エレベーターで七階のフロアに上がり、ガラガラとスーツケースを滑らせて廊下を歩く。
 七〇七号室、「キンブリー」と書かれた表札のあるドアの前で立ち止まり、わたしは深呼吸をひとつして、インターホンを鳴らした。
 ほどなくして、中から人が近づいてくる足音の気配がし、鍵を回す音が聞こえる。ガチャリとドアが開くと、笑顔のキンブリーさんが出迎えてくれた。
「待っていましたよ、アヤさん。さあ中へどうぞ」
「あの、本当に……良いの?」
 そう尋ねたのは、単に部屋におじゃましても良いか、という確認ではない。「わたしがあなたのこれからの生活に踏み込んでしまっても良いのか」、という大切な最終確認の意味が込められている。
 彼は微笑みを浮かべたまま、わたしの手をそっと引いた。
「ええ、もちろんです。私は貴女とともにありたいのですから。もう一瞬たりとも離れたくはない」
「キンブリーさん……」
 そのまま言葉もなく見つめ合っていたら、後ろから大きな咳払いが聞こえた。振り返ると、向かいの部屋に住んでいるのであろう、シーズーを抱いた中年女性がわたしたちに一瞥をくれてエレベーターの方へ歩いて行った。
 さあ中へ、という声で、ドアが閉められる。キンブリーさんはわたしのスーツケースをひょいと片手で持ってくれた。お礼を言いながらパンプスを脱ぎかけると、そこにスーツケースと同じ色の、淡いピンクのスリッパがこちらを向いてそろえられてあった。アクセントに小さな赤いリボンが控えめについている。
「わあ、可愛い。用意してくれてたんだ、ありがとう!」
 彼のその細やかな気遣いが嬉しい。以前からなんの準備もしなくて良い、と言ってくれていたけれど、そういった小さなことまで気を配ってくれているのが、歓迎されている、もっと言えば大事にされている証拠のように思えた。
「貴女の好きな色でしょう? その色でたくさんそろえてありますよ」
「ということは、ほかにも……?」
「ええ。見つけてからのお楽しみです」
 その言葉に嬉しくなって彼の背中にぎゅっと抱きついた。キンブリーさんは少し笑って、行きますよ、と優しく促す。けれどなんだか離れたくなくて、その格好のままずるずると廊下を歩く。彼は、歩きにくいから離れろなんて苦情を言わずに、甘えるわたしを甘んじて受け入れてくれている。真っ白なのに汚れひとつ目立たないスリッパで、ちまちまと歩いてくれた。
 一緒に住みましょう、と言ってくれたのはキンブリーさんだった。ちょうど一月前のバレンタインデー、つまり一年目の交際記念日に、そういう約束を交わした。去年に引き続き、とても幸せな夜を過ごせたことを、昨日のことのように覚えている。
 わたしたちは、ほとばしる情熱のままにすぐさま結婚するつもりでいた。そんな先走るわたしを見て、両親は「ドイツと日本というハーフの血が流れている彼と、本当に上手くやっていけるのか。試しに結婚前に一度、生活をともにしてみたらどうだろう」と、提案してくれた。
 確かに、生活スタイルの違いなんかは実感するかもしれない。ドイツ流の考え方や文化的な習慣とか、そういったものに慣れる必要は、あるかもしれない。わたしたちは比較的、相性や波長が合うほうだと思うけれど、籍を入れる前にある程度そういった違いを認識しておくほうが、後々困らないはずだ。
 気持ちとしては、とにかくすぐに結婚してしまいたいけれど、そういう手順を踏んだ方がお互い仲良くやれるだろうと、考えることができた。幸いにも、両親が同棲を経て結婚したこともあって同棲には肯定的だった。それから、彼のご両親も納得しているとのこと。ドイツでは、カップルが同棲するのはごくごく自然な成り行きだというから、日本との違いに驚きつつも安心した。
 お互いをより深く知る時間は、たっぷりある。これからはもっともっと彼を知っていきたいし、わたしのことも知ってもらいたい。
 期待にふくらむ胸が、恋する音を立ててドキドキと高鳴っていた。

 いつ来ても、シンプルで開放感のあるダイニングだ。基本、彼は無駄な家具や物を置きたがらない。ここには最低限の、洗練されたフォルムを保った高価に見えるものたちが、部屋の主に使われるのをひそかに期待して待っているだけだ。
 キッチンカウンターには、見慣れない観葉植物の小さな鉢が置いてあった。そういえば以前、レストランにあった大きなヤマドリヤシを見て「緑があったら落ち着くね」と彼に話したことがあったけれど、もしかして、それで置いてくれた……?
 いやいや、思い込みかもしれないと思い直し、「これ癒されるね」とだけ言ってみる。
 彼はスーツケースを横にして置き、
「貴女、好きでしょう。おかげで私も興味が湧いて、好きになりましたよ」
 そう微笑んでくれた。
「もう……優しいなあ」
 好き、という気持ちがあふれてくる。それは、初めて出逢ったときに感じた気持ちよりも断然大きくて、深い。そんな気持ちを何度も何度も、感じさせてくれる。わたしの心を満たしてくれる。
 彼が、好きだ。
 荷解きの前に、手を洗おうと洗面所に行った。泡のハンドソープで手をごしごししながらぼうっと視線をさまよわせていると、カップの中に歯ブラシが二本入っているのを見つけた。
 白と、ピンク。
「あぁもう……」
 二色のそれがたった並んでいるだけで嬉しくて、へなへなと顔を俯かせてしまう。自分は一体どうしてしまったんだろう。口の端が勝手に上がっていくのを抑えられない。
 少しして、顔を上げる。鏡に映る自分が、あまりにもニヤニヤデレデレしていることに気づき、なんだか恥ずかしくなった。
 けれど、良いんだ。こんなにも幸せな気持ちを抑えたくはないから。
 ダイニングに戻ると、キンブリーさんがお茶の準備をしてくれていた。わたしも手伝うよと袖をまくれば、貴女はゆっくりしていてください、と言われる。
「一緒に準備したいの。もう、お客さんじゃないからね」
「では、一緒に。あの戸棚にティーバッグを詰めた瓶があります」
 キンブリーさんの暮らしにもぐり込むという感触が、とても新鮮で心地良い。こんな感じで、早く溶け込んでいけたら良いと思う。
 紅茶の準備をした後、デパ地下で買ったお土産のバウムクーヘンを渡した。これからお世話になります、よろしくお願いします、と頭を下げる。キンブリーさんは、こちらこそ、と言ってわたしよりも深くお辞儀をした。
「実は、今日の記念にとケーキを買っておきました。どちらを開けますか?」
「ケ、ケーキ?」
 思わず喉がごくりと鳴る。ケーキはわたしの大好物だ。
「キンブリーさんはどっちが良い?」
「どちらでも良いですよ」
「じゃ、じゃあケーキで……」
「そう言うと思いました。気に入ってくださると良いのですが」
 というわけで、ダイニングテーブルには真っ白のホールケーキが置かれた。
 こんなに至れり尽くせりしてもらって果たして良いのかな、と考えてしまうけれど、その考えよりも目の前にあるクリームたっぷりのケーキのほうに、興味がそそられてしまう。
 つやつやの苺のほかに、銀箔が一面に散りばめられたそれは、きらきらと輝いている。そのケーキの向こう側では、キンブリーさんがにこやかに笑っている。そちらも負けじときらきらと輝いているものだから、だんだん幸せなめまいが起きてくらくらしてきた。
「わたし、幸せすぎて倒れたらどうしよう」
「はは、もちろん看病して差し上げますよ。膝枕で」
「膝枕で!?」
 それじゃあまた幸せ病をこじらせるに決まっている。もはや不治の病だ。
 キンブリーさんは、箱についていた小さな袋からロウソクを取りだした。そしてそれらの中から、白とピンクの二本を選んで、ケーキの中央に挿す。
「アヤさん、電気を消してください」
 彼に言われた通り、壁の電気のスイッチを押す。キンブリーさんは、チェストの引き出しからライターを取り出して再び席に着いた。
 カチッ、カチッと音がし、暗闇の中でぼうっと明かりが灯る。ゆらめく火のついた二本のロウソクは、わたしの心にも温かな気持ちを灯してくれた。
「それでは、今日という大切な日を祝って。ふたりの新たな出発としましょう。アヤさん、いつまでも私のそばに」
「もちろん、大好きなキンブリーさん!」
 ふたりで笑い合って、一緒に揺れるともしびを吹き消した。
 分かっている。本当に温かな気持ちにさせてくれたのは、ケーキでもロウソクの火でもないことを。
 わたしはちゃんとその幸福を、噛みしめている。

 ふたりで仲良くケーキと紅茶を楽しんだ後、同棲するにあたっての簡単なルールを決めたりした。
 たとえば、朝ごはんは早く起きたほうが作るとか、ゴミは気づいたほうが捨てるとか、帰りが遅くなるときは必ず連絡を入れるといった、簡単なことだ。それから、疑問に思ったことはなんでも相談して、ひとりで不満をため込まないこと。お互いに妥協点を探すこと。そういう細かいことを確認した。
 ルールを決めた後は荷解きをして、一緒に晩ごはんを作った。春キャベツを使ったロールキャベツと、サラダとオニオンスープだ。ロールキャベツは、わたしの持ってきたレシピ本を見ながら初めて作った。
 夕食後はソファに隣同士で座ってテレビを見て、お風呂に入った後も会話して、彼の真っ白でふかふかのベッドに入った。それはクイーンサイズの大きなベッドで、マットレスの弾力が気持ち良くて、新品の枕は少し硬くホテルのものみたいだった。
 隣を見れば彼がいる。ベッドの中でもお話しをして、手を握ったり、名前を呼び合ったりと、大好きな人の隣で眠れる大きな幸せを感じていた。
 もう、デートのときのように、時間が来たって帰らなくても良いんだ。途中で目が覚めても彼はそばにいるんだ。朝が来たら、彼と朝ごはんだって食べられるんだ。
 これからずっとこんな満たされた生活ができる、と思ったら、なにかに感謝せずにはいられなかった。
 ありがとう世界。ありがとう神様。
 わたし、今、とても幸せ……。

 ――待って。
 明日って何曜日だっけ?
 今日が日曜日だから、月曜日?
 月曜日って確か……。
 わたしは勢いよく上体を起こして、口元を覆った。
「プレゼンの日だ……!」
 暗闇の中をきょろきょろと見回して、サイドテーブルのデジタル時計を慌てて掴んだ。発光する数字が告げているのは、午前一時。ベッドに入ったのは二十三時だから、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 プレゼンで使うパワーポイントの資料はまだ半分もできていない。本番になるとあがってしまうタイプのわたしは、音読用の原稿だって必要だ。それにいたっては、まだ一文字も書いていない。
 全身からサーッと血の気が引いていく。
 た、大変だ……!
 キンブリーさんを起こさないように、そうっとベッドから降りる。すると腕がなにかに当たり、バサバサッと本のようなものが落ちる音が聞こえた。彼の目が覚めないかびくびくしながら、覚めませんようにと祈ってふくらんだ布団を見た。
 落ちたのはおそらく、サイドテーブルに重ねてあった彼の愛読書だろう。彼は、パラケルススというドイツの錬金術師に傾倒していて、その人の本をここに置いていたのを覚えている。その本たちを慎重に拾いながら、ちゃんと重ねてテーブルに戻しておいた。
 さあ、急がないと。わたしはノートパソコンを取りに、ダイニングのドアを開けた。
 真っ暗だろうと思っていたのに、部屋は明るかった。見れば、キンブリーさんがテーブルにノートパソコンを広げて作業をしているところだった。
 彼はパジャマシャツの上に白いガウンをはおり、束ねた黒髪を右肩に垂らして、素早いブラインドタッチでキーを打っている。
 画面を見ていた目がふいに動いてわたしを見つけると、彼はまばたきをして言った。
「おや、目が覚めてしまいましたか」
「うん……実は、明日のプレゼンのことをすっかり忘れてたの……」
 同棲を始めること、嬉しくてとんでもなく幸せ〜な気分にすっかり気を取られて、仕事のことを忘れていたなんて。我ながら呆れてしまう。仕事一筋のキンブリーさんも、開いた口が塞がらないだろう。
「明日、ですか。進捗状況は?」
「う、少ししか手をつけてない……」
「そうですか。ですがまあ、今から取りかかれば間に合うでしょう」
「うん……頑張る」
 木製のラックに置いた自分のノートパソコンを、彼の向かい側の席まで運びながら訊いた。
「キンブリーさんは、こんな時間までお仕事?」
「ええ、同僚が三人欠勤していましてね。その分をこなしておかないと」
 彼は腕組みをし、思案顔で画面を見つめた。
 キンブリーさんは、外資系の紳士服メーカー企業でマーケティングの仕事をしている。頭の良い彼のことだ、きっと部門長や経営陣に一目置かれているんじゃないかと思う。自社製の白いスーツを毎日華麗に着こなして出勤しているようで、退社後に会う約束をしていたときは、毎回その姿に惚れ惚れした。明日の朝、真っ先にその姿が見られるのが楽しみでもある。
「三人も? それは大変」
「インフルエンザに罹ったようです。約一週間はこの状態ですね」
 ピークは過ぎたとはいえ、インフルエンザは毎年三月頃まで流行しているという。高熱が出なきゃ良いね、と話をしていると、あることを思い出した。
「そういえばテレビで知ったんだけど、インフルエンザの新薬の名前、『ゾフルーザ』って言うんだって」
「ゾフルーザ?」
「ねえ、なんだかキンブリーさんの名前と似てるよね」
 ゾフルーザとゾルフさん。
 そう声に出してみると、彼がくすりと笑った。
「本当ですね。よく似ています」
 彼がにこにこと嬉しそうに微笑むので、わたしもつられて笑顔になる。
 言葉の前半を彼が呟く。
「ゾフルーザと」
「ゾルフさん」
 そう返して、ふたりでまた笑う。
「さて、仕事をしましょうか」
「はいっ」
 目標時間は午前三時だ。この時間までに資料と原稿作りを終わらせよう。
 ノートパソコンの電源を入れる。画面が立ち上がる。
 わたしたちは無言になり、互いのなすべき仕事に集中した。

 終わったとばかりに、勢いよくエンターキーを小指で押した。「上書き保存」をクリックして、データをUSBメモリに入れ、大きなため息をつく。
 やっと終わった。これで明日は大丈夫だ。
「お疲れさまです。ホットミルクでも入れましょうか」
「あ……じゃあお願いします」
 キンブリーさんは席を立ってキッチンに向かってくれた。わたしは両肩をまわしたり、伸びをしたりして、身体から溜まった疲れを逃がそうとしていた。
 時刻は午前三時十分。彼のノートパソコンはすでに閉じられていて、その上に文庫本が置かれていた。もしかして、仕事が終わったのに待っていてくれたんだろうか。
 そういえば、わたしがこの部屋に来る前から、彼はここで仕事をしていた。寝るときは確か一緒にベッドに入ったはずなのに。つまり、わたしが眠ってから自分の仕事を始めたということになる。
 彼のその優しさに、嬉しさと申し訳なさが同時にこみ上げてくる。
「キンブリーさん、ありがとう。それと、色々と気を遣わせてしまってごめんね」
 キッチンカウンターから顔を出したキンブリーさんは、いいえと首を横に振る。
「特別なことはなにもしていませんよ。そうだ、これを渡すのを忘れていました」
 彼が湯気のたったマグカップと一緒に持ってきたのは、赤いリボンのついた長方形の平たい箱だった。食べ物のカンが鋭く働くわたしは、それが美味しいクッキーかチョコレートだと見た。
「バレンタインデーのお返しです。本当は昨日のホワイトデーに渡したかったのですが、タイミングを逃してしまいましてね」
「わ、ありがとう!」
 ドイツではホワイトデーがないと聞いたことがある。日本に来てから長いと言っても日本生まれではないのに、ちゃんとそういうイベントを気にかけてくれる心遣いが嬉しかった。
 食いしん坊将軍のわたしはさっそく箱を開けた。なんともいえない甘い香りが鼻孔をくすぐる。予想通り、チョコレートだ。
「わあ……」
 与えられた小さなひと部屋ひと部屋に、お行儀よく納まったチョコレートたち。ハート型のもの、ホワイトチョコのもの、アーモンドが見えているもの……。少しずつ色や形が異なった、最高に美味しそうなスイーツが並んでいる。
 食べても良い? と、じわじわ出てきたよだれを飲み込みながら彼を見る。だって、こんな時間まで起きて仕事していたらお腹が空いてしまう。
「どうぞ。ただし、この時間ですからひとつかふたつで留めておきましょう」
「はーい!」
 わたしはピンク色のチョコレートを口に入れた。思った通り、苺チョコの甘い味が口に広がる。疲れたわたしの、至福のご褒美だ。
「美味しい……。キンブリーさんもどうぞ。お疲れでしょ」
「いいえ、遠慮しますよ」
「まあまあ、そう言わずに」
「では、ひとつだけいただきましょう」
 彼はシンプルな四角いチョコを食べた。箱に入っていた味の説明文によると、それはビターチョコだった。
 ホットミルクを飲みながら、わたしはその説明文に目を通す。ミルク、抹茶、クランチ……。それを眺めて、次はどんな種類のチョコレートを食べようかな、とわくわく気分で考える。
 すると、向かいの彼が呟いた。
「ゾフルーザと、なんでした?」
「ゾルフさん!」
 元気良くそう言えば、彼はまた穏やかに笑う。どうやら、このくだりが気に入ってくれたらしい。
「ふふ、そんなに気に入ってる?」
「ええ。貴女に下の名前で呼んでもらえるのが」
 ふっ、と薄紫の瞳が細められて、わたしの胸は音を立てる。
 そんなことを、思っていたんだ。
「じゃ、じゃあ、これからはゾルフさんって呼ぼうかな?」
「嬉しいですね」
 わたしは思わず席を立って彼のそばに寄った。キンブリーさん――いやゾルフさんは、わたしの腕と腰を引き寄せて、自分の膝の上に座らせた。お互いに向かい合い、少しだけ彼がわたしを見上げる形になる。
 距離が近くて、美しい瞳と視線が交わる喜び。そして、親密になれた者だけが呼ぶことのできる、彼自身を表す素敵な名前を呼べる悦び。
「……ゾルフさん」
 見つめ合って、唇を重ねる。
 最初は触れただけ。
 次は、それよりも少しだけ長く。
 彼は、腰を抱く手に力を込めた。
「ね、ねえ? だめだよ。せっかくホットミルクを飲んだのに、眠れなくなっちゃう」
「そうですね」
 そう返事したにもかかわらず、彼はもう一度、わたしの呼吸を奪う。
 ちろ、と下唇を舐められる感触に肩が震える。
「ん、ねえ、だめ……」
「よく眠りたいですか?」
 こくこくと頷けば、彼はチョコレートの箱に手を伸ばし、銀の包装紙で包まれたひとつのチョコを手に取った。
 説明文にもちゃんと書いてあったそれは、ウイスキーボンボンだった。確かに、お酒の強くないわたしが食べたら、少しは眠くなる……かもしれない。
 彼はその包装紙からチョコを取りだす。わたしにくれるのかと思っていたチョコは、なんと彼の口に放り込まれてしまった。
 まばたきを繰り返すわたしを見て、彼はいたずらを思いついた少年のように笑う。
 そしてまた、吐息が重なる。
「!」
 塞がれた口の中に、彼の舌で押し込まれたチョコが入ってくる。甘くて、少し溶けかけていて、わたしは思わず変な声を上げてしまいそうになる。
 舌の上で小さなチョコが転がり、ふとしたときに彼の舌先が触れる。チョコはちゃんとわたしの口に入っているのに、それを何度も確かめるように、あちこちに触れて確認している。
 抵抗しようにも腰をがっちり掴まれているし、彼が繋いだなんとも甘い透明な鎖が、逃がしてはくれなかった。
「ん……う」
 とろり、とした感触が舌に広がった。アルコールの風味がふわんと口の中を漂い始め、ついにわたしをくらくらさせる。昼間感じた幸せなめまいよりも、もっと大きな波に呑みこまれてしまった、ような。
 悲しくはないのに涙が滲んできたようで、視界がぼやけている。その視界で、彼を見る。
 ゾルフさんは、にやりと蠱惑的に大きく笑む。そして、唇のそばでささやくようにわたしを呼んだ。
「アヤ」
 背筋がびりり、としびれた気がした。いつもの、「アヤさん」と礼儀正しくわたしを呼ぶ彼はどこにも存在しなかった。ゾルフさんは、変わらずゾルフさんであるはずなのに、今の彼はまるで雄の蛇の魂が宿ったかのように、妖しげな色香を漂わせていた。
「口を開けて」
 言われるがまま、そうする。ゾルフさんは舌を押し込みながら、またわたしに食らいついた。
 気分はもう、口の中のチョコレートにでもなったみたいだ。彼の熱で、今にもドロドロに溶けてしまいそう。
 次第にウイスキーボンボンは、欠片サイズになり、しばらくすると溶けて消えてしまった。彼はそれが名残惜しいとでも言うように、何度も何度も熱を絡めてきた。
 充分に味わいつくされた後で、彼はようやくわたしを解放してくれた。息が弾んだ。
「おまじないをしておきました」
「お、おまじない……?」
 彼の冷たい手が、火照ったわたしの頬を触り、そうっと撫でられる。ひそやかに微笑みながら、彼は呟く。
「貴女がよく眠れるように。それと、今日のプレゼンが上手くいくように、と」
「……たぶん、すごく効いたと思う」
「それは良かった」
 わたしは、彼の首元に顔をうずめて、そっと抱きついた。
 どくん、どくん、どくん。
 キスの嵐が止んで、彼の心音に耳を澄ませようとしてはじめて、自分の心臓が大きく強く鼓動していたことを知った。

 翌朝、わたしたちは同じ場所で同じ朝を迎えた。
 気がかりだったプレゼンは、大きなミスなく終えることができた。ただ、早い順番でまわってきたために、残りの人のプレゼンを聞いている最中、何度も出てきそうになるあくびを耐えなければいけなかった。
 ゾルフさんのおまじないのひとつは効いて、もうひとつはまったく効かなかった。だって、あんなキスをされた後にすやすや朝まで眠れるほど、わたしは器用にできていない。
 すごいキスだったな……とぼんやり思い出しては、我に返って恥ずかしくなる。それを今日、何度も繰り返していたら、いつの間にか退勤時間になっていた。
 そうだ、お礼に彼の好きなワインでも買って帰ろう。そうしてまた、ふたりで甘い夜を過ごせたら……。
 なんて、少しだけそういう期待をしてしまうわたしがいた。


Afterword

ホワイトデーと日付の変わった後の夜のお話でした。
同棲するお話が書きたかったのです。
(20190314)




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