バターをみっつ、グラニュー糖は三十グラム。それらをくるくるとかき混ぜたら、淡いレモン色の卵白をどろりと流す。
 隣にいる友人は、チョコレートを細かく刻む手を止めることなく、あーそんな感じそんな感じ、と呟いた。
「次は薄力粉。ドバっと入れるんじゃなくて、ちゃんとふるいにかけて」
 言われるがまま、片手で手渡されたステンレスのふるいを拝借する。ガラスのボウルの上にのせ、薄力粉の袋を慎重に傾ける。先ほどのグラニュー糖と同じくらいの量を出し、ふるいをゆさゆさと揺さぶった。
 それをかき混ぜながら、美味しく出来たら良いなあ、喜んでくれると良いなあ、と心の中で呟く。大切な恋人が微笑むのを想像していたら、自然と口角が持ち上がってくる。
「なにニヤけてんの、気持ち悪い」
「い〜じゃない。だって楽しみなんだもん」
「ふーん、じゃ、アヤがこんなだらしなーい顔で作ってた、って彼氏さんに言っとくか」
「やだ、それだけはやだ!」
 友人が意地悪そうにニヤリと笑う。わたしは唇をすぼめてボウルの中身をぐるぐるとかき混ぜた。
 リズム良くチョコが刻まれる包丁の音と、カカオの香り。それらに包まれた愛しい人のために立つこのキッチンで、優しい気持ちになれない人はいないと思う。ねばり気を増したクッキーの生地を見ると、やっぱり浮かぶのはあの人の喜ぶ顔で。
 わたしはだんだん、ひとりの世界に入っていく。

 あの人との出逢いは、一昨年の春、四月だった。信頼できる同僚だったTちゃんが、まだこの街に居た頃、彼女に連れられて、市内のショッピングモールにあるドイツ風のビアホールに飲みに行ったときのことだ。
 仄暗い店内はガヤガヤと人々の話し声にあふれていて、少し前に流行った洋楽のサビがなんとなく聞き取れるくらいににぎわっていた。わたしたちは向かい合わせで、背の高い椅子に腰かけた。Tちゃんの隣には肩に触れるか触れないかぐらいの距離に男性が座っていて、わたしの隣は空席だった。
 Tちゃんはとりあえず生ビールを注文し、わたしはカシスソーダを頼んだ。ウェイターが去った後、メニューをふたりで眺める。どれにしようかな、と彼女が写真に夢中になっている間、わたしは彼女の隣に座る見知らぬ男性に目を奪われていた。
 綺麗な人だった。形の良い白い富士額と、凛々しくも洗練された眉が目を引いた。普通のサラリーマンなら着るのをためらってしまうような、ぱりっとした白一色のスーツを、なんの違和感もなく着こなしている。そこらにいるような人では決してない、ミステリアスな雰囲気の人だ。
 トマトのカプレーゼを静かに、そして品よく口に運んでいる。咀嚼するたびに顎が、頬が動くその当たり前の動作に、なぜか目が離せない。ゆっくりとまばたきをしている、重みのある一重のまぶた。その下の虹彩の色は、日本人の持つ黒やこげ茶というありふれた色ではなく、ラベンダーよりももっと繊細で淡い色をした、薄紫色をしていた。わたしは貝殻の内側の複雑で美しい色を初めて見たときのように、自然界にそんな色があるとは知らずにときめいてしまった。
「ねえ決まった? 私、このソーセージの盛り合わせとフランクフルト食べよっかな」
 Tちゃんの呼びかけで我に返る。わたしは少し慌てて、同じ盛り合わせと生ハムのサラダを注文した。
 彼女とのおしゃべりは楽しくて、時間すら忘れていた。けれど、ふとした瞬間に彼女の隣の男性を盗み見することは忘れなかった。彼とつい視線が合ってしまわないように、細心の注意を払いながら、食事をし、話をしていた。
 カシスソーダが残り三分の一になる頃、そしてTちゃんが三杯目のビールを注文した頃も、あの男性が赤ワインをこくりと味わうその様子をちらちらと見ていた。短く切り揃えられた爪、男らしいのに美しい白い手、控えめに動く喉仏……。酔いが回ってきたのか、わたしはなんだかくらくらしてきた。頬は熱いし、視界は少し滲んでいるし、胸の鼓動が速くなっているのも分かる。
 だからつい、そのままじっと男性を眺めてしまった。そこで気づいたのは、彼の髪は女性のように長いということだった。白い髪紐で、後頭部から落ちる黒い絹糸のような髪を縛っている。珍しいヘアスタイルだ。きっと指通りも良くて、手入れが行き届いているんだろうな……とぼんやり考えていたら、彼と視線がぶつかった。
 はっとして、視線をテーブルに移動させる。どうやら目だけでなく、顔も一緒についてきたようで、それを見たTちゃんが「どうしたの?」と訊いてきた。なんでもない、と首を振る顔が燃えるように熱い。男性がわたしのことを気にしていないようにと思わず祈った。
「なにか、私の顔についていましたか?」
 男性にしては少し高いトーンの、それでいて耳に心地良く残る穏やかな声が聞こえた。驚いて顔を上げると、例の男性はわたしの顔を見て微笑んでいる。
 なにか答えるより先に、胸の奥がきゅう、と返事をした。だから、声は舌の上でまごついたままで、あ、とか、えっととか、意味のない音ばかりがこぼれ落ちる。
「すみませーん、この子ちょっと人見知りで。大丈夫です、なーんにもついてませんから。たぶん、あなたに見惚れちゃってたんですよー。綺麗な瞳ですけど、外国の方ですよね?」
 酔ったTちゃんが普段よりも大きな声で、快活に、わたしの代わりに返事をしてくれた。見惚れちゃっていた、という事実を言われてしまい、言葉にならない声がまたもや口の中でもごもごと混ざり合っていた。
「ええ、ドイツと、それから日本の血が入っています」
「ハーフなんですかー! かっこいーい!」
 興奮したTちゃんが一際高い声で、わたしも抱いた感想を口にする。
 男性の答え方や、落ち着き払ったその様子があまりに紳士そのものだったので、イギリスのジェントルマンのイメージがそのまま彼にも適用された。
 わたしたちはそのまま三人で会話をした。といっても、ほとんどがTちゃんと男性の会話で、わたしはときどき「すごいですね」とか「かっこいいですね」とか、無難で短い相槌を入れるだけに留まっていた。初対面の人の前では、なぜなのかいつもこんな言葉しか出てこない。
 男性は、わたしたちとの会話をリラックスして楽しんでいるようだった。元々はドイツに住んでいたこと、日本に来て二十二年目になること、ある紳士服のメーカーに勤務していることなどを教えてくれた。今着ているスーツは、自社のものだということも。
 彼は、途中で頼んだアンガス牛の赤身肉のプレートを、親切にもわたしたちに勧めてくれたりもした。いただいて良いのか戸惑ったけれど、そのご厚意が嬉しかったので遠慮がちにお箸を伸ばした。
「じゃ、すみませんいただきます。ダンケ」
 知っている唯一のドイツ語だった。発音までは知らないから、カタカナ感丸出しの「ありがとう」だった。けれど、男性は優しく笑ってくれた。今までの笑みよりも、大きな笑みに見えた。そのまぶしい表情に、またもや胸がきゅうっとなる。もしかして、これが少女マンガとかでよく聞く「きゅんとする」ってことなんだろうか。
 結局わたしたちは、Tちゃんが七杯目のビールを飲み終えるまで話し込んだ。好きなお酒の話や、ちょっとした失敗談を重ねていくうちに、三人の笑顔がもっと増えた。
 電車の時間があるからと帰り支度を始めると、Tちゃんはせっかく仲良くなれたんだから連絡先を交換しよう、と提案した。男性は快く応じてくれて、白いシンプルなカバーのスマートフォンを取り出した。
 新しい友達の欄に表示されたのは、Solf・J・Kimbleeという名前だった。ミドルネームのJや、お行儀よく並んだアルファベットの文字からも、彼がまとう気品や気高さが滲んでいるように思える。
 キンブリーさん。そう心の中で呟くと、その名前が胸の奥に甘くしっとりと降りてくる感覚がする。今日のわたしは一体どうしてしまったんだろう。ほかの誰にも抱いたことのない感情に振り回されている気がして、落ち着かない。
 スプリングコートを着た後、思い切ってわたしは彼に話しかけた。緊張したけれど、今話さないと後悔すると、直感が告げていた。
「さようならって、ドイツ語ではなんて言うんですか?」
 キンブリーさんは、一拍おいて答えた。
「AufWiedersehen」
 呪文のようにするすると紡がれた異国の言葉は、不思議と心の距離を感じさせなかった。
「アウフ……? すみません、なんと?」
「アウフ、ヴィーダー、ゼーエンです。難しいでしょう」
 わたしはアウフ、ビーダー、ゼーエンと、たどたどしく繰り返した。すると、彼は「そうです、その通りです」と言うように深くゆっくりと頷いた。
「あの、またお話しできますか?」
 勇気を出して言った。心臓がドキドキと鼓動していた。
 高貴な色の瞳が、わたしに向けられている。
「ええ、もちろんですよ。ラシャードさん」
 生まれてから散々呼ばれているなんてことのないこの名字が、彼の喉を震わせて発せられた。胸の鼓動はさらに強く、大きく鳴った。その音に負けないように、そして彼にこの音を悟らせないように、笑った。
「アウフ、ヴィーダー、ゼーエン。キンブリーさん」

 この出逢いから、わたしたちはたびたび三人で連絡を取りあった。一ヶ月に一度はあのビアホールで待ち合わせして、一緒に飲んだ。会うたびにわたしたちの仲が深まっていくのが分かった。
 それから五か月経った九月のある日、Tちゃんが会社をやめ、札幌に引っ越すことになった。遠距離恋愛をしていた幼なじみにプロポーズされたのだという。
 わたしとキンブリーさんは、いつもと違うレストランを予約して、ささやかなサプライズをし、Tちゃんとの別れを惜しんだ。最後の日も、ふたりで空港まで見送った。彼女はいつもと変わらぬさっぱりした表情で笑い、ステッカーだらけのスーツケースを転がして雑踏の中に紛れていった。
 Tちゃんがいなくなったからといって、キンブリーさんとの関係が自然に終わっていくことはなかった。それどころか、彼と会う機会は日を追うごとに増えていった。わたしにとって、それはとても喜ばしいことだった。Tちゃんという潤滑油がいなくなっても、わたしたちは友達同士という、ひとりでは動かすことのかなわない大切な歯車を回し続けられたのだから。
 例のビアホールには、あんまり通わなくなった。キンブリーさんは、わたしがゲコであることを配慮してくれ、それからは様々なレストランでランチタイムを楽しむようになったからだ。そして、彼と会った後は必ずTちゃんに電話をかけ、近況報告をしていた。その頃のわたしは、もう彼と打ち解けていた。
 それなのに、「あくまでも良い友達」という関係を続けることに、わたしは胸の詰まりを覚えていた。出逢ったときから恋と言えるような感情を覚えていたのに、それを隠して彼とふたりで会うのは、息苦しかった。
 Tちゃんがまだ一緒にいた頃だって、彼女がお手洗いに立ってふたりきりになったときの緊張感はすさまじかったのに、彼とふたりで会うようになってからはさらに意識してしまい、自分が自分でいられなくなる。レストランの窓から差し込むまぶしい陽光や、仕事の真面目な話が、恋愛モードになってしまう気持ちを少しだけ緩和してくれる、せめてもの要素だった。
 Tちゃんはいなくなった、そして彼女は幸せを手に入れたのだから、彼にアプローチを仕掛けても良いだろう……。そのような積極的な気持ちが、微塵も湧いてこなかったのにはわけがある。
「恋人をつくる気はありません」
 三人で飲んでいた頃、彼は静かに、けれどきっぱりと告げた。その言葉でわたしの恋心は胸の奥の扉に閉じ込めさせて、頑丈で重いふたをした。わたしの気持ちは暗闇の中でまぶたを閉じている。それは彼に会うときは必ず目を覚まし、手足をバタバタさせて一生懸命飛び跳ねるのだけれど、わたしはその動きを見てみぬふりし、扉が開かないように、ふたが開かないように押し込めて、平静を装わなければならなかった。
 それはひどく疲れることだった。心躍るはずの恋は、わたしをうつむかせるだけだった。
 十一月、彼は仕事で支社があるドイツに、数か月滞在することになった。彼と離れることは寂しいことではあったけれど、内心ほっとしている自分にも気づいていた。自分を偽ることに限界を感じていたからだ。
 電話は一切しなかった。ドイツでの近況は気になっていたし、彼の声を聞きたいとも思ったけれど、わたしは自分を冷却する期間が必要だと感じていた。だから、彼が帰ってくるまで彼を必要としないように、彼のことをできるだけ忘れて生活を送った。しかし、それはあまり上手くいかなかった。
 珍しく雪が降ったクリスマスの夜、喉につっかえて胸を締めつけるものの正体が分からずに、Tちゃんに電話をした。涙が次から次へとあふれてきて、止めようとしたのにこれも上手くいかなかった。彼女をずいぶん困らせてしまったと、申しわけなく思った。
 翌日は日曜日だというのに、ずっと家に閉じこもっていた。夕方にインターホンが鳴って、宅配便が届いた。送り主はなんとTちゃんで、北海道名物のラングドシャ『白い恋人』を送ってきてくれた。大好きなお菓子だ。なにより、Tちゃんの優しさがじんと感じられて、すぐにお礼の電話を入れた。
 Tちゃんは、まるで子どもに諭すように、穏やかにアドバイスしてくれた。
「キンブリーさんが帰ったら、自分の気持ちを素直に伝えなよ。結果なんて気にしなくて良いから。ありのままの気持ちを口にするだけで良いから」
 電話を切り、『白い恋人』を食べながら、彼女の言葉を自分に言い聞かせるように、心の中で復唱した。そうしていると、昨日とは違う別の涙が目尻に滲んだ。
 年が明け、二月になり、彼が帰国した。彼がSNSでメッセージを送ってくれたのでそのことが分かった。わたしたちはその十日後の金曜日の、バレンタインデーの夜に会う約束をした。
 彼と会う前日に、オーブンのある友人宅のキッチンを借り、彼女と一緒に手作りのチョコを作った。ふっくらと膨らんだビターチョコのカップケーキに、メッセージカードの数行の文章に、わたしの想いをすべて託した。
 二月十四日の夜は、近くのファミレスで会った。数カ月ぶりに目にした彼は、外国の匂いをほのかに連れて、星屑のようなきらきらとした輝きを身体の外側に浮かばせていた。
 彼の仕事の話、懐かしいドイツの様々な感想、久々に会った友人たちの変わりようなど、彼はいくつもの話のタネを持っていた。代わり映えのないわたしの日常を話すよりも、泉のようにいくらでも湧き出てくる彼の話に耳を傾けた方がいくらか安心した。そして、その方がプレゼントを渡す緊張を覆い隠してくれる気がした。
 現地の写真を見せてくれようとしたのか、彼が鞄からスマートフォンを取り出した。その拍子に、中に入っていた色とりどりのラッピングの包装紙が見えてしまった。一番上のそれは、おそらくゴディバのもの。きっとわたしよりもはるかに美人で優しい人たちが、たくさんたくさん彼に渡したのだ。わたしは息苦しさを覚えて、鞄から目を逸らした。今から渡そうとするカップケーキが、ひどく粗末で恥ずかしいものに思えた。
 わたしは一度お手洗いに立って、個室の中で深呼吸をした。一度では足らず、二度、三度と繰り返した。鏡の前でとれかけたリップを塗り直し、Tちゃんの言葉を思い出し、キンブリーさんにこの気持ちを伝えたいことを再確認した。そして、背筋を伸ばして席に戻った。
 食べ終えたハンバーグのお皿は、もうなくなっていた。キンブリーさんは視線を夜の窓からこちらに移した。
「あの、キンブリーさん。実はお話ししたいことがあるんです」
 改まった声が出た。彼は組んでいた長い脚を静かに下ろした。
「はい。なんでしょう」
「今からお伝えすることは、あなたにとってご迷惑なことかもしれません。けれど、もう、このことを胸の奥に閉じ込めてはおけないんです」
 心臓がじくじくと痛むように鼓動し始めた。恋心が自ら重いふたを開け、心の扉を懸命に押し開いていた。
「わたし、あなたが好きです」
 しん、とした小さな音が耳に届いた。彼はほんのわずかに目をみはった。
「好きなんです。出逢ったときから、ずっとあなたに惹かれて、仕方なかったんです」
 言ってしまうと、本当にあっけなかった。わたしの想いはこんなものではないのに、こんな一言で片づけられてしまうほど軽いものではないのに、その百分の一も伝わっていないように思えた。「言葉」の両肩を揺らして、言葉の不自由さをとがめたくなった。
「これはわたしの気持ちです。受け取ってください。返事は、いりませんから……」
 まぶたをぎゅっとつむって、カップケーキの入った紙袋を彼に差し出した。腕の先が震えているのが、なんとなく分かった。
 せっかく表に出てきた恋心が、なにかに押しつぶされている。ただ気持ちを伝えるだけのこと。それだけのことなのに、なぜ、息を乱しそうになるほど胸が締めつけられるのだろう。
 ほんの少しの間の空白が、とてつもなく長く感じられた。
「本当に良いのですか? いただいても」
 暗闇の中で、何度も頷いた。では、という言葉とともに、指先の紐がふっと離れていった。それでも、目を開けることが恐ろしかった。
「ありがとうございます。大切にいただきますよ」
 彼の声音が優しくて、恐るおそるまぶたを開く。それでも彼の瞳など、到底見られそうにもなかった。
 紙袋のシールを剥がし、中身を取りだした彼が、「これは美味しそうですね」と呟く。
 胸の鼓動はまだ鳴りやまない。少し顔を上げると、彼が口元を緩めてカップケーキを眺めていたので、いくらかほっとした。
 やがて、ふむ、と声がした。
「返事はいらないと言われてしまっては、少々困りますね。私からお話はさせていただけない?」
「あ、いえ、その、そういうわけでは……」
 わたしは口ごもる。彼は、ふっと笑う。
「正直にお伝えしましょうか。私は少し、自惚れていました。今日、貴女からチョコレートをいただけるのではないかと、なんとなく期待していたのです」
 えっ、と顔を上げると、どこか悪戯っぽく笑う少年のような彼と出会った。もしかして、わたしが彼を好いていることはバレバレだったんだろうか。そう思うと今すぐ穴に入りたい。穴がないならテーブルの下でもなんでも良いから、潜りこみたくなる。
「いわゆる義理チョコというものでも、ありがたくいただこうと思っていました。ですが、違った。貴女は私に本物の愛をくださった。そうですね」
 本物の愛。その通りではあるけれど、いざそう口にされると、やはり照れてしまう。わたしはぎこちなく頷いた。
 キンブリーさんは、すうと瞳を細める。ラシャードさん、と呼びかけられた。
「ならば私も、貴女に本物の愛をもってして応えたい。真剣で誠実な、嘘がひとつも混じらない愛を、貴女に知っていただきたい。なぜなら私も、貴女を誰よりも愛おしく感じているからです」
 息の仕方を、忘れてしまった。ただただ、彼を信じられない思いで見つめることしかできなかった。
 彼は両手を胸の前で広げて、ひらひらと振った。
「ああ、誤解のないように言いますが、ただ好意を返報しているのではありません。誰にでも言うわけではないのです、過去にこのような台詞を言ったことは一度としてありませんから。こんな言葉を口にするのは、後にも先にも、貴女だけですよ」
 胸の奥の恋心が、きゅう、と音を立てて舞い上がった。
 彼の優しい、光のようなまなざしが自分に注がれている。じわ、と視界が滲み、たまらず口元を両手で覆った。
 だって、こんな嬉しい返事がもらえるなんて思ってもみなかった。自分のこの恋が実るなんて、こんなにも素敵な人と結ばれるなんて。ひょっとしたら夢なのかもしれない。いいや、もう夢でも良い。ここまで幸せな夢なんて、今までに一度も見たことがないんだから。
「ラシャードさん?」
「これは、ゆめ、でしょうか」
「確認してみますか」
 キンブリーさんは少し笑って、こちらに手を伸ばした。
「握ってください」
 わたしはゆっくりと右手を伸ばした。もし触って消えてしまったら、触れようとしてもすり抜けてしまったら、どうしよう。そんな不安を覚えながら、彼の指先に触れた。感触があった。彼の大きな手は、わたしの手を内側からすっぽりと包み込むように握ってくれた。
 ほんのりと温かい体温が、そこから全身に染みわたっていく気がした。その温かさに、優しさに、今度こそ頬に悦びの雫が流れた。
「ほら、夢ではないでしょう?」
「は、い……」
 彼は微笑んで、その手に少しだけ力を込めた。わたしも確かめるように握り返した。

 あの幸福なバレンタインデーから、一年。
 先日、友人宅で作ったバレンタインデー用のプレゼントをたずさえて、わたしは恋人の家に向かう。大切な日だというのに仕事が長引いて、訪ねるのは二十一時をまわってしまった。連絡は入れてあるけれど、彼はきっと心配しているだろう。
 インターホンを鳴らして小さなレンズに「こんばんは」と言えば、すぐにドアが開いた。白のハイネックを着たキンブリーさんが、困ったような微笑みを浮かべて出てきた。
「待ってましたよ、遅いので心配しました。迎えに行こうかと」
「待たせてごめんね。もう、今日に限って残業になっちゃって」
 詫びながら玄関に入ると、ドアがまだ閉まらないうちに抱きしめられる。ドイツ流の挨拶、というよりももっと親密で濃厚な、深い愛情をわたしに注いでくれているのを言葉もなく教えてくれるようなハグだった。
「お疲れさまです」
「うん、キンブリーさんもお疲れさま」
 ダイニングテーブルには、白いバラがガラスの花瓶に活けられてあった。お皿とカトラリーもすでに用意されていて、今すぐにでも素敵なディナーが始められそうだった。うきうきした気分でお礼を言い、木製のコートハンガーにコートをかけた。振り返ると、彼が両手を後ろにしてわたしを待っていた。
「ディナーの前に渡しておきたいものが。貴女にぴったりなものを用意しましたよ」
 差し出されたのは、ピンクのバラの花束だった。ふわりと鼻をくすぐる良い香りを漂わせ、見るものを優しい気持ちにさせる淡い桃色たちが、そろって微笑んでいる。それらに混ざって、白い可憐なカスミソウも顔を覗かせ、ふるふると小刻みに揺れていた。
「うわあ、ありがとうございます! とってもきれい」
 そっと受け取り、思わず笑顔になる。ピンク色もお花もバラも、すべて大好きだ。ほかでもない彼から、わたしにぴったりと言われたことも嬉しい。なにより、彼の心遣いが胸を温かくさせた。
 わたしもさっそく、バレンタインデーのお菓子の入った紙袋を手渡す。キンブリーさんは、にこにこと笑って「ありがとう。後で美味しくいただきますよ」と言ってくれた。
 もらったバラたちをもうひとつの花瓶に飾り終えたら、ディナーの始まりだ。オニオンドレッシングのかかったサラダ、シーフードたっぷりのピザ、チキンの香草焼き。オレンジジュースとジンジャーエールで乾杯し、色とりどりのお花たちに囲まれ、わたしたちは談笑しながら少し遅めの食事を楽しんだ。
 そのあと、キンブリーさんはわたしの作ったお菓子をダイニングテーブルに持ってきた。透明のラッピングに入れたのは、北海道の銘菓『白い恋人』を模した、ラングドシャ風のクッキーだ。
 わたしがつらいときに、Tちゃんが贈ってくれたお菓子だ。少し涙して、彼への告白を決めながら食べた、思い出のお菓子だ。
「キンブリーさんが好きな白の、ホワイトチョコを挟んだの。食べてみて」
 彼は頬を緩ませて、赤い針金を解いている。手前のクッキーを摘まみ、すん、と小さく匂いを楽しんで、ひとくちかじった。
 咀嚼しながら彼は何度か頷く。
「美味しいです」
 その言葉に、良かった〜、と安堵の感想がもれる。キンブリーさんはあっという間に一枚目を食べ終わり、二枚目に手を伸ばしていた。
「ああ、もっとゆっくりと味わって食べなければ、もったいないですね」
「そんなそんな、好きなように食べて。まだいっぱいあるからね」
 彼がクッキーをかじるたび、まるで自分がそれを食べているかのように、満たされた気持ちになっていく。わたしたちはときおり目を合わせて、笑った。
「北海道で売っているお菓子にね、白い恋人っていうものがあるの」
 わたしは、それを意識してこのクッキーを作ったこと、そしてTちゃんがこれをわたしに贈ってくれたときの話をした。彼は、興味深げに頷いて話を聞いていた。
「そのとき、ドイツにいるキンブリーさんのことを想ってそれを食べてたんだ。帰国したら絶対に気持ちを伝えるんだ、って。懐かしいなあ……」
 視界の隅の、白とピンクのバラに視線を移して、じっと愛でた。そろって花瓶に飾られているこのバラたちが、まるで恋人同士のように見える。今から結婚式でもするかのように、仲良く並んでいる。
 アヤさん、と呼ばれてキンブリーさんの方を見た。彼は、わたしの顔の高さでクッキーを差し出している。食べて欲しいという意味だと思い、わたしは前傾姿勢になって口を開けた。
 さくりとした食感のあと、バターの風味が感じられた。ホワイトチョコのひかえめな甘さも口に広がる。けれど、あの『白い恋人』とは似ても似つかない。料理初心者が作る、素朴でどうにも野暮ったい味だった。
「あの、実際の白い恋人は、もっと上品な甘さで、もっと美味しくて、こんなのとは全然違ってて」
 わたしは銘菓を擁護するように慌てて言った。彼は静かに首を横に振る。
「なにを言っているんです。クッキーであれ、カップケーキであれ、貴女が作ったものはどんなものでも美味しいですよ。世界一の味だ」
 目の前で微笑む、わたしの白い恋人。愛する恋人。
 彼の愛情に触れて、包まれたら、なにかがいつも胸にこみ上げてくる。心の深いところで湧いている泉が、ぶわりとあふれそうになるのだ。
 どうしてだろう。どうして、泣きそうになるのだろう。
 彼は両手を伸ばし、わたしの手に触れた。覚えのある記憶がふと蘇る。一年前の今日に戻ったのかと、一瞬だけ錯覚した。
「アヤさん」
「はい」
「私と一緒になりませんか」
 目をしばたたいて、彼を見つめる。まばたきするたびに、泉の水がじわじわと瞳をうるおすのが分かった。
 わたしは思わず席を立って、キンブリーさんに抱きついた。あなたと一緒にいたいと、身体じゅうが叫んでいた。そんなわたしを受け止めてくれる手はやっぱり優しく、背中にまわされ、ぎゅっと抱きとめてくれた。
 そのまま下唇をついばまれる。そんななんてことないことが、気持ち良く、心地良かった。彼はわたしを見つめ、わたしは彼を甘く見つめ返す。そして、ほとんどささやくような声で、愛しいひとの名前を紡いだ。

 ガラスの晴れ姿で着飾った白とピンクの新郎新婦は、ダイニングテーブルの片隅で結婚式を挙げていた。
 次はきっと、わたしたちの番だ。



Afterword

というわけで、初の現パロです。
きんぶりさんが最初から最後まで優し〜いのは、夢フィルターがかかっているからです。彼が決めた大切なひとにはそうであって欲しい、という願望がだだもれ。
(20190214)




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