「なあ。今日は一日中雨らしいぞ」
 同僚であり同期のハボック少尉は、窓の外もしくは窓に映った私の顔を見ながら話しかけてきた。司令部に着いたばかりの私は、髪についた雫をハンカチで拭き取りながら返事をする。
「おはよ、夜中からずっと降ってたね。はー、自転車使えないから困ったよ。ハボックは家が近いから雨の日楽でいいよね」
 少しうらめしそうに言うと、ははっと短い笑い声が聞こえた。彼はにやにや笑いながら振り返る。
「その通り。雨ん中ごくろーさん」
「ドーモ」
 ドアの開く音が聞こえた。若干髪の毛の濡れたブレダ少尉が文句を言いながら入って来る。いつもの調子で声をかけあった後、彼は腰かけて軍服の前を開け、しきりにタオルで首と髪の水滴を拭い始めた。ハボックはまた窓の外に視線を移して、往来する人々の傘の模様を見やる。
「俺も雨は嫌いなんだよな。じめじめするし、上司は無能になるし」
 最後の言葉に思わず笑いそうになったが、そのまま話を続ける。
「あれ、私が雨きらいなんていつ言った?」
 わざと焦らすように聞くと、ハボックの意外そうな表情が窓に薄く映った。
「へぇ、違うのか。てっきり嫌いだと思ったのに」
「残念。実は私、晴れより雨の日の方が好きなんだよね」
「なんで」
 口を開きかけた時、ホークアイ中尉とファルマン准尉が部屋に入って来た。私は二人に挨拶すると同時にハボックのそばをそれとなく離れた。続いて、フュリー曹長が慌てて駆け込んでくる。その後に我らが上司、マスタング大佐がたいそう眠気の残る顔で出勤してきた。
 大佐と曹長に挨拶を交わした後に振り返れば、急にお預けを食らったハボックがぽつんとこちらを見ていた。あとでね、と唇を動かして微笑むと、彼は両肩を上げて鼻から大きく息を吐き、うやむやに笑っていた。

 シャワーを止めても降りしきる雫の音はまだ止まない。雨は結局、一日中降り続くようだ。湯船の上のデジタル時計にふと視線を移せば、青い文字が二十三時を知らせた。
 タオルを首にかけながらお気に入りのネグリジェに着替える。おじさんと女子の二つのスタイルが共存した自分の格好に苦笑しながら頭を乾かしていると、インターホンが鳴った。こんな遅い時間に来るのはあの人に決まっている。
 タオルを椅子に掛け、そばにあった桃色のカーディガンを羽織って鍵を開けた。ドアの外にいたのはやはり、私の上司であり恋人――ロイ・マスタング大佐だった。
「やあ、こんな時間にすまないね。上がってもいいかな」
「どうぞ……ってびしょ濡れじゃない! どうしたのっ」
 髪から靴までずぶ濡れの彼は、雨に打たれた子犬のようだった。前髪にたれる雫をぽたぽたと落としながら、彼はやれやれと首を振って後ろ手にドアを閉めた。
「君の家に向かう途中、強風で傘が壊れてしまってね。それでこのありさまだ」
「大変だったのね、お疲れさま。タオル取って来るからちょっと待っててね」
 私はスリッパをぱたぱた鳴らして洗面所に向かった。適当なタオルを一、二枚取って戻ると彼はすまないと断って髪を拭き始める。寒いでしょ、とシャワーの提案をすると彼は素直に頷き、濡れた靴下を脱いで洗面所へと消えて行った。
 大佐がシャワーを浴びている間に、私は濡れた床を拭き、彼の衣類を乾燥機に入れ、着替えを用意する。タンスを開けると彼の予備のワイシャツやら靴下やらが顔を出す。どうせこのままうちに泊まるだろうから、その中から青いパジャマとバスタオルを取り出し、洗面所のカウンターに置いて扉を閉めた。
 続いてキッチンに立ち、ポットでお湯を沸かし始める。料理はイマイチ得意でないが、コーヒーの調合ならばお任せあれだ。特に大佐好みの味を作る事に関しては、私の右に出る者はいないと自負している。まあ、豆から挽く訳ではないのでたいそうなことは言えないのだけれど。
 シャワーの水音が微かながら聞こえてくる。湯が沸くまでの間、椅子に座って両手を顎の下で組んで時計を見上げた。針は二十三時ちょっと過ぎを指している。
「無理してまでこなくていいのに……」
 ぽつりと漏れる呟きは、ため息交じりに消えていった。
 雨の日は必ず会いに行く。そう約束してくれたのは大佐だった。彼とは勤務先である東方司令部で毎日のように顔を合わせるものの、プライベートで会う時のように恋人同士の会話はできない。そのため逢瀬の時間を設けようと恋仲である私たちは考えた。
 朝から夜までみっちり働く私たち軍人は、少ない余暇の時間をいかようにして使うかに重きを置いている。そんな中大佐は、私と会うことを最優先に考えてくれたらしい。
 だが、なかなか思うようにはいかない。それもそのはず、なんといっても彼がサボり魔だからだ。ただでさえ忙しい階級であるのに、仕事をサボるのだからいきおい残業も増える。「デート」という名の情報収集に出かけている時は早く済ませるのだけど(私は他の子と出かけられるその行事を少し不満に思っている)、そうでない日はホークアイ中尉や私に叱られながら司令部で夜を明かすこともたびたびだ。
 だからせめて、雨の日は一緒に過ごそうというのが彼の提案であり、それが後の二人の約束事になった。嬉しい反面、約束が義務になっていないか、義務と化したそれが彼を苦しめていないかという心配もある。元はといえば彼が仕事をサボるのが悪いのだけれど。
 ポットのスイッチが切れる音がした。戸棚からおそろいのマグカップとインスタントコーヒーの瓶を取り出し、スプーンで一杯掬う。湯を入れてくるくるとかき混ぜ、少量の砂糖を入れ、片方にはミルクを垂らす。それらをテーブルに持っていくと、私の仕事はおしまいだ。もう一度椅子に腰かけて、何の気なく時計を見た。まだそれほど時間は経っていない。
 今日のように、夜遅くに無理をして駆けつけられるとさすがに困ってしまう。会えて嬉しい気持ちはもちろんあるけれど、彼の体が心配だ。たまには休んでもらわないといけないし、明日だって早い。寝坊助の彼を起こすのも一苦労だし……というのは私のちっちゃな愚痴だ。
「ふう、いい湯だった」
 ほわほわと見えない湯気をたて、首にタオルを巻いたパジャマ姿の大佐が出てきた。先ほどの私の格好とよく似ている。
「ああ作ってくれたのか。……君の淹れてくれたコーヒーは美味くて好きだよ」
「まあ、大佐のために淹れたんだしね」
 なんだかむずむずしてふいと視線を逸らすと、照れなくてもいいじゃないか、と笑って返してくる。彼の言葉や一挙手一投足にはなぜか未だに照れてしまう。だって、そんな簡単に好きとか言うから。
「アヤ」
 振り向き際に、迫る顔。唇には、あのやわらかな感触があった。
「んっ……ふ、ぅ」
 胸の鼓動が鼓膜に響く。部屋には雨の音だけ、響いている。
「たい、さ……っん」
 絡まる舌。腰にまわされる手。その積極的な動作に体がびくりと震えた。淡く、甘い痺れのようなものが背中をびりびりと駆け上っていく。私は目を瞑りながらも微かな眩暈を覚えた。
 充分に口内を味わわれた後、彼はゆっくりと身を引いていく。その唇と唇の間に、名残惜しいとでも言うように銀色の細い橋がのびやかに架かるのが見えた。
「っは、むりしてこなくても、いいのに」
「……君が待ってると思うと、どうしてもここに足が向いてしまうんだ。困ったよ」
 眉を下げて笑う彼を見て、胸のどこかがとくんと音を鳴らす。私は自然に零れてしまう笑みを隠さずに、しかし少し声を落として言った。
「その約束、一度も破ったことなかったね。……嬉しい。でも心配なの」
「何がだ?」
「だって、無理してるでしょ。雨が降ったら何があっても絶対会わなくちゃ、って思ってない?」
「当然だ、二人だけの唯一の約束だからな」
 いつしか俯いていた顔を上げて、私は彼を見た。彼は、私の言わんとすることが汲み取れず怪訝な顔をしていた。私は微笑んだ。
「その気持ちは嬉しいよ。でも、無理してまで来なくていいの。私たち、司令部では毎日会ってるんだし」
「君は……私に会いたくないか?」
「会いたいよ。けど今日も来るの大変だったでしょ、仕事遅くまで頑張って、ずぶ濡れになって……。会いたいけど私、大佐の重荷になりたくな……わっ」
 手首をいきなり引っ張られ、私はその勢いのまま彼の胸の中に飛び込んだ。お風呂上りの匂いが鼻をかすめる。私はそのまま彼の腕の中にすっぽりと埋まってしまった。
「大佐……?」
「重荷なんかじゃない。私が、アヤに会いたいんだ。……雨の日は私の楽しみなんだ、それを君から奪わないでくれ」
 腕にぎゅっと力を込めながら紡がれる言葉が、私の気持ちをひどく落ち着かせてくれた。信じてもいいのか、と自分に問いかけてすぐ、信じたいという気持ちが溢れてくる。背中にまわした腕に力を込めて、彼の耳元で礼を言う。彼は膝の上で丸まった猫を撫でるときのような穏やかな声で、さらりと口説いた。
「なんてことない。君に会えるなら毎日雨でもいいくらいだ」
「錬金術使えなくなっちゃうよ」
「それは困る」
 彼は小さく笑って、私の額にくちづけた。私もつられて笑みを零す。
「梅雨時になったら大変だけど、どうする?」
「なに、それは毎日君に会えるということだろう? 六月が楽しみだ」
「ちゃんと仕事片付けられる?」
「……善処するよ」
 彼の声が苦笑交じりのそれに変わったことを仕方ないなと思っていると、さっき淹れたコーヒーのことを思い出した。せっかく淹れたのに冷めてしまってはもったいない。それで彼の胸をそっと離れようとしたけどなぜか腕を引っ張られ、また彼の胸の中に戻ってしまった。
「大佐、コーヒー冷めちゃう」
「なあアヤ。名前で呼んでくれないか」
「っ、……ロイ、冷めちゃう」
「もう少し」
 目覚まし時計を止めた後のように強請られたかと思えば、優しく唇を奪われていた。羽が触れたかと思うような優しい、優しいくちづけだ。目を閉じると彼のぬくもりがじんわりと染み入ってくるのが分かる。それが、段々深くなっていく。
 そうやって長いこと触れられていると、雨音の中に自分が溶け込んでしまったかのような感覚に陥ってくる。雨の中、大佐と二人、雫に打たれながら互いの温度を確かめあっているような、そんな不思議な感覚に。
 私たちは雨音に溶けあいながら深い夜を過ごした。しとしとと降る雨粒を数え切れないことと同様に、その晩彼から受けたキスの数もたくさんで数え切れなかった。

 今朝、同僚と天候の話をした。彼は雨を嫌っていたが私は違った。雨は私が最も待ち望んでいる天気だ。理由はもちろん、私が一番好きな人が会いに来るから。
 雨の日は、私の心が甘く晴れわたる日だ。


Afterword

七年前、中学時代に書いたプロット(という名の黒歴史)を発掘したので少し改変して書いてみました。
鋼とロイさんは私をオタクにしてくれた大切な存在です。
(20160818)




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