一.
 初夏の生ぬるい風が、中央刑務所セントラル・プリズンの囚人たちの薄汚い顔を舐めるように撫でていく。肩で息をしながら運動場を走る彼らは、八週目または九週目にさしかかっていた。
 その中の最後のグループに、ゾルフ・J・キンブリーはいた。風は、キンブリーの無精髭の生えた顎や頬をかすめ、束ねられていない長い黒髪に空気を含ませさらっていく。特別息を弾ませることもなく、彼はのろのろと走っていた。
 看守の怒号が聞こえる。「おまえらチンタラしてねえで速く走れ!」、そう言われてもキンブリーの速度や歩幅は変わらない。舐めているのではない。やる気がないのでもない。ただ単に、両手首にはめられた木製の手枷が邪魔で腕を振ることができないのだ。
 とうとうキンブリーは、最後尾を走ることになる。それでも、彼の顔は飄々としていたし、鼻歌を歌い出しそうなほど余裕に満ちて、瞳さえ閉じてみせた。
 五月の爽やかさを肌で感じながら、彼はまぶたの裏にイシュヴァールの内乱を思い浮かべ、悦に浸った。両手は縛られていても、誰も彼の心までも縛ることはできなかった。
 運動時間が終わり、囚人たちは木陰で体を休めた。先頭のグループたちは額や胸に大量の汗をかいてぐったりしていたが、キンブリーは涼しい顔でストレッチをしている。彼の無地の囚人服には、汗の滲んだ箇所などひとつもなかった。
 号令がかかるまでの間、囚人たちの貴重な雑談タイムが始まる。キンブリーは屈伸をしながらそばの二人組の話に耳を傾けた。そこで、ある情報を小耳に挟んだ。同じ死刑囚であるジョー・ゲイルの刑が執行されたらしい。
 彼とは何度か話をしたことがある。あまり記憶に残らない他愛のない話だったが、彼のことは嫌いではなかった。そして、特別好きでもなかった。
 ジョーはよく、家族に手紙を送っていた。返事が来たことはただの一度もないと言っていたが、彼はそれでも手紙を書き続けていた。いつか自分の真摯な思いが家族に届くと信じて。
 なにを思ったのかキンブリーは、腕時計を見ている看守に声をかけた。
「便箋と封筒、それからペンを私のへやに届けていただけますか」
「なにをするつもりだ」
「手紙を書こうかと思いまして」
 看守はキンブリーの顔をなにやら不思議そうに見た後、彼の手もとに視線を落とした。
「おまえ、手枷なんてはめてたら字なんて書けねえだろうが」
「そうですね。外していただけるとありがたいのですが」
「へっ、ばか言うな。おまえにゃあいつのお古をくれてやる」
 キンブリーは尋ねた。あいつ、とは。
「こないだ死んだ、ジョーのモンだ」

 それから二日後、キンブリーの部屋もとい二十九番目の独房に、使い古された黒いタイプライターが届けられた。死んだジョーの愛用品、いや遺品である。家族に渡されることも、処分されることもなかった行き場のない機械は、同じ死刑囚の仲間の元にめぐってきた。
「これで良いだろ」
「感謝します、看守さん」
 看守の後ろ姿をドア越しに見届けた後、キンブリーはさて、と呟く。
 誰に書こう? なにを書こう?
 自分には手紙を書きたいと思える家族もいなければ、恋人もいない。代わり映えのない囚人生活だ、報告したいと思える出来事もない。
 それから、手紙を送る前には必ず検閲が入る。脱走の計画や持込禁止物の差し入れの依頼などが書かれていないか、内容をチェックされるのだ。誰かに届く前に第三者の目に触れてしまうとは、プライバシーもなにもない。
 ならば、とキンブリーは思いつく。誰にも読まれない手紙を書こう、と。だが、自分に宛てた手紙では面白くない。幼き日に埋めた、未来の自分に宛てた手紙入りのタイムカプセルに心を躍らせる年代は、とうの昔に過ぎた。
 キンブリーは、手垢で黄ばんだキーボードに視線を落とす。そして、ところどころアルファベットがはげているキーたちにそっと指を滑らせる。
 ――これの持ち主に書いてみようか。
 死人に手紙を出せば良い、とキンブリーはひらめいた。手紙を出しても届かないのだから、出す必要はない。それなら、検閲の手に渡ることもない。ちょっとした暇つぶしにはなるだろう。飽きが来れば辞めればいい。
 タイプライターに給紙しつつ、宛名の人物に倣って手紙を書こうとしている自分自身を、片方の口角だけで小さく笑った。
 日光も満足に当たらない薄闇の中、キンブリーは死者からの贈り物に十の指を置いた。




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