鳥居の向こう、椿神社へと続く道は淡く灯る提灯に彩られ、大勢の人で賑わっている。あちこちから響く楽しげな声が羨ましい。|小春《こはる》は、ぐるぐると巻いた白色のマフラーに顔を埋めながら、そっと息を吐いた。

(……カンちゃん、遅いなぁ……)

 カンちゃん――|草野官二《くさのかんじ》は、広い田んぼを挟んで向かいの家に住んでいる男の子だ。年は小春と同じで、尋常小学校の四年生。

 ――椿神社の祭り行こや。駅前の鳥居の近くにでっかいクスノキがあるやろ? そこに、五時集合な!

 学校から帰る間際、そう誘ってくれたのは官二だったというのに。「僕は日直終わらせたらすぐ行くけん!」と笑っていた彼が現れる気配は一向にない。
 小春は俯いた。足元には藪椿の真っ赤な花が落ちていて、手持ち無沙汰に下駄の先でくるくるといじってみる。
 せっかく着物も着替えたんよ。髪もかわいくしてもろたんよ。早よ来てや。と、念じながら。

 待ち合わせ場所からは鳥居の横に立つ石碑が見え、雨風に晒されて少し掠れた文字で「伊豫豆比古命神社」と刻まれている。びっしり並んだ、難しい漢字。実は、椿神社というのは地元の人々が親しみをこめて呼んでいる愛称で、こちらが神社の正式な名前なのだ。
 何気なくその石碑に目を遣った小春は、

(いよずひこのみことじんじゃ)

 と、少し得意げに心の中で読み上げた。
 大人でもはじめて見た時は首を傾げてしまいそうな難しい神社の名前。まだ小学生の小春がそれを読めるのは、前に官二が教えてくれたおかげだった。

『祀られとる神さまの名前でもあるんよ。こっちは男の神さまの名前。女の神さまもおって、いよずひめのみこと、言うんやって。伊豫は愛媛の昔の名前な』
『ふぅん。でも、じゃあなんで椿神社って言うん?』
『うーん。それは諸説あるらしいんやけど』
『しょせつ』
『いろんな言い伝えがあるってこと。……ひとつは、ずーっと昔は神社の周りが海やったってやつ。昔は海のことを津≠チて言よったらしくて、津の脇の神社でツワキ神社と呼ばれとったんが、だんだん訛ってツバキ神社になったとか。もうひとつは、あそこ、藪椿がいっぱい植わっとるやん? 椿がいっぱいある神社ってことで、椿神社。そのまんまの意味やな』

 官二は物知りで勉強がよくできて、学校の成績もいつも一番だった。官二の父が医者で家庭が比較的裕福だったこと、母が教育熱心だったことも関係しているだろうけど、それ以前に、官二自身の知識欲が強いようだった。気になることを調べるためなら、大人向けの本だって臆せず手に取ってしまう。

 小春は一度、官二に連れられて彼の父の書斎に忍び込んだことがある。何百冊と並べられた漢字だらけの背表紙を見るだけで小春は頭がくらくらしそうだったけれど、その隣で官二は「これとか面白かった」といくつかの本を楽しげに指さしていた。正岡子規とか、夏目漱石とか、与謝野晶子とか、北原白秋とか……。中には、小春の七つ上の兄――|夏彦《なつひこ》が読んでいるような本もあって、小春はぎょっとした。

「読めるん? 難しない?」
「正直ぜんぶは読めん。でも面白いもんは面白いよ。調べながら読むんも楽しいし」

 文学だけじゃなくて、歴史、化学に至るまで、気になったことは放っておけずとことん調べる、好奇心旺盛な性格。それが、彼のずば抜けた賢さの理由に違いなかった。

 けれど、そんな賢い彼が品行方正で行儀の良い優等生であるかと言うと、そうではなく――。

「聞いたぞ、お前ら。昨日公園で下級生いじめたらしいやないか」
「げ、官二だ」
「なんだよ、文句あるのかよ。あいつらが場所譲らないのが悪いんだ。年下のくせに!」
「一年二年早く生まれたくらいで偉そうにすんなや。むしろ年下に譲れ!」
「ぎゃぁっ! てめえ殴ったなこの野郎!」
 といった具合で気に入らない相手と殴る蹴るの喧嘩は当たり前だったし、ある時はチャンバラごっこに夢中になって池に落ちるし、またある時は野球で盛り上がりすぎて学校の窓を割るし、近所の子たちを引き連れて山の方に探検に行ったと思ったら暗くなっても帰ってこなくて、周りの大人たちが必死に捜索したこともある。

 同い年の誰より早熟でありながら、誰よりやんちゃで腕白なガキ大将。

 去年の夏にも、官二は友人たちを巻き込んである事件を起こしている。
 きっかけは、「秋山真之と正岡子規が幼少期、本を参考にして花火を作り松山城の櫓から打ち上げた」という噂だった。その噂を耳にした官二は「僕にもできる」と意気込み、早速、図書館や父の書斎の本を漁って花火の作り方を調べ、友人たちと協力しあって材料を揃え、数ヶ月かけて完成させた。
 そしてある夜、家を抜け出し、一緒に作業をしていた友人たちと共に松山城へと向かって――噂に聞いたのをそっくりそのまま真似て、松山城の櫓から花火を打ち上げたのだ。
「スゲー! ほんとに花火や!」
「官二、お前、天才やな!」
「わははは! たーまーやーっ」
 歓声があがって、その場はものすごく盛り上がったらしいけれど、そんな騒ぎを起こして周りにバレないはずがない。しかも、松山城下の堀之内には陸軍の駐屯地があるのだから。
 飛び起きた軍人さんに捕まって、通報されて、学校の先生を呼ばれて、親を呼ばれて、彼らは皆、竹刀と拳骨とでこっぴどく叱られた。
 官二にいたっては数日夕飯抜きにされていた。それでも彼は凝りずに、数日後には「今度は小春にも見せたげる。さすがにもう城であげるんは無理やけん、裏の川沿いとかかなぁ」と無邪気に笑っていたけれど。

 官二のやんちゃぶりに、彼の両親は相当手を焼いているみたいだったけれど、誰も思いつかないようなことを堂々としてしまう姿にはなんだか眩しさすらあって、小春はその豪快さが好きだった。彼と幼馴染であることを嬉しく思っていた。
 そしてそれは、学校の同級生や下級生たちもきっと同じで。官二は遊びに誘われない日がないくらい、地元で人気者だった。

 もしかして……、と、小春の頭にある考えがよぎった。

(別の子に遊びに誘われて、そっちに行ってしもたんかも……)

 浮かんできた考えを振り払うように、小春は頭を左右に振る。
 官二は、約束を簡単に破るようなことはしない。

 すっかり陽は落ち、辺りは暗くなっている。ぽうっと浮かんだ橙色の提灯は鮮やかさを増したように見えた。まるで、夜に咲く花。冷たい風が吹くたび、ゆらりゆらりと左右に揺れる。
 小春は着物の裾を握りしめ、
(大丈夫。カンちゃんは来てくれる)
 と、祈るように思った。

 けれど。
 待っても待っても、官二が現れることはなかった。
 そのうち、道に溢れていた人は徐々に減って、特に子どもは見当たらなくなる。
 小春の視界がじわりと滲んだ。

(ひどいよ、カンちゃん。約束したのに)

 今にも泣きそうになっていると、

「小春」

 柔らかな声がして、小春はハッと顔をあげる。
 小春とお揃いの白いマフラーが揺れていた。困ったように眉を寄せながら笑っているのは、

「|夏兄《なつにい》……」

 小春の兄、夏彦だった。

「帰ってくるん遅いな思て様子見に来たんやけど……。官二のやつ、おらんの?」

 官二が来ていないことをなんとなく認めたくなくて、官二が約束を破ったなんて信じたくなくて、小春は黙ったまま俯いた。その態度に機嫌を悪くすることもなく、夏彦は小春と視線を合わせるようにしゃがみこむ。

「小春。屋台見て回ろか。お兄がなんでも買ったるけん」

 小春はやっぱり黙ったままで、小さく首を左右に振った。
 夏彦と屋台を見て回っている間に、官二がここに来たら。小春がいないからとさっさと帰って、すれ違ってしまったら。
 そんなふうに思ったのだ。

 そして夏彦も、そんな小春の気持ちを察していた。
 うーん、と、ちょっと困ったように眉尻を下げると、「そんなら」と、神社へ続く長い道の途中を指差した。

「あそこ。手前の田んぼにでっかいカエルみたいな岩があるやろ。そこらへんまでの屋台で晩ご飯だけ買って、戻ってきてここで食べよ。買いよる途中に官二が来ても見える距離やし……。小春もお腹空いとるやろ」
「……空いとらん……」

 なぜか意地になってしまって、小春は嘘をつく。が、直後、ぐうう、と腹の虫が豪快な音を立てた。思わず顔が提灯と同じ朱色に染まる。
「やっぱり」と夏彦は言ったけれど、馬鹿にしたり怒ったりするような声ではなかった。夏彦は小春に対して、いつも優しい声で喋ってくれる。

「な、小春。ちょっとだけ行こうや。お兄の我儘に付き|合《お》うて」
「……わがまま?」

 首を傾げた小春に、夏彦は「そう」と穏やかに笑ってみせた。

「僕、この春から士官学校行くやん。しばらくはこっち戻って来れんし、椿祭りも当然来れん。やけん、小春と一緒にお祭り見ときたいなって」
「……」

 小春は顔をあげ、夏彦を見つめた。

 七つ年上の夏彦は、小春にとって自慢の兄だった。
 努力家で真面目。勉強が得意。剣道も得意。困ってるひとを放っておけない優しさがあって、いつも礼儀正しい。外出して小春がぐずれば嫌な顔ひとつせずおんぶして長い道を歩いてくれたし、叱ることはあっても手をあげることは絶対にない。

 そんな彼は去年の夏、軍人になるための学校――陸軍士官学校と海軍兵学校を受験した。
「秋山兄弟、かっこええやろ。僕、憧れとったんよ」
 夏彦はそう言って笑っていたし、実際、彼は秋山兄弟の逸話なんかを先生や町のひとから聞くのが好きだった。小学生のころには、近所の子どもたちと「戦争ごっこ」を楽しんでいたという。――穏やかな兄の姿しか記憶にない小春には、あまり想像できなかったけれど。

 でも、きっと、彼が憧れだけで軍人という道を選んだわけではないことは、小春にもなんとなく分かっていた。

「中学まで行かせてもらったけん、僕はもう十分や。今度は小春の番。もし小春が進学したい言うたら、その希望を叶えてあげて。それに、僕が軍人になったら父さんも母さんも多少楽できるやろ」
 そんなことを彼が告げていたのは、いつだっただろう。たしか、一年ほど前の、まだ桜が散ったばかりの涼しい季節。
 西日が差し込む部屋のなか、たぶん両親と向き合っていた夏彦がそんなことを言うのを、遊び疲れて畳に横になっていた小春はほとんど夢の中で聞いていた。

「こーはる。な?」

 柔らかな声が耳に届いて、小春の意識が現実に引き戻された。
 夏彦が微笑み、手を差し伸べている。その笑みに、小春はとうとう頷いた。

「……ちょっとだけ、行く」
「ありがとう。小春は優しいなあ」

 嬉しそうに告げる夏彦と手を繋ぐ。夏彦の手は大きくて硬くて、不思議と安心する。

 屋台を見て回っている間も、クスノキの近くに官二の姿が見えることはなかった。
 クスノキの下まで戻って、夏彦が「晩ご飯に」と買ってくれた焼きおにぎりとおでんを浮かない気持ちで口に運んでいたら、眩しいくらいだった屋台の灯りはぽつりぽつりと消え始めた。少しずつ閉店準備を進めているようだ。

(カンちゃんと一緒にまわりたかったな……)

 屋台の灯りがひとつ消えるたび、小春の中に「さみしい」という感情が浮かんでくる。
 夏彦に心配をかけたくなくて堪えるものの、今にも泣いてしまいそうだった。そのとき。

 通りの向こうから、カラコロカラコロと、硬く慌ただしい下駄の音が近づいてきて、小春は引き寄せられるようにそちらを見た。

「小春っ」

 官二がいた。小春たちの元まで辿りつき、「ごめん、遅なった」と謝る彼は、珍しく濃紺色のマフラーを口元が覆われるくらいまできつく巻いている。

「でも、夏兄とおったんならよかった……」

 ほっとしたように呟いた彼は、すぐに小春の腕を引くと、

「屋台、まだやっとるな。よし、今から行こ! 夏兄、もうちょっとだけ帰るん待って、屋台見てくるけん」

 と、早口で言った。そうして夏彦の返事も待たず、境内へと駆けだそうとする。
 約束を忘れていたわけではなさそうだし、謝ってくれたし、一緒にお祭りを回ろうともしてくれている。
 そう分かっても、小春はすぐに切り替えられなかった。じっとその場に立ったまま、

「屋台やっとる言っても、もうほとんど閉まったもん。人も減ったし、こんなんお祭り言えん……」

 思わずそんなことを言ってしまって、一度溢れたら、もう止まらなかった。

「なんでこんな遅なったん? カンちゃんから誘ってくれたのに。わたし、ずっと待ちよったんよ。ひどい」

 言葉は震え、ぽろぽろと涙まで零れてしまった。
 官二はぎょっとし、掴んでいた腕の力を緩める。

「ほんまにごめんって。ちょっと、いろいろあったんよ」
「いろいろって、なに」
「それは……」

 罰が悪そうに視線を逸らす官二に、小春はますます泣いてしまった。
 一緒に祭りを見て回れなかったことも、彼が遅れてきた理由を隠すことも、なにもかも悲しかった。
 小春は、髪を結っていた赤いちりめんの髪紐を勢いでほどくと、

「カンちゃんのばか! もう、嫌い!」

 と、ばしりと官二へ投げつけた。

「こら、小春!」

 それまで黙ってふたりの様子を見ていた夏彦も、これには静かに怒る。

「人に物を投げるのはあかん」

 大好きな兄から注意されて、小春の涙はもう止まらない。とうとう、「もう嫌、帰る」と繰り返してしまい、祭りどころではなくなった。
「小春」という官二の呼びかけも、聞こえているのか聞こえていないのか、泣いて無視をする。そのうち、屋台の灯りはどんどん消えていく。

 仕方がないので、夏彦は小春と手を繋ぎ家に帰ることにした。
 その二人の様子を見て、官二は「僕、あとでひとりで帰るけん」と言ったけれど、「いけん。お前も一緒に帰るんや」と、夏彦に咎められた。

「平気やのに。僕、もっと遅い時間に家抜け出したりしよる」
「それとこれとは話が別や」

 諭すように言われて官二は唇を尖らせるけれど、慕っている夏彦相手に強く出ることはなかなか難しい。結局、夏彦に手を取られてしまい、三日月の頼りない光のなか、しぶしぶ帰路につくことになる。
 官二の左隣にいる夏彦は背が高く、その奥にいる小春の姿は見えなかった。けれど、小春がすすり泣く声は、家に着くまでずっと聞こえていた。
 小春と官二の喧嘩は長引いた。
 翌日から小春が徹底して彼を避けたせいだ。そのうち官二も声をかけるのを諦めてしまって、小春はそのことに妙な寂しさを感じては、自分の我儘さに自己嫌悪に陥っていた。
 そして、小春にとって嫌なことがもうひとつ。

「おーい、井上。お前、最近、官二とおらんやん」
「ほんとほんと。夫婦喧嘩かぁ?」
「ひとりでお家帰れるん〜?」
「「「ぎゃははは!」」」

 今までは小春にちょっかいをかけようものなら、大抵近くにいる官二にぼこぼこにされるからと大人しくしていた同級生や上級生の悪ガキたちが、こぞって揶揄いはじめたのだ。
 元々、小学校中学年になっても仲がよく、毎日ではなくても登下校を共にすることが多い二人の関係を冷やかす男児は多くいた。「いつケッコンするん」とか、「やーい、くちづけしろー!」とか。ただ、隣の官二はいつもけろりとしていて「あんなん気にせんでいい」と言ってくれたし、小春がひとりのときに度を越した悪口――たとえば、「官二とお風呂も一緒なんやろ。フジュンだ、フジュン!」なんて言われたときは、どこからともなく現れた彼が相手を殴ってでも止めてくれた。それが心強くて小春は官二の傍にいられたわけだけど、ここ数日、そんな彼は近くにいない。小春自身が、距離を置いたから。

 学校からの帰り道。水が引きカチカチに乾いた茶色い田んぼの間のあぜ道をひとりで歩く小春の後ろから、同級生の男の子たち三人の揶揄いの声はひっきりなしに降りかかってくる。
 小春はぎゅっと唇を噛み、あくまでも無言を貫いて足を速めた。が、悪ガキのひとり――|勝男《かつお》という少年は、細いあぜ道から稲のない田んぼに降り、地面を乱暴に踏みづけながら小春を追い越す。そして、小春の前に出たかと思うと振り返り、その顔を覗き込んでにやりと笑った。

「うわぁっ。顔真っ赤や! 真っ赤っか! トマトみたいに、真っ赤っか!」
「泣くか、泣くか? 『カンちゃん助けてー!』って泣いてみろ〜!」
「……っ、泣かんもん!」

 今にも泣きそうな声で叫んで、小春は駆けだした。

「あっ、逃げた!」

 背中越しに彼らの笑い声がまだ聞こえていて、小春は絶対に泣くものかときつく唇を噛み、家までの道を懸命に走り続ける。



 そんな状態になってしまったから、小春はますます官二に会えなかった。今彼に会いに行ったら、まるで助けを求めているみたいで、勝男たちから「やっぱり官二に泣きついた!」と指をさされるに違いないからだ。もちろん、時間が経って、なんて声をかければいいか、どう謝ればいいか分からなくなってきていたのもあるけれど。

「官二とちゃんと仲直りしぃよ」と諭してくれる夏彦の言葉にも耳を貸さず、(カンちゃんには頼らない、頼れない……)と決意して、数日。

 早々に放課後の遊びに消えたため官二がいない教室で、小春は女友だちと話していて、少し離れた机の周りには勝男たちがいた。

「このあいだ、隣の組のやつら、十人くらい集まって椿神社で肝試ししたんやって」
「知っとる。一番奥まで行けたん、二人だけやって? ほかのやつら怖がりよなあ」
「泣いたやつもおったって」
「何やそれ!」

 人を小馬鹿にしたように話す彼らは、「なあなあ、俺らもせん?」と顔を突き合わせる。勝男は「ええけど」と頷いてすぐ、ちらりと小春に目を遣った。それから、ひどく意地悪な顔をして、

「どうせやったらほかにも誘おうや」

 と言う。
 そして、突然、座っていた椅子から立ち上がると、

「今日、肝試し行くひと〜!」

 と、人差し指を宙に掲げるようにして大きく叫んだ。
 何事かとみんなが集中して、ほどなく視線を逸らした。その提案に喜びそうな、比較的元気な男子たちは官二とともに松山城のほうに遊びに行っており、教室にいるのは大人しめの男子か女子しか残っていなかったのもあるだろう。
 けれどそれは、勝男も想定の範囲内だったらしい。特に落ち込んだりする様子もなく、「誰もおらんのか〜」と言ったあとで、

「井上は?」

 と、小春を名指しした。
 目を丸くして戸惑う小春に、彼はにやにやと笑ったまま続ける。

「ああ、でも、ひとりや無理よな。大好きなカンちゃんがおらんと」

 その言葉に、残りの二人も畳みかけるように、

「官二がおらんとな〜んにもできん!」
「弱虫小春〜!」

 などと口々に叫んだ。
 小春の顔が少し歪んで、すぐに学級の中で特にしっかりしている女の子が「やめなよ!」と三人を睨む。けれど、調子に乗った三人は、「お〜、怖っ」「鬼が出た!」と言うだけで、反省する素振りは全くない。
 あまりに揶揄われるから、恥ずかしさと怒りと悔しさと……、いろんな感情で小春はもうぐちゃぐちゃだった。
「小春は弱虫」「泣け泣け〜!」「やめなよ、しつこい!」「先生に言うよ!」
 男女の声が入り乱れるなか、とうとう小春は「行けばいいんやろ!」と声を荒げてしまう。

 女の子たちはぎょっとして、「やめなよ、小春ちゃん」「そうよ。椿神社、夜は真っ暗で怖いんよ」「隣の組の男子も行くの諦めたくらいなんよ」と言ったけれど、「言ったな、言ったな!」とあの男子たちが煽るように囃し立てるから、もう後には引けなかった。
 そうして。

「ほんなら、さっそく今日の夜や!」
「ええか、逃げんなよ」
「絶対ひとりで来るんやで!」

 小春はたったひとりで、夜の椿神社へ肝試しに行くことになってしまったのだった。

 帰り道は憂鬱だった。
 自分で蒔いた種とはいえ、たったひとりで真夜中の椿神社に行くことになるなんて。そもそも、椿神社に行くために家を上手に抜け出せるかすらわからない。もしも夏彦に見つかれば、温厚な彼でもさすがに叱って家から出ないよう見張るだろう。あるいは、椿神社まで着いてくるかもしれない。そうなったら、小春は結局、「ひとりで肝試しができない弱虫」になってしまう。

 なんとなくまっすぐ家に帰りたくなくて、小春は遠回りをして、川沿いをふらふらと歩いていた。

(カンちゃん、今ごろお城で遊んでるんやろか……)

 とうとうと流れる川めがけ道端の小石を蹴飛ばしながらふとそんなことを思ってしまい、小春はぶんぶんと頭を振った。
 会いたいなんて、助けてほしいなんて、思ってない。
 自分にきつく言い聞かせ、また歩き出したとき。

 ――くぅん……。
 雑草で覆われた土手の茂みから小さな鳴き声が聞こえた。

(なんやろ、動物の声……?)

 おそるおそる声がしたほうへと近づくと。

(あ、犬や……)

 そこには、ぼさぼさの毛並みの犬がいた。元は白かったかもしれない毛は、今では茶色と灰色の汚れが染みついている。耳は警戒するようにぴんと立っていて、右目は赤く腫れてうまく開いていない。野良犬だ。けれど、ただの野良ではないのか、形の悪い木箱にすっぽりと体を収めていたうえ、ほつれた毛布の切れ端みたいな布までかけられていた。

(誰かが世話してるんやろか……)

 しゃがみこみ、目線をなるべく合わせるようにして、小春はゆっくりと近づく。犬は動かない。あまり元気がないようだ。

「お腹すいとる? といっても、なんもないんやけど……。お弁当、ちょっとだけでも残しとったら、なんかあげられたかもしれんのに」

 ぶつぶつ呟きながら、お昼ご飯を入れていた木箱を一応開けてみる。煮物の汁が少し溜まっているだけで、米粒ひとつ残っていなかった。仕事の傍ら小さな田畑を耕す父と母から「お米ひとつに八十八の神さまが宿っとる。大事に食べなさい」と言われて育ったから、小春も夏彦もご飯を残すようなことはしないのだ。

 木箱の端っこに煮汁を溜め、犬の口元にぽたぽたと零そうとしていると、不意に背後から茂みを掻き分ける足音がして小春は振り返った。

「あっ。小春ちゃんや」

 立っていたのは、同じ小学校の一つ下――小学校三年生の男の子だった。官二とよく遊んでいる子で、小春ともよく顔を合わせている。
 小春よりもまだいくらか背の低い彼は、その手に藁くずや飲み物、食べ物が入っているであろう竹の包みを抱えていた。

「お世話しよるん」
「たまにやけど……。ウン、でも、そろそろ厳しいかもしれんよな」

 木箱に藁くずを詰め込み、欠けた皿にお茶を流し込み、包みを広げて芋の煮っころがしを差し出しながら。彼は、寂しそうに零す。

「……この犬な、六年生にいじめられよったんよ。目の傷も、たぶんそのせい」
「なにそれ、ひどい」
「やろ。でも、ぼく、なんもできんくて。もっと早うに助けられとったら、まだ元気やったかもしれんのに……」

 言いながら、彼は犬の頭をそっと撫でた。大人たちに見つかったら、「危ない」と怒られるかもしれないけれど、弱った犬は小さく鳴くだけで、噛みつく気配はちっともない。

「でも、ここにおって平気なん? 六年生たち、またいじめに来ん?」
「それは、平気やと思う。みんな、官二くんが懲らしめてくれたけん」
「そうなんや」
「かっこよかったんよ、官二くん。助けてって言ったらすぐに来てくれて、自分より体のでかい相手殴り飛ばしてなぁ」

 どこか誇らしげに語る様子に小春も微笑みながら、彼を真似て犬の頭を撫でてみた。薄汚れた毛は雨風にさらされたせいかごわごわしていたけど、不思議と汚いとは思わない。
 それからふと、官二はいつこの犬を助けたのだろうかと気になった。

「なぁ。それって、いつの話なん?」
「うん? えっとな、一週間とちょっと前……。二月じゅう……アッ!」

 そこまで答えて、彼は慌てて口元を両手で押さえた。「いけん、いけん」と繰り返しながら、視線をうろうろとさせている。

「お願い、聞かんかったことにして。よう分からんけど、官二くんから小春ちゃんには黙っとけって言われたんよ。お願い」

 懇願する彼に、小春は曖昧な相槌を打つことしかできなかった。
 あの日だ、と確信したからだ。あの、椿祭りの日。日直の仕事を終えた官二は、帰っている途中で下級生から助けを求められて、喧嘩に繰り出して。もしかしたら、学校の先生や親に見つかって長いお説教をされたのかもしれない。だから、遅れたに違いない。そういえばあの日、暑がりの官二にしては珍しく、マフラーで口元までをしっかりと覆い隠していた。あれは、なにか――たとえば怪我を、隠していたんじゃ。

(……どうして言ってくれんかったんやろ。それに……どうしてわたし、気づけんかったんやろ……)

 酷いことを、たくさん言ってしまったし、してしまった。
 後悔で頭が真っ白になる小春に何かを感じ取ったのか、犬は気遣うように小さく鳴いて、その指をぺろりと舐めた。

 すぐにでも官二に謝りたかったけれど、今更許してもらえなかったらと不安を覚え、動けずにいるうちに夜が来た。

(どのみち、肝試しにはひとりで行かないけん……。これが終わったら、明日には絶対、カンちゃんに謝る)

 小春は自分に言い聞かせながら、すっかり暗くなった部屋の布団の中で息を潜め、抜け出す機会を窺っていた。右手には母、左手には父がいる。いつも川の字になって寝ているのだ。
 ただひとり、夏彦だけは中学になってから部屋が分かれた。勉強のためそれまで以上に夜遅くまで机に向かうようになった彼が、「ずっと灯りをつけとるせいで小春がちゃんと寝れんのは困る」と言い出し、話し合いの結果、天井裏の物置部屋を整理して夏彦はそこで過ごすようになったのだ。

 母の寝息が聞こえてきて、小春は布団からそっと顔を覗かせた。ゆっくりした呼吸で、胸から肩にかけて規則的に上下している。ぐっすり眠っているみたいだ。
 隣の父も、しっかりと目を閉じていた。仕事でくたくただと言っていたし、いつもよりお酒も飲んでいたし、きっと、簡単には起きないだろう。

 じっと呼吸を止め、音を立てないように注意して、そろりそろりと布団から抜け出す。心臓がばくばくと激しい音を立てている。すぐ傍にいる両親はもとより、天井裏にいる夏彦に聞こえてしまうのでは、と思うほどだった。

 足袋を履き、寝巻の上から半纏を羽織り、マフラーを巻き付ける。そして、足音を忍ばせて部屋を出た。
 なんとか玄関まで辿りつき、足袋のままで土間におりる。冷たい土の感触がじんと伝わって少しだけ怖くなったけれど、ぐっと堪え、鼻緒の緩い草履に足を忍ばせてから木製の引き戸に手をかけた。
 ――ギシリ。
 建付けの悪さから軋んだ音がして息を呑むけれど、両親も兄もこちらに来る気配はない。ふう、と呼吸を整えるように長く息を吐き、ゆっくりと戸を開けて――ついに小春は外へと抜け出した。
 ひゅうっと吹く風は冷たく頬を刺す。風に揺れた草木の擦れる音が、不気味なほどに大きかった。唯一の救いは、空に浮かぶ月がまんまるに輝いていたこと。
 小春は半纏の裾をぎゅっと握りしめると、月明かりだけが頼りの道を、椿神社へと向かって突き進んだ。



 椿神社の鳥居まで辿りつくと、勝男は腕組みをしながら立っていた。「遅い」と小春を睨む彼だが、その隣にはいつも一緒にいる男の子のうちのひとり――|正《まさし》しかいない。どうやら、もうひとり来る予定だった|伊助《いすけ》はうまく家を抜け出せなかったようで、そのことに勝男はイライラしているみたいだった。

 椿神社の一番奥にある本殿の裏には、夕方のうちに彼らが用意した紙と硯、筆が用意されている。その紙に名前を書いて戻ってくる、というのが今回の肝試しの手順になっていた。

「ほんなら、俺らはここで待っとるけん。逃げんなよ」
「……わかっとるもん」

 勝男の声は静かな夜によく響く。肝試しの提案者なだけあって、彼は特に怖がっている様子はなかった。

 小春は半纏の裾を握りしめて震えを押し殺し、じわり、と参道に足を忍ばせた。
 本殿に辿りつくまでの道はまっすぐな一本道とはいえ、参道の周りには大きなクスノキやシイが空を覆うように枝を広げて、薮も多く並んでいる。月の光は、なかなか届かない。風が吹くたびに草木が擦れ、それが人の泣き声のようにも聞こえた。

 正直すぐにでも逃げ出したかったし、もう半泣きだった。でも、ここで逃げ出したら勝男たちにまた馬鹿にされる。それだけは、嫌だ。
 涙が浮かびかけた目尻をぐいっと拭って、小春はもう、意地だけで足を進めた。


 ――小春の姿が暗がりに消えたあと。
 勝男は、「よし」と呟くと、隣の正に向かって「俺らも行こか」とにやりと笑った。一緒に来ていた正は「ここで待つんやないん」とわずかに動揺したが、勝男は袂に隠し持っていた白い布を取り出しながら、

「何言うとるん。驚かすに決まっとるやろ。それで泣きながら逃げてくところ見てやるんや」

 なんて、意地悪なことを言う。

 参道の周りにある薮の奥、鬱蒼とした木々の中を勝男たちは息を潜めて歩いていた。小春を驚かせるためには、先ほど参道に入った彼女に気づかれないよう追いつかなければならない。自然と参道の脇にある茂みの中を突き進むことになったのだが、そこは参道よりもさらに暗く、なぜかやたらと冷え込んでいるように感じた。それは、そのうち別の世界に入り込んでしまうのではないか、と思えるほど。
 ホーホー、と、頭上から謎の声が聞こえ、勝男の後ろにぴったりとくっついて歩いていた正は肩を跳ねた。

「な、なぁ勝男……ほんまにこっちから回るんか」
「そうや。なんべんも言わせんな。まさかビビっとるんか」

 そう言いながらも、勝男の額にはうっすら汗が滲んでいた。
 さすがに、多少は恐怖を感じる……、いやまさか、幽霊や妖怪だなんて迷信だ。自分に言い聞かせ、やや乱暴に額の汗を拭ったときだった。

「うわぁっ」

 正が突然叫び声をあげ、尻もちをつく。

「な……っ、どこで躓いとるんや!」
「ち、ちが……っ! なんか、なんか、首んとこに、なんかが当たっ……、舐められ、舐められて……!」
「何言って――」

 馬鹿なことを言うな、と眉を吊り上げながら、勝男が正を引き起こそうとしたときだった。
 ――ひやり。
 ぬめっとした、なんとも言えない感触がうなじに当たって、勝男の体中からぶわりと汗が噴き出した。
 正の言う通り、なにかに舐められたような感覚。まさか妖怪……いや、ありえない!
 恐ろしくて振り返ることすらできずにいると、今度はどこからともなく、パキッパキッと不気味な音が聞こえてくる。

「な、なんの音? なぁ、なんの音?」
「そんなん知るか……っ」

 声を荒げた直後。
 バサバサッ、ガササ!
 風が吹いてもいないのに木の葉が大きく揺れ、勝男たちは反射的に頭上を見上げる。見上げた先から、妙に明るい白いなにかがひゅるりと飛んできて――。

「「うわああっ」」

 たまらず、勝男たちは悲鳴をあげて逃げ出した。正は半分這うように動き、勝男も足がもつれて何度も転がりそうになる。情けないことに下着がじんわり濡れてしまったのを、彼ら自身が分かっていた。
「ごめんなさい、呪わんといてください」「嫌や助けて、お母さん」
 息も絶え絶えに叫び、神社から去る彼らの姿がすっかり見えなくなったあと。

「弱虫はどっちやねん」

 呆れたような声とともに、大きなクスノキから人影が――官二が、するりと地面に飛び降りた。
 官二の手には釣り竿のようなものがあって、その先にはこんにゃくが括り付けられている。勝男たちの首筋に当たったのは妖怪の舌などではなく、このこんにゃくだった。
 しゃがみこんだ官二が、枯葉の上に落ちた白い布を拾い上げる。彼らが幽霊かなにかと勘違いした白いものも、なんてことはない、ただの布。それをサッと畳んで袂にしまい、藪で隠れた先の参道へと目を遣った。

(小春……、大丈夫やろか)
 参道の真ん中辺りに来たところで、小春は足を止めた。

(いま、なんか……、声、した……?)

 おそるおそる、藪の奥へと目を向ける。真っ暗闇で、よく見えない。
 いつの間にか空には雲が広がり、丸い月を隠してしまっていた。
 小春はまた拝殿の方へと目を戻すが、

(どうしよう……。やっぱり、怖い)

 そんな思いが浮かんでしまって、もう足を進めることができなくなっていた。
 立ちすくんでいると、不意に背後からボトリという音がした。何かが落ちるような音。反射的に振り返って、小春は息を呑む。
 参道の脇に並んだ椿。赤い花のいくつかが道端に転がっているのだが、それがまるで、血のように見えて――。

「……っ」

 たまらず後退り、道端の石に足を取られた。あっと思ったときには体が傾き、派手に転んでしまう。じんわり痛みを感じた膝に視線を落としたら、擦れて赤くなっていた。

「う……、もう、やだぁ……っ」

 堪らず小春は零した。ぽたぽたと大粒の涙まで溢れ、頬を伝い、地面を濡らす。
 やっぱり肝試しなんかするんやなかった。ううん、それより早くカンちゃんと仲直りすればよかった……。
 蹲ったまま、過去の自分を恨んでいたら。

 すぐそばの茂みからガサガサッという音が聞こえ、「ヒッ」短い悲鳴をあげて小春はいっそう縮こまった。逃げる力もなくて、「やだやだ、助けて。夏兄、お母さんお父さん」情けなく叫んでいたら、足音はどんどん近づいてきて、そして――。

「小春っ」
「きゃぁぁっ」

 肩辺りをぽんと叩かれ、小春は悲鳴をあげて飛び上がる。自分に触れた何かを振り払おうとでたらめに腕を動かせば、

「ちょ、暴れんなっ。僕や、僕!」
「え……」

 焦ったような声で言われて、小春はそこでようやく側にいるのが幽霊や妖怪などではなくて、よく知る官二であることに気づいた。

「カンちゃん……? なんでここに……」
「たまたまや。それより大丈夫なん? 足捻った? 歩けん?」

 心配そうに見つめてくる彼に、たまたまだなんて嘘だ、と思った。
 きっと官二は、どこかで今日の肝試しの噂を聞いたのだろう。それで、心配して助けに来てくれた。

「なんで……」
「うん?」
「なんで、来てくれたん?」
「え。いや、やけん、たまたまやって」
「うそ。こんな時間にこんなとこ来る理由ないやん。なんで……、だって、わたし、カンちゃんにいっぱいひどいこと……」

 小春の目からまた大粒の涙が溢れ、しゃっくりまで出はじめた。それらはとどまることを知らず、小春はヒックヒックと泣きながら「ごめんなさい」と零す。

「ひ、酷いこと言って。ばかとか、嫌いとか言って、ごめん。無視してごめん。嫌いやなんて、ほんとは思ってない。ごめん、カンちゃん。仲直りしたい……」

 官二は驚いたように目を瞬かせたけれど、ほどなくして静かに「ウン」と頷いた。それから、小春の涙を袖で優しく拭ってくれる。

「僕も、仲直りしたい。僕のほうこそ約束守れんでごめんな」

 どこまでも優しい官二に、小春はまた泣きそうになりながら「ううん」と首を横に振った。

「カンちゃんは謝らんでいい。だってあの日、いじめられとる犬を助けに行っとったんやろ。遅れたって仕方ない……」

 零してすぐ、小春はハッとした。この話を教えてくれた男の子からは、「官二くんには言わんといて」とお願いされていたのに。
 案の定、官二は「ちょっと待ってや。なんで知っとるん」と気まずそうに眉を寄せる。目を泳がせ、しどろもどろになる小春を見た彼は、ほどなく何かに気づいたように「あいつ〜……」と零した。

 いけない、どうしよう、バレてしまった。
 焦る小春はぶんぶんと首を振り、
「ちがう、わたし、何も聞いとらん。怒らんといてあげて」
 と、下手くそな嘘をつくことしかできない。

 黙ったまま唇を尖らせている官二に、「ほんとうに、何も聞いとらんよ」「やけん怒らんで」と半泣きになりながら繰り返していたら、やがて官二は「わかったよ」と言うように小さく息を吐き、肩を竦めてみせた。

 そんな彼の様子にほっとして、一気に安堵が広がって。ふっと、気が抜けてしまったのだと思う。

「……でもべつに、隠さんでもええのに……。あ」

 思わずぽつりと零してしまって、パッと口元を押さえる。つい本音が零れてしまったけれど、これじゃあ、あの男の子から聞いたって認めてしまったようなもの――。

「……お前、やっぱりあいつから聞いとるんやんか!」
「ち、ちがうもん! 今のは、ちょっと、なんか……っ」
「嘘つけ。さすがに無理あるぞ」
「うぅ、ごめん、ごめんなさい……! でもあの子は悪くないけん……!」

 官二が、言い訳をしてばかりの小春の頬を両手で軽く摘まむ。半泣きになりながら謝る小春相手にしばらくむぎゅむぎゅと頬に悪戯をしていた彼は、やがて満足したのか手を離した。痛いほどではなかったけれど、小春はなんとなく自身の頬を労わるようにさすった。

 官二はその様子を横目に、「隠すに決まっとるやん……」とぼそりと零した。「べつに隠さんでもええのに……」と告げた小春への返答だった。
 小春がそちらを見ると、官二は罰が悪そうに頭を掻きながら続ける。

「だって、遅れたんは事実やけん言い訳にしかならんやん。……それに、また喧嘩したとか知ったら小春、心配するやろし……、怪我したんも正直情けないし……」

 彼にしては珍しい歯切れの悪さで、途中からはごにょごにょと聞こえないくらいだった。

「……でも、それで喧嘩しとったら意味ないよなぁ」

 苦笑いした官二がそう呟き、小春を呼んだ。意思の強そうな瞳とまっすぐに目が合う。どちらからともなく零れた「ごめん」の言葉はぴったりと重なって、思わず笑ってしまった。
 それから、彼がそっと頭を近づける。

「……これで、仲直りな」

 こつん、と額と額がくっついて、不思議そうに目を瞬く小春に、彼は照れたようにはにかんだ。「姉ちゃんとか兄ちゃんとか、弟とも。うちではこうやって仲直りするけん」

 やがて額が離れると、官二は小春の手を優しく握って引っ張った。

「ほんなら、一緒に奥まで行こか。置いとる紙に名前書いて帰るんやろ? あいつらが言い返せんようにしたろ」
 
 官二の手は小春と同じくらいなのに不思議と力強くて、その背中は小春よりも小さいくらいなのにやたらと頼もしい。
 別の世界に繋がっていそうな暗い参道、唸るような風、道端に落ちた赤い椿。さっきまであんなに「怖い」で溢れていたのに、今では秘密の探検をしているみたいで、どきどきはするけれど、もう嫌だとは思わなかった。

 拝殿まで辿りついて、紙に書いた自分の名前――「井上小春」という文字は、自分でもちょっと驚くくらいに震えず書けて感動したくらいだった。
「書けた?」と覗き込んだ官二も、「おー」と感心したように声を零して、まるで自分のことのように得意げに笑っている。

「完璧やな」
「ほんと?」
「うん。これなら絶対大丈夫や」

 紙と硯が用意されていた拝殿の裏手から表のさい銭箱や鈴があるほうへと戻ったところで、不意に官二は「小春、ちょっと待って」と言った。
 するりと手が離れ、その温度が離れたことに寂しさを感じるのも束の間、目の前に立った官二は珍しく少し緊張した面持ちで袂からなにかを――白い椿の花を、取り出した。

「ちょっと、じっとしとって」
「え……」

 困惑しているうちに、官二の手がそっと伸びて、小春の黒い髪を優しく掬うように触れた。
 月明かりが、淡雪のように飾られた白い椿を照らしだす。それを見て、官二は口元を緩めた。

「……綺麗に咲いとったけん、一輪だけもろたんよ。……来年は、ちゃんとしたの買うけん」

 その意味はすぐにわかった。
 きっと来年は、椿祭りの屋台で、自分のために髪飾りを選んでくれるんだろう。つまり、今度こそ一緒に椿祭りに行こうっていう、約束。
 胸の奥がふわっと温かくなって、小春は幸せそうに頷いた。

「約束ね」
「ウン。約束」

 どちらからともなく小指を繋ぎ合わせて、二人は笑った。
 そうしてまたしっかりと手を繋ぎ合って、丸い月の明かりの下を帰路に向かう。

 翌朝早くに官二は家を出て、椿神社へと向かった。昨夜、勝男たちを驚かすのに使った小道具――釣り竿やこんにゃくを回収するためである。

 参道の脇にある藪と木々の中。そこにぽつんと佇む、もう使われていない古い石灯籠の裏から道具を回収したとき、薮の向こうの参道を勝男が歩いているのが見えた。彼の後ろには正と、昨夜はいなかった伊助が付き従っている。
 官二は藪の中から三人の後を追った。

 彼らは拝殿の奥に回り込むと、石を重し代わりに縁に置かれてあった半紙を開き、「ありえん……!」と目を見開いた。
 紙には堂々とした小春の字が並んでいて、それは、彼女が肝試しを成功させたという証拠。けれども三人は信じられず、口々に言い合った。

「こんなん嘘や。あの弱虫が……」
「いやでも、これあいつの字やろ」
「それは……。いや、ちょっと待てよ。実は官二がおったんちゃうか」
「そうや! あいつ、ひとりで肝試しするって約束破ってほんとは……」

 官二は呆れた。彼らの予想は正解だ。まったく、妙なところで鋭かったりする。

「とにかく、学校言ったら問い詰めてやったらいい。井上のことやけん、すぐにボロ出るやろ。もし官二が来とったんなら、弱虫の嘘つきって言ってやって……」

 と、勝男がまた意地悪な提案をしたところで、官二は茂みの中から飛び出してやった。

「うわっ」

 ガサガサッとわざと大きな音を立てたので、彼らは相当驚いたらしい。肩を跳ね、目を丸くして振り向いて。その先に官二がいることを確認すると、すぐに眉を吊り上げた。

「なんや、官二。脅かすな!」
「そっちが勝手に驚いたんやろ」
「う……。いや、そんなことはええ。それよりお前、これ、なんか知っとるんやないか」

 咳払いをひとつして、勝男は手にしていた半紙をずいと差し出した。

「さぁ。なんやろ。小春の字やなぁ」
「とぼけんなや。どうせお前もおったんやろ」

 キッとすごむ勝男は、背が高く体格もいい。対する官二は、同い年の同性と比べると小柄な部類だった。けれど、ちっとも臆することなく見つめ返しながら、なんと答えるべきか考える。そして、

「おったかもしれんけど、ええの?」

 と、悪戯を思いついたときのように口角を上げた。
「は?」と勝男が眉を寄せる。その彼に、不敵に笑ったまま官二は続ける。

「だって、僕がそこにおったってことは、お前らのアレも見とったかもしれんやん」

 ややあって、勝男と正の顔がサッと青ざめた。唯一、昨夜神社に来ていなかった伊助だけは「アレ……?」ときょとんとしていて、何かあったのかを聞きたそうにしていたが、正に腕を引かれて口を噤んだ。
 勝男は、「お前、まさか……」とわなわな震えている。官二は笑みを濃くすると、

「『ごめんなさい、呪わんといてください』、『助けてお母さん』、やっけ?」

 と煽るように言った。
 事情を察した伊助が目を丸くする横で、当の本人たちは顔を真っ赤にして「官二、お前ぇ!」と叫んだ。
 官二は、べぇっと舌を出し、殴りかかろうと迫ってくる勝男の顔面めがけて先ほど回収したこんにゃくを投げつける。
 砂まじりのこんにゃくがべちょりと顔に張り付き、勝男はますます眉を吊り上げた。その彼に向って、官二は言う。

「フン。また小春いじめてみろや、お前らが泣いてちびりながら逃げてったこと言いふらしてやるけんな!」
「〜〜ッ! ふざけんな、畜生! 待てや官二、絶対殴ったる!」

 けれど、すばしっこい官二は早々に逃げ出し、三人の前から姿を消した。
 勝男たちは田んぼ道の真ん中で息を整えながら、「どこ行ったんや……」と悔しそうに呟く。

 三人とも、もう小春にちょっかいは出せれないな、とはっきり感じ取っていた。小春と官二は仲直りしたようだし、ちょっとでもいじめようものなら、これまでのように官二が飛んでくるだろう。挙句の果てに、勝男と正の二人は大きな弱みまで握られてしまった。官二のことだから、意味もなく言いふらすようなことはしないだろうが……。
 ――学校行くん、憂鬱や。
 誰もがその言葉を必死で呑み込んでいた。



 夜に家を抜け出して肝試しをしたことで体も心も疲れていたらしく、小春は翌朝、珍しくすぐに起きられなかった。

「小春、遅刻するぞ。官二も来とる」

 と夏彦が肩を揺らしながら声をかけてくれたことでようやく飛び起きて、寝ぐせを直すのもそこそこにばたばたと準備をして家から飛び出すことになる。

 家の前にいた官二は、小春と違ってしゃんとしている。特に寝坊した様子もなく、いつも通りだ。
 ただ、「おはよう」と言ったその笑みが、妙に機嫌がいいような気もした。

「ちょっと急いだほうがいい時間やな。遅刻したら反省文か居残り掃除か……、下手したら尻叩かれるかもしれん。早く早く」

 言ってすぐ、官二は小春の手を引いて走り出した。
「気をつけて行けよ」と、背中から夏彦の声が聞こえる。振り返ったら、彼もまた学校に行くところのようで、学生服で自転車に跨っていた。

 田んぼの畦道を朝日を浴びながらぐんぐん走る官二はやっぱり機嫌がよくて、鼻歌まで歌っている。
「ご機嫌やね」と小春が言うと、「ウン。一緒に学校行くん、久しぶりやけん」と無邪気に答えた。

 これまでのこと、それから昨夜のことを思い出して、小春は改めて「昨日はありがとう」と言う。官二が振り返って「ええんよ」と笑う。「これからもなんかあったら、僕に言って」と続けられる。
 うん、と小春は頷いた。
 官二の満足そうな笑みが、朝日に照らされてきらきらと輝いている。

 ――これは、上海での戦がようやく終わったと新聞が伝えた日のこと。戦争の足音はまだ遠く、脅威は海の向こう側にしかなかった、昭和七年のことである。

二 距離
(二)「何やねん、あいつ!」

 草の茂った河川敷で、官二は鞄を投げつけて声を荒げた。

「おい、鞄汚れるぞ……」

 その様子を後ろから眺め、呆れたように|正《まさし》が言う。小学校時代、小春をいじめては官二に殴られていた正も、意外なことに松山中学校に進学していて、今では官二と親しい間柄だ。

 正は大木の日陰に腰を下ろす。
 蝉がひっきりなしに鳴いていた。じわりと滲む額の汗を拭って、彼は言う。

「もういい加減諦めや。というかやめてやれ。井上の気持ちも考えろ。周りの目とか、いろいろあるんやし」
「……そんなん今更やん。これまでは気にしとらんかったのに」

 官二は不機嫌な表情で言いながら、一年と少し前までを思い出す。
 一緒に帰ることはもちろん、手を繋いで帰ることすら当たり前だった日々。互いに進学した途端、帰り道で軽く会話することすら許されなくなるなんて、正直納得できなかった。――男女七歳にして席を同じゅうせず―― |礼記《らいき》の思想が元になっていると、想像はできても。

「おまえって、たまにアホよなぁ」

 不意に正が言った。呆れたような声音だった。

「はぁ!? 急になんやねん。というか、お前に言われたないわ!」
「いいや、言う。おまえはアホや。井上はな、周りの目をまったく気にしとらんかったわけやない。むしろ気にしとったけど、嫌味とか悪口言うやつらを――おれ含めて、おまえが全員ぶん殴って黙らせとったけん、なんとかなっとっただけや。やけん環境が変わったいま、避けられるんは当たり前なんよ」

 堂々と語る正に、官二は口をつぐんだ。普段なら正に言い負かされることはまずないが、これに関しては彼が正論のような気がしてならない。というか、正論だ。
 珍しく官二に反論の余地を与えなかったことで良い気になったのか、正はどこか得意げな表情で「ついでに言うと」と続けた。

「井上は普段の学校生活だけでも大変やと思うで」
「学校生活? なんで。そんな不器用でもないし、勉強も置いてかれるようなことないやろ」
「うわ、またずれたこと言よる。まあおれも姉ちゃんから聞いた話やけど、女学校って序列が厳しいんやって。家柄とか、持っとるもんとかで決まるやつ。まあおれらの中学にもないわけやないけど、男子と比べると嫌味も酷いんやってさ。で、井上んとこは裕福な家庭とは言えんやん? やけんまあ、そういうこと。ほんでそこに男関係の噂なんかたてられたらなあ」
「……」

 正がこうも的確な指摘ができるのは、彼が年の近い姉二人と妹二人に囲まれているからだろうか。官二にも三人の姉妹がいるけれど、長女は七歳上で、次女は五歳下、三女は七歳下と、年齢差が大きい。
 これ以上は言わんでもわかるやろ、と肩を竦める正の態度は妙に癪にさわって、つい「むかつく、正のくせに」なんて零してしまう。

「昔は『助けてお母さん』って泣いてばっかやったのに」
「おま……っ、それは今関係ないやろ! それにいつの話しよるんや、殴るぞ!」
「お、やるんか。僕に勝てたこと、一度もないやろ」
「今度は勝てるかもしれんやろ!」
「無理、無理」
「おまえなあ!」

 カッと顔を赤くした正が勢いよく立ち上がる様は、いつも通りの慌てぶりだ。官二は多少気をよくして笑った。
 かつて小学校で殴り合いの喧嘩をしていた日々が懐かしい。正の隣にはいつも勝男と伊助がいて、意地悪なことばかりする彼らをまとめて懲らしめていたものだ。
 三人のうち、中学校へ進んだ(進むことができた)のは正だけだった。勝男は高等小学校へ進学しながら実家の農家を手伝っていて、伊助は実家から遠く離れた、海近くの村にある寺へ奉公に行ったと聞く。

 きゃはは、と幼い笑い声が聞こえ、官二と正は揃ってそちらを見た。
 沈みゆく夕陽に照らされた川めがけて子どもたちが走り込んでいる。全身ずぶ濡れになりながら水をかけあい、水面に手を突っ込んだかと思ったら魚を捕まえて互いに見せびらかしている。
 小春ともよくあんなふうに遊んでいたけれど、もうあのころのようには戻れないんだろう。子どもたちの様子を羨ましく見つめ、
「……つまらん」
 と、つい、溜息とともに小さく吐き出してしまう。
 そのぼやきを正は耳聡く拾い上げて、「おまえ、毎日あんなに楽しそうにしといて……」と零した。

「それとこれとは別や」

 正が言うように、松山中学校での日々を楽しく過ごしているのは事実だ。中学校の環境は、官二によく合っていた。
 異性の目がないことでふざけあいや乱暴な言い合いが激しくなることも少なくなかったけれど、それらは官二にとって煩わしいものではなかったし、喧嘩をすることがあっても小学校時代と変わらず負けなしだった。
 一方で、小学校時代にはいなかったような、文学好きで勤勉な者たちと多く知り合え、放課後に彼らと語り合う時間ができたのもよかった。正岡子規、夏目漱石、石川啄木、北原白秋、与謝野晶子、尾崎紅葉……。ありとあらゆる文学者の作品に触れ、自分たちで俳句や詩も作るようになった。特に官二は正岡子規が好きで、彼を真似て写生の世界にも足を踏み入れたくらいだ。我ながら才能があったらしく、校内の大会で特別賞に輝いた写生画は、ちょっと古いものの立派な額縁に収められて部屋に飾られている。

 新しい環境、新しい人間関係。それらを、官二はたしかに謳歌していた。
 けれど、それでも。

『カンちゃん』

 そう呼んで、にこにこと笑いながら傍にいてくれた幼馴染とたまには話したくなるし、あの頃のように一緒に無邪気に過ごしてみたいと、どうしても思う時があるのだ。

 もう一度そっと息を吐き、官二は立ち上がる。「帰るんか。急なやつ」と言いながら正が追いかけてきて、土手に置いていたそれぞれの自転車に揃って跨った。ペダルを漕ぎ、大きな橋を村めがけて南下する。差し込む西日は焼けた金色をしていて、痛いくらいに眩しい。


前へ次へ
表紙へ戻る
top