『別れよう』と伝えたら(研)

「ねぇ研磨、別れてほしいんだけど」
「……」

鳩が豆鉄砲を食ったようだという表現は、今の彼のためにあるのかもしれないとさえ思えた。研磨はその猫のような目を大きく見開いき、怪訝な目でこちらをじっと見つめている。

「なんか、ごめん」
「……きみは冗談でそんなこと言わないよね、どうして」

聞いたことのない声色にどきりとする。
どうして、ね。もちろんこんな重い話を冗談で口にできる心なんて持ち合わせていない。かと言って突拍子もなく口にしたわけでもなければ、これを撤回するつもりもなかった。……結構前から悩んでいたことだから。

学生の頃目立たないように過ごしてきた研磨は、今や彼の大好きなゲームで世界で名を馳せる人になった。それをずっと傍で応援していて、自分のことのように嬉しかった。
でもそれに伴い見たくない現実に直面することもあるわけで。私では到底手の届かないような有名な人が彼に言い寄るところを見たのは一度や二度ではない。
当然彼は当たり障りなく躱したり、あまりにも酷い時には不快感を露にしているときもあった。
……だけどその非凡な世界を何度も傍で見ていると、研磨が惹かれるような人がいつ現れてもおかしくないと思うことも少なくない。なんの特技もない自分が不安や嫉妬、劣等感なんてどうしようもない気持ちに振り回されてることに嫌気がさした。

「ねぇ、どうして」

珍しくやりかけのゲームを机に置いて詰め寄ってくる。彼のことだからあっさり「わかった」で終わると思っていたので言い訳をあまり考えてこなかった。こうなるのがわかっていたら、本心以外の理由を何かしら考えてきたのに。……そんなの今更だけど。

「えっと……」
「おれのこと嫌になった?」
「それはないけど……いや違う、そうかも」

研磨から嫌われる分にはもう仕方がないと思っている。好意を寄せている相手に自分の醜い胸の内を知られるよりはまだいい。それなのにまたとない言い訳のチャンスをみすみす逃すなんて、本当にばかだ。

「……そうかもなんて嘘でしょ。本当のこと言うまで絶対帰さないけど」

……怒ってる、今まで見たことがないくらいには静かにキレているように感じるけれど多分それだけじゃない。釈然としないような、そんな感情も垣間見える。
じりじりと近付く研磨の圧に耐え切れず、座ったまま後退るも背中には壁がありもう逃げ場がない。これは壁ドンというやつでしょうか、こんな風に体験はしたくはなかった。
頭の回転が早いわけでもない私が、こんな研磨を前にして新たな言い訳が思いつくわけがない。……もう正直に言う以外この状態から逃れる術はないのかもしれないと、深く呼吸し真っ直ぐ研磨の目を見た。

「私は研磨が思ってるよりもずっと面倒くさいし、性格悪いよ」
「何、急に」
「……それを前提に聞いて欲しい」
「まぁ……わかった」

腑に落ちないとでも言いたげな表情をしているが、一先ず聞いてはくれるようだ。
もうここからは誤魔化すこともできないため、今まで抱えていた不安や嫉妬、他の人への劣等感などの心情を全て吐露した。少しだけと思っていたものの、ずっと隠していた分途中で止めることができなかった。

「勝手に嫉妬したり劣等感もったりする自分が嫌だし、それを知られるのが怖かったから。だから……離れようって」
「そっか。言いたいこと、今ので全部?」

彼の問いに頷けば「ふぅん」と呟き小さく溜め息をついた。あからさまにそうやって態度に出されると流石に堪える。
……だから言いたくなかったのにと、目を逸らせばじわりと視界が揺れた。

「あのさ、逆に聞くけどおれがきみに好き以外なんの感情ももたないとでも思ってる?」
「どういうこと」
「おれだって嫉妬くらいするし、きみが仕事を辞めて目の届くところにいてくれたらいいのにとか思ってるよ」

驚いて顔を上げれば、研磨は零れた涙を指先で拭った。溜め息からの思わぬ発言に声も出ない。あの研磨が嫉妬という感情を持ち合わせているなんて、天地がひっくり返ってもないだろうと思っていたから。

「研磨がほんとに嫉妬なんてするの?」
「ちょっと、おれを何だと思ってるの。……きみと親し気にしてた職場の人、かっこいいこと知ってるよ」

研磨が呟いたその内容に少し驚いた。職場の人を紹介したこともなければ、ばったり行き会った記憶もない……はず。確かに社内でもかっこいいと言われている先輩は私の直属の上司だけど、一体どこで見たのだろう。

「会ったことあったっけ?」
「たまたま買い物出てる時に見かけたんだよね」
「でもあの人はただの職場の上司だから、別に嫉妬されることは全然……」
「それでも仕事ではきみの力になってくれるでしょ。おれは何の手助けもできないし」

目を逸らし少しムッとしながら研磨はそう口にする。だけどそれは職場での関わりというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。でも、なんだろう。研磨がそう思っているとは夢にも思わなくて、たまらなく嬉しいと感じる自分もいる。

「……なんか、研磨がそう思ってるって知らなかった」
「それはおれだって同じだよ。きみはかっこいい人に弱いから心配になる」
「いやいやそんなことないし、私が好きなのは研磨だけだよ」
「……そうだね。おれだって同業者だとか有名だとか関係ないし、誰でもいい訳じゃない」

"誰でもいい訳じゃない"そう言った彼の言葉にはっとする。私だって先輩はかっこいいし優しいけどそういう目では見てないしその対象にはならない。多分研磨は自分も同じだと言いたかったのかもしれないと、少し考えればわかることだ。……なんて浅はかだったのだろう。
そして今更ながら研磨の発言を思い返してはじわりと顔に熱が集まる。上司のこととか、目の届くところにいて欲しいとかなんて、そんなこと考えていたとは思ってもみなかった。

「おれはきみが好きだし、他の人となんて考えられない。それでも心配なら……そうだね、もうおれから逃げられないようにしてもいいけど」
「……待って、言い方がすごく物騒なんだけど。私明日の太陽拝めそう?」
「ちょっと、何失礼なこと考えてるの。……結婚しようかってこと」

真っ直ぐ視線を交わし研磨はさらりと口にした。あまりにも突然で、その言葉はいたく簡単なことだけれど彼の言葉を理解するまでに少し時間がかかった。

「ほんとに……」
「おれが冗談でこんなこと言うと思ってる?」
「いやそんなことな……嬉しくて……」

一度彼から離れようと思っていた私にその言葉はとても重くて、でもこれ以上幸せなことなんてあるのだろうかという程に嬉しかった。一度止まった涙はまたじわりと視界を歪ませる。私の乱れた前髪を寄せる彼の指先を合図に目を閉じれば、唇が重なった。

「つかまえた。もう逃がしてあげないから」
「研磨も……目移りしないでほしい」
「そんなの、当たり前でしょ」