こえなき愛のうた



「キンブリーさん、退院おめでとうございます」
 赤ワインのグラスとグラスが音を立ててキスをする。中央で最も美しい夜景を背景に、私たちは喜びを分かち合った。芳醇な香りのワインでこくりと喉をうるおし、正面に座る彼に微笑めば、彼もまた優しい笑みを浮かべてくれた。
 キンブリーさんは先日まで入院していた。アメストリスじゅうが震撼した恐怖の皆既日食の日に、首に外傷を負い中央病院に運ばれたのだ。私が北方からそこまでお見舞いに行ったとき、彼は肘が満足に動かせず、さらに声まで失っていた。筆談でその残酷な知らせを目にしたとき――いや、もうあのときのことは考えたくない。今思い出さなくても良い話だ。
「とっても美味しそう。いただきます」
 フォアグラを添えたテンダーロインステーキにナイフを入れる。思っていたよりもやわらかくて切りやすい。肉汁がじゅわりと出てきて皿に小さな水たまりをつくる。熱々のそれを口に運ぶと、とろけるような食感と旨味が凝縮された、濃厚な味わいが広がった。ほんのり、赤ワインの風味もする。
「わあ、すごく美味しい……」
 そう感想をもらすと、彼も満足げに頷きながらステーキを噛みしめている。彼が点滴をはずし、流動食ではなくこうして肉料理さえも食べられるようになったことが嬉しくて、思わず目頭が熱くなる。しかし、泣きそうになっていると悟られるのが恥ずかしく、目を伏せてステーキを次々と口に放り込んだ。
 私がよほどステーキを気に入り夢中で食べていると思い込んだ彼は、手を止めてずっと優しい視線を注いでくれていたようだ。もしかしたらずっと見られていたのかもしれない。微笑む彼と目が合ったとき、そのことに気づいて頬に熱が集まるのを感じた。
「や、やだ、私ったらがっつきすぎですよね。久しくお肉を食べていなかったもので、つい……」
 早口で言い終えて、ワインに手を伸ばす。目はうるんでなかっただろうか、泣きそうになっていると悟られなかっただろうか。彼はただ静かに笑みを浮かべていた。
 店の隅から聴こえるピアノの穏やかな生演奏が、しばしその空間を満たした。最近巷で流行っていて私もお気に入りのYOU≠ニいう曲だ。ピアノを聴き、マリネを食べながら、私はいつの間にか回想録のページをめくっていた。それは、向かいに座ってワインを味わっている『あなた』に大きく関係することだ。

 私は毎日のように彼の病室に顔を出していた。軍には長期の休暇届を出してきたから、仕事の心配はしなくて良い。復帰したときの仕事量を考えると荷が重いが、普段は気にしないことにしていた。職を失うことより、彼を失うことの方が私にとってはつらいのだから、中央に留まるのは決まりきっていることだった。
 相変わらず彼はベッドで多くの時間を過ごしていた。少しでも暇つぶしになるようにと文庫本をニ、三冊プレゼントすると、病室を訪ねたときはいつも私の贈った本を読んでくれていた。けれど思い返せば、私が訪れる時間を予想し、その前の時間帯だけ本を開いていたのではないかと思う。彼の栞は、いつ見ても一冊目の途中に挟まっていたから。
 窓はストッパーがかかる範囲まで開け(それでもちょっとしか開かなかった)、花瓶の造花は三日に一度は新しいものに変えた。病室に新しい空気を取り込みたかったからだ。ラジオ・キャピタルを静かに流しながら彼と話をするのが日課で、もちろん彼は筆談だから、病室は私かラジオのパーソナリティの声と、ペンを紙に走らせる音くらいしかない。
 筆談用のメモ帳はすぐになくなった。彼はここに来てから十日目で、早二冊目を使っている。会話の相手はほとんど看護師か医者か私だ。彼が晴れて退院したらその記録を譲って欲しいと思っているが、まだ言い出せていない。なぜそんなものが欲しいのかと言われれば困るが、私たちが苦しんでいたときにどのような会話をしていたのかを、彼の文章を見て思い出したいからだと思う。後になって読み返したとき、こんな日々もあったけど今は幸せだという気分に浸りたいからかもしれない。
 彼の入院中、ふたつ印象に残った出来事があった。私は彼の艶やかな黒髪をとかしたがったが、彼はそれを快く思っていなかったようだ。髪をとき、櫛を入れようとすると時々拒まれるときがあった。ある日そのわけを聞いてみたら、洗髪してもらう日は週に二度ほどしかなく、洗っていない髪を私に触らせるのがいやだったという。美意識の高い彼らしい理由だ。てっきり私は、単に触れないで欲しいとか、看護師以外にかいがいしく世話をされるのがきらいで拒まれたとばかり思っていただけに、ほっと胸を撫で下ろしたのを覚えている。
 そしてふたつめは、ふたりしてあるラジオ番組に耳を傾けていたときのことだ。リスナーからのお便りを紹介するコーナーで、パーソナリティは一通のはがきを紹介した。ラジオネーム『ひよこ好きの軍人さん』からの投稿で「恋人が入院しています。私にはなにができると思いますか?」という質問で、思わずどきりとした。鋭い彼は、私の様子とその放送を聞いて、私が番組に投稿したと見抜いたようだ。メモ帳に、『そばにいてくれるだけで十分ですよ』と記し、穏やかに笑ってくれた。胸がいっぱいになって、彼に抱きついた。結局、肝心のパーソナリティの回答は聞き逃してしまったのだけれど、そのときの私には、もう必要のない言葉だったと思う。

 ある日のこと。彼も私もそれぞれ食事を終え、これから散歩にでかけようというときにノックの音が鳴った。入って来たのは看護師ではなく、なんと最近大総統に就任したグラマン大総統だった。彼はお付きの軍人を病室の外に待たせ、目を細めてキンブリーさんの前に立った。私は最敬礼をした。
「イシュヴァールの爆弾狂もこんなになっちまって、大変だねぇ。鋼の錬金術師から頼まれたよ、賢者の石を使ってきみの身体を治してくれとね」
 大総統はそう言って鼻の下の長い髭を、つまむように撫でた。
 エド君は、キンブリーさんと私を再会させた後、マスタング大佐が賢者の石で視力を取り戻そうとしているとの話をしてくれた。だからエド君に、賢者の石を使ってキンブリーさんの声を取り戻し、身体を動かせるようにして欲しいと頼み込んだ。彼はしぶしぶといったふうに、賢者の石を使用する条件として、むやみに爆破しないこと、イシュヴァール人をはじめこれ以上人を殺めないことを挙げた。私は勝手にそれを承諾した。その条件と己の身体を天秤にかけたら彼だってきっと身体を取るに違いないと、そう思っていたからだ。ありがたいことに、エド君は早速、大総統に話を通してくれたらしい。
『閣下、直々に出向いてくださって恐縮ですが、私はそのようなことを頼み込んだ覚えはありません』
 キンブリーさんは流麗な文字で返答を書いた。私は慌てて彼に謝罪する。
「申し訳ございません。……私が独断でエドワード君に依頼しました」
 そうでしたか、と言うように彼は別段驚く様子もなく頷いた。そんなことを頼むのは私ぐらいしかいないと初めから分かっていたのかもしれない。
「彼は、賢者の石を使わせる代わりに条件を出したよ。ひとつ、むやみに爆破しないこと。ふたつ、イシュヴァール人をはじめこれ以上人を殺めないこと。でも、これだけじゃなーんか足りないよね。わしからも条件をだそうかな」
 飄々とした口ぶりで、彼はなおも髭を撫でながら言った。
「みっつ。その掌の錬成陣を跡形もなく消すこと」
 眼鏡の奥で、大総統の細く柔和な目が厳しく冷ややかな目つきに変わる。私の背筋になにか冷たいものが走った。
「お、お言葉ですが大総統? 彼は、錬成陣を直接刻んでいます。それを消すとなると……」
「うん。焼いちゃうのがてっとり早いよね。ちょっと痛いけど」
 掌を焼く? それがどれだけ想像を絶する痛みか、考えなくても分かる。深い火傷の痛みは夜ものたうち回って眠れないほどだという。それを長い間耐えさせるというのだろうか。そんなかわいそうなこと、させられない。けれど、この条件を受け入れないと彼の身体は一生このままで、声も戻らない。なんてひどい。なんて残酷な選択肢なんだろう。
 キンブリーさんは黙ったままだったが、しばらくしてペンを執った。
『しばらく考えさせてください。返事はまた今度いたします』
 大総統はその場を後にした。
 キンブリーさんは日に三度ほど、点滴バッグを引きつれて院の庭に散歩にでかけた。肘が思うように動かせない彼をアシストするために、私も一緒について行く。筆談用の小さなメモ帳とペンはここでも必須で、木々の緑を見ながらベンチで会話をするのがお決まりだ。冬の風は冷たいが、北方勤務の私にとってはまだましに思える。キンブリーさんも寒さには強いみたいで、強い風が吹くとき以外は表情を変えたりしなかった。
『先ほどの大総統の話ですが、結論が出ました』
 ペンを持ち、彼はいきなり本題に入った。彼の決断力に目をみはる。だって私は悩んでばかりで、まだ返事を聞く覚悟ができていない。彼にとってはどちらを選んでも不幸だというのに、もう自らの行く末を決定したなんてただ驚くばかりだ。
『錬成陣を消すというのなら、私はこのままで良い』
『錬金術を使用できない。それはすなわち、私にとって死と同義ですから』
 彼はなんの表情も浮かべずにそう記した。迷いのない瞳には強い意志が映っている。そうか、彼は自身の身体よりも錬金術の方が大事なんだ。私には少し理解できないが、きっとそれが彼の生きがいでもあるんだろう。
 けれど、このままの身体で本当に生きていくつもりなんだろうか。彼の意思を尊重したい反面、それではやはりつらいと決まっているから、考え直して欲しくもある。
 私が口を挟もうとしたとき、彼は再びペンを執った。
『ですが』
『それは私が賢者の石を所持していないときの選択です』
 どういう意味だろう。それではまるで、あの伝説の代物を持っているような言い方だ。
「まさか、石を持っていらして……!?」
『ご明察』
 彼はポケットから紅色の丸く小さな玉を取り出した。思わず、声を上げた。これさえあれば、どんな怪我でもたちまち治るだろう。私がエド君に頼まなくても、大総統の力を借りなくても良かったんだ。ああ、これでなにも心配することはない。
「……ですがキンブリーさん、なぜ今までそれを使用なさらなかったんですか?」
『怪我を治すには錬金術の使える医者が必要です。私は医療方面の術は詳しくありませんから』
「では、錬金術師のお医者さまを探せば良いんですね」
『ええ。以前私が怪我を負った際、傷を治してもらった医者がいます。彼に連絡を取ろうと思い手紙を送りました』
 彼はペンをそのまま走らせ続けた。
『しかし、一向に返事が来ない。風の噂では行方不明になったとささやかれていましたよ』
 行方不明。そんなことってあるのだろうか。せっかく見えた希望が、色褪せてしまったみたいだ。
「ほかにも錬金術の使えるお医者さまはご存知ありませんか?」
『ひとりだけ心当たりが。名はドクターマルコー。貴女も耳にした覚えはありませんか?』
 ずっと昔に聞いたことがあるような、ないような。記憶があいまいだけれど、医者だというのならその人に頼むしかない。
「じゃあその方にお願いしましょう!」
『ですが、彼はイシュヴァール経験者です。私があそこでなにをやったか、貴女なら良く分かっているでしょう。そんな私に、果たして快く治療を施すでしょうか?』
 情けないことに、言葉に詰まってしまった。確かに、キンブリーさんのしてきたことは、どんな理由であれ傍から見れば悪といえるだろう。医の倫理に従って生きる人々には、それこそ悪魔の所業のように見えてしまうかもれない。
「けれど……なにごとも頼んでみないと分からないと思うんです」
 了承してもらえるまで何度も頭を下げる。それでもだめなら、私は土下座でもなんでもする。彼の身体を元に戻すためなら、どんなことだっていとわない。
「私、そのドクターに会ってきます」

 ドクターマルコーは中央司令部付近に張られたテントや、イシュヴァール人のスラムで見かけることが多いという話を聞いた。どうしてスラムにいるのかと思ったが、彼はきっと殲滅戦の罪滅ぼしで治療を施しているのだろう。心あるお医者さまだ、尊敬する。
 私はカナマというスラムまで足を運び、そこでドクターマルコーを探した。褐色の肌に赤目の人々の姿を見ると、やはり胸が痛んだ。彼らは私服姿の私が軍人だとは思っていない。通りすがるときに、口元に笑みを浮かべる人もいる。彼らに微笑みながら、深い後悔の念に駆られた。過去に彼らを殺めたという罪悪感は、一生癒えない傷となって私を蝕んでいる。
 今でも時々、自分が殺めたイシュヴァールの亡霊たちに苦しめられる。身体にこびりついたあのときの返り血は、拭っても拭っても取れない。おとといも、砂地の悪夢にうなされていた。
 それでも、生きていたい。ひとりの人間として幸福になりたい。過去の罪を忘れたふりなどすることなく。
 眩暈のようなふらつきを覚えながら、ドクターのいるテントを探した。
「お嬢さん」
 男の声が背後で聞こえ、自分のことかと振り返る。そのとき、私は失礼な態度をとらなかっただろうか。あまりにも驚き、目を見開いてしまったが、それ以上の動揺、具体的に言えば恐怖した表情が、顔に出ていないことを祈った。
 その男の顔は醜かった。顔の皮膚に火傷かなにかのひどい痕が目立っている。片目は閉じられており、もう片方はこれ以上開かないのだと思うが、睨むような目つきに見えてしまう。全体的に、人相そのものが分からないほど顔面は崩れており、はっきりと言ってしまえば、おぞましかった。
「ここには貧困に喘ぐイシュヴァール人しかいないよ。なにか用があってきたのかね」
 とは言うものの、見たところ彼はアメストリス人だ。彼がドクターマルコーなのだろうか。けれど事前に見てきた顔写真とは似ても似つかない。写真のドクターは温厚そうで、間違ってもこのような見た目はしていなかった。
「あの、人を探しているんです。ドクターマルコーをご存知でしょうか」
「……ああ、私だよ」
 彼、だったのか。驚いた、どうして別人のようになってしまったんだろう。ひとつ言えるのは、誰もなりたくてこのような容姿になったのではないことだ。なにか不幸があったに違いない。それか、顔を変えなくてはならないほどの大きな理由が。
「あなたにお願いがあって参りました。少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
 彼は分かったと返事をし、自分のテントまで案内してくれた。怯えの対象だった彼を、今度は憐れみながら後に続いた。
「私はアヤ・ラシャードと言います。今は北方司令部に勤務しています」
「改めて私はマルコーだ、よろしく」
 薄暗いテントの中にぶら下げられた電球がぼんやりと光っている。
「では単刀直入に聞こう。誰か治療して欲しい人でもいるのかね?」
「その通りです、ドクター」
 木製のスツールに座り、向かい合う彼の目をじっと見て言った。
「私のかつての上司である、ゾルフ・J・キンブリーの怪我を治療していただきたいのです」
「ゾルフ……キンブリー……。待ってくれ、もしやイシュヴァールの爆弾狂!?」
 私は頷いた。この反応は予想通りだ。
「いや、しかし、彼は死んだはずではなかったかな。ライオンの合成獣に喉元を噛みつかれたのをこの目で見たよ」
「ドクターもその場にいらっしゃったのですか!?」
「いたことにはいたのだが……。私はすぐにその場から離れねばならなかった」
「な、どうして彼を治療してくださらなかったのです……!」
 問い詰めるような言い方はいけないと分かっている。けれど、あまりにも納得がいかなくて自分を抑えきれなかった。
「あの男は私たちの味方を攻撃していた。そして私たちも、彼の仲間にやられそうになっていたのだよ」
 思考が一瞬止まった。キンブリーさんが、戦場以外で誰かを殺そうと……? 信じられない、いや信じたくない。言葉に脳天を撃ち抜かれたかのように、頭が痛みだす。人造人間と手を組んでいたとはエド君から聞いていたけれど、人殺しなんてひどいことまで命令されていたなんて。
 あまりのショックに言葉が出てこない。私の知っている優しい彼と、ドクターの言う彼の姿に落差がありすぎて、頭が追い付かない。吸い込んだ微量の酸素が、苦しい。胸が押しつぶされそうだ。
「申し訳ないが、きみの頼みは聞けそうにない。彼には今回の怪我を機に、己の罪を十分反省してもらわなくてはならないからね。彼は人の命を奪いすぎている。きみが生かそうとしている命は悪魔の命だ」
「ドクター」
 しん、と鳴る静寂がやけに大きく聞こえた。
「彼は、悪魔なんかではありません。仕事熱心で……優しくて……」
 膝の上で握りしめた手と、唇がわなわなと震え出す。頭に響くのは、かつて彼にかけられた温かい言葉だ。
『たとえ私が、数多の兵を身代わりにこの戦場を生き抜いたとしても、そこには寸分の価値もありません。アヤ、貴女がいなければ』
『最期に見たのが私であって欲しい。そして、貴女の散り際を抱きとめたい。貴女を、たったひとりで逝かせたくはありませんから』
 殺人は悪だと痛いほど分かっている。受け入れられないけれど、受け入れていかなければならないことも十分承知している。
 けれど、キンブリーさん。あなたと、あなたの言葉を信じているから。
「彼は、誰よりも愛情深い人です」
 掌に爪が食い込むほど固く握った。泣いてはいけない、しっかりと前を見て、伝えなければ。彼を救えるのはこの人しかいないのだから。
「ドクター、お願いします。彼を助けてください。それ以上なにも望みませんから」
「しかし……」
「彼を救うことで、たとえこの身体が獣に食いちぎられても、悪魔に八つ裂きにされても、地獄の業火で滅ぼされたとしても、私はかまいません。彼の身体が元通りになるのならもっとひどい拷問だって、進んで受けます。お願いします。どうか、彼を……」
 彼を、救ってください。
「……分かった」
 ドクターは目を閉じ、頷いた。
「彼は今、どんな状態かね」
 思わず笑顔になるが、すぐに表情を引き締め、私は身を乗り出して言った。
「頸椎と声帯を損傷しています。肘が満足に動かせない上に、声も出ないのです」
「その様子じゃ自然治癒はおろか、治療するのは難しいだろう」
「実は、賢者の石があるんです。錬金術でどうにかならないでしょうか」
 ドクターの目が一瞬大きく開いた。
「そうか、石はまだあったんだな。それがあれば、治療は可能だ」
 ああ、神よ! 望みはありました!
「しかし、いくつか約束してもらいたいことがある」
 ごくりと唾を飲む。どうか、私ができることでありますように。私たちに赦され、決して不可能なことではありませんように。
「彼を真っ当な人間に更生させてやって欲しい。過ちを認め、贖わせてやって欲しい。そして殺しとは無縁で、人々のために残りの命を使えるような人に、変えて欲しいんだ。いや、これはとても難しい注文だな……」
「約束します」
 開くことのないと思っていたドクターの目が、大きく開いた。
「人の心を変えるなんて、そう思い通りにはいかないものだと思っています。ですから、まずは自分が変わります。彼に善の影響を及ぼすことのできる、き人間に。そして、私の人生をかけて、彼を支えていきます」
 キンブリーさんのすべてが悪なのではない。仮にそうだとしたら、彼について行かなかったし、愛することはなかっただろう。彼が、こんこんと湧く泉のような清さを持っていることは、十分知っている。それを、私だけに見せてくれるのではなく、どんな人にも見せられるようになって欲しい。
 そのためには、まず私が変わらなければならない。彼を全力で支えながら、彼の善良な部分を呼び起こせるように、私が清く強い人間になって彼を導かなければならない。
 導きながら、その道を一緒に歩んでいきたい。
 そうか、とドクターは微笑んだ。
「彼は人造人間と手を組んでいた。だが、エルリック兄弟や皆のおかげで、その悪しき存在はもう消えた。だから、治療を施しても悪事に手を染めることはもうないだろう、私はそう思いたい。……きみの頼みを引き受けよう」
「あ、ありがとうございます!」
 どうかよろしくお願いします、と深々と頭を下げた。これで彼を救うことができる。安堵で胸が満たされて、今度こそ泣いてしまいそうだ。良かった、本当に良かった……。
 早く、早くキンブリーさんに伝えないと。そのことで頭がいっぱいですぐさま立ち上がった私を、ドクターの呟きが引き留めた。
「普通の部下なら、爆弾狂である彼を生かすことにそこまで一生懸命になったり、彼をこれからも支えるなどと宣言したりはしないと思うのだが、きみはそうじゃなかった。きみたちの間には上司と部下以上の絆がありそうだね」
 思わず、どきりとする。
「もしかしてきみは彼のことを……? いや、それは詮索しすぎだな、忘れてくれ」
「ええ、誰よりも大切なひとです。この世界でたったひとりの……」
 ドクターは日向のような笑みを浮かべて、良い顔だね、と言ってくれた。私は今、どんな表情をしていたのだろう。

 病室ではドクターマルコーによる錬金術の治療が始まっている。誰もいない廊下で、祈るように胸の前で手を握った。どうか、無事に成功しますように。キンブリーさんの肘が動くようになりますように。声が出せるようになりますように。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。実際には数分の出来事だったのかもしれないけれど、私にはものすごく長い時間のように思えた。待つ時間はいつだってそうだ。イシュヴァールの内乱が終わって、帰ってくるかも分からない彼を待ち続けていたときもそうだった。その六年に比べれば、今の待ち時間なんて短すぎるし、待つことには慣れているはずなのに、空白のときはいつも薄暗い不安を連れてくる。
 ほかのことを考えよう。たとえば、そう。賢者の石は、錬金術師の間では血相を変えて探し求めるほど、威力の凄いものらしい。その石をどうしてキンブリーさんが持っていたのだろう。もし自分で生成することが可能なら、彼は自分で作りだしたのか。はたまた「仕事用」にと人造人間に与えられたのだろうか。できれば、後者の予感は当たって欲しくないのだけれど。
 錬金術にとんと疎い私は、伝説級の石の凄さすらまだよく分かっていなかった。けれど、その石があってドクターがいてくれるなら、きっと大丈夫だ。成功するに決まっている。そう何度も言い聞かせて、不安を掻き消すよう努力した。
 病室のドアから紅い光がもれた。錬成反応だろう、治療が行われたのだ。キンブリーさんは、無事だろうか。このドアを開けたら、心配かけましたね、と笑ってくれるだろうか。力強く抱きしめて欲しい。優しい声で名前を呼んで欲しい。
 こっちにおいで、とドクターが言い終わらないうちに、私はドアを開けていた。
「キンブリーさん!」
 一目散に彼の横たわるベッドの前に駆けて行った。彼は上半身を起こす。首のコルセットは取れており、よく見ると痛々しい傷跡が嘘のように跡形もなくなっている。彼は微笑み、両腕をゆっくりとこちらに向かって伸ばし、広げた。
「その腕……! 良かった……!」
 迷わずその胸に抱きついた。消毒液の匂いと混じって、キンブリーさんの匂いがした。体の厚みと、ほのかな体温に心が安らぎ、待ちわびていた腕の締めつけにじんわりと感動が胸にこみ上げてくる。人の目があろうと、今はそんなことどうでも良い。ただ、今は彼を抱きしめたかった。抱きしめられたかった。
 願いはあとひとつ。彼の声が聞きたい。欲を言えば、私の名前を呼んで笑って欲しい。そうすれば、これ以上なにも望まない。
 彼の唇が動く。しかし、紡がれたのは吐息だけだった。
「え、声が……」
 戻っていない。
「ドクター! 声は、声は戻らないのですか!?」
 錯乱する自分の声が病室に響いた。ドクターは汗を拭きながら呟く。
「おかしいな……そんなはずは……」
「キンブリーさん、もう一度、なにか言ってみてください!」
 唇が動いても、不明瞭な吐息しかもれない。そこに彼の声は存在しなかった。
 そんな、そんなはずはない。賢者の石の力を持ってしても声が戻らないなんて、そんなことあるのだろうか。少しだけ高めで、癖があって、皮肉を言うにも愛をうたうのにもぴったりなあの声を聞くことは、もう二度とできないのだろうか。私の名前は永遠に呼んでもらえないのだろうか。そんなの、いやだ。絶対にいやだ。
 キンブリーさんは、私を落ち着かせるように手を握った。そして、いつものメモ帳にさらりと書いた。
『これで良いです』
『悔いはありませんから』
 顔を上げると、困ったように微笑む彼がいた。良いわけがない、これで良いわけがない。彼だって本当は声を失いたくなかったはずだ。簡単に諦められるなんて、そんなの嘘だ。ドクターを責めても意味がないのは分かっている。彼は全力を尽くしてくれたに違いないから、そんな不敬なことをするつもりは毛頭ない。けれど、これではあんまりではないか。
 頬に伝った涙が、繋いだ彼の手の甲にぽたりと落ちた。おとぎ話ならば、この涙が奇跡を起こしてくれるだろう。眠りについた者はたちまち目を覚ますし、大事なキーアイテムは不思議な力を発揮するはずだ。けれど、それらは現実には起こりえない。奇跡なんて、起こらないのだ。
 肩を震わせる私を、彼がもう一度抱きしめてくれた。アヤ、という吐息が耳にかかる。ああ、昔はそうしてよくささやいてくれた。甘い言葉を、私の名前を。でも、もう、この先そんなことは……。
 そのとき、聞き覚えのある歌声が耳に入って来た。ラジオから流れるお気に入りのバラード、YOU≠セった。まるで私を慰めるかのように、聴こえた。
『あなた以外になにも望まない。あなたがいてくれればそれで良い――』
 その歌詞が心の中にすうっと入っていく。そうだ、私もドクターに、彼を助けてくれたらほかになにも望まないと、そう告げたではないか。彼がいてくれたらそれで良い。彼が生きて私の隣にいてくれている、もうそれだけで十分だ。ほかになにを願うというのだろう。声が聞けなくとも、彼が隣で笑ってくれるのなら、それで良いではないか。
「キンブリーさん、あなたがそばにいてくれるだけで……私は……私は……」
 幸せです。そう続けようとしたのに、どうしてだか声にならない。幸せなんて言葉は、今の私には口にできなかった。欲深い私にはどうしても紡げなかった。ごめんなさい。ごめんなさい。
 彼は、そんな私の複雑な思いを汲み取ったかのように、一段と強く抱きしめてくれたのだった。

 美しいピアノの旋律が静かに止んで、はっと現実に返る。ピアノアレンジされたYOU≠ェ終わると同時に、私の回想録も幕を閉じた。目の前のステーキはいつの間にか三分の一の量になっていて、向かいに座るキンブリーさんは、さっきと変わらずワインを楽しんでいる。そう思ったが、視線が合うなり、彼はにやりと笑った。どうやら、またもやぼうっとしていたところを見られていたらしい。
「すみません、つい……」
 彼は静かに首を横に振り、まだ全然減っていないワインを勧める手振りをした。彼に勧められるがまま、グラスを手に取り、回想しながら変な顔をしていなかったかしら、とドキドキしながら口をつける。また新たなピアノ曲が流れ始めたが、今度は私の知らない曲だった。
 美味しい食事を堪能した後、ふたりで並んで帰路に着く。街灯が石畳の歩道や周りをほんのり明るく照らし、夜空を見ればあと少しで満月になりそうな月も、街灯の明かりに交じって光っている。通りすがる様々な店の前には、イルミネーションが飾りつけられてあり、いつにも増して華やかで明るい夜が訪れている。
「冬は良いれすよね、街中がまばゆくって……。日が落ちるのは早くて寂しいれすけど、街に出ると色んなところに光があふれていて、つい見惚れひゃいます……」
 隣のキンブリーさんは、微笑んで頷いてくれた。歩いているときは、どうしても一方的なコミュニケーションになってしまうが、それでも彼と会話したかった。
『気を落とさないでくれ。回復まで個人差があるんだ。なにかのきっかけがあれば、声は戻るだろう』
 病院でドクターがかけてくれた言葉を、ふと思い出した。きっかけさえあれば、声は戻る。そのかすかな希望に望みをかけて、私は生きている。諦めたわけじゃない。私も彼も、失ったものを取り戻せるように解決策を探すと決めたのだ。
 失ったものを取り戻す、と聞いて思い浮かぶのは、かのエルリック兄弟だ。キンブリーさんのお見舞いに初めて行ったとき、エド君が自分たちの身体のことを打ち明けてくれた。彼らは旅路の果てに、失った右手、左足、弟の身体をすべて取り戻したという。その道中はきっと、つらく苦しいことばかりだったに違いない。希望を手に入れては失いの連続だったかもしれない。しかし、彼らはそれらを乗り越え、望んだものを手に入れた。私も彼らのように歩いていきたい。決して諦めず、前を向いて。
 ――それにしても。
「暑い……」
 なんとなく自分の頬を両手で触ってみると、普段よりも熱く感じる。真面目なことを考えて知恵熱が出たのだろうか。いや違う、さっきのワインが効いたのかもしれない。お酒はだいぶ飲めるようになったのに、どうして今日はこんなに酔ってしまったのだろう。
「あの、良かったらどこかれ涼みませんか。なんらか暑くて……」
 そう言って彼を見た瞬間、よろめいた。あ、危ない。そう思ったときにはぐっと腰を掴まれていて、私は転ばずに済んだ。気づけば美しい彼と、距離が縮まっている。
「すっ、すみません。ありがとうごやいます」
 彼はふう、と息をつき、微笑んだ。その姿はまるで騎士だ。私はこの国一番の可愛い姫で、彼はピンチのときに颯爽と助けてくれる、無口なナイト。ふたりはロマンスに落ちる運命……。
 だめだ、完璧に酔っている。

 私たちは近くの自然公園に寄ることにした。夜間は人気のないそこは、ふたりのためだけに用意されたステージみたいだった。木の葉が風で擦れる音だけが小さく鳴っている。ブランコの隣のベンチが、スポットライトのような街灯に淡く照らされており、まるで「さあ座ってください」と言っているようだ。そこに私たちは迷わず腰かけた。
 涼しい夜風が、頬の熱を段々と冷やしていく。彼の手をそっと触ると、その手は意図を汲んで優しく包み込んでくれた。彼の手は冷たかったが、触れているところが妙に熱く感じた。これがただの友人だったりしたら、そんなふうには思わなかっただろう。彼だからこそ、そう感じるのだと思うと、心まで温もる気がした。
「……ふふ。キンブリーさん、好きれす」
 慣れないことを言ったからだろうか。彼は目を丸くしている。酔っているからじゃないですよ、本当にそう思うんです、と付け加えた。
「普段は言えませんから、お酒の力を借りて言いますね。これからも私とずっと一緒に……」
 言葉を続けようとすると、人差し指で唇を軽く押さえられる。これ以上言うな、ということだろう。どうしてだか分からず目をぱちくりさせると、彼はポケットから手帳を取り出した。そこには、いつもの流麗な文字が並んでいた。
『もし、声が出せるようになったら、貴女に伝えようと思っていたことがあります。しかしそれではいつになるか分かりませんから、今日伝えることにします』
 伝えたいことって一体なんだろう。はい、と返事すると、彼は次のページを捲った。
『これまでよりも長く濃い時間を過ごそう、そのために必ず生きて帰ろう、と以前約束しましたね』
 それはイシュヴァールの戦地で彼と結んだ約束のことだ。私はそれを一日たりとも忘れたことがない。また、初めて彼のお見舞いに行ったとき、一緒に確認し合ったことも覚えている。
『必ず生きて帰ること、これは達成しました。しかし、これまでよりも長く濃い時間を過ごすこと、これは難しいでしょう』
「ど、どうしてですか!?」
 次のページにその答えが書いてあるというのに、思わず話せない彼に問いかける。彼はページを捲った。
『残念ながら私は軍に復帰できませんから。いくら望んでも昔のように上司と部下の関係には戻れません。ですから、この約束を実現するために結婚してしまえば良いのです』
 えっ、と声を上げ、反射的に彼を見る。彼は静かに頷き、ページを捲る。
『私はこれからもきっと、貴女を困らせるでしょう』
『だと言うのに、貴女を誰にも渡したくはない』
『叶うのならば、貴女の生涯の伴侶になりたい』
『結婚してください、アヤ』
 ――ああ、ああ、こんな幸せなことがあって良いのだろうか!
 次から次へと涙があふれてくる。けれど、これは哀しみの涙ではない、幸せの涙だ。
 顔を覆い、私は何度も頷いた。
 初めてお見舞いに行ったときに交わした会話を思い出す。『私は世界に選ばれたのでしょうか?』と少佐は問うた。それに対して私は、「たとえ世界が少佐を選ばなくても、私は少佐を、あなたを選びました」と告げた。
 あなたもまた、私を選んでくれるんですね。
 彼はポケットから黒く小さな箱を取り出した。まさか、と思いながら開けてみると、大きなダイヤのエンゲージリングがきらめいていた。思わず口元を抑え、彼を見る。微笑んだ彼はペンを取り出し、白紙のページに新たな言葉を書きだした。
『私とともに世界を歩んでいただけますか?』
 涙を拭いながら、優しい目をした彼を見つめながら、言った。
「歩みます、歩ませてください。あなたと生涯をともにしたい。私にとってあなたは、最愛のひとなんですから」
 どちらからともなく、抱きしめあった。
「私はもう、あなたのものなんですから……!」
 いつの日だったか、胸に仕舞い込んだ言葉を声にして。

 私たちは、幸せな結婚式を挙げるだろう。
 白い可憐なウエディングドレスを着て、父親と一緒にヴァージンロードを歩く。母親をはじめ、親戚、友人たちが私を見守る中、愛しの彼の元へとゆっくり進んで行く。小指の先に結んだ、赤い糸に導かれるように。
 世界が真っ白な光で満たされていく。まぶしくて、思わず目をすがめる。そして、その先で私を待っているのは、白のタキシードに身を包んだ、愛する愛するキンブリーさんだ。
 ――彼が寝ている隣で、プレゼントされた薬指のエンゲージリングを眺めながら、そんな妄想をした。自然と笑みがこぼれてしまう。
 さっきのプロポーズはしっかりと胸に刻まれた。おそらく一生涯忘れることはないだろう。
「おやすみなさい、キンブリーさん」
 おやすみなさい、涙に濡れた私。きっと明日からは笑みが絶えないだろう。


(了)20180108
(改)20190115





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