赤と白



 カランカランと涼しげな音が店内に響く。キンブリーは中央の一角にある、とあるバーのドアを開けた。
 彼は今朝、出所したばかりだ。代わり映えしない長い囚人生活を生き抜いた自分に、なにかご褒美を。そう思い立ち、夜の街に出て久々の酒の味を楽しむことにした。
 明朝には新たな仕事で北へと発つ。親しみのある中央の街を懐かしむ機会は、今夜しかなかった。
 カウンターの中央にはすでに老婦人が座っていた。くすんだ桃色の髪をひとつに束ね、丸メガネをかけている。背が低く、足は高いチェアの上でぶらぶらと頼りなさげにさまよっていた。まるで会計が済んだ後にどう降りれば良いものかと、足が勝手に思案しているようである。
 キンブリーは断りを入れ、婦人の隣の席に着いた。せっかくシャバに出てきたのだから、カウンターの端に慎ましく座るより、なるべく真ん中を陣取りたかったのだ。
 ビールジョッキをゴトリと置いた婦人は、しわがれた、しかし凛とした声で呟く。
「良い男だね」
 婦人は片方の口角をにっ、と上げた。勝気な笑い方だった。
「だけど、危険な香りもする」
「それはどうも」
 婦人の言うことはもっともだ、とキンブリーは思う。自分には拭い切れていない囚人の匂いが漂っているのかもしれない。どんなに清廉潔白を表す白い衣装を重ねても、経験豊富な老婦人の鼻はごまかせないのかもしれない、と。
 ご名答、と言いたいところを飲み込み、キンブリーはカーディナルを注文した。
「お気遣いなく。胡乱げな男と、無理に話していただかなくとも結構ですよ」
「無理なんかしちゃいないよ。そうでなくともこの歳になりゃ、あちこち体にガタが来るもんだ。久々の息抜きに来た酒場で、誰がペコペコ気を遣って喋るもんかい。そうだろう?」
 キンブリーは苦笑し、婦人は彼の服装にサッと視線を走らせた。ハットとスーツ。彼の全身を包む白一色のコーディネイトに対する、一瞬の査定だ。
「あんた、嫁さんはいるのかい?」
「いえ」
「じゃ、いい人は?」
「いいえ、特には」
「そうかい。いいじゃないか。あんた、こだわりが強そうだから、嫁さんは苦労しそうだしねぇ」
 かっかっかっ、と婦人は陽気に笑った。相当酔っているのか、もしくはこれが彼女の性格なのか。
「そのままでいい。ひとりは気楽だよ」
「ありがたいご助言を、どうも」
 キンブリーは、街角にひっそりと座っている占い師に出会ったような錯覚を覚えた。たとえ、生き方についてアドバイスをもらえるのであっても、診断料金が一センズも発生しなくとも、キンブリーは煙たがる。ありがた迷惑というやつだ。
 久々に看守や囚人以外の人間と接したが、誰にも干渉されず、隅の方で独り静かに飲んだ方が良かったか。そういう考えが彼の頭をかすめたが、今更席を移るのも気が引けたので結局そのまま座っていた。
 婦人はお構いなくおしゃべりを続ける。飼い犬の世話は知人に頼んでいるから今日は中央に宿泊できるという話や、昔から酒好きだったので久々にバーに入り浸ることができて嬉しい、ということを話した。
 そのまま彼女は、自身について詳しく語った。長年、東のリゼンブールという田舎に住んでいること。外科医でありながら機械鎧技師を生業とし、現役で仕事をしていること。今回中央へ出向いたのは、長いこと愛用してきたネジの部品が廃番になり、それに代わるものを自分の目で見て購入したく、都会まで出てきたということ……。
 目の前に置かれたカーディナルに口をつけながら、キンブリーはそれを静かに聞いていた。久々に飲んだそのカクテルが、彼には非常に甘く感じた。しかし、それがかえって良かった。刑務所の食事は、その生活と同じようにどれも無味乾燥なものばかりだったからだ。
「義手や義足を作ってばっかりだったからね。息子も、人に寄り添うあたしの背中を見て、自然と医者を目指したんだろうよ」
 そう言って婦人は、小さなカバンからキセルとマッチ箱を取り出し、先端にタバコを詰め始めた。
「ほう、ご子息がいらっしゃるのですか」
「かつてはね」
 マッチ棒に火が灯り、キセルから細長い煙が昇る。
 婦人の表情と声が、曇る。
「……東でひどい内乱があっただろう? 息子はそれに巻き込まれて死んだんだ」
 無意識に心の安定を求めるかのように、婦人がキセルを吸う。平静を装った悲哀のため息とともに、灰色の煙が吐き出された。
 イシュヴァールの内乱に巻き込まれて死んだ医師。キンブリーの記憶から弾き出されたのは、戦地で見た古い写真に写った医者夫婦の顔だ。
 名前は確か、ロックベル。
「自分の子どもがいるってのは、そう悪いことじゃない。幸せなことだ。まあその分、失ったときの悲しみときたら……そりゃあもう、言葉にするのも地獄だね」
「もしや、お子さんはロックベルさんという方で?」
「あんた、息子を知っているのかい!?」
「直接お会いしたことはありませんが、ご遺体を収容したのは、私の隊でしたから。最後まで医者の本分を全うされた、立派な医師だったとお伺いしました」
「そうかい……そうかい」
 婦人のキセルを持つ手が震えている。顎にシワを寄せて、唇をひき結んでいる。キンブリーはそっと、ポケットに忍ばせていた白いハンカチを彼女に渡した。
「ご婦人」
 ここぞ、というときにいかにも人間らしい優しさを披露する。それは、『常人』を演じきっているキンブリーには手慣れた気遣いだった。自らの異常性を覆い隠すための所作だった。
 ――偽善ともとれる上辺だけの優しさかも知れないが、キンブリーのこの行動は、なにも知らない婦人の心を開かせた。
「優しい息子だった。親バカと言われるかもしれないけどね、賢くて思いやりのある、自慢の息子だったんだ。あれからもう何年も経ったけど、息子のことを思い出すと今でも涙が出る」
 メガネの下に流れた涙をハンカチで押さえても、また一筋、ひとすじと流れていく。婦人は「飲みすぎた」と呟いて、吸いかけのキセルとメガネを置き、目元をハンカチで押さえた。
 煙はゆらゆらと昇っていく。
 マスターは目を伏せ、無言でグラスを磨いている。
 ジャズの落ち着いたBGMが、婦人の小さな背中を撫でるかのように流れていた。
 しばらくして、婦人がハンカチをゆっくりと外したとき、彼女は口元に薄い笑みを浮かべていた。普段の、勝気な笑みだ。
「情けないとこ見せちまったね。こんないい歳して泣くのはみっともないだろう。だけど……あたしは知ってる。たくさん涙を流すことでまた前を向けるようになるんだ。だからこれでいいんだよ。それに、恥なんてもんは、遠の昔に捨てちまってるさ」
「ええ、ご婦人。貴女はお強い方だ」
 実際、彼の言う通りだった。先ほどまで婦人の目尻に光っていたものは、もう跡形もない。残るのは、薄く刻まれた目尻のシワと、カラッとした声の調子だ。
「まさか、こんな場所で息子の話を聞けるなんて思わなかったよ」
「私も、偉大な彼の、親御さんとお話しできる機会に恵まれるとは」
「偉大な……なんて少し大げさじゃないかい」
「そうですか? 最期まで意思を貫く人間は、皆一様に美しい。尊敬に値しますよ」
「そうかい。天国の息子も喜ぶよ」
「彼は、ご子息は――貴女の胸の中で生き続けています」
 婦人の目が大きく開いた。口をついて出た言葉に、実はキンブリー自身も驚いていた。
 彼は静かに続けた。
「今も、この先もずっと、貴女とともに生きていかれることでしょう」
 これらの言葉も、『常人』を装った台詞なのだろうか。上っ面の優しさの演技なのだろうか。
 果たして、本当にそうなのだろうか。
「……ありがとうよ」
 婦人はしみじみと礼を言い、ハンカチのしっとりと濡れている箇所を内側にして折り込んで、キンブリーに返した。
 彼らは今夜、偶然出会ったに過ぎないが、ひょっとするとこれは必然だったのではないか。彼らはふとそのように考えたし、そんな可能性をはらんだこの数奇な巡り合わせを、ふたりは心地良く思っている。
 そしてキンブリーも婦人も、「この次」はおそらくないだろうと心得ている。
「ハンカチの借りができたねえ。マスター、この色男に特別な一杯を頼むよ」
 マスターはかしこまりました、と返事して後ろを向いた。しかし、キンブリーのワイングラスにはまだカーディナルが残っている。
 彼が口を開きかけると、婦人はニヤリと笑い、遮った。
「たんと飲みな。夜は長いんだから」

 店内に流れるピアノジャズにサックスの音色が参入した頃、キンブリーの目の前に新たなグラスが置かれた。
 細く伸びた逆三角形のグラスには、金の閃光状の模様が入っている。まるで星々の光のようにエレガントな柄だが、キンブリーは自身が生み出す爆破の錬成光をそれに重ねていた。
「お客様をイメージし、特別なカクテルをお作りしました」
 マスターは髭の中でもそもそと喋り、カクテルの説明をした。
 カクテルは二層構造になっており、上段が白、下段が赤になっている。白色の層はレモンを主としたスパークリングで、三種のオレンジも使用しているそうだ。白を好む彼にぴったりである。
 そして、下の赤色の層はローズのリキュールだという。花言葉は情熱。彼が漂わせている気品を存分に表現しているし、彼の言葉から静かに燃える炎のような熱情の片鱗を、マスターは感じ取っていたのかもしれない。
 カクテルの説明に頷き、キンブリーは微笑を浮かべた。彼が愛する白色と、彼自身を表す『紅蓮』の赤色。赤と白の共存だ。
「では、ありがたくいただきましょう」
 彼は、マスターと婦人のふたりにそう述べたつもりだったのだが、婦人からのリアクションが聞こえない。
 キンブリーはふと隣に視線をやる。
「……マスター、なにか羽織るものを」
 おやおや、と呟きながらマスターはバックヤードへと消える。
 酔いがまわったのだろう、いつの間にか婦人は、カウンターに突っ伏して小さな寝息を立てていた。
 ご子息の夢でも見ているのだろうか。そう思いを巡らせながら、キンブリーは特別な一杯に口をつけた。


Afterword

以前、拍手にて「(作者が同人誌で出しているキンブリー単体小説のような)夢小説ではない、キンブリーさんのお話ももっと読みたい」とのお声をいただいたので、今回書かせていただきました。
キンブリーさんとピナコばっちゃんがもし出会ったら、というこのお話、以前から書いてみたいネタのひとつでしたので、その機会をくださって感謝しております。
リクエスト、ありがとうございました!
(20200720)