※ キンブリーヤンデレ注意報

 雪の降る街へ行けば、なにかが変わる気がした。私はいよいよ、あの人から解放されるような気がした。
 カーン、カーン、と遠くの方で鐘の音が聞こえる。夕暮れ色に染まった石畳の上を歩いている。両手にマーケットの袋を携えながら、私は帰路についている。
 粉雪がちらちらと降り注ぐ中、眩しいオレンジ色の西日に目を眇めて、時計塔を見やった。もう、五時を過ぎている。疲れからくるため息が、白く浮かんで消えていった。
 この雪の街・ノースシティに引っ越して三ヶ月が経ったが、ここに来てからはあっという間に時間が過ぎていく。すべては、思い切って職業を中央郊外の図書館司書から、ノースシティ銀行員に転職したからだ。休日も仕事を持ち帰ったり、さまざまな雑事に追われたりして、おかげでゆっくりとお昼寝をする暇もない。未だ独り者だけれど、新たな恋人をつくる暇さえなかった。
 けれど、これで良い。すべて私の思い通りだ。こうして、あの人のいない場所で、あの人のことを微塵も考えず、思い出さないようにするのが、私の真の目的だった。
 あの場所――中央には、思い出が多すぎる。あれから七年も経つというのに、あの人とよくコーヒーを飲んだカフェの前を通り過ぎるだけで、胸がざわつくのだから。あの人が立っていたリビングの窓辺を眺めるたびに、胸がぐっと締めつけられるのだから。
 この街に来てからは、そうした機会は驚くほど減った。思い出のかけらが散りばめられていない見知らぬこの街や、日々の押し寄せる洪水のような忙しさのおかげだった。そう、それで良い。この調子で、あの人を忘れよう。あの人を、頭の中から閉め出すのだ。
 夕空に闇のカーテンが降りていく。雪で滑りやすくなったアパートの階段を三階まで登り、ふう、と息をつきながら、ポケットから鍵を探す。今から晩ごはんを作るのは憂鬱だわ、今日でにんじんを使い切らなくちゃ、などと思いながら、ドアの前に買い物袋を置き、人差し指と中指でカギをつまんで取り出した。カレー肉を買い忘れたけれど予定変更、今日は手早く作れるカレーにするわ……。
 鍵穴にカギ差し入れようとした、そのときだった。
「お久しぶりです」
 思わず肌が粟立った。ぶるり、と背中からなにかが駆け上がった。と同時に、手遅れだ、と頭の中で声がした。だから真後ろにいる人間を振り返ることさえ、できなかった。
「私のことを覚えておいでですか。ええ、そうでしょうとも。数々の名作の名文を記憶している貴女のことだ、よりによって私のことを忘れるはずがない」
 トン、と男がドアに手をついた。逃げ場を遮り、わざと耳元で、声を聞かせるために。
 覚えている。分かっている。忘れる、はずがない。
 この独特な声は、記憶から剥がそうと剥がそうとしても、こびりついて離れなかった。そして後ろにいる彼の姿だって、目の前のドアにありありと、くっきりと思い描くことができる。
 あなたは……。
「七年ぶり、ですか。長い間お待たせしました。ただいま戻りましたよ」
 後ろから抱きすくめられると同時に、私は短い悲鳴を上げながら反射的に身をよじって腕を抜け、逃げ出した。元きた廊下を走り出した。スーパーの袋も置いたまま、足音を鳴らして、階段を駆け下りた。
 来ないで、来ないで。
 キンブリーさん。あなたとはもう一緒になれない。今さらここに来たって、私は絶対に……。
 誰に聞かせるでもない拒絶の言葉を、胸の中で何度も繰り返しながら、彼の追いつけなさそうな場所まで、走った。

 日がとっぷりと暮れ、辺りはすでにもう闇に包まれている。時計塔の針はいつのまにか二十一時を指していた。
 暖房のきいた書店から出ると、吹きつける風の冷たさに、思わず自分を抱きしめた。くしゃみも二、三度、してしまった。それでも、家には帰れない。まだ部屋の前にあの人がいたら、と思うと、怖くて足がすくんでしまうのだ。
 それにしても……。どうしてあの人が急にここへ現れたのだろう。五人も人を殺めたから極刑だと聞いていたのに、なぜ出所できたのだろう。そして、住所を変えたというのに、どうして私がここにいることを知っていたのだろう?
 疑問は尽きない。だからなのか、余計に恐ろしく、寒々しく思う。こんなに肩が震えるのは、なにも冬の夜のせいだけじゃない。あの人が、あの人の急な出現が、私を心底寒くさせているのだ。
 いくら昔に愛し合った仲とは言えど、人を殺めた人とは、もう関わりたくない。顔も見たくない。
 ――いや、顔ぐらい、見ておけば良かった。
 私は、慌ててかぶりを振った。そうして、一瞬でも殺人鬼の顔が見たいと感じてしまった自分を恐ろしく思った。私は自分に芽吹いたもうひとつの、理性とは正反対の危うい興味に、これ以上気づかないよう、これ以上言語化しないよう、早足で歩き出した。
 そう、きっとお腹が空いて気が変になったに違いない。なにか、あったかいものでも食べて帰ろう。レストランで、ビーフシチューかコーンスープでも頼んで、そうだ、今日だけホテルに泊まれば良い。そうだ、そうだ……。
 まだ見えないレストランの看板の灯りを目指して、私は歩くつもりだった。街灯にもたれてこちらを見ている、あの人を見つけるまでは。
「探しましたよ」
 息が、止まった。
「ずいぶんと遅くまで、出歩いていましたね。身体が冷え切ってしまったでしょう? さあ、早く戻りましょう」
 こちらに近づいてくるあの人と反対に、後ずさる。手汗がぶわりと染み出してきたのが分かった。
「久々に貴女の手料理を堪能したかったのですが、もうこんな時間ですから、ふたりでディナーに行くのも悪くはありませんね。ビーフシチューなど、いかがです? 貴女、好きだったでしょう?」
 彼との距離がじりじりと狭まっていく。白づくめのあの人から目を逸らし、必死でどう逃げるか考える。考えようとするけれど、胸がざわついて、思考が上手くまとまらない。
 背中に硬いものがトン、と触れた。どうやらお店かなにかの壁際に、追い込まれてしまったらしい。嫌な汗が背中を伝った。
 私は、灯りのある方角へ走ろうとした。走ろうとしたのに、恐怖で足がもつれて上手く歩き出すことさえできなかった。その後の、まるで酔っ払いの千鳥足のような無様な足取りを見て、彼は呆れたような声を出す。
「おやおや、この期におよんで逃げようとするとは往生際の悪い……。せっかくお迎えに上がったというのに、なにがお気に召さないのか」
 背中からの声を無視して、はあはあと息をして走った。どうにかして、逃げなくてはならなかった。彼に捕まっては、私まで殺されると思った。そんなこと、あってたまるかと思った。
「感動の再会のはずが、まったくつれませんね。仕方ありません。力づくで連れて帰るまでです」
 逃げなくては、逃げなくては。どこか、遠いところへ、彼の知らないところへ……。
「あっ」
 右手首をぐいと掴まれ、私の足は止められた。放して、と腕を振るが、出所後で弱っているはずの彼の力の方が上だった。
「いや、やめて! 放してください!」
 捕まったら、殺される。
 心臓がどきどきと音を立てて、目尻からぽろぽろと雫が落ちた。頬にできた涙の道が、寒風に吹かれてじんと冷たくなった。
 その涙を優しく拭ってくれたのは、人を殺めたはずの、彼の白い左手だった。
「なにもしません、落ち着きなさい。私はただ、貴女の家でゆっくりと話がしたいだけです」

 さて、どうしたことでしょう。
 目の前にあるのは、できたてほやほやのポークカレー。ガラスの小さな器には、トマトとブロッコリーのサラダ。カレーの美味しそうな匂いと緑の眩しさに、私のお腹ははしたなく声を上げた。
「さあ、できましたよ。いただきましょう」
 彼は……キンブリーさんは、私の向かいに腰掛けながら、微笑んだ。私の桃色のエプロンをつけたままなのは、たぶん、カレーで白いシャツが汚れるのを避けるためかもしれない。
 それにしても、彼に捕まったら最後、殺られるに違いないと思い込んでいたのに、私が延々と泣いている間に、まさか手料理を作ってくれていたなんて。私は目を瞬きながら、美味しそうなご飯と彼とを、交互に見た。
 すると、彼はくすりと笑って……そう、昔と変わらない余裕のある笑みを浮かべて、スプーンの先をカレーに沈めた。
「なにを不思議がっているんです? ああ、それとも、私に食べさせて欲しいと懇願しているのですか?」
「ちっ、違います! そんなわけ……」
「かまいませんよ、さ、口を開けなさい」
「や、ちがっ……」
 首を激しく振るも、スプーンが目の前に伸ばされている。でも、断固として口を開けるまい。開けてなるものか。
 ……そう思っていたのに、美味しそうな匂いと湯気が鼻孔をくすぐり、お腹が限界だと訴えて……。なんてことだろう、私は耐えきれず小さく口を開けてしまった。殺人鬼からの「あーん」を受け入れてしまったのだ。
「…………お、美味しい、です」
「それは良かった」
 キンブリーさんは得意げな顔で、同じスプーンでカレーをすくって食べた。私は顔が熱くなって、自然とうつむいてしまう。
 悔しい、悔しいが、本当に美味しい。同じ具材、同じルーを使っているはずなのに、人が作ったものはどうしてこうも美味しいのだろう。
 ……どうしてこうも、彼に優しくされたらどきどきするんだろう。
 こんなに優しくされたら、また昔の気持ちを思い出して……。
 そこで私は、あっ、と声を上げた。そうか、そういうことだったのか。
 スプーンをお皿の上に置いて、彼をキッと睨んだ。
「私、き、気づいているんですからね。こうして手料理をふるまって、昔みたいに優しい男を演じて油断させておいたところで、わ、私を殺すつもりなんでしょ? 私を爆破して消し去るために、わざわざここまで会いに来たんでしょう!?」
 彼は無言で、二回瞬きをした後、笑った。くっくっ、と喉を鳴らして、そうして頬杖をついた。
「私が貴女を殺すために会いに来た? いただけない冗談ですね。私はただ純粋に、貴女を想ってここまで会いに来たというのに。最初から命を奪うつもりでいたなら、貴女はもうすでにこの世にいないはずだ。夕方、私と遭遇したアパートの部屋前で、貴女は無残にも葬られていたはずだ」
「た、確かに……」
 一度は納得した私だけれど、すぐに勢いを盛り返して別の質問をする。
「じゃあ、どうして私がここにいると分かったんですか! 引っ越しまでしたのに……!」
「さあ、何故だと思います」
 キンブリーさんは、ラベンダー色の双眸を妖しく細める。口元の笑みは、平べったい三日月のような弧を描いている。
「無論、貴女を愛しているからに、他ならない」
「こ、答えになっていません!」
「れっきとした答えですよ。今でも変わらず貴女を愛しているからこそ、情報網を張り巡らせ、貴女の行動パターンを予測し、先の手を打った。これでも答えになっていないと言いきれますか?」
 ぞくり、と悪寒が走る。
 この人には敵わない。すべてを、見抜かれている。
 再会したとき、手遅れだと感じた私の勘は、正しかったのだ。この人の愛は、七年の月日が経った今でもなお、私に注がれ続けている。そして、その愛は確実に、歪んでいる。手の施しようもないほどに。
 再び「怖い」という気持ちが胸の中を満たした。視線を注がれているのが耐えきれず、ぼそぼそとカレーを食べ始めることで沈黙を埋め、心を落ち着かせようと努めた。
 美味しいはずのそれは、今度はまったく味がしなかった。

「はぁもう、どうして……」
 私は自分の行いを後悔して、頭を抱えていた。
 なぜ、完食してしまったんだろう。
 あの尋常でない彼のことだ、もしかしたら毒や睡眠薬なんかを入れられていたかもしれないのに。それに気づかずに、最後まで食べてしまい、おまけに最後の方はしっかり味も堪能していた私って……。
「相変わらず食に目がなく、警戒心もなく、おまけに間抜けというべきか」
「ああっ、そんなに言わないでください! 傷つきます!」
 湯上りのキンブリーさんは、バスタオルを使って錬成したのかバスローブを羽織ってリビングに現れた。水気を多分に含んだ黒髪は、束ねられることなく艶やかに光って背中につるりと流れている。
 私より長く美しい髪。間違いなく彼は男性なのに、こういう姿を見ると、美人の女友達とこれからお泊まりをするような、そんな錯覚に陥る。「中性的」と表現するより「美人」という印象が強いのは、彼から滲み出てくる一種の気品のせいなのかもしれない。
 ほら、こうしてリビングの窓辺に立ち、コーヒーをすする姿でさえも、美しい。
 そんな彼を見て、私の心はぎゅっと掴まれたように切なくしぼんだ。彼と付き合っていた当時、以前の中央の家では、彼はよく窓辺に立って何の気なしに外を見ていた。その気だるげな立ち方が、少し見える横顔が、今のこの姿とだぶったからだ。
 彼が、帰ってきた。私は再び、彼と再会することができたのだ。
 けれど、それを喜んで良いのか分からない。怖いと思っている。人を殺めた彼のことも、そんな彼にまた惹かれてしまうかもしれない私のことを。
 もう、忘れようと思っていたのに。
「アヤさん?」
 いつの間にかこちらを見ていたキンブリーさんと、目が合う。彼はマグカップをテーブルに置き、不思議そうに私の目を覗き込んできた。
「具合が悪いのですか。表情が芳しくない」
「い、いいえ、なんでも。……ほら、あなたはもう寝てください。良いですか、この家に泊めるのは今日だけですからね? 明日からは、もうどこへでも好きなところへ行ってくださいよ。そしてもう……私とは会わないでください」
「何故?」
「なぜって……」
 言葉を探して、視線も一緒にうろうろさせたけれど、彼は見逃してくれそうにはなかった。
「もう、私たちの関係は、終わったからです」
「私は終わらせたつもりはありませんが」
 彼の眉間にしわが寄る。
「そんなの、時効ですよ。あなたがいなくなってから七年が経っているのに」
「男ができましたか」
 感情のない声が上から降ってきた。私はうつむいた。うつむけば、嘘をついていてもごまかせると思ったからだ。
 そうしてごまかすしか、なかったのだ。
 あなたが怖いなんて、本音を言うくらいなら。
「……そうです。とても、良い人です」
 時計の秒針がカチコチとつぶやいている。時計だけが喋って、私たちは口を閉ざした。
 永遠に続くように思われた息苦しい沈黙は、彼の小さなため息が破った。
「分かりました。では、これまでのほんのお礼をいたしましょう。……両手を」
 言われるがまま、両手を彼の方に向けた。どういうことだろう。律儀に、お別れのプレゼントでもくれるのだろうか。
 彼がぱん、と両掌を合わせると、赤い錬成反応の光が飛び散った。私は思わず目を眇める。
「えっ……!? な、なに、これ」
 手首に重みを感じて視線を落とし、我が目を疑った。掌にプレゼント、ではなく、手首と手首の間にシャランと鉄の鎖が繋がれている。それは重たい手錠だった。
「あの薄暗い独房にいたとき、いつもこうして手枷をさせられたんです。貴女にもはめて差し上げました。ああ、思いのほか、よく似合っていますよ」
「やめて、今すぐはずしてください! こんな、なんのために……!」
 血の気が引いていく感覚がした。振りほどいても振りほどいても、鎖は揺れて音を立てるだけで、決して両手は自由にならない。
 彼は、私の両手首を後ろの壁に縫い留め、長い前髪の間から覗く無感情な目で、こちらをぎらりと見下ろす。
「貴女を繋ぎとめるために、必要なことです」
「だからってこんな、人の自由を奪うようなこと……!」
「貴女がそれを言いますか? 七年もの間、出逢ったときから、私の心の自由を激しく奪ったのは貴女だというのに?」
 頬のラインを、男の手がするりと撫でる。その感覚に、胸がざわざわと騒ぎ始めた。
「私の目には貴女しか映らなくなった。私の耳は貴女の声しか聞こえなくなった。この両手は、いつも貴女の体温を探している。アヤ、解りますか。私はこんなにも、貴女を欲している。もう、これ以上我慢のしようがない」
 ぎゅっと、抱きしめられた。驚いてなにも言えずにいると、首すじに生温かい吐息と、舌のぬめりとした感覚が襲ってきて、私は軽い悲鳴を上げてとっさに首をすくめた。
 この人はいつからこんなだったろう。
 この人は、どうして私をこんなに好いているのだろう。
 どうして、こんな私を好きでい続けられるのだろう。
 そういった疑問が頭に浮かんでも、彼の指や舌の動きが思考の邪魔をした。代わりに、どうしてだか涙が出てくる。求められるということ、愛を一方的にぶつけられることが、怖いわけではない。ただ、その狂おしいほどの強い愛を向けられる方は、悲しみを覚える。この手錠のように重く、この手錠に繋がれる罪人のような、悲哀を覚えるのだ。
 私は、つうとあふれる涙に弁解することもなく、彼のキスを受け入れた。
 許可もなく唇は重ねられたが、口内をなぶる彼の舌の動きは、以前とは違いとても繊細で、言い換えればそう、臆病だった。得体の知らないなにかに怯えているようにも、力ない存在である私に縋っているようにも思えた。
 もしかしたら、彼もなにかが怖いのかもしれない。私が彼を怖がっているように、彼も私を怖がっているのかもしれない。私からの愛がふつりと途絶えること、私が彼を拒むことを、柄にもなく恐れているかもしれない。
 怯える彼など到底考えられないし、彼に怖いものなどなにひとつないように思えてならないのだけれど、もしも、もしもそんな感情が芽生えていて、無意識に彼を苛んでいたとしたら。
 私は、この人を拒むことができない。
「キンブリー、さん」
「……アヤ、ベッドへ」
 お互いに本音は言わない。言えない。言えるわけがない。
 臆病者、と自らをそしる声が聞こえた気がした。彼が私の腰に手をまわしても、もうそれで良いやと思えた。結局、私は都合良く解釈した情に、ほだされたに過ぎなかった。
 今日だけは、この人の哀しい愛に縛られたまま、流されてしまおうか。どうせ今夜、この小さな手枷の重みがなくなることはないだろうから。私の自由と心を縛る鎖がはずされることはないのだろうから。
 どんなあなたでも、やっぱり私は嫌いにはなれないのだから。

Afterword

20万ヒット記念短編です。リクエスト一位の「ヤンデレキンブリーに重く愛される」お話でした。ヤンデレも重たい愛もいいぞ!
(20190708)




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