01
地獄の春、物語の幕はあがる
春といえど、桜もつぼみをつけはじめたばかりの時節はまだ肌寒い。特に、夕刻になれば尚のこと。
吹き抜けた風に小さく身震いをして、橙色のパーカーのポケットに手を突っ込んだ。目前には、堂々と鎮座する講堂。自然と、反抗的な鋭さで睨み付けてしまう。
今日はこの場所で、校内限定の公式戦『S2』が開催されている。それは、アイドルたちがお互いに鎬を削り競い合う華々しいライブ対決――などではなく。アイドル科の生徒にとっては、「どれだけ参加したか」「どのユニットに票を入れたか」(多く観戦していると『やる気がある』と評価され、勝利したユニットへ票を入れていた方が『審美眼がある、センスがある』と判断される)が成績に反映する、ある意味での重要イベント。
だから彼らは、間違いのない道を選ぶ。生徒会が参加していれば、強豪ユニットが参加していれば、そちら側に票を入れる。一番正しくて、一番安全だから。
ぎい、と重苦しい扉が開いた。ずらずらと、覇気のない操り人形みたいな生徒たちが列になって溢れ出す。その表情に、笑みはない。ただ言われるがまま、なすがまま仕事を終えた、ロボットみたいだ。
「ああ、終わった終わった」「早く帰ろうぜ」
人混みの中から、そんな声がした。
――実際はまだ、トップバッターであった『紅月』しかライブを終えていないにも関わらず。
暫くして、人の波が止んだ。
がらんとした講堂の中で、ひとつのユニットにスポットライトが当たる。きらきらと眩しいはずのその場所は、ひどく冷たくて虚しくて。
それでも彼らは歌う。アイドルとしての使命を果たす。舞台上で、笑い、踊り、演じる。形骸化されて錆びついた、こんな小さな世界の中で。誰の耳に届かなくても、ただ、息絶えるまで。
・
「……浮かない顔をしておるのう」
どこか老人めいた口調で発せられるテノールは聞き覚えのあるものだった。声の主を想像しながら振り返れば、予想通り。夜闇によく似た黒髪と、血のように赤い双眸を持つ美青年が、夕陽を背にゆったりと立っていた。
それは、かつて『神』とさえ崇められていた人物。この奇人変人の掃き溜めのごとき夢ノ咲学院において最も珍奇で高名な『三奇人』がひとり――朔間零。
「……ここ、普通科の敷地なんですけど?」
わたしからの第一声は、それだった。
その見目麗しさから容易に想像できるように、彼はアイドル科に所属する立派なアイドルである。それも、『UNDEAD』という夢ノ咲学院で最も過激で背徳的と謳われる『ユニット』の頭目。普通科の敷地を呑気にうろついていい人物ではない。
果たしてどうやって、厳重な監視や教師たちの目を搔い潜ってきたのか……、そう考えるも、はたと気づく。そうだ、このひとはかつて、この学院の生徒会長で、統治者として学院の光も闇も視てきたはずだった。こういう『悪さ』ができるのは、ある意味当然なのかもしれない。
「おや? 敷地についてまさか嬢ちゃんに指摘されるとはのう……。我輩よりも、嬢ちゃんの方が忍び込みまくっていたじゃろう?」
わたしの問いかけに、零さんはわざとらしく
「うう、その『嬢ちゃん』呼び、どうにかなんないのぉ? なんか、ぞわぞわするんだけど」
「そうかえ? 我輩はもう慣れたよ」
肩を竦めた彼が、薄く笑う。まるで、この世の真理を知り尽くしたかのような表情だった。わたしは、(あ、『ラプラスの悪魔』だ)と心の中で思った。世界の全てを知っているが故に、未来さえも予見できる知性をもつ
「嬢ちゃん」
と、もう一度彼がわたしを呼んだ。
『嬢ちゃん』呼びを止める気は全くないらしい。自分も慣れたのだからお前も慣れろとでも言いたいのだろうか。
これ以上の反論は無意味だと察してその呼び名を甘んじて受け入れ、「なに」と見つめ返したところで、彼の瞼はすぅと糸のように細くなった。そこから覗く赤は、獲物を捕らえる吸血鬼のような爛々とした鋭さを浮かべている。何か重要なことが語られるのだろうと勘づくのに時間はかからなかった。
「……少し、手を貸してくれんかや
すぅと糸のように細められた瞳から、獲物を捕らえる吸血鬼のような、爛々とした鋭さが見え隠れしていた。何か重要なことが語られるのだろうと勘付くのに、時間はかからなかった。
小ぶりで形の良い唇がそっと開く。そして、ささめきが風に乗り、耳元まで運ばれた。
「……お主はまだ、諦めておらんな?」
脈絡のない問いかけ。
けれど、わたしは不思議と彼が何を尋ねたのか理解できた。
脳裏に浮かぶのは、かつてこの学院の闇に淘汰されたひとりの少年。無邪気で、純粋で、優しすぎるが故に潰されてしまった、大切な大切な男の子。舞台を駆け回り、星のようにきらきらした笑顔を振りまいていた唯一無二のアイドル。
わたしは、彼がこの学院に戻ってきてもう一度笑顔で舞台に立つ、そんな日々がくることを心から望んでいる。信じている。全てが奪われたあの日から、藻搔いて足掻いて、その片鱗すら見えないというのに、未だに諦められずにいる。諦められるものか。
「……もちろん」
瞬きひとつなく真っ直ぐに告げると、零さんは口角を上げた。先程までの穏やかな笑みではなく、どこか挑発的な含みのある笑い方だった。
「良い瞳じゃな」
「良い目……?」
「うむ。嬢ちゃんの目には、火がついておる。闘争心、あるいはお主の固い意志が視えるようじゃ。……その瞳を、その瞳になるために必要な心を、忘れるでないぞ」
零さんが一歩距離を詰め、わたしの目尻に軽く触れた。
それから彼はこちらに背を向けて、舞台に立つ演者のように語りだす。よく通る声で。客席に、自身の存在感を示すような身振りで。
「新しい学科が設立され、学院は動乱の種を抱えた。やって来たのは素人じゃがな。素直で真面目で一生懸命で……何もできん、何も知らんのにできることを必死で探しておる。
嘆くような、哀れむような声色はしかし、彼が振り返る一瞬のうちに取り払われた。
「けれど彼女の存在は希望になる。生徒会に支配された窮屈なこの学院を変えようと革命を目論む――星の名を持つ子らを何倍、何十倍に煌めかせる触媒になる。彼らの懸命さこそ青春じゃよ、永らくこの学院から失われていた輝きじゃよ。窮鼠猫を噛む、生徒会に吠え面をかかせてやるんじゃ、我輩率いる魔物の群れが! ……どうじゃ、心が躍るじゃろ?」
そのテンションが妙に高いのは、黄昏時も終わり夜の帳が刻々と広がる時刻だからだろうか。『吸血鬼』を名乗る彼は、その名に相応しく辺りが闇に包まれてからの方が活動しやすいと聞く。
というか、星の名を持つ子たちって何のことだろう。矢継ぎ早に紡がれた言葉には分からないことが多く、なかなか理解が追いつかない。それなのに。
知らず知らず握っていた拳は、じわりと汗をかいていた。体が熱い。内側から熱が広がっていく感覚。
そうか、わたしは期待している。まだ出会ったこともない、声も名前も知らない相手、無謀ともいえる試みをする挑戦者たちに。星の名を持つ者たちが引き起こす革命を、その成功を、この目で見届けたいと思っている。
「彼らは皆、まだ未熟で欠けている。観客もほとんどいない。ひとりでも多くの味方が必要じゃ。最も、お主がもう何もかもを諦めてこの学院の流れに身を委ねると嘆くなら黙って帰るつもりじゃったが……、そうではないと分かってしまったからのう。悪いが巻き込ませてもらうよ。かつてこの学院の闇に愛する王を奪われた――、心優しき普通の少女よ」
一番星が控えめに輝く、夕と夜の狭間。高らかに号令を上げた『魔王』により、物語の幕は開けられた。