道すがらの白夜


 名前ちゃんの会社の後輩くんは、本当に普通の一般人みたいだった。ほとんど何でも調べられる殺連のデータベースで検索しても、やましいところはひとつもない。何もかも隠している相当優秀な殺し屋という可能性もゼロではいけれど……、前に見た感じからして、やっぱり普通の子だろう。
 そしてきっと、これまで名前ちゃんが引っ掛かってきたヤリ目みたいな相手でもない。彼女を背負っていたときに見せた表情、あれは、純粋な好意そのものだった。
 性格とか趣味とか仕事がちゃんとできる人間か、とか。細かいことはまだ分からないけれど、それでも名前ちゃんが今まで付き合ったり付き合いかけたりしていたような人間よりはずっとまともなはずだ。
 とうとういい相手が現れたじゃん、よかったね。そう思うと同時に、なんだか妙な気持ちになることがあった。素直に祝いたくない気がするというか。そんなわけのわらない感情を抱く理由に困惑したものの、僕は結局それを夕暮くんの思考に似てしまったからだと結論づけることにした。
 任務でスイスに赴く前、僕を呼びつけて今度妹に会うのだと語った彼は、「結婚の報告かもなあ」と嬉しそうに呟いて、でも同じくらいに寂しそうだった。妹の花嫁姿は世界一綺麗に違いないと言いながら、相手の男が自分より妹を大切にできるかをしきりに気にして、気にくわなかったらぶっ飛ばしそうな感じだった。もし実際に会って結婚の報告を受けていたら、相手の男に「名前のことどんくらい好きなんだよ」と詰め寄って、ごねて、祝福を葛藤していただろう。……もちろん、最後は「しあわせに」って名前ちゃんを送り出すとして。
 名前ちゃんは僕の本当の妹ではないとはいえ、出会ってからずっと、夕暮くんの代わりにって彼女を見つめてきたのだ。そういう彼の思考にいつのまにか染まっていても、おかしくはない。
 梅雨が明け、暑さは日増しに強くなっている。もう夜になっても涼しいとはいえなくて、生ぬるくじめっとした風が肌をなぞる。

(後輩くんとどのくらい進展したか、聞きに行ってみようかな〜)

 名前ちゃん、どんな反応するんだろ。顔を真っ赤にして「付き合うことになった」と言う彼女を想像したらやっぱり少しだけモヤリとしたけれど、彼女の結婚を見届けるって約束をしたんだから、我儘は言ってられない。



 共用玄関のオートロックの暗証番号はもう知っている。酔っぱらった名前ちゃんを運んだとき、彼女が押した四桁の数字をしっかり見ていたから。
 とはいえ勝手に入るわけにもいかないので、彼女の部屋番号を押してインターホンを鳴らす。返事はなかった。もしかしていないのだろうか。もう夜も遅いけど、残業とか、飲み会とか? 念のため、ともう一度部屋番号を押したら。

『……はい』

 どこか警戒したような、若い男の声がしてぎょっとするけれど、すぐにその声の主を思い出す。京都で聞いた声だ。例の、後輩くん。こんな時間にいるってことは、泊まりとか? 思った以上に進んでる……って、待ってよ。だとしたら、これ、僕めちゃくちゃタイミング悪くない!?

『どちらさまですか?』

 硬い声で問われて、僕は思わず、

「兄です」

 と、答えていた。
 インターフォンの向こうの後輩くんは、一瞬黙ったあと。

『あ、お兄さん!? え、開けますね、ちょっと待っててください!』

 その声色はぱっと明るくなって、どうやら玄関を開けにきてくれるらしい。名前ちゃんも大概だけど、この子もなかなかに危機感なくない? 名前ちゃんから兄がいるって話を聞いていたのかもしれないけど、兄を騙る怪しいやつだったらどうする気なんだろう。
 階段を降りてきた後輩くんは、ちゃんとしたワイシャツとスーツパンツながら、ワインレッドのネクタイは緩めていて気取らない格好だ。背は僕と比べてしまったらそれほど高くない。彼は扉を開けてすぐ、「背、高いっすね」とぱっちりした猫目を瞬かせていた。

「はじめまして。俺、苗字さんの同僚で」

 と、人懐こい笑顔で名乗ってくれた彼にとりあえず「突然ごめん」と謝れば、

「いいえ! 俺のほうこそ勝手にあがったりしてすみません。苗字さん、お兄さんに連絡してたんすね。よかった」

 何の話か分からず曖昧な返事をしたけれど、部屋に入ってすぐに状況を察した。
 名前ちゃんがぐったりした様子でベットに横になっている。火照った頬、じんわりと汗が浮かぶひたい……どうやら熱があるらしい。

「誰も気づかなかったんですけど、朝から無理してたみたいで……。病院はもう救急以外閉まってたから、まだ連れていけてないんですけど」
「うん。ここまでありがとう」

 このあとは引き継ぐと言わんばかりの兄らしい台詞が零れた。
 後輩くんは「いえ。俺がしたかっただけなんで」と首を振り、カーペットの上に置いていた黒色の四角いビジネスバックを拾い上げる。それから、名前ちゃんと僕を交互に見てにこりと笑った。

「お兄さんが来てくれたなら安心です。俺、帰りますね。飲み物とか食べ物とか買ったやつ冷蔵庫にいれてるんで、よかったら」
「ごめん。いくらした?」
「いえ! これも俺がしたくて勝手にやったんで!」

 笑い飛ばすように明るく、けれど頑なに代金の受け取りを拒否して、彼は部屋を出た。「お邪魔しました」と深々と頭を下げて。
 明るくて、礼儀正しい、本当にふつうのいい子だ。他人を信じやすいのは美点でもあり欠点でもあるとして。
 冷蔵庫を開けて中身を確認する。メモ付きのビニール袋が真っ先に目に飛び込んできて、後輩くんが買ったのこれか、と中を覗かせてもらった。電子レンジで温めるだけの雑炊やお粥、ゼリーにプリンにヨーグルト、飲み物にポカリ、それから冷えピタ。
 冷えピタの箱を開け、部屋へと戻った。

「名前ちゃん、おでこ、ごめんね」

 前髪を掬いげてシートをそっと貼る。冷たさに驚いたのか、ぴくりと反応した彼女は目をうすらと開けて、「南雲さん……?」不思議そうな声で呟く。

「うん。僕だよ〜」

 ぱち、ぱち、と。力なく瞬きをした彼女は、眉を寄せてふにゃりと笑った。「へんな夢……」掠れた声で呟く。

「夢じゃないんだけどなぁ」
「……ほんとうに?」
「ほんとうだよ」

 手を伸ばし、彼女の頬に触れてみる。あつい、と思う僕とは反対に、名前ちゃんは「つめたくてきもちいい」と目を細めた。

「熱はかった?」
「うん。39度」
「うわ、けっこうあるね。食べるのもしんどいかな。後輩くんがいろいろ買ってくれてたけど……」

 呟いた直後。
 ぐう〜っと間抜けな音がして、僕は目をぱちり。名前ちゃんは羞恥をごまかすみたいにかけ布団を引っ張り上げたけど、髪の間からちらちらと覗く耳が真っ赤だ。
 あは、と思わず笑いが零れる。

「お腹すいてたんだ?」
「う、うぅ〜……、だってお昼もまともに食べれてなくて……」
「ふ……っ。食欲があるのはいいことだと思うよ〜」
「……笑わないでよ……」
「ごめんごめん。ちなみに、なにか食べたいのある?」

 なかなか笑いが堪えられない僕を名前ちゃんは少し睨む。
 なにか食べたいのある? の問いかけには少し悩んだすえ、

「……うどん」

 と小さく答えた。

「玉子とじのやつ。昔、お兄ちゃんがよく作ってくれてた」

 ああ、と思い出す。かつて一度だけ、僕も夕暮くんに作ってもらったことがある。レシピを教えてもらったわけじゃないから、曖昧な記憶を辿るしかできないけれど……。
 冷蔵庫の中を漁って、冷凍うどんと卵、ネギを取り出す。夕暮くん特製のうどんには生姜が入ってた気がするけど、残念ながら見当たらなかった。あとは醤油、みりん、料理酒、和風だしみたいなやつと片栗粉?
 試行錯誤しながら作ったうどんは、夕暮くんのものと全く同じではなかったけれど。
 ほくほくと湯気がたつそれを持っていったら名前ちゃんは嬉しそうに笑って、「おいしい」とすっかり平らげた。

「……ごちそうさまでした」
「はーい。お粗末様でした」

 食器はそのままにしていていい、と言う彼女を無視しシンクで洗い物をしているうちに、名前ちゃんはもう半分夢の世界にいるようだった。薬(前に買った風邪薬が残っていた)はさっき飲んでいたし、歯磨きも終えている。何も気にせず早く寝たらいいと思っていたら、不意に「南雲さん」と呼ばれた。彼女の声は、いつもよりふわふわとしていた。

「……まだいてくれる?」

 兄に甘えるような声だった。
 僕は薄く笑って、「もちろん」と答える。
 朝までだろうがいてあげるよ。だから心細く思ったりしなくていいよ。
 ほっと表情を緩めた名前ちゃんは目を閉じて、しばらくすると寝息を立てはじめた。僕はベットの端に肘をつき、寄りかかりながら彼女を眺める。その表情も寝息も、思っているよりずっと穏やかで、少しだけ安心した。
 


 南雲さん、と呼ばれる声で、自分が寝ていたことに気がついて、正直ちょっと驚いた。
 ゆっくりと瞼を持ち上げる。かすんだ視界は白一色。シーツの色だ。ベットの端に肘をついて、前傾でよりかかるようにしていたら、そのまま意識を落としていたらしい。
 南雲さん、ともう一度呼ばれた。遠慮がちに肩を揺する小さな手を僕は振り払わない。「う〜ん……」と唸って起きていることをアピールしながら、もぞもぞと顔をあげる。眉間に力を込めながら、瞬きを数回。ぼやけた世界の輪郭が徐々にはっきりと移り変わる。カーテンの向こうからはもう薄い明かりが差し込んでいた。

「……いま何時……?」
「六時前です」

 思ったよりも早い時間だった。まだ寝てたい、と呟きそうになるのを堪えて体を起こす。
 こちらを見る名前ちゃんの顔は昨日よりもずっとすっきりしていて調子がよさそうだ。

「……具合どう〜?」
「かなり楽です。南雲さんが作ってくれたうどんのおかげかな」

 寝ぐせいっぱいの髪とおでこに貼った冷えピタが半分剥がれた状態で名前ちゃんはふにゃりと笑う。思わずこちらの気まで抜ける、ゆるゆるの笑み。

「よかった。熱も下がったかな〜……」

 呟きながら、無意識に。
 僕の指は名前ちゃんの前髪を掬って、剥がれかけの冷えピタをそっと取って、次いで自身のひたいを彼女のおでこにこつんと重ねていた。
 名前ちゃんがまん丸の目で僕を見つめ返す。
 ……近い。当たり前だけど。自分のせいだけど。視線が絡む。うわ、なんか――。息を呑む、瞬間。
 チャッチャッチャー! と、突然枕元のスマートフォンから音楽が流れ、僕らは跳ねるように距離を取った。
 流れる音楽は街中でもよく聞くJポップだ。名前ちゃんがアラームに設定していたもののようで、彼女は慌ててそれを止めると、改めてこちらを見つめてくる。僕はその視線から逃れるように立ち上がり、

「……じゃあ僕、そろそろ帰るね」と言う。さっきまでの眠気はもう吹き飛んでいた。
「あ、はい」

 名前ちゃんは何か言いたげだ。あえて指摘はせずにいたら、彼女も諦めたのか「見送りに」と静かに立ち上がる。本当は制したかったけれど、鍵だけは閉めてもらわないといけない。

「南雲さん。本当にありがとうございました」
「ううん。あんまり無理しちゃだめだよ」
「うん」

 狭い玄関の前でそんなやりとりをして、戸を閉める。鍵がきちんとかけられたのを確認してから背を向け、階段を下り、共用玄関の外へ出た。
 東の空に浮かぶ朝日が眩しい。目を細めた直後、「南雲さん」と僕を呼んだ名前ちゃんの声が脳裏に響いた。それから、僕の肩を揺すって気を許したように笑う彼女の表情や、至近距離で見つめた顔を思い出す。気を抜いたらずるずるとその場にくずおれてしまいそうだった。……ほんとうに。なんであんなこと、しちゃったんだろう。

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