま、もう彼氏とも言えない男の方へ視線を移し最後の挨拶を告げる。
「……さようなら。二股野郎、あ、三股だったかな」
『……なに、ちょっとどういうこと!?』
『はぁ!? んなわけ……』
まさかそんな風に言い返されるとは思っていなかったのか、わかりやすく顔が引きつった。
三股っていうのは腹が立ったからただのはったりのつもりだったけれど、あの様子からあながち間違いではないのかもしれない。因果応報だ、ざまあみろ。
問い詰める女性の声が聞こえてきたが、素知らぬ顔でこの場を後にした。
*
「本当に、ありがとうございました」
「ええよーなんか大変そうやったねぇ」
こちらの気が抜けるような柔らかい声で関西弁の彼はそう口にした。
会計を済ませ、お店から少し離れたところまで知り合いの振りを続けてくれて。通りすがりにあった公園でお礼を伝えているところだ。
「あの、巻き込んでしまう形になってすみません……」
「気にせんで、巻き込んでというより巻き込まれに行った方が正しいと思うわー」
「でも誰かと一緒に来てたんじゃないんですか? だとしたら申し訳なくて」
「いーや、俺も今日一人で来とったから気にせんでええよ」
彼は何も気にしていないとでも言うようにあははと軽く笑った。
会計をしている時、彼がどこかを見ていた気がしていたけれど……気のせいだったのだろうか。てっきり誰かと一緒に来ているものだと思っていたので、それを聞いて少し安心した。
「そういえば、上着すみません。汚れてないといいんですけど」
「汚れとっても洗濯すれば落ちるから。ところでお姉さんの……なんか呼びにくいから、名前教えてもらってもええかな」
「あ、ごめんなさい」
自分の名前を告げるとかわええなぁ、と笑って彼も自己紹介をしてくれた。
「俺は樋宮明星言いますー」
「樋宮さん、改めてありがとうございました。多分ひとりだったらあんな風に返せてなかったと思います」
「あっは、最後よう言うたなーかっこええなあって思うとったよ。あれはったりなん?」
「はったりのつもりだったんですけど……そうでもなさそうでしたね。なんだかいろんな面で恥ずかしい限りです」
改めて思い出すと恥ずかしさと申し訳なさが先に立つ。頭に手を添え誤魔化すように笑ったけれど、それを目の前の樋宮さんは揶揄おうとはしなかった。
「恥ずかしないやん。なんも悪いことしてへんのやから、寧ろ清々しいくらいやったわぁ」
「あ、はは、そうかもしれませんね。そう思うことにします。あのこのお礼は……」
「お礼? そんなんええよ、勝手にやったことやし。ところで家はこの近くなん?」
汚れた服へと視線を落とし、樋宮さんはふとしたようにそう呟いた。お礼のことから気を逸らそうとしてくれたのだろうか。なんだか重ね重ね申し訳なくなる。
「えっと、歩くのは流石に遠いので電車で帰ります。タクシーだと結構かかっちゃうし」
「でもその服だと気にならん?」
「まあ……でももうお店も殆ど閉まってるし、仕方ないです」
私の答えを聞き、樋宮さんは指先を顎に添え何かを考えるような声をもらした。そして「今日はまだ時間ある?」という彼の問いに頷くと、なにやらスマホを取り出し背を向け少し離れていく。何をするのかとじっと見つめていると電話をかけはじめた。
時間にして五分ほどだっただろうか。電話が終わり樋宮さんはすぐこちらに戻って来た。
「俺の職場ここからすぐなんやけど、足とかだけでも洗い流したらどうかな思うて」
「え、いやそんな、これ以上ご迷惑をおかけするには……」
「今ちゃーんと許可も取ったし、女の人もおるから安心してええよ」
「でも……」
「べったべたなままやと気持ち悪いやろし、な?」
確かに、足を伝って靴まで入ったお酒は甘いものだったのかベタベタとしていて気持ちが悪い。洗わせてもらえるのであればありがたいことこの上ないけれど、迷惑ではないだろうかという気持ちが残る。かといって許可をとってもらったのに行かないというのも……それはそれで失礼な気がしてならない。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
悩んだ末にそう答えると、彼は「じゃあ行こか」と笑って私の手を引いた。
*
彼の後をついて行けば、友達と気になるねなんて話していたAporiaというカフェに辿り着いた。……カフェだけだと思っていたけれど、明かりが点いているところを見るに夜も営業しているようだ。
「ここ、俺の職場。で、こっち」
彼の職場だというカフェのそのすぐ近くにあるマンションへと足を運ぶと、入口付近に女性の方が立っていた。
「衣都さんほんまにありがとう、この子案内したってくれる?」
「私は弥代と言います。樋宮さんと同じ職場で働いていて……事情は聞いてますので、こちらへ」
「え、あの……?」
「ここ、知り合いの人が管理しとるマンスリーマンション。怪しい場所やないから安心してな」
いかにも高級そうなこの場所を彼氏に振られて酒をかけられた人間が使ってもいいだなんて。……あまりにも自分に不相応すぎて、あの場で断っておけばよかったと少し後悔した。
「入口から入ってすぐなので、どうぞ」
「な、なんか突然すみません……本当に」
樋宮さんが先程口にしていた女の人とは衣都さんと呼ばれたこの女性の方だろう。背筋がピンと伸びていて、かっこいい美人な方という印象を受けた。
私の名前を呼ぶ彼女の後をついていけば、普通に過ごしていたら縁がないであろうその立派なマンションの一室へと案内される。
「ここが浴室になります。こちらにあるのものは全て使っていいとおっしゃってました」
「なんか……足洗うだけなのにこんな大袈裟になってすみません」
「いえ。詳しい事情はわかりませんが、気にしないでくださいね」
「あ、りがとうございます」
今日は人の優しさに触れすぎて涙腺が爆発してしまいそうだ。こんな美人な方にも優しい言葉をかけてもらって、自分のために時間を割いてもらって……頭が上がらない。
「あとカフェの制服で申し訳ないのですが、もし良かったら帰る時につかってください。スカートもここまで汚れてしまうと気になると思うので」
そう言って衣都さんが差し出してくれたのはシンプルなパンツだった。
「……え!? いや流石にそこまでしていただくわけには……仕事で着用するものですし」
「許可はもらってるので大丈夫です」
「あーよかった間に合うた。ストッキング、これでええ? ようわからんくて店員さんに教えてもらったから遅なってん」
樋宮さんは衣都さんによろしくと言った後いつの間にか姿を消していて。戻って来たと思ったらその手には新しいストッキングが入った袋がぶら下がっていた。
ちらりと衣都さんが袋を覗いて確認し「大丈夫だと思います」と口にする。
「これ、替えに使うて」
「え、でも」
「いらない言われても俺は履けへんし」
「じゃあお金を……」
慌てて鞄から財布を取り出そうとすれば「これくらいいらんてー」と私の手を押さえ、その手に買い物袋を握らされる。
月並みな言葉しか出てこないけど、このお二人の心配りができすぎてて。……すごくモテるんだろうなと、空気の読めない考えが頭をよぎった。
「内側から鍵もかけられますので、貴重品など持ってってくださいね。私たちはここで待ってますので」
「な、何から何まですみません。では……失礼して」
脱衣所へ入り内鍵をかけ、できるだけ部屋を汚さないよう衣服を脱ぎストッキングが入っていたビニール袋へと入れた。
そしていそいそと浴室へ入り、初めて見るいい香りのするボディソープを泡立てベタベタしていた足を洗う。なんか……すごくいい香りがする。こうなるとここにある全てが高級品に見えてきて、自分の置かれている状況を考えると非常にいたたまれない。
「……急いで出よう」
借りたものを身に着けると、服の裾の汚れは着替える前に比べたらそれほど目立たない。これなら人目を気にせず電車で帰れそうだと、安堵した瞬間に視界が歪み思わずそれをタオルで受け止めた。
元彼のせいなのか、ずっと気を張っていたからなのか、人に優しくされ過ぎたからなのか。はっきりとした理由はわからないけれど、今までギリギリのところで堪えていたのか溢れるように出てくる。
泣くのを止めたいのにコントロールがきかない。でも擦ったら赤くなってしまうのでタオルを目元へと押し付け止まるのを待った。
「すみません、お待たせしました……」
「わっ、どしたん。目パンパンやけど」
「今は眼鏡をされてるので帰るだけならそこまで目立ちませんが……さっきまではコンタクトだったんですか?」
「そうです。普段は眼鏡だから鞄に入れてて……よかったです、へへ」
「大丈夫なん?」
擦っていないのにも関わらず、一目見ただけで大泣きしたとわかるくらい瞼はパンパンになってしまっていた。これは心配させてしまうと、コンタクトを外し眼鏡に切り替え脱衣所を出たのにすぐにばれてしまう。
「心配かけてすみません、着替え終わったら止まらなくなって。沢山助けてもらって安心したからかも」
だから、ありがとうございますとお礼と共に深々と頭を下げた。
これだけのことをしてもらって今何も返すことができないのが心苦しい。服の返却も理由のひとつだが、後日改めてお礼をしたいと思い二人に連絡先の交換をお願いするとすんなりと受け入れてくれた。お礼に関しては断られたけれど。
荷物をまとめて衣都さんを職場まで見送り、改めてお礼を伝えると「とんでもないです」と控えめに笑っていた。
樋宮さんは自分も電車に乗るから一緒に駅まで行こうと言ってくれ、ついでであればとその言葉に甘えることにした。
駅までの道を並んで歩くと居酒屋を出た時よりも人が増えたように感じる。日付をまたぐまでまだ時間があるのに、既に道路脇に座り込みうつらうつらしているお父さんや、頬を染めて「次どこ行くー」なんて盛り上がってる若い女の子たちもいた。
「せや、これ羽織っといて。俺の上着おっきいからもっと汚れが目立ちにくくなるやろし」
「や、でも、さすがにこれ以上は申し訳なく……」
「申し訳ないって思わんでええよ。頼まれたわけじゃないし、さっきも言うたけどこっちが勝手にやっとることやから」
「じゃあ……お言葉に甘えて」
今日は会ってない人も含め、初対面の人たちに何度甘えているんだろうと思いながら樋宮さんの上着を羽織った。自分と三十センチほどの身長差がありそうな彼の服はかなり大きくて、汚れたトップスをゆったりとしたシルエットで隠してくれる。
「これなら全然汚れ見えへんな」
「……はい、本当にありがとうございます」
「あはは、ずっと謝るかお礼言ってるかやね」
「だって……」
「俺も衣都さんも別に迷惑やと思うてないから。目の前に服濡れて困ってる人おったら助けようとするやろ? それとおんなじ」
なんて、樋宮さんは長い足の歩幅を私に合わせ、さも当然だとでもいうようにそう口にした。「まあ、お礼は言われて悪い気せえへんけど」と笑って付け加えたのは気を遣ってのことだろう。
また喉まで出かけた、すみませんを飲み込んで「あはは」と誤魔化すように視線を逸らした。気を抜くとその優しさにまた泣いてしまいそうだったから。
「あ、意外と近かったんですね駅」
「残念、もう少しお話したかってんけど……」
『おい!』
突然後ろから浴びせられた大きな声に驚いてびくりと身体を震わせる。知っている声に釣られ振り返ると、樋宮さんも同時に後ろへ視線を向けた。
『たまたまみかけたと思ったら……その服、隣の男のだろ。さっき俺にはあんな風に言っといて、お前だってそいつと浮気してたんじゃねーの』
そこには既に元のついた彼が怒りをにじませた表情で立っていた。その上あろうことか自分のことを棚に上げお前も浮気していたんだろと私へ罵声を浴びせる。今にも掴みかかってきそうな勢いだ。
ちらりと樋宮さんを見上げ、これ以上の迷惑はさすがにかけられないと一歩前にでる。
「ここまで来て言うことがそれなの? 悪いけど、この人には助けてもらっただけだから。今日が初対面だし何も関係ない」
『どこまで本当なんだか』
「何又もかけてた人に言われたくない、みんなにバレて一人になれば。本当に最低」
『んだとお前みたいなブサイク……っ』
振り上げられた手に動くことができず目を瞑ると、すぐ後ろへと腕を引かれた。驚いて目を開けば、樋宮さんの懐に抱え込まれ元彼から守るように背中を盾にしてくれている。思わぬことに心臓が跳ね上がり、そっと振り向けば当の元彼は膝を地面についている状態で。その手を後ろで抑えているのは深いえんじ色の髪をした男性だった。
その人を確認したからか樋宮さんは私を離して「灯世さんやん、ありがとう助かったわ」とお礼の言葉を口にした。
「怪我はないか」
「え、あ、はい……あの」
「樋宮の連れに危害を加えるそぶりが見えたため阻止したが、問題はなかったか」
『んだよコイツ!』
「こちらで預かっても構わないが、知り合いか」
「うーん、警察呼ぼか?」
『はあ!? ふざけんな離せよ……ってぇな!』
その手から逃れようと元彼が暴れると、灯世さんと呼ばれたその人はさらに腕を締めあげる。それに対して尚も抵抗していたが、思ったように動けないのか大人しくなった。
『離せよ、こんな奴に興味なんてねーから』
「……私だって、自分の人を見る目のなさにがっかりしたよ」
きっと自由にしても元彼よりも大きな男性が二人もいれば何もできない。そう思い離しても大丈夫な旨を伝えれば、目の前の男性は「そうか」と口にし元彼を解放する。わざとらしく手を払い、私を憎悪のこもった視線で睨みつけると何か言う訳でもなくすぐこの場を後にした。
「……す、すみませんでした」
元彼の姿が見えなくなったからなのか、肩の力が抜ける。
改めて灯世さんにお礼を伝えれば、さも当然のことをしただけだというように「気にするな」と口にした。
「危険だと判断したから押さえただけだ」
「灯世さんは仕事帰りなん?」
「ああ」
「そっか、偶然とはいえほんまにありがとう」
「本当にすみません。ありがとうございました」
そう告げると灯世さんは小さく頷き街へと消えていった。その後ろ姿を見送り、もう一度周りを見渡す。再度元彼がいないことを確認し、ほっと一息ついた。
……さっきのことがあるから帰るまで油断はできないけど。
「……まだ不安そやし最寄り駅まで着いて行こか」
「え、いえ流石にそこまで迷惑は……」
「もうここまで来たら乗りかかった船やん。もう少し話してたいと思うたし、だめ?」
私の負担にならないような言葉を選び、小首をかしげてそう口にする樋宮さんに勝てるわけもなく。少し間をあけて「お願いします」と頭をさげれば子犬みたいに笑って私の手を引き最寄り駅まで付き添ってくれた。
*
「流石に最寄り駅までは現れんかったけどね、なかなかない体験させてもろたわ」
「あんなことぽこぽこあったら心臓いくらあっても足りないでしょ……」
なくなりかけた梅酒のグラスの氷がからりと音を立てた。
今となっては笑い話として消化できるけれど、当時はかなり感情が揺さぶられた出来事だった。
「でもねぇ、本当に救われたんだよあの時は」
なんだか少し恥ずかしくて、視線をグラスに落としたまま氷をくるくると回しそう口にする。
「……なんていうか、戦隊もののヒーローみたいな」
「えーそこは王子様でもええんちゃう?」
「あっはは、自分で王子様って。……まあでも、そうかもしれないね」
その見た目や助け方から王子様と言われてもなんら違和感はなく、むしろぴったりだ。
あのとき助けてもらったからこそ、浮気された上に捨てられた女というレッテルを貼られずに済んだことだし。さらにその後も樋宮くんがこまめに連絡をくれるものだからあまり元彼のことを引きずることもなかった。
まあそのせいでというか、そのお陰でというか……別れてからそう時間も経っていないのに別の感情が芽生えてしまったわけで。でも惚れやすいとか軽い女だなって思われたくないことからその気持ちはあれからずっと隠したままだ。
「で、王子様に助けられたんならその後の展開はひとつやんな?」
「え」
その言葉に驚いて樋宮くんを見ればぱちりと視線が絡む。心臓が跳ね上がり思わず目を逸らしてしまった。
その後の展開はひとつ、とは。王子様が出てくるのには大体お姫様が出てきて、そういうパターンのセオリーは決まっている。……決まっているけれど、樋宮くんが王子様だとして自分が姫の立場とかおこがましすぎる。いやそうじゃなくて。
さきほどの言葉が反芻して、顔に熱が集まるのがわかる。お酒のせいだと誤魔化せないほどに。
「あは、めっちゃ照れとる〜なに想像したん」
「だって樋宮くんが変なこと言うから」
「えー本気やけど。なんならキスでもしよか」
「なっ、なんで、飛躍しすぎだよ。さすがにそれは好きな人と……」
「俺は好きやけど。〇〇ちゃんも同じ気持ちや思ってたけど、違うん?」
からかった後にさらりと告白の言葉を紡ぎ樋宮くんは私の顔を覗き込んだ。その目は隠していた気持ちを見透かしているような気さえする。
態度に出さないようにしていたつもりだけど、彼に伝わってしまうくらいにはにじみ出ていたのだろうか。私が樋宮くんのことを好きだと、確信めいた言い方だったから。
樋宮くんと付き合うことができたら嬉しいことこの上ない。ただ冷静になるとどうしても彼と私とでは不釣り合いに思えてしまって、すぐに頷くことができなかった。
「……違うわけではない、けど。でも、樋宮くんが私を好きになる理由がわからないというか。あんな振られ方したのに」
「それ何か関係ある?」
「え?」
「俺はあの日元彼に言い返した○○ちゃん凛としてかっこええな思うたし、話すとかわええなとも思った。振られ方とか関係ない、むしろ元彼の見る目がなかったんやなとしか」
グラスに添えていた手が樋宮くんによって包み込むように握られ、じわりとまた熱を帯びる。
「好きだなって思わんかったら最初から線引きしとるし、こまめに連絡もせーへんよ」
「こんな短期間で心変わりして……軽い女だなとか、思わない?」
「ぜーんぜん。俺のこと好きになってくれたらええなあ思うてたし望んでたことやもん」
樋宮くんは目を細め、いたく優しい声色でそう口にした。
ほしい言葉をくれるし私のことを考えてくれて、元彼となんか比べる余地なんて全くないのに。嫌な記憶というのはこんなところでもしこりが残る。
「あんな元彼のあとやから、不安な気持ちもわかる。でもそんなん思い出せないくらい俺は甘やかしたるよ?」
「あはは…………そうかも」
そう言って彼の肩に寄りかかれば「えーなにどうしたん」なんて、少し声のトーンをあげて笑った。
「こんな風にされたら都合の良いようにとってしまうけどええの?」
「うん、もう樋宮くんいないとだめだぁっていうくらい甘やかしてほしいかも」
まだ知り合って一年ぽっちだけど、彼女になったらすごく大事にされるんだろうなって一緒にいるだけで伝わってきて。友人の立場からでも樋宮くんのその優しさに沢山触れてきた。
だからもう一度信じてみようではなく、自ずと彼を信頼しているという感覚の方が近いかもしれない。
彼は私の手を取りおもむろに口元へと近付けると、手のひらに柔らかいものがあたる。漫画の中でしか見たことのない光景だったけれど、それを認識するまでさほど時間はかからなかった。
「……っ、ちょっと、待っ」
「えーもう待たへんよ。俺しか見えん言うくらい甘やかしたるから覚悟しとってね」
樋宮くんは口付けした私の手のひらに頬を寄せ、柔らかく笑う。
もしかしたら私の思う覚悟と樋宮くんの考える覚悟には大きな差があるのかもしれないと、気が付いた時にはもう遅かった。