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1.
 地下の薄暗い書庫に、その男はいた。
 天井の蛍光灯がきれているので、男はランタンをかざしながらその心もとない灯りを頼りに、分厚い本の背表紙を照らしていく。やがて立ち止まり、一冊の本の頭を人差し指で押さえてそれを抜き出した。薄く積もっていたほこりが、灯りに照らされながらふわりと舞う。緑一色の装丁のそれは、錬金術中級者向けの本だ。男は続けて隣り合った二冊の本を取り出し、それを小脇に抱えて書斎に戻った。
 彼の書斎は、部屋が広い割にはずいぶんとすっきりとしている。ここには白と赤と、磨かれた木の赤褐色しかない。マホガニー材の仕事机と本棚に、真紅の絨毯、無地の白いカーテン。ほかにはなにもない。誰かと映った写真が飾ってあるわけでも、服が椅子にかけられている様子もなかった。
 男は机に本をどさりと置いて、部屋の灯りをつけた。椅子に腰かけてすぐ、緑の本を開いて後ろの索引のページをめくる。じっくりと読み返すのではなく、ある記述を探しているのだ。形の良い吊り上がった眉をほんの少し寄せて、彼は細かい字にさらさらと目を通す。だが、目当ての単語が載っていなかったのが分かると、すぐに本を閉じた。 
 この部屋には時計がない。いや、この部屋だけではなく、彼の家に時計は存在しなかった。秒針の音で気が散る、あるいは眠れないといった、神経質さを理由にしているわけではなく、単に錬金術の研究に時間を忘れて心血を注ぎたかったからだ。困ることはさしてない。朝が近づけば、近くの牧場の鶏のしわがれた声が聞こえてくるし、出勤前は隣の家の子どものはつらつとした「行ってきます」が聞こえてくる。それで十分、こと足りた。それに、本当に時間を確かめる必要があるときは、狗の証の銀時計を開けば良い。
 というわけで、彼は時間に縛られることなく本を開いていく。次は、辞書並みに分厚い暗赤色の本を開いた。また索引に目を通し、“P”の項目を目で、指でなぞっていく。“Philosopher's Stone”――賢者の石。その記述があるという六百二ページを開いてみるが、男は不満そうに唇を歪めた。賢者の石については、たった三行しか書かれていない。それも既に知っている、大まかでひどく曖昧な定義だ。
 最後に、黒地に白文字でタイトルが書かれた本を手にする。例のごとく索引を、そして賢者の石の記述のあるページを開くが、書かれていたのはこの一行のみだ。
『地上には存在しない、伝説上の、あるいは架空の物質』
 男は背もたれに、ぐっともたれた。そして、鼻から息を思い切り吐く。
 国立中央図書館や自宅の書庫の錬金術の専門書、特に上級者用の書籍は、片っ端から調べた。残るは、今しがた久々に開いた中級者用のものだったが、やはりそれにも詳細は書かれていない。男は思った。やはり、この世には存在しない代物なのだろうか。あらゆる神や、一角獣のように。
 だが、石の生成を試みた者は少なくないはずだ。あの絶大なエネルギーを小さな石に込めるには、少々骨が折れるだろうが、アメストリスや錬金術の歴史は相当長いものであるし、もしかするともう良い線まで行っているかもしれない。しかし今現在、石の存在は表に出ていないし、実験中だという報道もない。仮に生成に成功していても、公にはできない理由も容易に考えられる。
 とはいえ、術師であるからには、一度はお目にかかりたいものだ。可能ならばその石を我が物にし、法則も限界も無視した大錬成を行いたい。なんの邪魔も入らず、なにをしても許され、我欲のままに、満足のいくまで。大爆発の轟音をこの耳で聞き、かすかな爆風をこの身体で受けて、なにもかもが紅蓮と化すそのさまを、この目で見てみたい。
 錬金術師は夢を追う生き物だ。たとえそれが、不可能に近いものであっても、そのわずかな可能性に思いを馳せずにはいられない。
 その石さえ使えたなら、私はおそらく満足できる……。深夜が織りなす静寂に導かれるように、男――ゾルフ・J・キンブリーはゆっくりと目を閉じた。夢の続きを、思い描きながら。




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