その女の名は






 今まで過ごした人生の中で最も輝いていたと思うのは、いつですか? という質問をされたのならば、私はきっと卒業してきた小学校や中学校ではなくて、中学2年生まで在学していた『帝光』という中学の名前をあげてしまうのだろう。毎日が凄くきらきらしていて、いつだって次の日を迎えるのが楽しみだった その学校ーーー帝光中学ーーーの名前を。














「この学校、新設校なんですよね」



 少女ーーー苗字名前ーーーは、『男子バスケットボール部』という紙をテープで止めてぶら下げている机の前で立ち止まり、ふんわりと微笑んだ。一瞬、時が止まったのかと思った。相田リコは素直にそう思う。だって、そう。つい先程までは、そこに人なんていなかった。いや、これだけ大勢の人がいる状況なのだから『絶対』にそうであるという断言はできないけれど。そんな風に考えて「ええ、そうよ」と、口にしながら机に向けていた顔を上げたリコは目の前の人間を容姿を瞳に映して息を飲む。

 声を聞いた時。確かに、もしかしたら 可愛い女の子なんじゃあないだろうかと一度は考えた。けれど、ここまでとは想像もしていなかった。顔が整っているーーーなんていうレベルじゃあない。整いすぎている。相田リコという人間は普通の人間よりも遥かに多くの人間と触れ合う機会があった。父親の職業を考えれば、普通の人よりは多いだろうという事もすぐに納得してもらえるだろう。けれど、別にそれがイコールで容姿の良いひとを見たという事に直結するわけではないーーーわけではないけれど、人並みにファッション誌やドラマそして映画といったジャンルには触れてきた。それでも、はじめて見て、ここまで惹きつけられたことなんてーーー……



「実は少しだけ、バスケットボールには興味があるんです。入部をするかどうかはわかりませんが、今度お邪魔しても良いですか?」



 そして、この心地のいい声。
 同じ女だというのに見惚れてしまう。

 相田リコは、口元をだらしなく緩めた顔をなんとか保とうと両頬に手を当てた。



「あ、あの……」
「……あ、ああ、ごめんごめん! うちの部、マネージャーがいないから困ってたのよ。興味があるなら見学は大ッツ歓迎よ!!」



 ーーーというか、ぶっちゃけ部員の士気が爆上がりしそうだから入ってくれないかなあ。これだけの美少女が入ったら、あいつらも良いところ見せようとするだろうし……。

 邪な考えを飲み込んで、相田リコは名前の目の前に仮入部届けを差し出す。本当は見学だけならば、仮入部届けなんて出さなくても問題は全くないのだけれど、出来ればキープしておきたい。もう100% 自分の願望だけで差し出していた。けれど、苗字名前は こうみえて……いや、みたまんま押しに弱かった。リコの意味不明な説明に「なるほど」となにを理解したのかリコにもわからないけれど「そういう文化なんですね」といって入部届けに名前を記入してくれた。そうして、薄柿色の長い髪を垂らして、深く頭を下げて来た道を戻る名前を笑顔を見送った後、リコは思った。正直言って滅茶苦茶チョロかった、と。








 1年B組は初日だというのに、朝から物凄い盛り上がりをみせている。最初は物凄くコミュニケーション能力に長けた人間が集まっているのかとも考えたけれど、どうやらそういうわけでもないようだ。けれどそれは、そういう人間が全くいないという意味ではない。ただ、基本的には個人個人の騒ぎだった。だからこそ、余計に理解が出来ない。黒子テツヤは、そんな事を考えながら座席表を手に取って、自らの座席を確認する。

 『102153』。座席表示は学籍番号と共に記されている。はじめは、一番前かと肩を落とすが、どうやらそういうわけではなくて、逆に一番後ろの特等席だった。夏は少し日差しが強くて残念だという短所はあるものの、授業中、退屈な時にいつでも外の景色が見られるベストスポットである。入学早々運がいいなと用意された席に腰を下ろすと途端に教室がざわついて、その後、少し遅れてガラリと扉を開ける音が聞こえる。ああ、きっとその人が この教室を騒つかせている人なのだろう。それ程、興味はなかったものの、黒子はクラスの視線を辿る。そして、目を丸めた。それはそれは意表を突かれたのだ。それは、もう、本当に。だって彼女とは、もう会う事がないと思っていたのだから。



「…………苗字、さん」



 それは、誰も拾えない程、小さくて。頼り甲斐のない か細い声だった。けれど苗字名前は、その か細い声を辿って、黒子テツヤの姿を見つけた。

 黒子テツヤは帝光中学に在学していた。あまりにも酷い記憶に塗り潰された黒子テツヤの記憶の中にだって、宝物のような、大切な思い出は数え切れないくらい沢山あったーーーあったけれど、塗り潰された。それでも、黒子テツヤには忘れられない人間が確かにいた。彼女がいたのならばーーーと、思う人間がいた。それが、苗字名前だった。



「黒子くん……?」
「苗字さん、お久しぶりです」
「こちらこそ、お久しぶりです。でも、吃驚。私、黒子くんはバスケットボールの強豪校に進学したものだと思っていたから」
「ボクも苗字さんは進学校に進学したものだとばかり思っていたので、素直に意外です」
「新しい学校の方が気分いいかなって……」



 そうだ。彼女は、そういう人だった。
 黒子は、改めて名前な顔を見つめる。

 当時は桃井と比べると幼さがあり、どちらかと言えば可愛らしい方に分類されていただろう彼女は転校してから今日までの間に随分と大人びた雰囲気を纏うようになったらしい。美しくも可愛らしい顔。白い肌にスッと通った鼻。赤く潤った唇。そして、艶のある薄柿色の髪。当時は肩にかかるくらいの長さで、青峰大輝と共にいつも走り回っていたことから「女子っぽくなくて付き合いやすい」と言われていた名前だけれど、今一度顔を合わせれば、もう二度と青峰大輝等から そんな言葉が飛び出すことはないだろう。



「皆は元気?」



 名前が笑う。もしも、苗字名前という人間が卒業まで帝光中学に残ってくれていたら自分達はどうなっていただろう。黒子は、いつも考えてしまう。彼女がいたのならば、自分達の関係はここまで崩れたりはしなかったのではないだろうか。彼女は帝光中学時代、男子バスケットボール部のマネージャーではなかった。けれど、だからこそ、零せる愚痴があった。だからこそ、響く言葉が確かにあったのだ。

 名前は黒子テツヤの固く握られた拳を見つけて、言葉を失った。ーーーなにか、あったの?ーーーただ、それだけの言葉が出てこない。だって、どうしてそんな顔をするの。あんなに、皆、仲が良かったのに。



「ーーー黒子くん、バスケ部入るよね?」



 名前は、自分と黒子の時間がーーーいや、恐らくだけれど、それは黒子テツヤだけではなくて、帝光時代自分が仲良くしてもらっていた皆と自分の時間がズレているのかもしれないと感じる。

 だって、見た事がなかった。名前がマネージャーにならなかったのは、転校するということが事前に解っていたからだった。けれど、それでもマネージャーの皆と同じくらい仲良くしてもらっていたという自信が今日まで確かにあったし、色々な話や相談を聞いた記憶だってあった。でも、黒子テツヤという人間は、どんな時でも自分に弱いところや悲しそうなところを見せなかった。だからこそ、そういう場面を目の当たりにした名前は恐ろしくなった。



「続けますよ、バスケ。だからそんな悲しそうな顔はしないでください。すみません。キミのそういう顔・・・・・をボクは見たくありません」



 黒子テツヤのバスケットボールが苗字名前は好きだった。だって、格好いいじゃあないか。幻の六人目。パスコースをあんなに完璧によんで回す。それを仲間が信じて、取る。そういう景色を何回も見た。だから、本当はマネージャーだってやりたかった。試合に出ていた選手達をみて、名前は『仲間』に強烈に憧れたのだから。

 だからこそ、黒子テツヤの表情を見て、酷く恐ろしくなった。自分の憧れた人がバスケットボールを辞めてしまうのではないかと。けれど、彼は辞めないといった。名前は、それを聞いて心底安心したのだ。



「私、一人暮らしを始めたんだ」
「? そうですか」
「……私にも、バスケのルールわかるかな」
「苗字さんは彼らのバスケを近くで見ていたし、頭が良いので、二ヶ月もあれば それなりにわかると思いますけど」
「じゃあ今度は私もキミとバスケがしたい。私じゃあ頼りないかもしれないけれど……」



 どうかなと照れ臭そうに視線を泳がせる名前の言葉が一体どれほど黒子テツヤの心を前向きにするのかという事を目の前の少女は、きっと自分が話すまで今後一生知ることはないのだろうと口元を緩め、黒子は名前に手を差し出した。そうだ。そうだった。苗字名前という人間は、教室のど真ん中で こんな青春の1ページみたいな事をする事に誰よりも憧れていた。それを黒子は、ふと思い出した。

 親の仕事の関係とはいえ、学校を変えるという経験が人よりも少しだけ多く、友人がコロコロと変わるという環境が当たり前のようにやってくる彼女にとって『3年間』。環境が大きく変化することがないとわかっている3年間は、どれほど未知の世界だろう。少なくとも、黒子テツヤは部活動のようなチームワークを必要とする分野の話で、こんなにも暖かい笑顔を浮かべる彼女をはじめてみた。いつも、どこか寂しそうで。いつもいつかくる別れに備えて、出来るだけ自分が寂しくならないように自分達から線を引く彼女を近くで見てきたから。



「ーーー頼りにしています」









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Espoir