散った桜は土の下
故郷ではもう桜が咲いている季節だというのに、北海道は冬に閉じ込められたのかと思うほどに寒い。そんな土地だから人も冷たいのだろうかと、わたしを乱暴に払いのけた軍人を見上げながら思ってしまった。
「何度も言わせるな。俺は忙しいんだ!」
叫ぶなりくるりと背を向けた彼の姿はあっというまに小さくなる。ため息をつき、裾の土埃を払って立ち上がると、「大丈夫?」と尻もちをついた拍子に落ちた風呂敷を拾ってくれる子どもがいた。
「ありがとう」
受け取りながら、「寒い土地だから人も冷たい」は暴論だったな、と反省する。
「これ、なあに?」
丸っこい目を瞬かせ、風呂敷を指差しながら子どもが尋ねてくる。
「三味線。得意なんだ、わたし」
答えながら取り出すわたしに、子どもが「へえ」と興味深そうな相槌をうったので、そのまま
そうしてその場を離れるのは、空が夕焼け色に移り変わりだしたころになる。
少し歩いてから古くて小さな宿を見つけたので、そこで一泊することにした。宿代や最低限の交通費は、いつも三味線のおかげで辛うじて稼げている。
不愛想な女性に案内された部屋は小さくて薄暗いけれど、野宿よりはずっといい。少し埃っぽい布団の上で横になり、風呂敷に包んだ三味線を抱き締めるようにして目を閉じた。
三味線は、家を出る時に持ってきた唯一の道具だ。これを抱きかかえていると、寂しさや心細さが少しだけ薄れる気がする。
息をするために薄く開けた唇から、「お兄ちゃん」と小さな言葉が零れた。
◇
小さいころから、五つ上の兄のことが大好きだった。
兄がどこに行くときも、よちよちてとてと後ろを着いて歩くわたしのことを彼は決して邪険にしなかったし、習い事の柔術道場にさえわたしを入れてくれた。母や父が「女の子なんだから」と困った顔をするたびに、兄は「女の子なんだから、自衛の術はあっていい」と庇って、柔術が得意になるわたしの頭をくしゃくしゃと撫でて褒めた。
「とはいえ、女性らしい習い事もしておいたほうがいい」
と兄が言うので、三味線を習うことにした。華道や茶道、琴と比べて、長唄や小唄が自由で楽しそうと思ったからだ。
三味線を披露するたび、兄はまた喜んだ。「こんないい唄を聞かせてもらったんだ、お金を払わなきゃな」なんて、こっそりお小遣いを渡してくれるほどに。
優しくて、武道が得意で、勉強もよくできて賢い、大好きな、兄。
その兄が、満州で亡くなった。
後に奉天会戦と呼ばれるようになるこの戦いは、日本の勝利で終わりながらも、一万を超える死者と五万を越える負傷者を生み出した。にも関わらず、日本は満州の土地を手に入れることができなかった。戦後の講和条約、いわゆるポーツマス条約で日本が獲得できたのは、旅順や大連の租借権、南満州鉄道の利権、南樺太の割譲、沿海州などの漁業権で、賠償金や土地そのものの獲得については政府の思惑通りに進まなかったのだ。
だから、兄の遺骨は、回収されなかった。
家に送られてきたのは、戦死を知らせる紙切れ一枚と、空っぽの白木の箱だけだった。
「わざわざ届けてくださってありがとうございます」と、家に訪れた部下の人に、母は深々と頭を下げていた。
「あの子も覚悟のうえで軍の道を選んだのだ。立派な戦死だ。誇らしく思う」と、父は涙ながらに語った。たしかに兄は、徴兵ではなくて、自らの意思で軍に入っていた。中学校を卒業して陸軍士官学校に入って、少尉になって、第七師団へ配属された。
けれども、わたしは納得できなかった。
満州の土地が日本のものにならないなら、何のために兄は死ななければならなかったの。兄は何と戦っていたの、戦わされていたの。
兄の骨は、遠い異国の土の下で冷たいままで、わたしたちにはそれを供養することさえ許されないというの。
せめて彼が身に着けていたなにか、形見のひとつでもあればよかったのに、それすらないなんて、あまりにも酷すぎる。
わたしのそんな感情を置いてけぼりにして、父と母は「二十歳ももう超えてるんだから」と縁談をまとめようとするし、もう、限界だった。
わたしは、兄を残して、未来には進めない。進みたくない。
そんなとき、広島の高等師範学校の生徒たちが、修学旅行で満州に渡ったと噂で聞いた。
そうか、と思った。
政府にも軍にもどうにもできないのなら、わたし自身がどうにかすればいいのだ。
満州に渡って、兄の遺骨を回収して、日本へ、この家へ、持って帰ってやる。
それでわたしは、置手紙ひとつを残して、三味線といくらかのお金だけを手に、家を飛び出した。
父と母は健康で持病もない。それにわたしが家を出ても、兄によく似て賢い、中学生の弟もいる。だから家のことは大丈夫だと言い聞かせて。
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