ダイニングを満たすのは、パソコンのキーボードを打つかすかな音のみ。パソコン画面から目を離さない恋人の顔を、わたしは頬杖をつきながらじっと見つめている。かれこれ一時間はこんな感じだ。
 その間、彼は一度もわたしと口をきいてくれない。
「……ゾルフさん」
 そう呟いてみるも、集中して声が聞こえていないのか、彼のブラインドタッチの手は止まらない。視線も動かない。そうしてわたしは、人知れずため息をこぼす。
 二月、三月と猛威を振るったインフルエンザウイルスも四月に入ると鳴りを潜め、わたしの職場にも彼の職場にも罹患者はいなくなった。欠席者の分まで仕事をこなす必要もなくなり、忙しい年度末も終わって、わたしたちの仕事はひと段落ついたかと思われた。けれど、ゾルフさんの職場は以前と変わらず多忙を極めているようで、残業はほぼ毎日、そして休日もこうして仕事をこなさなければいけないようだ。
 わたしたちが同棲を始めて、約半月。もっともラブラブでもっとも甘い生活が送れるはずの時期なのに、ゾルフさんの恋人はわたしじゃなくて、『仕事』になっている。楽しくおしゃべりをしながらご飯を食べたのは、片手で数えられるくらいだ。彼はなるべくさっさとご飯を済ませ、少しでも早く仕事に取り掛かりたいらしい。一緒にテレビを見る時間も、寝る時間さえ削って、仕事、仕事、仕事……。
 どんなに寂しくても、耐えなければいけない。だって、彼は遊んでいるわけではないのだから。誰よりもストイックに、弱音も愚痴も口にせず、自分のなすべき仕事にただひたすら向き合っている。そんな恋人の姿は、確かに誇らしく思う。
 だからわがままを言って困らせ、寂しいと袖口を引っ張るようなまねをしてしまっては、いけない。どんなときも「お仕事頑張ってね」と声をかけて、おとなしくしていなければいけない。
 分かっている、けれど。
 わたしはぎゅっと手を握った。そして、おもむろに椅子から立ち上がり、「お仕事頑張ってね」と声をかけることも、微笑むこともせず、背中を向けて足早に寝室に向かった。
 どんよりとした雲が、胸の中に広がっている。わたしはベッドの枕元に座っているテディベアこと「くまちゃん」を抱きかかえ、丸いカーペットの中央に腰を下ろした。
 愛らしいこのくまちゃんは、交際を始めた当初、彼からプレゼントされたものだ。彼の故郷のドイツ生まれで、ふさふさの栗毛の手触りが良くて、いつも優しく微笑んでいる。
 わたしは彼を膝に座らせ、くまちゃん、と呼んでみる。彼の右手が、すっと挙がった。
『こんにちは。なんだか元気ないけど、どうしたの?』
 くまちゃんは顔を少し傾げて、心配そうにわたしに問う。
「ゾルフさんね、今日もお仕事忙しいみたいなの」
『いつも頑張ってるよね、すごいよね』
「うん。すごいの。本当に、そこまで一生懸命になれるって素敵だなって思う。……でもね」
 言葉を続けようとしたら、鼻の奥がつんとした。言葉に詰まるわたしを、くまちゃんは急かすことなくそのまま待ってくれる。その可愛い顔の輪郭が、少しだけ、滲みだす。
「でもね……やっぱり、寂しいんだあ……」
 たまらずくまちゃんをぎゅっと抱きしめる。くまちゃんはもう、なにも喋らない。いつだって、わたしが泣きたいときは、なにも言わずに泣かせてくれるのだ。
 ねえくまちゃん、本当はゾルフさんともっと一緒にいたい。もっとふたりの時間をつくりたい。もっとおしゃべりしたい。もっと抱きしめてもらいたい。もっと、もっと……。
 そのとき、ノックの音が聞こえた。はっとして、急いで涙を拭う。返事をしないうちに、そっとドアが開く音が聞こえた。
「アヤさん」
 わたしは笑顔で振り返らなくてはいけなかった。でも、わたしは芝居が下手だった。心を許した人に、泣いていたことを悟らせない術をまだ身につけてはいなかった。
 なにも言わず、振り返りもしないわたしの方に、ゾルフさんが近寄ってくる気配がした。そして、後ろからそっと抱きしめられる。わたしはますます振り返れなくなった。
「……アヤさん、申し訳ないことをしました」
「え……?」
「貴女にそのような思いを抱かせてしまって」
 もしかして、彼はさっきの会話を聞いていたんだろうか。わたしとくまちゃんの、いや、ぬいぐるみ相手にひとり二役をした、恥ずかしいひとりごとを。
 わたしは口ごもって、うつむく。顔から火が出そうだ。でも、そんなことより、わたしは違うよ、と言わなければいけない。ゾルフさんが悪いんじゃないよ、と。
 それなのにそれらの台詞は、喉の奥の方でつっかえて出てこない。
「今週のどこかで、ふたりで旅行に出かけませんか」
「え、ええ?」
 突然の提案に、わたしは目をみはって彼の方を向いた。
 でも、お仕事は? 忙しいんでしょ? わたしのことは良いから……。
 色んな言葉が頭の中で渦巻いている。それなのに、なにひとつ言葉にできないまま、わたしは近すぎる彼の顔を見つめている。
 やがてゾルフさんは、凛々しい眉を穏やかに下げ、ぽつりと呟いた。
「やっと、顔を見てくれましたね」
 胸の奥を締めつけられる感覚がし、同時に彼の腕の締めつけが少し強くなる。
 わたしは彼の横顔に頬を近づけた。ごめんねの言葉は、ふるえていたけどささやくことができた。

 それから三日後、わたしたちは初めて旅行に出かけることになった。
 行き先はI県になり、それはゾルフさんが決めてくれた。そこになにがあるのかはよく知らなかったけれど、彼と一緒なら、わたしはどこに行っても楽しめる自信があった。
 事前に、どこに行きたいかと聞かれていたので、満開の桜が見られるところ、とだけリクエストしていた。桜の名所として有名なところは、たぶん旅館もホテルも予約でいっぱいだろうから、なにも有名な観光地でなくても良かった。I県は穴場のような気がするから、期待に胸を躍らせている。
 電車でおよそ二時間、揺られることになった。乗り換えの途中でゾルフさんが、駅のホームの自販機で冷たい緑茶を買ってくれた。すると、なんと当たりが出て、もう一本好きな飲み物を買えることになった。ゾルフさんは自販機で当たりがでたのが初めてだったらしく、しばらく目をしばたたいて、困ったように微笑んでいた。その姿が、好きな女の子からなにかプレゼントをもらった少年のように見えて、なんだか可愛くて笑ってしまった。彼はBOSSの無糖を選んだ後も、「もう一度当たらないでしょうか」と数字の並ぶ画面を凝視していたので、わたしも一緒になって当たりますようにと凝視した。……当たらなかった。
 幸先良い電車の旅の途中、ゾルフさんは仕事の話を一度も口にしなかった。彼の白いスマホが震えることもなかった。久しぶりにたくさん、他愛のないことを喋っていたようで、実はその中にはわたしにとって重要な会話もあった。最近、あんなに一生懸命仕事を片付けていた理由が分かったのだ。
「一緒に暮らしだした記念に、どうしても貴女と旅行がしたかったのです。今まで、計画を立てたことはありましたが、私の仕事の都合がつかなかったでしょう? ですから、今度は必ず。そう思っていたのですよ」
 わたしとの時間をつくるために、彼はただひたすら仕事に向かい合っていた。そのことを知ったら、ありがとうの気持ちがあふれてしまい、つい電車の中で抱きついてしまいそうになった。それをすんでのところで思いとどまり、乗客に分からないようにひそかに手を握り、お礼を言った。
 彼はわたしのことを忘れてはいなかった。わたしのことが嫌いになったわけではなかった。
 拗ねたり寂しがったりしていたこの間までの自分に、教えてあげたい。あなたはちゃんと愛されているのだと。

 目的地であるI県のT駅に着いたのは、午前十一時すぎだった。予約してくれていた旅館までは、バスでニ十分ほどかかるというので、ちょっと早いけれど雰囲気の良さそうな喫茶店に入り、昼食にハムサンドを食べた。
 その後、駅周辺にある面白そうなお店を見てまわった。中でも、角にある帽子屋さんで、思いがけず長居してしまった。
 ゾルフさんは帽子がよく似合う。今日も被っているお気に入りの白い帽子の代わりに、色んな帽子を被ってもらった。茶色の中折れ帽、グレーのハンチング帽、黒のベレー帽など、さまざま試してもらったけれど、やっぱり一番彼らしいのは、普段愛用しているものだった。
「貴女も被ってみてはどうです? そうですねぇ、これはどうでしょう」
 頭にポンとのっかったのは、デニム生地のキャスケット。鏡に映った自分は、昔マンガで読んだことがある探偵少女を彷彿とさせた。
「ああ、よく似合っています」
「ほんと? うん、これなら可愛いし、コーディネートもしやすそうだなぁ」
「では、プレゼントしましょう。今日の記念に」
「やったぁ、ありがとう!」
 ということでお言葉に甘え、このキャスケットはわたしのものになった。レジで値札を取ってもらい、さっそくそれを被って外に出ると、うきうき気分が倍増した。
 強い風がびゅうと吹くたびに、わたしとゾルフさんは同じタイミングで自分の帽子を押さえる。おそろいの動作ができて、わたしはひそかに心を躍らせている。
 これを被って歩いたら、本当にどこへでも行けそうな気がした。険しい道が続く山頂へも、名前も知らない遠い海の町へも。
 そしてわたしたちは散策を続けた。骨董品屋さん、商店街、オシャレなアクセサリーショップなど、いろいろなお店を訪れては会話を弾ませた。
 午後三時になると、休憩にと駅のはずれのケーキ屋さんに立ち寄った。そこにはイートインスペースがあり、店内でさっそくケーキを味わうことができるらしい。そして、驚いたことに、ショーケースにはドイツのケーキも並んでいた。わたしは迷わずそれを選び、ゾルフさんと席に着いた。
 ぷるぷると固まった艶やかなゼラチンの中に、愛らしい旬のいちごが半分カットされたものが、たくさん閉じ込められている。まるでいちごたちの標本のようにも見えるし、可愛いものや美しいものをしまう引き出しの奥の宝箱も連想し、思わず目を細めた。
 いちごの下のカスタードクリームは、黄色みの強いスポンジと同じ色をしている。ケーキの背中は、アーモンドスライスでコーティングしてあるのがちらりと見え、お皿の右下には、ふわんと泡立ったひらべったいホイップクリームが添えられていた。
「ドイツのいちごケーキは、エアトベーアトルテって言うんだね」
「ええ、エールトベアザーネトルテと呼ぶこともあります。日本で言うショートケーキに近いものですから、きっと貴女も気に入ることでしょう」
 さ、どうぞ、と勧められて、いただきますと手を合わせる。フォークをケーキにそっと挿し入れると、やわらかいと思っていたスポンジは予想より少しだけ硬く、最下層の生地はビスケット生地のようで、結構な力が必要だった。
 ひと口サイズのそれを、口に運ぶ。なによりも先にいちごの甘酸っぱさが広がり、続いてクリームとスポンジの控えめな甘さが舌で踊った。
 ああ、春の味がする。口の中に春風が吹いている。
 これが、ゾルフさんの故郷のケーキなんだ。
「美味しい〜!」
「それは良かった」
 続いて、添えてあるホイップもすくってみる。ミルクの優しい味が、幸せな気分にしてくれる。これとケーキを一緒に食べたら、どんな味がするんだろう。
 二口、三口と夢中で食べ、途中でやっとゾルフさんにも食べてもらわなくちゃと思いつく。ケーキのことになると我ながら呆れてしまうほど、集中力が出てくる。それを味わうことで頭がいっぱいになり、大好きな人のことすらすぐには考えられなくなる。
 ぱっと彼の方を向いて声をかけようとした。でも、できなかった。
 だって、あまりにも優しい微笑みを浮かべて、こちらを見ていたから。わたしがいちごを愛でたように、わたしを言葉もなく愛でているように思えたから。
「どうかしましたか?」
 手の甲に顎をのせたまま、ゾルフさんはわたしに問う。彼の選んだ、固めのプリンとホットコーヒーには、まだ口をつけていなかった。
「あ、ええと、あの……美味しいから一口食べてみて」
 顔が熱い。たぶん、わたしはいちご色の頬をしているのだと思う。別に突然キスをされたわけでもないのに、少女と言われるような年でもないのに、こうなってしまっているなんて。
 少しだけうつむくと、キャスケットのつばの影が良い感じにわたしの赤い顔を半分隠してくれた。
 ……なんというか、早く大人になりたいと思う。本当の意味で。

 ケーキと紅茶を楽しんだ後、わたしたちは路線バスに揺られた。電車のときと同じように、風景を楽しみながらも、たわいない話をしていた。
 緑が多い町だけれど、どうしてだか桜は一本も見当たらない。ここで満開の桜が本当に見られるのだろうか。彼と一緒なら見られなくてもかまわないけれど、見ることができないと思うと無性に見たくなってしまうのが人間の心理だ。
 わたしは車窓から、素早く流れていく木々の中に、桃色のそれを注意深く探していた。けれどそれも最初のうちだけで、気がつけばゾルフさんとのおしゃべりに夢中になってしまっていた。
 旅館に着いたのは、午後四時半だ。趣のある大きな旅館で、玄関口にはよく見るお腹の出たたぬきの置物と、石の灯篭が左右にみっつずつ、お出迎えしてくれているように並んでいた。
 チェックインを済ませ、エレベーターに乗り、六階の客室へと向かう。六〇三のお部屋は、青畳の匂いが漂う、広く落ち着いた空間だった。部屋の奥の窓からは、きれいな景色が見えそうで、わたしは一目散に駆け寄った。
 窓の下には濃いピンク色をした桜並木があった。今日初めて見る桜に、わたしは思わず歓声をあげた。
 もっと間近で見てみたい。枝に手が届きそうな距離で、愛でてみたい。
 わたしはさっそくゾルフさんに散歩に行こうと誘った。きっとOKしてくれるに違いないと思い込んでいたのに、彼は先に温泉に入りませんかと言った。どうやら、なにかプランを考えてくれているみたいだった。それなら彼の言う通りにして楽しみをとっておこうと、お風呂に入る支度を始めた。
 源泉かけ流しの温泉は、それはそれは気持ちの良いものだった。やわらかいお湯が肌にまとわりつくように吸い付き、温泉独特の硫黄の匂いが安らぎをくれた。露天風呂から見える遠くの山々のふもとには、ちらほら桃色が見える。あんな桜の木の下で、花がもたらしてくれる和やかな気持ちを、あの人と早く共有したくなった。
 温泉にとっぷりと浸かった後は、少し早めの夕食だ。お部屋でいただくそれは、塩焼きに、お造りに、お吸い物の具になど、とにかく鯛が目立った。仲居さんによれば、このお魚は一年中獲れるが、春に獲れたものを「桜鯛」と呼ぶのだとか。桜鯛には、白子や卵が入っているものもあり、それを楽しめるのは春の間だけらしい。
「お料理でも桜が楽しめるなんて、素敵だね」
 鯛の小さな骨をそっと口から出してから、浴衣姿のゾルフさんに話しかける。普段の白いスーツも似合うけれど、この和の服装も驚くほどよく馴染んでいる。
 湿って艶やかに光る髪束が肩に落ち、カーブを描いて流れている。それも魅力的だけれど、あわせの部分、共衿からちらりと覗く、鎖骨に無意識に目がいく。普段見ることのできないそれが目の前にあるものだから、抑えようとしても胸がどきどきしてしまう。それを悟られていないことを祈った。
「実際に桜の風味が香れば、もっと面白いと思いませんか。たとえば……桜の香料を鯛のエサに混ぜれば、可能かもしれませんよ」
 彼は薄く微笑む。髪や、鎖骨、口元に隠しきれない色香が漂っているのが気になって、わたしはなんとか話に集中しようと、そうだねそうだね、と頭を必要以上に振って同調した。
「そうだ、桜の花びらと一緒に食べれば良いんじゃないかな? 公園とかでいっぱい拾ったのを洗って、貼りつけて」
「なるほど、一番手っ取り早いですね」
 ゾルフさんは、わたしの子どもじみた突拍子もない発想を笑いはしなかった。会話を和やかに続けるための微笑みはあっても、鼻で笑ったり、人を食ったような態度をとったりはしない。そういう優しい人であることを知っているから、ついつい安心して思ったことをすぐに口に出してしまう。
「アヤさん、ここに良いものがありました」
 彼はにやりと笑い、小皿に置かれた桜餅を左手で指差す。そうか、これと一緒に食べれば桜味を満喫できるかもしれない。
 わたしはさっそく鯛の白身を口に運び、すぐさま桜餅にかじりついた。すると、昼間食べたエアトベーアトルテとはまた違う、野山や土の匂いを巻き込んだ春風が口の中にぶわりと吹きこんできた。
「……どうです?」
「さ、桜だぁ〜!」
 お笑い芸人のようなリアクションをとってしまったのか、ゾルフさんは大笑いしてくれた。わたしもなんだかおかしくなって、ふたりでお腹を抱えて笑った。

 夕食が終わったのは七時前だった。テレビを見て食後の休憩をした後、わたしたちは普段着に着替えて帽子を被り、散歩に行くことにした。これから念願の、桜を見に行くのだ。
 旅館から少し東へ歩いたところに、部屋から見えた桜並木の道があった。桜のアーチの周りでは、人々が桜を見上げたり、記念撮影をしたりしている。わたしは手前の桜に一目散に駆け寄った。
「わあ、きれい!」
 細い街灯に照らされた桜は、夜にぼんやりと浮かんでいる。光に当たっている花の部分が、きらきらと輝いて夜空に映えていた。
 思わず幹に手を触れて、見上げる。たくさんの桃色が、あふれかえる銀河の星々のように夜空に散らばっている。わたしはその光景が、また別のものにも見えた。夜空が海で、桜の花びらがみなも一面に浮いているような、つまり、少し早めの花いかだを眺めているような錯覚に陥った。
 その感覚を、たどたどしくゾルフさんに伝えると、彼は桜のようにそっと微笑んだ。
「そんな想像力豊かな貴女と、ぜひ一緒に訪れたい場所があります。ついてきていただけますか?」
 スマホでグーグルマップを表示させながら、ゾルフさんとわたしは夜桜の中を歩いた。
 ゾルフさんによれば、そこは地元民しか知らない秘密の場所なのだという。この町出身の同僚に、特別にここの存在を教えてもらったのだとか。そしてそこは、桜の季節の夜の間が、もっとも美しいらしい。あまり有名になって欲しくないくらいに。
 点在する家々を通り過ぎ、川のせせらぎを聞きながら、ひたすら東へ向かう。やがて、ある公園にたどり着いた。マップによればO公園というところで、神社もすぐそばにあるらしい。
「ここですね。ほら、あれですよ」
 彼が手で指した方を見て、わたしは思わず息を呑んだ。
 岬のはしっこで大きく花を咲かせた白い桜たち。一本一本がライトアップされたそれらは、まるで満開の花自体が不思議な力を解放して、自ら光っているかのように見えた。
 それだけじゃない。輝く桜たちが、川のみなもにそっくりそのまま上下反転して、鏡のように映っていた。水の鏡は、その表面を走る風に撫でられてさざなみが立っている。風が地上の桜を揺らすと同時に、水の上の桜も揺らしているのだ。
 あまりにも幻想的な光景に、きれいとか素敵だとか、そういった言葉を発することさえ忘れていた。桜とゾルフさんを交互に見て「わあ」とか「えぇ」とか、そういったため息交じりの声しか出てこなかった。
「もっと近くに寄ってみますか」
 その言葉に何度も首を縦に振る。ゾルフさんはそんなわたしの手を優しく引いてくれた。
 わたしたちは岬の端の桜の下に来た。すぐそばの白い桜だけでなく、水鏡に咲いた夜桜をも視線で愛でた。
 それは、先ほどの桜並木のときに連想した花いかだの、幻を眺めているようにも思えた。わたしの想像が現実になったみたいだ。もっと言えば、わたしの想像は今このとき確かに現実に存在していることを、彼がわたしに教えようとここまで連れてきてくれたようにも思える。
 こんなことも考えた。もしかしたら、桜がみなもに映っているのではなく、本当に水中にも桜が咲いているのかもしれない、と。そんな突飛な子どもの空想のようなことを考えても、桜は優しいからどんな想像も許してくれた。
 わたしの恋人と、同じだ。
「ソメイヨシノ、ですか。ドイツの桜もなかなか見ごたえがありますが、やはり本家のものには敵いませんね。なんとも言えない風情があります」
 彼は、手をつないでいる方とは反対の手を顎にやりながら、そう言った。
「この桜は白いね。ゾルフさんの、好きな色だね」
「ええ。ですがよく見ると、花芯の周りがほんのりと薄桃に色づいています。ということは、これは私と、貴女の好きな色を兼ね備えた桜ですね」
「ふふ、本当だ。それじゃあこれは、わたしたちのためにある桜、だね!」
 傍から聞けば、お熱いバカップルの台詞だと思われるかもしれない。ひどく傲慢な人間のたわごとだと思われるかもしれない。けれど、そんなこと今はどうでも良かった。誰になんと思われてもかまわなかった。
 わたしはこのタイミングで、昔どこかのロックバンドが歌っていた「世界はふたりのためにある」という曲を思い出していた。
 本当に、そう思える。この桜がわたしたちのために咲いていると。世界はわたしたちを祝福するためにあるかもしれないと。
 じん、と胸が熱くなる。なにかが喉の奥からこみ上げてきそうだった。
「ねえゾルフさん、なんでこんなに……言葉にできないくらい、きれいなんだろうね。なんでだと思う?」
 春にしか咲かない花だから? すぐに散ってしまうはかないものだから? 桜とはきれいなものだという認識がすり込まれているから?
 それとも、ここにはわたしたちしかいないから? ふたりで一緒に見ているから? あなたがそばにいるから?
 どんな答えが返ってくるのか、頭の中で予想をしてみる。けれど、彼が選んだ答えは、わたしが組み立てたどんな回答にも、似ていないものだった。
 薄紫に染まった瞳をすっと細めて、彼は言った。
「桜を見てきれいだと感じる貴女のその心が、美しいからでしょうね」
 風が吹き、ざあっと木々が揺れる音がした。桜の花びらが舞い、水鏡の桜は揺れて、わたしの髪は頬と唇にかかった。わたしはキャスケットを押さえ、ゾルフさんは帽子を脱いだ。
 熱が頬に集まっていくのが分かる。少しうつむいて乱れた髪を耳にかけていると、彼はわたしの帽子を優しく取り上げ、風の中、わたしの唇をごく自然な動作で奪った。
 一瞬触れたそのぬくもりが、夜桜のように少しの妖しさを湛えた瞳が、三日月のように弧を描く口元が、胸の奥をとくとくと鼓動させる。
 夢を見ているような心地で、ゾルフさん、と呟いた。
 わたしたちは、お互いの顔を瞳の鏡に映して、見つめ合った。
「うわ〜見て〜!」
 女性たちの歓声がすぐそばで聞こえ、肩が跳ねる。一瞬、さっきのキスを見られてしまったのかと思ったけれど、その次に「きれい」という言葉を聞いたので、わたしたちと同じように秘密のスポットの桜を見ているのだと分かり、ほっとする。
 残念ながら、ふたりきりの時間はもうおしまいらしい。ゾルフさんも残念に思ってくれたのか、目をつむって両肩を上げ、小さく息を吐いていた。
 キャスケットが静かに被せられ、ふたりで一緒に自分の帽子を被り直す。そうしながら視線を合わせて、一緒に小さく笑った。
 おそろいの動作が、またひとつ増えていた。

 その後、わたしたちは旅館に戻った。もう一度温泉に入った後、就寝時は布団をくっつけて、手をつなぎながらお喋りをした。
 ゾルフさんと布団でたくさん会話するのは、なんだか久しぶりな気がした。いつもダイニングに残って、遅くまでパソコンと向き合っているのを知っているからこそ、そんな些細なことがじんわりと嬉しく思う。
 今回の旅行で、彼がわたしのことを大切に想ってくれていることを、ひしひしと感じた。旅行中のひとつひとつの言動はもちろんそうだし、普段より仕事を頑張ってわたしのために休暇を取ろうとしてくれていた、その優しさを改めて思い返せば、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。
 わたしの心に空いていた寂しさの空洞は、今日一日で充分なほど、満たされた。今そこには、今日の思い出や、彼の数々の優しさや、たくさんのどきどき感を閉じ込めた、無数の宝石でいっぱいになっている。
 その感謝を、手をぎゅっと握りながら伝えた。
「ゾルフさん、今日は……ううん、いつもありがとうね」
 彼は微笑んで、わたしを腕の中に招いた。わたしは迷わず布団に潜り込み、その胸にぴたりと寄り添う。
「こちらの方こそ、いつも感謝していますよ。さあ、もうおやすみなさい。……アヤさん、良い夢を」
 わたしは彼に包まれて、贅沢にも頭を撫でてもらいながら眠った。
 その日の夜は、桜の夢を見た。白い桜が花をつけた腕をいっぱいに広げて、さわさわと踊るように揺れている夢を見た。


Afterword

ふたりにとって最初の旅行であり、平成最後の旅行でした。
現パロは実在の場所について書けるのが新鮮で、楽しいです。
(20190411)




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