異国は暗く冷たい

 詳細は省くけれど、満州での計画はなにひとつうまくいかなかった。
 満州はひどく荒れていて、くたびれた商人が行き交い、帰る家を失った人が彷徨っていて、路地裏にはほつれた着物でまともに髪を結っていない娼婦が幾人もいた。わたしもその一員になってもおかしくなかったくらいで、このときのことは、あまり思い出したくない。

 日本に戻ったわたしは、今度は兄が所属していた第七師団を頼ろうと北海道を目指すことにした。第七師団には兄と親しくしていた人がいるに違いないし、その人が個人的に遺品を持っていたりするかも。遺骨も遺髪もなにもないのだと嘆いたら、何かしら協力してくれるかもしれない、と。
 けれどやっぱり、わたしの考えは楽観的すぎたらしい。
 第七師団の人は思いのほか偉そうで、そして何より現実主義だった。「忙しいんだ」と相手にすらされないことは当たり前で、兄の戦死とその彼の遺骨がないことを伝えても、「そんなやつは大勢いるんだから」「たった一人のために動く時間も金もないんだ」。要するに、我慢してくれということだ。それでも食い下がって、今日のように乱暴に扱われることも、何度かあった。
 わたしは兄が第七師団に所属していたことは知っていたけれど、細かい連隊は覚えていなかったから、本当に血縁者かを疑われて捕まりそうになったこともある。逃げながら死亡通告書を持ってこればよかったと思いついたけれど後の祭りだった。それから、「形見がないか調べてやる」と言ってくれる優しいひとに出会えたかと思ったら、見返りに金と身体を要求されてまた逃げ出して……。

 まもなくわたしは、何を頼むにも莫大な金――賄賂が必要であると気づかされる。人を動かすなら、一番に用意すべきは圧倒的な金だった。
 こんな身ひとつの旅ではそんなもの用意できやしない。それでも諦める気にはなれなくて、それはこれまで知り得なかった自分の生来の性分だったのか、旅の中で身に着けてしまった図太さだったのか、あるいはもう、何かしらの感覚が麻痺していたのか。
 ともかくわたしは、師団の本部がある旭川までは向かおうと誓っていたし、兄を知る人物に会えるまで旅を終えられないと意地にも似たなにかを抱いていた。



 鳥のさえずりと朝日の眩しさで目が覚めた。
 よく冷えた水で顔を洗って受付まで向かい、昨日と同じ不愛想な女性に礼を言うと、意外にも彼女は「あんた、これからどこに行くんだい」と煙草をふかせながら聞いてきた。

「旭川まで」

 短く答えると、「ふうん」と相槌を打った彼女は、

「それなら、茨戸には寄らないように遠回りしていきな」

 と忠告をした。

「あの辺りは最近物騒らしいからね。なんでも、ヤクザの抗争が起きそうだとか」

 
 



 そう気づくと同時に、知り得たこともある。
 莫大な金――賄賂があれば、どうやら組織は動いてくれるらしい。


 何を頼むにもとにかく莫大な金――賄賂が必要なのだとようやく理解して、それでもせめて旭川の司令部までは向かってやろうと茨戸を通りがかったとき、また事件があった。

「おいお前、家に来い」

 馬吉とかいう、ヤクザものに捕まったのだ。「家に来い」つまりは嫁に来いということらしいが、ちっとも嬉しくなくて、その馬面を張り倒してやりたいとすら思った。ただ、その手下から銃を突きつけられてはさすがに逃げられなかった。
 馬吉は酒を飲むと上機嫌になってよく喋った。その時に、刺青の話を聞いたのだ。

 馬吉の一派と対立している日泥一家は、謎の刺青を隠し持っている。それにはアイヌが隠した莫大な金塊の在処が記されている、と。

 莫大な金塊、という言葉に、全身の血が熱くなった。
 それはきっと、賄賂に十分な金になるはずだ。手に入れれば、第七師団の中で動いてくれるひとが見つかるに違いないと、そんな考えが浮かんだ。

 馬吉を酔わせて眠らせ、日泥の家に「馬吉というやつに捕まった、助けてほしい」と泣き真似とともに逃げ込んだ。家に入り込んで刺青の隠し場所を探ろうとしたのだけれど――、刺青を狙っていることはめざとい女親分に早々にバレた。
 それで、番屋に連れられ、ほとんど物置みたいになっている二階の柱に括りつけられたのだ。



 番屋の一階から光が差し込んでいる。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。まともな体勢でなかったからか、体の節々がひどく痛んだ。
 可能な限りで身をよじる。あいかわらず縄は解けそうにはない。
 こんなふうに身動きができないのは困るけれど、殺されなかっただけまだマシだったとも思う。日泥側は、馬吉と対立する中でわたしのことをなんらかの交渉に使えるとでも判断したんだろうか。それとも、さすがに小娘を殺すことには躊躇いがあったのだろうか。

 そのとき、不意に下の階から何かが壊されるような音がした。
 おかしい、と直感的に思った。日泥の家の人間なら、出入り口の鍵を開けて入ってくる。今の音はそんなのじゃなくて、まるで、侵入したみたいな――。

 それに、変な匂い……なにかが燃えるような焦げ臭い匂いもしている。
 ハッとした。
 まさか、火事……!?
 だとしたら、早くここから逃げないと。火あぶりなんてごめんだ。
 もしかしたら侵入者は日泥より危険な人物かもしれないけれど、もう、そんなことを考えている余裕はなかった。
 縄を力任せに引っ張って、体を動かせるだけ動かして、音を出す。とにかく、この縄を外してもらいたい。

「ンー! ンーー!」

 猿轡ごしに懸命に叫んでいたら、まもなく、ギシ、と階段をあがってくる足音が聞こえた。顔を向け、目を見開く。
 白いマントを羽織った男だった。背中には黒い布で包まれた長物。マントの中から覗くのは、深い藍色の軍服。まさか。

(第七師団……!?)

「……誰だ、お前」

 男の顎には手術の痕と思われる物騒な縫い痕があった。深淵のように真っ暗な瞳を向けた男が、低い声で聞いてくる。


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