白雨と足音
夜九時を回った週末の駅前は、酒に酔った会社員や学生たちで溢れている。
千鳥足でげらげら笑うスーツ姿の男、蹲った酔っぱらい、それを介抱するひと。「お兄さーん、一緒に飲みません?」甘えるような女の声が自分に向けられたものだと気づき、「ごめーん、奥さんが待ってるんで」軽い調子で嘘をついて通りすぎる。さっさとタクシーを拾って帰りたい、とロータリーを目指していたら、道路を挟んだ先のお洒落なイタリア料理店から見知った顔が出てきて足を止めた。
名前ちゃんと、例の後輩くんだ。
楽しげな二人の様子を見ながら、そういえば結局仲が進展したかどうか聞きそびれてたなと、ふと思った。本当なら、名前ちゃんを看病したあの日もそれを確認するつもりだったのに。自己紹介をしてくれた後輩くんは自分のことを「会社の同僚」としか言わなかったから、あの時点では何も起こってなかったんだろうけど……。
思わず二人の様子を窺ってしまう。
(ここ、駅から離れるようにちょっと進んだらラブホ並んでるよね。もしかしたら……)
なんて下世話なことを考えて彼らの行き先を眺めていると、二人はあっさりとこっち側――つまり駅の方へと向かって、あっさりと改札前で別れてしまった。
何でだよ、と思わず頭を抱えたくなった。
名前ちゃん、今まで散々変な男にはついていってたくせに。それとも後輩くん、「もう一軒」とか誘わなかったのかな。でもせめて家まで送りなよ、名前ちゃんが住んでるアパート、最寄り駅から十分ちょっと歩くから危ないかもしれないし、なにより部屋にあがれる可能性だって――。
「……」
名前ちゃんが後輩くんを部屋に誘う姿をリアルに想像してしまい、妙な気分になる。それを振り払って、まあ別れてしまったものは仕方ないか、と言い聞かせた。
(名前ちゃん、お酒飲んだかな〜。前みたいにベロベロには酔ってなさそうだけど、ひとりで帰れるかな……)
人混みに紛れていく小さな背中を眺めながら頭を悩ませて。
結局僕は、彼女のあとをこっそりつけることにした。だってもし何かあったら寝覚めが悪い。
駅のホームの人混みに紛れ、名前ちゃんと同じ電車に乗り込んだ。車両は別だし、彼女が僕の存在に気づく様子はない。
しばらくして最寄り駅で降りた彼女は、慣れた足取りでホームの中心にある階段へ向かう。直後、その後ろからスマートフォンを片手にバタバタと男性が走ってきて、あっと思ったときには男が手にしていた鞄が彼女に当たる。ちょうど階段を降りようとしていた彼女はぐらりとバランスを崩して、ヒュッと声にならない短い悲鳴を喉から漏らして、それより早く僕は腕を伸ばしていた。
「……あっぶな……」
間一髪。背後から、左腕は彼女の腰を支えるように回して、右手で手摺を掴んで耐える。男は謝罪の一言もなく走り去っていて、その背中を蹴飛ばしてやりたい気持ちに襲われる。というかここにいるのが僕でよかったね、もし夕暮くんならその首今ごろ繋がってないよ。……いやまあ、さすがに一般人相手にそこまではしないかな……。
顔をあげた名前ちゃんが、「南雲さん」と驚いたように僕を呼ぶ。「平気?」と問いかけ、彼女が頷いたのを確認してからそっと体を離した。
「どうしてここに?」
「ん〜? まあちょっと。せっかくだし送るよ。もう暗いしね〜」
はぐらかしてさっさと前を行くと、名前ちゃんは思いのほか素直についてきた。
駅中にはそれなりのショッピングモールがあるし駅前もファミレスや書店や薬局の入ったビルなんかでそこそこ賑やかではあるものの、少し歩けばもうただの住宅街だ。街灯も頼りない明かりのものがぽつぽつとしかない。
「そうだ。南雲さん、このあいだは本当にありがとうございました」
「熱でたときのこと? 気にしなくていいよ〜。それより後輩くんにもお礼言った?」
「うん。出社したとき、『お兄さんマジでイケメンですね』って言われて一瞬びっくりしちゃった。看病引き継いだって聞いて、南雲さんのことだって分かったけど」
「あは、ごめんね〜。誰? って聞かれちゃって、つい」
うん、と口の中で転がしてながら隣を歩く名前ちゃんは、今にも鼻歌を歌ったりスキップをしたりしそうな感じだ。「ご機嫌だね」と言ったら、「んふふ」と笑い声が返ってくる。ふっくらした頬が少し赤みを帯びていて、たぶん、それなりにお酒を飲んで愉快になっているんだろう。
クリーム色のこじんまりしたアパートに辿りつく。共用玄関の前、「送ってくれてありがとう」と笑う彼女に「いーえ」と言って。それからふと、
「今度は後輩くんに送ってもらいなよ」
と続けていた。
え、と名前ちゃんが顔を上げる。いつもより丸く見開かれた目が微かに揺らいでいた。
「実は駅前のお店から出たところ見てたんだよね〜。本当に偶然だったんだけど」僕は淡々と告げる。
「そう……だったんだ」
「いい感じだったのにもったいない。この前会ったときも思ったけど、後輩くん、礼儀正しそうだし元気だしいい子だよね〜。名前ちゃんから見てどう?」
「どうって……」
言い淀む彼女の表情が徐々に陰る。
しばらく視線を彷徨わせた彼女は、やがて「南雲さんは」と僕を呼んだ。その声が、目が、少しだけ震えているように思えた。
「わたしが、彼とどうにかなればいいって思ってる?」
「……まあ。だって君が今まで騙されたクソみたいな男たちに比べたら、あの後輩くん相当いい子だよ。それにどう見たって、君のこと好きじゃん」
「それは」
思い当たる節があるようで名前ちゃんは否定しない。かといって肯定もしなかったけど。
名前ちゃんはこれまで、とりあえず誘いには乗るし、割と勢いで付き合ってしまうタイプだった(結果、騙されてばかりだったというのはさておき)。だから、後輩くんとの関係を進めることに躊躇っていそうで意外に思う。
ああいうタイプは好みじゃないのかな。でも名前ちゃん、別に似たような男とばかり付き合ってるわけでもないのに。たとえば僕がはじめて会ったあの婚約相手と、その後付き合いかけてた会社の先輩は、全然系統が違う。
しばらくの沈黙のあと。
「南雲さん」
と、名前ちゃんは意を決したように顔を上げて、それから。
「南雲さん、好き」
「……は?」
上目遣いで零された言葉に、僕はただただ唖然とするしかできない。
「何言ってるの……。酔ってるでしょ」
「まともな思考できなくなるほど酔ってはないよ」
「……」
それはたぶん、その通りなんだろう。まともに歩けず、なんなら吐いてた彼女のことを思い出す。けれど僕は「ううん、酔ってるよ」と否定した。否定しないといけなかった。
「そんなこと言うとか、絶対に酔ってる」
「……南雲さんは、なんとも思ってないのに朝まで看病してくれて、今日もわざわざ送ってくれたの」
責めるような口調だった。
わずかな逡巡。それを振り払って、僕は「そうだよ」と淡々と返す。返して、それから、「君、誤解してない?」と冷ややかに言い放つ。
「僕は、夕暮くんに頼まれたから、君の結婚まで見届けようとしてるだけだよ」
「……っ」
名前ちゃんはあからさまに傷ついた顔をしたけれど、僕はもうそれを慰められない。唇をぐっと噛んだ彼女は無言のまま勢いよく背を向けて扉の向こうへ消え、階段を駆け上がる。
……部屋に戻ったらきっと泣くだろうと思って、はじめて彼女と会った日のことを思い出す。夕暮くんが亡くなったことを伝えたあの日。ぼろぼろと泣く彼女は痛ましくて、もしもあんなふうに一人で傷ついていたらと思うと、どうしたってその体を抱きしめたいとさえ思ってしまった。でもそんな権利が自分にないことは、僕自身が一番よくわかっている。
・
それ以降はなんとなく彼女に会いに行けない日が続き、そのうち任務で長期間東京を離れることになった。ここ最近は名前ちゃんのこともあって、任務はなるべく近場のものを引き受けてそれ以外は豹に押し付けたりしていたから、あっさりと了承した僕に豹は怪訝な顔をしていた。
ようやく任務が終わって東京に戻ってきたのは、暑さもずいぶん和らぎ、穏やかな秋がすぐそこまで顔を覗かせているころだった。
「あ、ちょうどよかった。南雲さんに会いに来たって女性が受付に来てるんですが……」
久しぶりの殺連の会社内を豹と一緒にうろついてたら、自販機前の小さな休憩スペースで新人の受付くんから声をかけられた。
「僕に? 別に誰とも約束してないけど」僕のきょとんとした返事を受け、彼は「そうですよねえ」と苦笑する。
「殺しの依頼とかでもないようだし……。というか、めちゃくちゃ一般人っぽいんですよね。なんでこんなとこに? ってくらい。やっぱり帰ってもらいますね」
「……ねえ。それってもしかして、黒髪のちっちゃい子?」
「あれ? よくわかりましたね、お知り合いですか?」
受付くんの言葉に、絶対にあの子だ、と確信した。
大慌てで彼の横を通り過ぎて受付まで向かうと、想像通り。名前ちゃんが行儀よく立っていて、こちらを見るなり「南雲さん」と小さく笑った。いや、そんなふうに僕の名前呼んでる場合じゃないから!
首根っこを掴んで引きずるように外に出し、人気のない路地で向かい合って。
「君、なにしてるの、馬鹿じゃないのこんなとこ来て!」
あの受付くんは新人で夕暮くんのことなんて知らなかったからよかったけど、夕暮くんとの関係がばれてしまえば殺し屋のいざこざに巻き込まれる可能性だってある。こんな物騒な場所に顔も隠さずにやってきて、ほんとうに。
焦りを含んだ声で叱責する僕に動じず、名前ちゃんは「だって、最近会えなかったから」と言った。なんとなく気まずくて押し黙っていると、彼女は「だから、いろいろ伝えれなくて」と続ける。
「……いろいろ?」
「うん。……あのね」
ほんの少し間をおいて、彼女はすぅと息を吸う。
そして、
「付きあうことになりました」
と、口元に笑みを受けべて告げた。
誰と、とは聞かなくても分かった。あの、後輩くんと。
「南雲さんが言ったとおり、すごいいい子なの。まだ日は浅いけど、いずれは結婚とかも考えてくれてるって。だから一応、報告しておこうと思って。……それでもし、結婚することになったら」
名前ちゃんはそこで一度言葉を区切る。だから、僕はその続きを引き継ぐように「わかってるよ」と頷いた。
「結婚式はちゃんと見届ける。そういう約束だったからね」
うん、と彼女は安心したように微笑んだ。
「こんなとこもう来ちゃ駄目だよ、何かあったら連絡して」と、これまで頻繁にやりとりはしないほうがいいだろうという理由で教えていなかった連絡先を渡し、彼女を帰して会社に戻ったら、豹が待ち構えていた。豹には名前ちゃんの顔はほとんど見えてなかったと思うけど、夕暮くんの妹だって、もしかして気づいたかな。何を言われるのだろうとほんの少し身構える僕に、彼は「誰だったんだ?」とも「今の、まさか」とも言わず、たった一言、「平気かよ」と零した。
「え〜、何が?」
「いや……お前、珍しく顔が暗ぇから」
「……は」
自分でもびっくりするくらい間抜けな声が出た。そんな顔をしてるつもりはないのに。
「いやいや、気のせいでしょ〜。豹、変なこと言うなぁ」
努めて明るく笑い飛ばしたら、豹は訝しげな顔のまま「お前がいいならいいけどよ」と呟く。「あ、豹さん。すみません、お聞きしたいことが」「おう」まもなく彼は社員に呼ばれてそちらに向かった。
その大きな背中を見つめながら、かけられた言葉を反芻して、もう一度(いやいや)と思う。自分がどんな顔をしているかは分からなかったし、確認する勇気もなかった。だって、もし彼の言う通り沈んだ顔をしているとして、その原因は? どう考えても名前ちゃんからの報告で、それってつまり、僕は彼女が後輩くんと付きあっていずれ結婚するかもしれないってことを認めたくないわけで、そんなの、だって。
「……」
気づいたときには、ずるずるとその場に崩れて。「あ〜……最悪だ……」長い溜息とともに吐き出すことしか、できなかった。