このグソクムシャ凶暴につき




「グ、グソクムシャ〜。ご飯だよ〜」
 私はポケモンフーズが山盛りの器を持って、プールサイドで雨粒のシャワーを浴びているグソクムシャに呼びかけた。きっちり三メートルの距離を保って、そろりと器を置く。非の打ちどころのない、完璧なソーシャルディスタンスだ。
「っ、じゃあ! 私はこれで!」
 待ってましたとばかりにこちらに駆け寄ってくる彼とは反対に、私は屋敷に逃げ帰ろうとする。万が一、彼と接触するようなことがあってはたまらないからだ。
 開けっぱなしの二階の窓から、私を笑う仲間の声がする。
「ははっ、まだグソクムシャが怖いのかよ! そんなへっぴり腰じゃいつまで経ってもグズマさんに認めてもらえねーぞ!」
「う、うるさいっ!」
 強がりのセリフを残して、裏口のドアを素早く閉めた。
 分かってる。私だって、このままじゃいけないと思ってる――。

 大好きなグズマさんのパートナーである、グソクムシャ。一ヶ月前、彼のご飯係に任命されたのが、皮肉なことに虫ポケ嫌いの私だった。
 虫ポケモンは幼い頃から苦手だった。カントー地方に住んでいたとき、トキワの森でお花を摘みに行ったらスピアーの軍団に追いかけられたことがあり、それが決定的なトラウマとなってしまった。
 おかげで十六歳の今でも、グズマさんの相棒にすらまともに近づけない。虫ポケを手持ちに入れることも、とてもじゃないけど考えられない。
 こんな厄介な私の入団を許可してくれたグズマさんには、心から感謝している。家族を亡くし、どこにも行くあてのなかった私に、彼が最高の居場所を与えてくれた。だから入団初日に、私にできることはなんでもします、と心から誓ったのだ。
 そのときのことをよく覚えている。グズマさんは腕を組んで、厳しいまなざしをこちらに向けて言った。
『すぐにとは言わねえ。だがいくら苦手なモンだろうが、必ず慣れろ。集団で動くっつーのはそういうことだ。俺様たちはもうスカルの仲間だ。仲間を裏切るな。俺様を失望させんな。……分かったな』
 あのときのグズマさんとの約束をずっと心に刻んで、ここで一年過ごした。
 けれど、私の心は変わらず臆病なままだった。虫ポケを見ると逃げたり隠れたりして、慣れるどころか余計に恐怖心が生まれるだけだった。
 そんな私を見かねて、仲間たちが勝手に荒療治を企てたことがある。彼らは嫌がる私の手を取り、無理やりグソクムシャに触らせようとしたのだ。グソクムシャの背中に指が触れるか触れないかのとき、私は恐怖のあまり、ばたりと倒れてしまった。
 それで、目が覚める前もその後も介抱してくれたのが、なんとグズマさんだった。私たちの距離はぐっと近くなった。怖い思いをしたけれど、皮肉にもその件がきっかけとなって、私たちは自然と想いを寄せ合うようになり、信じられないことにお付き合いにまで発展することができた。今思えば、なんてラッキーで幸せなことだったんだろう。
 スカル団のリーダーであり、私の大好きな人。その彼の想いに応えたい。だから私は、虫ポケを好きになりたい。グソクムシャと仲良くしたい。
 それなのに、上手くいかない。私はまだ臆病なままだ。

「グズマさん!? ちょっと待ってください、私まだ心の準備が……!」
「なーにウブな女みてえな台詞言ってんだよ、もうずいぶん長いこと待っただろうが」
 私はグズマさんに半ば引きずられるようにして、プールサイドに連れて行かれた。
 ヤバいことになってしまった。いつまで経っても虫ポケに慣れない私を見て、ついに堪忍袋の緒が切れたらしいグズマさんが、「グソクムシャのメシを手から与えろの刑」を執行させようとしている。
「なんでいきなり手から食べさせるんですか!? 物事には段階が……!」
「うるせえ。階段は二段飛ばしで上がった方が早えんだよ」
「待ってくださいっ、今は本当に、ソーシャルディスタンスが大事で……!」
「なんの話か分かんねえなあ!? オラ、グソクムシャ、メシの時間だ!」
 目の前には、大樹のように長身のグソクムシャ。私が律儀に守っていたソーシャルディスタンスは、ついに三十センチあるかないかだ。それだけでクラリ、と視界が回る。
「おい、口から泡出てんぞ」
「助けて……」
「情けねえヤツだなあ。仕方ねえな、俺様が後ろからサポートしてやっからよ」
 グズマさんは、ポケモンフーズを私の手の中に無理やり押し込め、私の手首を掴んだ。格好としては、彼に後ろから抱きしめられるような形だ。そのまま耳元で指示が飛んでくる。
「よぅし、そうだ。そのままアイツの口元に運べ」
 低い声がくすぐったい。けれど、その声にときめいている余裕はない。
 グソクムシャが気を利かせて頭の位置を下げてきたのだ。思わず、ひっ、と情けない声がもれる。
「心配すんな。こいつは見た目よりずっとおとなしい。おまえに危害は加えねえよ」
 心臓がとてもうるさい。大好きなグズマさんが近いことより、苦手なグソクムシャが近付いてきたせいだろう。
 私はすごく喉が渇いて、ドキドキが最高潮に達してしまって、頭がくらくらした。だめ、とかむり、とか呟く声が震えている。手の震えも止まらない。
 ……ああ、これは、もう無理だ!
「ごめんなさい、私やっぱりだめ!」
 グズマさんの手を振り払い、フーズをばら撒きながら、あろうことか私は逃げ出した。
 ばかな私を、グズマさんは追ってこなかった。

 それから三十分後のこと。落ち着きを取り戻した私は、先ほどの失態の謝罪をしに、恐々とグズマさんの部屋を訪問した。
 てっきり怒られるかと思っていたのに、第一声は意外な言葉だった。
「おまえにはまだ、早かったな」
 グズマさんは腕組みをして、こちらを見下ろしている。けれど、その顔はあまり怖くない。むしろ、呆れているような気がする。
 私は罪悪感を吐き出さずにはいられなかった。彼の相棒をあんなに怖がってしまったのだから。
「……失望、しましたよね。本当にごめんなさい」
 胸に刻み込んだかつての彼の言葉が、胸をよぎる。
『仲間を裏切るな、俺様を失望させんな。……分かったな』
 それなのに私ときたら。
 彼を、失望させてしまった。
「ナマ言ってんじゃねえよ。なにが失望だ。元よりおまえには期待してねえよ」
「えっ、そっちの方がひどくないですか!?」
「誤解すんじゃねえ! そんなすぐに苦手なモンを克服できるとは思ってねえっつーことだ」
「グズマさんの言葉足らず……」
 あ? という顔で睨まれたので、これ以上はおくちチャックだ。
 でも良かった、まだ見捨てられてはいない。失望されてもいない。
 グズマさんのぶっきらぼうな優しさに感謝し、胸を撫で下ろした。
「減らず口のおまえにチャンスをやる。いいか、これから俺様のことをグソクムシャだと思え」
「……え?」
 私はクエスチョンマークを顔いっぱいに並べて、首を傾げた。
 つまり、彼はこういうことが言いたいらしい。グズマさんをグソクムシャだと考えて、手からご飯をあげる練習をすればいいと。グソクムシャは苦手で接しにくくても、好きなグズマさんが練習相手ならなにも問題はないだろうと。
 そう言って彼は、「エネココアのど飴」とかかれた袋を持ってきて、飴玉の包みを取り出し、こちらに放り投げた。私はそれをなんとかキャッチする。
「やってみろ」
「……はあ」
 戸惑いは隠せないけれど、彼がせっかくそう言ってくれるなら。
 私は個包装の包みを破り、グズマさんに近づいた。そして口元まで手を伸ばす。なんてことない、特別照れ臭くもない。普通に「あーん」すればいいんだから。
「はい、グズマさ……えっ!?」
 あろうことか彼は、飴玉を持つ私の指に噛みついてくる。もちろん甘噛みなのだけれど、それでも全く予想外だった。
 噛まれたところがじんとする。彼はまるで、躾のなっていないペットのようだ。それなのにどうしてだか、胸がドキドキと音を立て始めた。
「グ、グズマさん……?」
「安心しろ。アイツはこんなふうにキバを立てはしねえ」
「じゃ、なんでグズマさんは……?」
「嫌なのかよ」
「そういう訳じゃないですけど、いっ」
 さっきよりも強く噛まれて、思わず声を上げる。そんな私を見て、彼はくつくつと笑う。
 そして、嗜虐的な笑みを浮かべて、指の間の飴玉を唇で奪い取った。
「単なる悪戯だ」
 どくん、と胸が高鳴る。それは彼の笑みのせいなのか、はたまた彼の舌先が指をかすめたからなのか。
 それとも、これからもっとされるかもしれない悪戯に期待しているのか。
「アヤ」
 彼は立ち上がり、私との距離を詰めてきた。そして、ガリガリと音を立て、グズマさんはさっき口に入れたばかりの飴玉をさっそくブッ壊し始めた。
「あの、ご飯をあげる、練習は……?」
「上出来だ」
「じゃ、もうおしまいってこと……?」
「これだけで終わると思うか?」
 私と彼の喉が同時にごくんと鳴る。驚きと緊張で唾を飲み込んだのと、飴玉のカケラを嚥下した音が重なったのだ。
 待って、と言う暇もなく、彼は私の顎をぐいと掴み、噛みつくようなキスを仕掛けてきた。
 小さな痛み、そして被虐の甘美さを与えながら、グズマさんは乱暴なキスを繰り返す。私はそれに、翻弄されるだけ。
 グズマさん。そう吐息で呼べば、彼は唇をグッと押しつけて、少し開いた唇の隙間から私の舌を探している。そっと舌を差し出せば、その先端にも甘く噛みつかれてしまう。
「ふ……」
 びりびりと走る、電撃のようなもの。彼が与える小さな悪戯に、私はいつも震えそうになる。もっとして欲しい。もっと翻弄して欲しい。もっと、グズマさんを感じていたい。
 ……なんて、そんなおねだり上手なセリフは、実際声にできなくて。唇が離れていけば、私はいつも、冷静を装った可愛くない女になってしまう。
「……もう、グソクムシャったら噛みつきすぎ」
「誰がグソクムシャだ」
 ぽん、と頭に手が置かれる。そのまま後頭部まで撫でられ、再び彼の顔が近づく。
 唇のそばで、低く怪しい声でささやかれたのは、こんな言葉だった。
「あのおとなしいグソクムシャに構うのは明日からでいい。今からはこの、荒くれ者のグソクムシャの相手をしてもらうぜ」
 そして私は、キングサイズの彼のベッドに押し倒され、長いこと彼と一緒にシーツにくるまることになるのだった。
 ……このグソクムシャ、狂暴につき注意が必要です。


Afterword

「傾向は甘め。グズマさんと両思いの年下の部下設定で虫が苦手な夢主と、それを克服させるために奮闘する」とのリクエストのもと、書かせていただきました。
グズマさんってなんか噛みつき癖ありそうだな……という妄想のもと、出来上がりました。それもまた、愛しい人への愛情表現だったらいいなあ、と。
紫苑さん、リクエストありがとうございました!
(20200803)