<第一章> 愛及屋烏 一





 空中に現れたふたつの水流が、蛇のようにうねる。
 それは水しぶきをあげて、とぐろを巻くようにぐるぐると輪を描いている。真剣な表情で生き物じみたその水を操っているのは、国家錬金術師資格試験の受験者であるアヤ・ラシャードだ。
 中央司令部内のホールに鎮座する大総統キング・ブラッドレイは、ただ無言で彼女の水のイリュージョンを静観していた。その視線は、錬金術と彼女の表情とを交互に鋭く捉えている。
 一見冷静に見えたアヤの表情が、次第に険しさを増していく。額にはぽつぽつと汗が滲んでいる。
 ――どうしよう。今からフィナーレなのに。
 本来ならば、演出の締めくくりとして水の竜を生み出すつもりだった。しかし、緊張からか練習通りにいかない。上手く水素を量産できず、化合されるのを待つ見えない酸素だけが空中にあり余っていた。
 彼女の術に変化が現れないからか、ブラッドレイは腕を組み始めた。次の行動を急かすように、中指がトントンと動いている。
 心臓が大きく鼓動し、背中に冷や汗が伝うのをアヤは感じていた。まわらない頭で逡巡する。勢いが出ないのを承知で予定通り水の竜を錬成するか、それとも今のこの中程度の錬成でできることをするか。
 アヤは迷った末、思考するのを放棄し、勢いで竜を錬成しようとする。だが、頭に浮かんだ弱気な声が邪魔をした。
 ――もし、失敗でもしたら。
 結果、新たに描かれた構築式によって、水流はアヤを囲むようにぐるりと回り始めた。まるで錬成した水の縄が彼女をきつく縛っているかのようだ。見方を変えれば、彼女自身の心の弱さに縛られているようにも見える。その演出は攻めではなく、守りの姿勢に入ったなによりの証だった。
 アヤの額の汗がこめかみに流れ落ちた。顔は心なしか青ざめている。
 実技試験の最後を見届けたブラッドレイは、凪いだ表情のまま小さく頷き、次の受験者を呼んだ。彼女にはもう目もくれない。
 これで、アヤにとって二度目の国家錬金術師資格試験は幕を閉じた。

「で? まーた不合格だったって?」
 アヤの兄、レオがニヤついた視線を妹に投げた。彼はエプロン姿で腕まくりをし、ペールピンクのラナンキュラスが入ったバケツを店先まで運んでいる。
 一九〇六年、三月。まだほんのりと肌寒い春の風が、中央セントラル大通りの一角に位置する花屋『レント』にも吹きこんでくる。
「おまえ本当に俺の妹かよ」
「う、うるさい!」
 負けじとアヤも応戦し、白いコデマリの入ったバケツをふたつ持ち上げて兄に続く。
「大体、それが落ち込んだ妹にかける言葉? 兄さんって本っ当に優しくない。悪魔の生まれ変わりなんじゃないの」
「はっ。よくこの国家錬金術師さまに言えるよなあ。貧乳のくせに」
「ちょっと! 貧乳は関係ないでしょお〜!?」
 ドン、と音を立ててアヤはバケツを置いた。その拍子に可憐な白い花は、いつもの兄妹喧嘩にくすくすと笑うように、何度か小さく揺れた。
 花屋『レント』は、見た目は笑顔の絶えないラシャード一家が四人で経営している。だが、花よりも有名なのは、ラシャード兄妹の口喧嘩である。ふたりが家業を手伝う土日祝日の朝から決まって聞こえるその声に、通りがかりの人々はほとんど目をぱちくりさせ、常連客は「今日も仲が良いのね」と同じセリフを口にして花を購入する。
 兄妹ふたりとも軍属で錬金術の道を志しているが、仲が良くて示し合わせたのではない。むしろその逆で、アヤは四歳上の兄のレオを快く思っていなかった。レオは昔から妹より頭が良く、世渡り上手で、優秀だ。七年前から錬金術を学んでいたアヤよりも、二年ほど後から勉強を始めたレオの方がぐんぐんとその才能を伸ばしている。彼は今年、勉強を始めて五年目で「必ずおまえより先に合格してやる」と妹に宣言し、資格試験に初挑戦した。その、自信家ゆえにそれを鼻にかける嫌味な性格が、いつでもアヤの気に障った。
「大体、自分のことを国家錬金術師なんて呼ぶの早すぎよ。初めての試験は必ず落ちるって言われてるんだから」
「そうだよな、普通は。でも俺ってば天才だからさあ」
 まさか、とアヤは目をみはる。レオは得意げに鼻を膨らませた。
「俺のふたつ名、いかずちだってさ」
 アヤの全身の力がスッと抜けていく。血の気さえ引いていくような感覚を覚え、なにも言葉が出てこない。祝いの言葉はおろか、憎まれ口も言えなかった。気のない返事をするフリすら、今の彼女にはできなかったのだ。
 鼻歌を歌ってバケツを寄せる兄の手首に、金の腕輪が光っている。その腕輪には、彼が得意とする雷の錬金術の構築式が刻まれてある。それが今、午前の陽光を浴びて一層まばゆく光っていた。まるで、持ち主である勝利者の栄光を表しているかのように。
 アヤは下唇を噛み、俯いた。自分はコツコツ頑張っているのに、気がつけばいつでも、何事も要領の良い兄が成功の光を浴びている。平凡で臆病なアヤは、肝心なときに力を発揮できない。兄のようには、なれない。
 びゅう、と風が吹いた。アヤのハニーブロンドの髪が軽く乱れた。
 飛ばされてきた中央新聞が、足元でかすかな音を立てる。彼女は代わり映えのしない見出しのその紙面を拾い上げて、ぐしゃぐしゃと丸めた。
 それを店内に戻っていく兄の背中に投げつけたが、彼は忙しさで気づかない。アヤがムスッと唇を曲げたとき、背後で聞き慣れない男性の声がした。
「良い香りですね」


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