眩い出会いの日

 ――甲子園に行きたいです!
 青道高校野球部入部初日の、新入生自己紹介。突き抜けるような青空の下、厳つい上級生とおっかない監督のまえで堂々と夢を語った同級生の新マネージャー、苗字名前とやらは、それはよく働いた。あるときはスポーツドリンクが入った大きなウォータージャグを両腕に抱え、あるときは野球ボールが大量に入ったコンテナを持って走り回る。同年代女子と比べても多少小柄な体であっちこっちを行き来する姿は、ゴツい野球部員に囲まれると一層目立った。それは、野球一辺倒の御幸の目にも、(あいつ元気だな)とその姿がくっきりと映るほどに。

 はじめての会話は、部活後の食堂だった。
 相変わらずの食事量にげっそりしながら席についた御幸は、食堂の一角で妙な人だかりができていることに気づいた。集まっているのは、一年生ばかりだ。

「なぁ、アレ。なに」
「あ?」

 斜め前に座っていた倉持に尋ねる。口を曲げ、眉を寄せ、いかにも不良らしい返事をした倉持は、御幸が示す方をちらりと見ると、「苗字だよ」と雑に答えた。

「なんか、食いきれねーヤツの飯、握ってやってるらしーな」
「量は変わんねぇけど……」
「ま、気分が変わんだろ」
「フーン」

 美味い! 神! 天才! そんなふうに崇める同級生たちをぼんやりと眺める。ほどなくして、人だかりのなかから一仕事を終えたらしい苗字がひょっこりと現れた。そして偶然にも、御幸とばっちり目が合ってしまう。大きな黒い目が、星みたいだった。
 ヤベ、と御幸が視線を逸らすよりもはやく、苗字は「御幸くんもする? おにぎり」と丸いパッケージを掲げた。味付けのりまで用意していたらしい。

「……や、俺はいーよ」

 量が減るわけでもねーし。
 周りが一斉にしんとして、倉持が「お前なぁ」と引いたように見ている。御幸はそこでようやく、心の中だけで付け足したつもりだった言葉が溢れていたことに気がついた。
 おそるおそる苗字の様子を確認する。が、周囲の気まずさをよそに、彼女はけろりと「そ? まぁ、必要になったら言ってよ」とバッグの中にのりの箱をしまっている。

「じゃあ、お先に失礼します!」

 大きくお辞儀をした彼女は、「あ、そうだ」と思い出したように零し、御幸のほうをもう一度見た。そして、悪戯を思いついた子どものように、にんまりと笑うと、

「御幸くん。食べきれないからって、前園くんのお皿に移したりしたら駄目だよ」
「は?」
「ブッ」

 流し込んでいた味噌汁を吹き出しかける御幸の横で、前園が「お前……」とじとりと睨む。

「ちゃんと食わなアカンやろ! 食事もトレーニング言われたやろが!」
「食ってるよ、あいつの冗談だろ……!」

 嘘だ。冗談なんかではない。御幸は時折、隣の席に座った鈍そうな奴の器に自分のおかずをこっそり移していた。なんで知ってるんだよ、と颯爽と去っていく苗字の背中を睨みつける御幸は、結局その日、前園らの監視のなか、おぼんいっぱいの食事をなんとか完食したのだった。



 苗字名前は、今日もよく働く。
 すっかり日が落ちたあとも、寮のすみっこのベンチでボールの修繕に励む苗字に、御幸はつい「時間大丈夫なのかよ」と声をかけた。苗字は手を止め、顔をあげる。まっすぐな目が御幸を射抜いた。あいかわらず、きらきらした目だと思う。

「家、近いから」
「何分くらい?」
「歩いて十分かかんないかな」
「近っ」
「ぶはっ」

 なかなかに驚いた表情をした自覚はあったものの、肩を震わせて笑う苗字に思わず眉を寄せる。彼女はひとしきり笑うと、「御幸くんって、野球以外に全然興味ないよね」としみじみした。
 それはその通りだが、さきほどまでの会話から、どうしてそんな話になるのか。いっそう訝しむ御幸に対し、苗字は再びおかしそうに目を細めると、

「だってわたし、初日に話したし」
「え」
「家近いのでお役に立てるなら長く残るつもりですって。帰りも結城先輩と家の方面まったく同じって盛り上がったから、1年と2年はほとんど知ってる」
「……マジ?」
「マジ」

 気まずそうに視線を逸らす御幸は、「名前くらいは覚えてるし」と、そのくらい当たり前だろ、と指摘されるような弁明をした。

「ほんとに?」
「嘘ついてどうすんだよ。苗字サン」
「あ、合ってる」

 「よかった、よかった」と繰り返す彼女が、視線を下に向けた。土色でうすく汚れた指先が、ボールのほつれた赤い糸をきゅっきゅと引っ張っている。どことなくぎこちない動きだ。手先は不器用なのかもしれない。

「下手くそだから時間かかって。でも、キリがいいとこまではやりたいし」

 思いのほかじっと見つめていた御幸に、苗字は説明する。それから、「食堂行かなくていーの?」と尋ねた。御幸が食事に時間がかかることを知っているからか、どこか心配するような声音だった。

「ちょっと休憩しとかないと吐きそうで」
「あー。まあ、あれだけ動いたら食べるのすらしんどいか」

 受け答えはしっかりしているものの、苗字の視線はずっと手元に落ちている。安っぽい電灯が、スポットライトみたいに彼女の姿を照らしていた。汚れた手で汗でも拭ったのか、ふっくらした頬に砂の白い線が入っている。指摘するべきだろうか、と考えていたら。

「苗字、お前まだ残っとったんか!」

 突き抜けるような関西弁が響いて、御幸は思わず肩を跳ねた。同じ新入部員の前園が、ずんずんと大股でこちらに向かっている。

「家近いゆうてももう暗いで! 家族、心配するんとちゃうんか」
「オカン?」
「誰がオカンや」
「うそうそ、これ終わったら帰るって」

 どうやら苗字の言う通り、彼女の家が近いということは周知の事実らしい。前園の背に隠れるようにしている川上も、ウンウンと頷いている。

(仲良いなー、こいつら)

 二人のやりとりを眺めながら、御幸はそんなことを思った。苗字の雰囲気は、御幸と会話していたときよりもあきらかに軽く感じるし、声のトーンも明るい。そういえば、苗字、前園、川上の三人は同じクラスだった。

「ん? 苗字、砂ついてんで。右のほっぺんとこ」
「げ、うそ」
「ほんまや」

 御幸が伝えるべきか悩んだことを、前園は事も無げに告げる。手のひらでぐいっと頬を拭った苗字が、「のいた?」と尋ねる、が。

「……広がっとんな」
「え、最悪。いーや、もう帰るだけだし」

 あっさり諦めた彼女が、ボールの糸をピンッと引っ張る。「終わり!」隣に置いていたコンテナに修繕したボールを転がすと、取っ手を掴んで元気よく立ち上がった。

「じゃあ帰る! お疲れさま!」

 またな、とか。おつかれ、とか。適当な返事をして寮の中に入る前園たちに、「しっかり食べて、しっかり寝ろ〜!」と声をかけて。物置き場に向かう彼女に、御幸は思わず「苗字サン」と呼びかけた。

「ぅお、はい!」

 まさか呼び止められると思っていなかったのだろう、妙な返事とともに振り返った彼女は、「なに?」と言わんばかりに御幸を見つめる。

「俺、あれも覚えてるよ」
「あれ?」
「名前だけじゃなくて。甲子園行きたいです、ってやつ」

 言いながら、御幸自身、だからなんだとツッコんだ。苗字の事情をきちんと聞いていた前園らに張り合ったつもりか。馬鹿すぎる。
 苗字はなにも言わなかった。ふ、と真面目な顔になったかと思うと、どこか緊張感を漂わせながらゆっくりと口を開く。

「……変なやつって思った?」
「は? なんで? やるからには甲子園って、俺も思ってるけど」

 心底不思議そうに答えた御幸が、「目標が同じなのはいいことじゃね」と、独り言のように続ける。そんな彼を見つめた苗字は、ぱちり、と、音が立ちそうなほどに大きく目をまたたかせた。御幸の言葉を反芻するような間の後で、彼女は「うん」と顔を綻ばせて。

「ありがと!」

 向日葵を咲かせるみたいに大きく笑うと、疲れをみせない軽やかな足取りでその場を後にする。

「ありがとう……?」

 想定外の言葉に御幸は呆けてしまう。苗字の姿が暗いグラウンドの向こうに消えてなお、御幸はしばらくの間、寮の前で立ちすくんでいた。