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 この家で時間が可視化できないのと同じように、日付もまた、ここでは確認できなかった。キンブリーは、カレンダーやスケジュール帳の類を持ち合わせていない。日付や曜日などは、月初めに軍部で配られる月間予定表で十分把握できるし、私的な予定は頭にインプットされてある。予定をうっかり忘れてしまったことは、記憶の限りではない。そもそも、誰かとの約束や店の予約といったものが、彼の予定表に組み込まれる機会は極めて少ないのだ。
 しかし、今日は例外である。十三時十五分に、大総統キング・ブラッドレイと面会することになっていた。キンブリーは、トースト二枚とスクランブルエッグ、新鮮なサラダ、ブラックコーヒーの朝食を味わいながら、今日の大まかな予定を立てた。その後、鼻歌を歌いながらヘアスタイルを整える。髪紐は新しいものに変え、絹糸のような漆黒の髪をきつく結った。そして、窓の外から聞こえてくる「行ってきます」の声を背中で聞くと、姿見で全身をチェックし、玄関に向かった。
 午前の仕事をそつなくこなし、ブラッドレイとの面会も終え、普段通り定時に帰る。朝と同じようにひとっ走りしても良かったが、今日は駅前の電器店に寄ろうと考えていた。書庫の蛍光灯を買いに行くのだ。
 まだ書類と格闘している部下の肩に、ぽんと手を置き、キンブリーは執務室を後にした。着替えを済ませて、ロッカールームを出るとき、ばったりアームストロング少佐と出会った。普段ならば、双方とも一言挨拶を交わして終わりなのだが、行き先が同じということでそのまま話しながらエントランスに向かった。
 彼とは、国家錬金術師が一堂に会する大晦日のパーティで出会った。有名な大富豪アームストロング家の長男だそうだが、出自や実力を鼻にかけたり、驕ったりする性格ではない。大柄でたくましい体格は軍人そのもの、しかし軍人らしからぬ心優しさを持つ善良な人間だ。キンブリーは、そんな彼と自分は対角線上にあると考えていた。
 どうやら、アームストロングにもブラッドレイからの呼び出しがあったらしい。世間話をひとつふたつした後、彼はしばらくそのことについて話していたが、エントランスである軍人を見かけると、ふと会話を中断した。失礼と呟き、前を歩く短髪の黒髪の男に声をかけた。
 振り返ったのは、焔の錬金術師・マスタング少佐だ。名前と顔は知っているが、キンブリーはまだ直接会話したことはない。アームストロングと言葉を交わす彼と視線が交わると、ふたりは互いに自己紹介を始めた。マスタングも、キンブリーのことは以前から知っていたようだ。太陽の錬成陣が刻まれた手を差し出すと、彼は目をしばたたいた。そして、面白い人だと困ったように笑い、その手を掴んだ。
 なりゆきで、彼ら国家錬金術師三人は駅へと向かった。アームストロングは姉の誕生日プレゼントを買いに、マスタングはイーストシティ行きの列車で今日のうちに帰るという。
 東方司令部に勤務しているマスタングが、なんの用事があって中央セントラルに来たのかと、アームストロングは尋ねた。マスタングが、ああ、と呟いて言葉を続けようとするより先に、キンブリーが口を開く。
「大総統からのお呼び出し、でしょう?」
「なぜ分かるんだ?」
「私もアームストロング少佐もそうだったんですよ」
 夕日が三人の長く濃い影を、アスファルトの上に落としている。真ん中の一番長いアームストロングの影が、うんうんと頷く。
「吾輩は、東部の、イシュヴァールの内乱をどのように考えているか、かれました」
 キンブリーもマスタングも、同様の質問を受けていた。アームストロングは、声のトーンを落として静かに続けた。
「心苦しいですな。どのような理由があっても、争いは極力避けるべき。ですが、戦いは吾輩の思いに反して予想以上に長引き、未だ終わる気配もない。もちろんそのようなことは、閣下に申し上げてはおりませんが」
「私も同感だ。あの内乱は、あまりにも長引きすぎている。これ以上犠牲者を出さずに、対話を通して平和的に解決したいものだが」
「そうですか?」
 ふたりは、その言葉を発したキンブリーの顔を咄嗟に見た。
「我々は有事の際に活躍できるよう、日々訓練を積んでいます。それなのになぜ、戦いを忌避しなければならないのです?」
 マスタングは、少しの間呆気にとられていたが、すぐに表情を引き締めて言った。
「敵味方関係なく、犠牲者が出ないのが一番だ。軍人の出番はないに越したことはない。そうは思わないのか」
「国軍は国のため、国民のために全力で戦うものです。たびたび国につっかかってくるイシュヴァール人を、真に懲らしめられるのは我々国軍だけ。平和的解決と言いますが、言葉が通じる相手ならとっくの昔に社会の安寧は保たれていますよ。武力で鎮圧するほかに手があるとでも?」
 マスタングは、キンブリーの挑戦的な言葉に噛みつくように口を開きかけたが、堪えるように唇を引き結んだ。そして、正面を見て低く呟いた。
「きみは、ドライなんだな」
「そうでしょうか? 現実を見ずに理想ばかりを追い続け、敵味方問わず情けをかける。そんな愚かな盲目の奴隷に、成り下がりたくないだけですよ」
 マスタングの眉がぴくりと動く。あのなあ、と怒気を含ませてついに切り出した彼の声に、アームストロングの大声が被せられる。
「いかんいかん!」
 ぴたりと立ち止まったアームストロングは、両手を広げてふたりの歩みを制した。
「蟻の行列を踏んでしまいます」
 見れば、道を横断するように蟻たちが連なっている。それらは、道の脇に落ちている白い食べ物の欠片を目指していた。
 しばしの沈黙が流れた。マスタングはむすりと口角を下げ、キンブリーは足下の蟻を見つめ、アームストロングは汗をひとすじ垂らして浅く息を吐いた。
 沈黙を破ったのは、淡く灯った街灯の上で羽を休めていた、カラスの声だった。やりとりをしているのか、遠くの方から別のカラスの声が、少し遅れて聞こえた。
「急用を思い出した。ここで別れるよ」
 マスタングは、誰の顔も見ずにそう言った。アームストロングは別れの挨拶を述べ、キンブリーは、お気をつけてと言いながら誰にも知られぬよう、つま先でひっそりと蟻を踏みにじった。
 まもなくして見えた、アームストロングの目当ての花屋の前で、ふたりは別れた。アームストロングは店内に入り、キンブリーはそのまま道をまっすぐ歩く。夕焼けの赤と入れ替わるようにして、空には夜の深い闇の色が広がり始めていた。
 その夕闇が連れてきたのか、はたまた先ほどのカラスが呼んだのか、ひとりの女が彼の隣に並んで歩きだした。彼と同じ艶やかな黒髪を、大きくウェーブさせた女だ。水商売の客引きか、とキンブリーは横目でちらと見る。女は赤いルージュを塗った唇を三日月型にして、紅蓮の錬金術師、と呟いた。道を歩いていてこんな風に声をかけられたのは、初めてのことだった。
「ほう、ご存知でしたか」
「紅蓮に焔に剛腕。国家錬金術師が勢ぞろいだったわね」
 女は国家錬金術師に詳しく、また先ほどの三人のやりとりを見ていたようだ。キンブリーは、よくご存知で、とだけ返事し、しばらくその女と歩いた。
 通りすがる女学生たちが、ひそひそ話を始めたり、小声で歓声をあげたりしている。傍から見れば恋人同士か、無名の俳優のように映っているのだろう。白を着こなす男と、黒一色に染まった女が並ぶとただでさえ人目を引く。加えて、ふたりともが容姿端麗で、一般人とは一線を画するミステリアスなオーラがある。通りすがる誰もが二度見した。
 当の本人たちは、周りの視線や様子など少しも気にすることなく歩を進めている。キンブリーは、無言で歩く女の目的がなにか分からぬまま、電器店のある四つ辻を右に曲がろうとした。そのとき、腕を引っ張られた。
「もうじき降るわよ、雨の匂いがするもの。傘は持っていないのね」
「通り雨ですか。構いません、途中で購入しますよ」
「それじゃあいけないわ。雨宿りをしましょう、一緒に」
 女は、それ以外の選択肢は選ばせないというように、意味ありげにゆっくりとまばたきをしてみせた。キンブリーは、電器店に行くのを諦め、女の言う通りそのまま道を直進した。
 やがてふたりは、看板の電飾がまだらにきれたホテル『ファム・ファタール』の中に消えていった。




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