距離が近づく日

 青道高校では年に二回、クラス別球技大会が行われる。一度目は五月、二度目は二月。それぞれ「新クラスでの仲を深めましょう」「クラスが替わる前に思い出をつくって楽しみましょう」という目的があるとかないとか、教師は言う。
 種目は男女別に、バレー、バスケ、サッカー、ドッジ、ソフト。すべてに参加するには人数が足りないので、まずはクラス内でどの種目を選択するか話し合い、次にどういうチームで参加するか決めていく。運動が苦手な生徒には苦しいイベントだろう。特に、行事に熱くなる体育会系がいればいるほど。佐藤さんグループはドッジでいいよね、とテキパキ決められるのを、文化部の彼女たちは教室の端で小さくなりながら頷いていた。
 「野球部ならソフトに出てよ」という女子からの提案(公平さを保つため、所属部と同じ競技には参加できないが、野球とソフトは別物と言い張れるらしい)に、「ボールが違いすぎるから無理」と断った御幸は、突き指の可能性がいちばん低いサッカーを選び、初戦で元サッカー部が6人いる2年生チームにあっさり敗北した。中学時代はサッカー部だったというクラスメイト2人が奮闘したものの、いかんせん経験者の人数差が大きすぎる。「経験者6人はバグだろ」「運悪かったよなー」試合後、クラスメイトは口々に言い合い、肩にかけたタオルで汗を拭った。

「どーするよ。女子の応援でも行く?」
「そもそもまだ残ってんの? オレ、バレーみてえんだけど。なんか美人の先輩いんだって」
「ドッジにも超かわいい子いたって聞いたけど」
「ドッジ、めっちゃ胸でかい子いなかったっけ」
「マジ!? 揺れる!?」

 男子高校生らしい話で盛り上がる彼らを横目に、御幸はぼんやりするばかり。教室に戻ってスコアブックが読みたいとか、寮で試合のビデオを見返したいとか、そんなことを考える。
 クラスメイトたちに引き摺られた御幸は、体育館の二階からバレーの試合の様子を眺めることになった。野球にしか興味がない御幸といえど、さすがにルールくらいは知っている。ただ、戦術どうこうは分からないし、そもそも戦術を組み立てて試合をしている者はいないに等しいし。ポーン、ポーンと、あっちこっちに跳ねるボールを追いかける女生徒を指差し、「あのひと、あのひと! めっちゃ美人!」と盛り上がる男たちと同じ熱量で試合を見れたら、多少は楽しめるのかもしれないが。

「おれ、あっちの小さい人のが好きかも」
「あのぽっちゃり? お前、ぽっちゃり好きなの」
「えー、それよりバスケのさぁ」

 下世話な話だな、と呆れていたら、「御幸は?」と聞かれてしまう。こういう質問は苦手だった。芸能人なら長澤ちゃんが可愛いと思うけれど。
 「よく分かんねぇ……?」と首を傾げるしかできなかった御幸へ、クラスメイトは「何だそれ」と呆れつつ、あの子はタイプか、あの先輩はどうだ、と口々に尋ねる。御幸はそのどれもに「髪が長い」とか「背が高い」とか、「そういう話をしてんじゃねえよ」と言われんばかりの感想を発した。そんな不毛なやりとりを、しばらく続けて。

「……お前、眼鏡変えたほうがいーんじゃねえの」

 クラスメイトが呆れたように零したのと同時に、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いたのだった。



 午後になると、試合に出るチーム数はぐっと減る。お目当ての先輩がいたチームが午前で敗退してしまい、すっかりやる気をなくしたクラスメイトを脇に、御幸は(もう寮に逃げ込んでしまおうか)と真剣に考えたくらいだった。
 渡り廊下横、自販機の前。試合もなく、応援にも行かず、お喋りにいそしむ生徒たちに紛れ込む。一人ぽつんと、どうしたものか、と息を吐いていたら、「急げ急げ!」とイントネーションの違う声が耳に飛び込んだ。

「……お」
「御幸、負けたんか。ひとりで何しとるんや」
「べつに、なにも?」

 声の主は想像通りに前園だった。白洲、川上、ほかにも野球部が数名。1Cは、御幸のクラス(1B)と対照的に、どういうわけか野球部が多い。倉持は別クラスのはずだが、先導する前園に連れ込まれたのか、彼らの中に紛れ込んでいる。周囲の見知らぬ男女は、おそらく前園のクラスメイトたち。

「暇しとるんやったらお前も来ぉへんか。苗字と夏川が残っとるらしいんや。準々決勝やで!」

 御幸は瞬きする。話によれば、二人はソフトボールを選択しているらしい。暇だ暇だとだらだらするよりは知り合いのプレイでも見ていたほうが有意義かと、御幸も前園とともにグラウンドへと向かうことにした。「倉持、何出てたの」「お前と同じサッカーだわ。二回戦で負けたけどな」「え、全然気づかなかった」「サッカー、突き指の心配はまずないからいいよな」寮生活を共にしているだけあって、野球部連中とはそれなりに話ができる。

「オッケー、オッケー! ナイスピー!」

 絵の具をひっくり返したような青空の下、苗字の声がよく響いていた。手を叩き、ピッチャーを鼓舞する彼女の立ち位置はショート。夏川はファーストでミットを構えている。審判には、試合のない野球部の二・三年生が借りだされていた。
 三回裏、スコアは0対0。学校行事のため、イニング数は五回と制限されている。既に試合は中盤だ。
 1Cの捕手は未経験者なのだろう、ど真ん中で不安定にミットをかまえるだけで、投手もお世辞にも上手とはいえないボールを投げる。対する相手打者は経験者だろうか、なかなかのスイングでボールを捉えた。野球の打球音よりも少し低くて鈍い音がして、ボールが打ちあがる。

「うわ、いい当たりじゃね」

 誰ともなく呟いて、センター前ヒットを予想する――、が。

「はいさーい!」

 元気なかけ声とともに、ショートを守っていた苗字がボールを受け止めた。おお、と周囲がどよめく。

「マジか。足速ぇーじゃん」

 倉持が感心したように零した。
 しょせん校内のグラウンド、本場の球場と比べるとフェアゾーンはかなり狭く設定されている。それでも、「上手い」と思わせるには十分なプレーだった。倉持が指摘した足の速さもさることながら、ボールの落下地点の見極めが早いし、打球に対する飛びつきもいい。野球かソフトか、とにかくこういう球技を経験したことがある者の動きだ。
 次の打者がスイングする。ボールは内野に転がって、グラウンドの整備が悪いのかイレギュラーな跳ね方をした。処理が難しそうなボールだが、苗字は迷いなく前進すると、「よっ」器用にミットに収め、「なっちゃん!」勢いそのままに一塁へと投げつけた。ストライク返球とはいかないものの、腕を伸ばした夏川がうまくキャッチ。アウトになる。

「おー、どっちも上手く取ったな」

 倉持の呟きは「ええぞぉ!」という前園の声援にかき消された。「守護神、苗字!」「あとアウト一個!」盛り上がるクラスメイトたちを見て、「わはは!」と威張るようにピースをした苗字は、

「青道の小坂誠と呼んでくれ!」

 なんて調子に乗った。
 いや、それは言い過ぎだろ。
 野球の知識がある者たちが一斉に心の中でツッコんだ、直後。

「「「あ」」」

 三遊間に転がってきたボールを拾おうとした苗字は、先ほどのプレーとは対照的にミットで弾き、見事なエラーを繰り広げた。

「すまーん!」
「油断するから!」
「小坂誠はそんなエラーしないだろ!」
「やーい、ニセ小坂〜!」

 やいのやいのと野次が飛ぶが、そのどれもが本気で責め立ててはいなくて、楽しそうな声音だ。小坂誠に関する弄りをしているのは1Cの野球部連中だった。「ねぇ、小坂誠って誰?」という女子からの質問に、「ショートの、守備がめちゃくちゃ上手いプロで……」と説明している。
 ツーアウト、一塁に走者を置いて、次の打者。振りかぶったバットがボールを捉えるも、ポーンと高く打ち上がる。単純なセカンドフライだ。苗字の足なら追いつけるだろうと、御幸はその動きを見るが、彼女は自分のポジションから「岡ちゃん、とれるよっ」とセカンドを守るクラスメイトに声をかけている。ほとんどバンザイキャッチになりながらも、セカンドはなんとかミットにボールを収めた。「ナイキャー!」明るい声で告げた苗字が、セカンドと肩を組むようにしてグラウンドから移動する。

「あーあ。また苗字に止められちゃった」

 聞き覚えのある声に、御幸と倉持が振り返る。野球部の二年生、小湊亮介だった。その隣には同じく二年の結城哲也。わずかに身構えた野球部一年生たちに、小湊はにこにこと笑うと「相手チーム、オレのクラス」とグラウンドを指さした。

「苗字の守備がうまいな。すべて自分で処理しようとせず、簡単なフライをチームメイトに取らせることで士気をあげている」
「プレー自体が抜群にうまいわけではないけどね。けっこうエラーもしてるし」

 腕を組み、冷静に分析する結城に、小湊は薄く笑う。
 初球からバットを振った夏川が快音を響かせる。打球はレフトとセンターの間へ落ち、処理にもたついている間に夏川は二塁まで進んだ。わっと歓声があがる。

「夏川は初回からきれいに打つな」
「ソフト経験者だろうね。慣れてるって感じがする。夏川に比べると苗字はちょっとぎこちないんだけど……、打てるかな」

 小湊が視線を向けた先には、バッターボックスで構える苗字の姿。構えもスイングも様になっているものの、どうやら芯にうまく当てられないらしい。これまでの試合は素人相手だったため、力業で強引に点をもぎ取っていたが、経験者相手だと押され気味になる。

「苗字は硬式野球の経験者らしいからな。ボールやバットの感覚が違うんだろう」
「あ、やっぱりそうなんだ」

 結城がさらりと告げた事実に、小湊は納得したように頷く。打ち方がそんな感じだよね、と呟きながら。
 鈍い打球音が響く。ボールを打ちあげた苗字が悔しそうな顔をしている。ライトがキャッチし、一アウト。

「あ、でも、さっきよりいい感じ」
「次はうまくいくかもな」

 予言のような結城の言葉が命中したのは、五回表のことだ。
 二アウト二塁で回ってきた、苗字の打席。すり足でタイミングを取り、前の打席よりもコンパクトに振りぬいたスイングは、真正面でボールを捉えることに成功する。打球はぐんぐん伸び、定位置より前方で守っていたレフトの頭上を越える。「おおっ!?」辺りがどよめいた。二塁を飛び出していた夏川は、勢いそのままに三塁を蹴り、みごと生還。

「先制ー!」

 試合を見守っていた1Cのメンバーが声を上げ、ハイタッチで喜んでいる。レフトがボールを拾う。苗字は二塁で止まろうとする、が。

「ん?」
「あ!?」

 勢いあまったのか、レフトは右腕を思い切り振りかぶり、セカンドへの返球ともいえない暴投をした。経験者が数名いるとはいえ、それ以外は素人、遊びのような試合だ。むしろ今までこういうプレイがなかったことのほうがすごかったのかもしれない。
 てんてんと転がるボールを見た1Cの野球部員が声を揃えて叫んだ。「苗字、走れ!」「ヒーッ」野太い声に背中を押され、苗字が三塁へ向かう。ボールに追いついたピッチャーも、三塁へ送る。経験者ゆえの、鋭い送球だった。まともな試合ならアウトになったかもしれないが、サードは経験者ではない。ボールの速度に驚いてしまったのだろう、体を仰け反らせてしまい、再び後逸。「苗字!」そしてまた、1Cメンバーからの声が響く。「死ぬて!」悲鳴をあげながらも三塁を蹴った彼女は、そのままホームイン。「しんっど、しんどい……っ」想定以上に走らされ、肩で息をしながらも、彼女は応援するクラスメイトたちにガッツポーズをしてみせた。「ナイスラン、名前」夏川が駆け寄り、声をかける。

「やるじゃん、苗字」

 小湊が零し、結城が強く頷いた。
 結局、この二点が決め手となり、1Cは決勝に進むことになった。

「一年で決勝まで残っとるん、俺らのとこだけちゃうか」

 試合後、上機嫌な前園に、「何でお前がドヤるんだよ」と倉持が呆れる。
 現在、グラウンドで試合をしているのは2Dと3A。1Cは、勝った方のチームと決勝で戦うことになるのだが。

「どこで休憩してるのかな」
「試合、見ておいたほうがいい気もするけどな」
「対策考えて……か? そこまでやったら球技大会の域を超えてる気がするぞ」
「たしかに」
「つーか、対策できるほどの戦力でもないだろーし」
「御幸、厳しいな。でもそれはそう」

 と、思い思いに話しながら、グラウンドの脇を移動していたら。

「ぎゃー! いや、むっずい!」

 試合中、よく耳にしていた声がして、御幸たちはいっせいにそちらを覗いた。
 苗字が、ミットをかまえて膝をついている。彼女の前には夏川がいて、「やっぱり、いきなりはね」と苦笑気味だ。その二人の様子を、ソフトボールに出ている1Cのメンバーたちが見つめている。
 何しとるんや、と真っ先に聞いたのは前園だった。顔をあげた苗字が説明する。夏川が中学時代はソフトボール部でピッチャーを務めていたこと。勝ちあがってくるであろう3Aはピッチャーとキャッチャーがともに経験者であること。「どうせなら優勝したい!」と意気込むチームメイトたちが、経験者の夏川に投げてもらいたいと提案したこと。

「なっちゃんだけうまく投げても、捕れるひといないから苦しいんだけど……」
「名前ならできるよ!」
「期待がでかすぎる」

 チームメイトの言葉に唇を尖らせ、困ったように言う苗字は、けれど、どこか楽しそうでもあった。

「哲さんから聞いたんやが、苗字、硬式やっとったって? ポジションどこやったんや」
「え、もうバレてる。リトルとシニアでちょこっとだけど、一番やってたのはショートかな」
「ヒャハ! の割には盛大にエラーしてたな」
「ボールもミットも違うんだもん。倉持くんもやってみなよ、意外とできないから」

 ――そんな感じで、キャッチャーはど素人です。そう締め括った苗字は、足の位置をじりじりと変えると、「よし、なっちゃん。もっかいカーブ投げて!」と声をあげた。
 
 頷いた夏川が、綺麗なフォームでボールを放つ。一度上に上がってから下に落ちる、縦の変化球。その軌道に合わせ、苗字の体が上に浮くので、御幸は思わず「浮いてる」と指摘した。

「え?」
「バッ、前みろ、前!」
「ギャ!」

 ミットから逸れたボールが、よそ見をしていた苗字のみぞおち近くにぶつかった。「だ、大丈夫!?」「苗字、しっかりせぇ!」慌てる周囲に、彼女は「ごめ、だいじょぶ……」と何度も頷いている。
 ボールを夏川に投げ返した苗字が、「浮いてるって?」と御幸を見上げた。

「いや、それより大丈夫なのかよ」
「へーき、へーき。頑丈なのが取り柄です」
「……ソフトボールでよかったな……」

 腰を捻ったり腕を伸ばしたりする苗字に、御幸も大丈夫と判断したのだろう。「ボールの軌道に合わせて体が動いてる」と、改めて指摘した。

「体が動いたら目線もブレて余計に捕りづらいし、ミットが動くからピッチャーも投げにくい」

 ほう、と感心したように息をついた苗字が「そっか、キャッチャーだもんね」と口の中で転がしている。そのやりとりに、前園は妙案が浮かんだらしい。「せや!」と声をあげると、

「御幸! お前、苗字にキャッチング教えてやれ!」

 と御幸を指差した。

「えぇ、俺が?」

 あからさまに面倒くさそうにした御幸だが、周囲の「いいじゃん」という賛同の声が思ったよりも多く、視線を逸らせて頭を掻いた。

「他人に教えたことなんてねーよ? つーか時間もないし……」
「でも、何もアドバイスもらえないよりはいいんじゃないか? 豪速球が捕れるようになれとかいうわけじゃないし」
「基本だけでも教えてもらえるのは助かるよね」

 白洲が静かに賛同し、川上も頷いている。苗字は「そりゃ、助かるけども」と零しつつ、御幸の様子をじっと伺った。

「……ほんと、期待しないでくれよ」
「いやいや、こちらこそ。センスゼロで全くできないかもだし」
「試合になんねーじゃん、それ」

 苦笑した御幸が、苗字の隣に屈みこむ。どうやら、教えてくれるらしい。

「膝ずっとつける?」
「つける。中腰で踵浮かせてキープとか、足が死ぬ」
「分かった。つけるほう、どっち?」
「左のほうがやりやすいかな」
「じゃあ、できるだけ右膝を外側にひらいて……」

 構え方から、捕球のポイントまで。御幸の教え方は、存外丁寧だった。野球が絡むとこんなに喋るようになるのかと、苗字は驚いたくらいだ。

「左肘固定してミットは動かすな。まだ捕りにいこうとしてる」

 そうして、前の試合が終わるまで繰り返すこと二十分。苗字は何とか、夏川のストレートとカーブをゾーン内で受け止めることに成功した。「いいじゃん、いいじゃん」と喜ぶ周りと対照的に、苗字は「いい音が鳴らせない」とどこか不満げだ。「まあ、学校の備品のミットだし」と返す御幸も似たような表情をしていて、夏川は思わず笑いそうになる。

「でもこれで、いい勝負できるかも」
「打たせないでね、名前と唯がいないからちゃんと捕れないと思うし」
「二人が分身できたらいいのにね」

 愉快そうに語り合うクラスメイトたちに続き、苗字と夏川もグラウンドに向かう。
 決勝戦の相手は、想像通り3Aだった。先程よりも観客が多く、応援も盛り上がっている。
 夏川のジャンケンの結果、先攻は3A、後攻は1Cとなった。

「あ!? なんだ、夏川と苗字でバッテリー組んでんのか!?」
「ほんとだ、ポジションが変わってる」

 大きな声が近づいてきて、御幸たちは振り返る。二つ前の試合でもいた、小湊と結城に加え、伊佐敷、増子、丹波……と、野球部二年生が増えている。

「夏川、ソフトでピッチャーやってたらしいっすよ」

 倉持が同室の増子に説明した。

「苗字のほうは大丈夫なのか。捕れなかったら意味ないぞ」と、丹波。
「さっき御幸に教えてもらって。捕るくらいなら、一応いけるようになりました」

 川上の説明を聞いた二年生が「へぇ」とおもしろそうに御幸を見るので、彼は気づかないふりでグラウンドを見つめた。
 3Aの一番打者は、ベース寄りに立っている。前の試合でも多く打っていた経験者だ。

(ベース近い、インコース苦手? 誘ってる可能性があるけど……。でも、初球はいつも見逃してるんだっけ。たしかに、打ちにいく! っていうより、球速とか見定めようとされてる感じがする……? じゃあまず、コースは多少甘くてもいいからストレートで。サインは、えっと……)

 苗字からたどたどしく示されたサインに、夏川がこくりと頷いた。「サインも御幸が?」と問われ、「まあ、一応……」と彼は答える。
 打者はバットを握ったまま動かなかった。ストライク、と審判が告げる。力のあるいいボールだったので、打者も夏川が経験者だと気づいただろう。バットを握り直している。

(なんか、次も球種見てきそう? カーブは今使わないほうがいいかな……。さっきの対角線めがけて、もっかいストレート)

 打者はやっぱり動かなかった。これで、ツーストライク。「なんか意外と考えてそう」と小湊が呟いた。「そうかあ?」と、眉を寄せながら伊佐敷。

(ストレートの軌道を見せたから、同じところにカーブ、とか。なっちゃんの球種知らないなら、うまくいくかな)

 その苗字の期待通り。ストレートのタイミングでバットを振った相手打者は夏川のカーブを打ちあぐねた。弱々しく転がったボールを夏川が捕球して、ファーストへとゆっくりめに投げる。綺麗な送球だ。ファーストは未経験者ながら、しっかりとボールを掴んだ。

「アウト!」

 よし、と苗字は息をつく。
 捕手は扇の要、チームの頭脳。言葉では理解していたつもりだったが、実際にプレイしてみて、改めてその凄さと難しさを理解する。

(1アウトでもう疲れちゃった……)

 とはいえ、泣き言は言っていられない。彼女なりに考えたリードで、続く打者もなんとかアウトにし、攻守が入れ替わった。
 1Cは初回、夏川が内野安打で出塁するも、続く苗字が相手ピッチャーの変化球に詰まらされ1アウト。未経験者相手にも容赦ないピッチングをした相手バッテリーはあっというまにアウトを三つとる。

「相手チームもだったけど、経験者を前に持ってきてるよね」
「そもそも1・2番がまったく塁に出られないんじゃ、3番から強打者置く意味がないからな。1番にしていたら、打席も多く回ってくるし……」

 川上と白洲が話す中、夏川が振りかぶる。3Aも4番以下は未経験者だ。ストレートを内に外にうまく使い、三振にしている。
 激しい投手戦は五回の裏まで繰り広げられた。その頃には応援は一層盛り上がっており、引き分けで終了させてしまえばブーイングが出てもおかしくない勢いだった。試合を見ていた教師陣は、時計を示しながら何やら話し合い、続行を告げた。
 どこまで鎬を削り合うのかと思われた試合は、けれどその後、すぐに終わりを迎えることになった。
 六回裏。相手捕手の、三度目の打席。
 苗字がサインを出し、夏川が頷いたのと同時に、御幸は(あ、打たれる)と確信した。
 アウトローのカーブ。右バッターの一番遠くを通過する、これまでも打者を何度も空振りにさせてきたボール。おそらく夏川のウィニングショット。けれどそのサインは、使いすぎ・・・・だ。絶対にストライクを取りたい場面、絶対に打ち取りたい場面で、苗字は毎回このカーブを選んでいた。だから。
 大きく踏み込んだバッターが、狙っていたかのようにスイングをする。カン! とボールに命中した音が響く。苗字が(しまった)というように立ち上がり、夏川が振り向いて打球の行方を追う。ライトの頭を余裕で越えたボールは、もはやホームランと言っても過言ではない。バッターが拳を握って、短く叫んで、ベースを回る。歓声と落胆の声が入り混じる。苗字はじっと空を見上げていた。高く飛んだ白球の軌跡を追うみたいに。悔しそうな表情で、それでも笑いながら。「すごいなぁ」と、その口が紡いだように見えた。



 あれだけの試合を繰り広げた後の部活でも、苗字と夏川は普段と変わらずてきぱきと働き続けた。
 準備中、「お、苗字おつかれ」「夏川、大活躍だったな」なんて話しかける者も多くいたが、さすがに練習中は野球に集中している。浮ついた話をすることなく、黙々とランニングをし、ノックをし、バットを振る。改めて試合の話をすることになったのは、片づけに入ってからだった。
 「二人とも、今日の試合見てたぞ! あたしも一緒にソフトやりたかったな」という梅本の言葉を筆頭に、同学年を中心として「あの守備がよかった」だの「夏川、コントロールよかったな」と盛り上がっていたら、いつのまにか三年生も会話に入っていた。「正直ヒヤヒヤしたぜ」と零す彼は3Aらしく、経験者二人を筆頭にあまりに気合が入っていたから、負けていたらお通夜状態だったに違いないと震えていた。
 その盛り上がりから早々に抜け出した御幸は、寮から少し離れた場所でひとりバットを振る。河川敷の近く、街灯の明かりもほとんど届かないところ。自主練をする時はなんとなく、誰の目にもつかない場所を選んでしまう。

「あ、ここにいた」

 しばらくして、声をかけられて驚いた。振り返ると苗字がいる。これから帰るところなのだろう、制服に着替えた彼女は、紺色のスクールバックと野球部のエナメルバックに加えてビニール袋まで提げていた。

「ごめん。邪魔かな」
「いや、大丈夫。なんか用?」
「用っていうか。今日はありがとうございましたってことで」

 お礼を言った彼女がビニール袋を広げる。中には購買のパンやお菓子が入っていた。「何これ」と首を捻る御幸に、「準優勝おめでとうって、いろんなひとがくれたやつ。クラスの子とか、野球部の先輩も」
 物の出どころは理解できたが、それを見せられる理由が御幸には分からない。曖昧な返事をする彼に、苗字は「好きなのとっていーよ」と、袋をさらに突き出した。

「え、なんで」
「だから、お礼。ほら、キャッチャーのやり方教えてもらったし。……最後は思いっきり打たれたけど」
「あー、そういう」
「量多いから、白洲くんたちにも渡したんだけど」
「ふうん」

 袋の中を覗き込んだ御幸は、しばらく菓子類とパンを吟味するが、どうにもめぼしいものは見当たらない。そもそも御幸は菓子パンやお菓子は全くといっていいほど食べなかった。食事ひとつとっても、それはトレーニングの一部なのだ。加えて、袋の中の大部分を占めているのは――。

「俺、甘いの苦手」

 ぽろりと零れた本音に、苗字は目をぱちくりさせた。
 適当に選んでお礼を言っておけばいいものを。あまりに正直な感想に、苗字はくつくつと笑っている。

「わたしが甘いの好きだって言ったから、そっちが多くなっちゃったんだよね」

 そう言った彼女が「残念」と言いながら袋を閉じる。

「じゃあ今度、飲み物でも奢らせて。スポドリなら飲む?」
「飲むけど。そこまで気遣わなくていーぜ」
「気遣ってるわけじゃなくて、わたしがお礼したいんだよ」

 苗字の言葉は、いつでもまっすぐだ。そっけない返事しかできなかった御幸は、バットを握り直す。
 御幸のスイングをじっと見つめた苗字は、「やっぱり、きれいだね」と感心した。「そうか?」と御幸。「苗字さんも、けっこう上手く打ってたじゃん」「まあね。頑張りました」
 顔を綻ばせる彼女は、けれどすぐ真剣な表情になると、「でも、キャッチャーはほんとに難しかった」とぽつりと零した。

「……最後のリードは、惜しかったかもな」

 バットを握りながら、御幸が呟く。苗字は眉を八の字にして「打たれるって思った?」

「まあ、正直。だって」
「あー! 待って待って、言わないで。あれでしょ、空振り欲しい時はあのリードしかしてなかったから」

 御幸は驚く。どうやら、かなり冷静に自分のリードを理解できていたらしい。うー、とか、あー、とか唸る苗字に、ほんの少しの罪悪感があった。これは、責めたことになるだろうか。少し考えて、「でもまぁ、はじめてで零したり逸らしたりはなかったんだから十分だろ」と、慣れない慰めをしてみる。苗字はあからさまにぎょっとして、「御幸くん、そんなこと言えるんだ」と目を丸くしていた。なんだか解せない。

「なっちゃんにも申し訳ないことしちゃったな、とかさ〜。後になっていろいろ反省点でてきて。だから余計に、キャッチャーやるひとってすごいなーって思った。空振りとれたり、楽しいとこもあったけど……」

 ぶつぶつと呟く彼女は、ふと言葉を区切ると、改めて御幸を見つめた。

「御幸くんって、すごいんだね」

 恥ずかしげもなく告げられた言葉に御幸は一瞬たじろぐも、照れを隠すように「はは」と小さく笑う。

「まだ全然だけどな。レギュラーにもなれねえし」
「クリス先輩だっけ。あのひとも上手だよね」
「そう! マジですげーの。リードとかキャッチングとかは当然だけど、投手も打者のこともよく見ててさ。選手ひとりひとりのクセとか、いろんなデータのメモも取ってるんだぜ。野球の知識だって半端ないし、正直まだ敵わねえなって思うけど、早く一軍あがって正捕手争いしたくて――」

 苗字の目が丸くなる。それを見て、御幸はハッとした。饒舌に語りすぎた、とバツが悪そうに視線が動いて、そんな彼に苗字は「好きなんだ、クリス先輩のこと」と、温かい目になる。

「好……っ、や、尊敬はしてっけど……! つうか、その。他の奴らにはあんまり……」
「隠してるの?」
「まあ、すすんで言ってはねぇし……」
「そっか、じゃあ言わない」

 揶揄うこともなく、苗字はあっさりと頷く。「御幸くんの秘密知っちゃったなー」なんて声はどこか楽しそうだけど、なんとなく、彼女は約束を守ってくれるだろうなという確信があった。

「へへ、勝てるといいね」
「……おう」

 御幸が頭を掻いて頷いた時、「名前ー!」「帰るよー!」と、マネージャーたちの声が響いた。「すぐ行く!」大きな声で返した彼女は、お菓子の入った袋を握り直して、「またね、御幸くん」と小さく手を振る。

「おー。おつかれ」
「うん。自主練がんばって」

 走り出した彼女の小さな体のうえで、バックが弾むように揺れている。