愛及屋烏 ニ





 アヤはその声にはっとする。
「い、いらっしゃいませ!」
 振り返ると、白のハットとスーツを見事に着こなした男性がそこにいた。男性とはいえ中性的な雰囲気で、長い黒髪を後ろで束ねているのがアヤには印象的に映った。
 途端、アヤは恥ずかしさに襲われる。この優雅で気品あふれる男性に、ゴミを従業員に投げつけるところを見られてしまったのだ。まだ開店準備中だからと気を抜いていたが、ここはもう家の中ではないというのに。
 幸いにも男性は、彼女の子どもじみた行動など気にも留めないといった素振りで微笑み、花たちに視線をやった。
「優しく、甘い香りだ」
 その一言でアヤは先ほどまでの恥を忘れる。そして、スッと吸い込んだ甘い香りに小さな発見をした。
 ――あ、本当だ。
 花屋の店員であるアヤは当然、花の匂いには慣れきっている。だが、男性の感想を聞いて、急激にその匂いの波がやってきたような気がしたのだ。それはとても濃厚で奥深い。個性豊かでありながら統一性のある、さながら花たちによる合唱のような匂いだった。
「そうですよね。特に手前のバラは強く香ります。白がお好きでしたら、こちらのアバランチェなどいかがですか?」
 アヤが、アバランチェという名の白バラを手で指し示したときだった。店内から出てきた兄が驚いた表情で、ピシャリと敬礼をする。
「キ、キンブリー少佐!」
 キンブリーと呼ばれた白スーツの男性は、薄く微笑んで挨拶した。
「おはようございます。花束を注文しにきたのですが、来るのが早かったようで」
「いえ、すぐにお作りしますよ。店内で詳しくお伺いします」
「ああ……では、こちらの店員さんにお頼みしても?」
 男性は、アヤの方に振り向いた。一瞬どきっとしたアヤだったが、すぐに笑顔で応じる。
「もちろんお伺いいたします! では店内へどうぞ」

 作業机に色とりどりの花が並べられる。赤いアルストロメリア、黄色いチューリップ、白いカスミソウ……。「お祝い用」との注文に相応しい春の花たちを、アヤは用意した。
 完成形をイメージしながらブーケにする花を手で束ねた後、高さを調節し、花バサミで茎を切っていく。そうして、アヤの作業を眺めているキンブリーと会話する。
 アヤは自分の疎さにがくりと頭を垂れたくなった。キンブリー少佐といえば、あの『紅蓮の錬金術師』だ。いくら職場で直接話をしたことがないとは言っても、顔くらいは国家錬金術師名鑑で見たことがある。だというのに、私服姿だからだろうか、全然ピンとこなかったのだ。
 さらに、聞けばキンブリーはレオの上官だという。レオは男のプライドからか、自分の上司が国家錬金術師であることを一切口にしなかった。もしもそのことを知っていたら彼と初対面でも失礼にあたらなかったのに、と今度は兄への不満をアヤは募らせる。キンブリーの機嫌を損ねなかったことだけが、救いだった。
 そうこうしているうちに、花の組み合わせと配置が決まった。アルストロメリアをメインにした、華やかでありながら品のあるブーケの原型ができた。
「ほう、貴女は国家錬金術師を目指されているのですね」
「ええ。ですがお恥ずかしいことに、この間の試験も惨敗でした」
 テープを茎に巻きつけ、吸水性の高いステムティッシュで包む。根元部分をしっかりと包んだことをチェックし、次の工程へと移る。
「平日は仕事、土日祝日はこうして家業を手伝っているのでしょう? 思うように勉強時間が取れないのでは?」
「少し睡眠時間を削っています。それに錬金術の師匠も見つけていないので、独学で悩みながらなんとかやっているんですよ」
 巷で有名な錬金術の師匠に習うとなれば、費用は高額だ。そして、安価な値段で錬金術セミナーを開催しているところは、大抵インチキ商売である。実力があり、なおかつ良心的な値段で弟子をとる師匠に巡り合うには、同じ錬金術師からのツテが必要だった。
「貴女には突拍子な話に聞こえるかもしれませんが」
「はい?」
「私の部下になる、というのはいかがでしょう」
 アヤはステムティッシュに水を含ませながら、きょとんとした表情でキンブリーを見た。
「ご存知の通りレオ・ラシャード大尉は、四月から国家錬金術師になります。すなわち少佐相当官の地位を得、私の部下ではなくなるということ。代わりに貴女が私のところへ来てくだされば、交換条件として、仕事の合間や終業後に錬金術をお教えしますよ」
「と、とても心惹かれるご提案です。ぜひそうさせていただきたいです、が」
 茎の根元部分にアルミを巻きつけながら、アヤは明るく戸惑う。
「今の上司に、なんと説明すれば良いか……」
「おや、簡単なことです」
 キンブリーは両手を組んで、小さく笑む。
「優秀な人材を見つけたのでぜひ引き抜きたい、と私から申し出ます。それで万事解決ですよ」
 アヤの胸がどくんと跳ねる。誰かから「優秀」という言葉をかけてもらえたのは初めてだった。
 しかし、試験に落ちたばかりで自信を失くしているアヤは、すぐに他者の褒め言葉を否定してしまう。
「キンブリー少佐は、私を買い被っていらっしゃいます……」
「謙遜する必要はありません。貴女はもっと堂々としているべきです」
 キンブリーはアヤに近寄り、じっと見つめた。
 アヤは彼を少し見上げる。
 蒼の双眸から、目が離せない。
「誰より頑張る貴女は、誰より素敵な人だ」
 どくん、とまた強くアヤの胸が鼓動する。彼の瞳に、嘘の色は混じっていない。
 頬がのぼせたように熱くなり、アヤはたまらず目を逸らす。曖昧にお礼を言って俯き、オレンジ色のラッピングペーパーを広げ、無言でくるくると手早く花束に巻きつけた。
 そんな彼女の照れ隠しをキンブリーは見抜いていたが、なにも言わない。くすりと小さく笑っただけだ。
「か、完成しました!」
「ありがとうございます。素敵ですね」
 できたばかりのブーケをキンブリーが受け取る。微笑みを湛えながら花を抱える姿が、映画のワンシーンを彷彿とさせ、アヤはまたしても夢見心地になってしまう。
 キンブリーは礼を言うと、店外で『OPEN』の看板を立てているレオの元に向かった。どうやらそれは、レオの合格祝いの贈り物だったようだ。
 彼らのやりとりを遠巻きで聞きながら、アヤは上機嫌で机の上の片付けを始める。
「……それから、このアバランチェを二輪いただけますか?」
 聞こえてきたのは追加注文の声だ。それにはレオが応じた。レジで二点の支払いを済ませたキンブリーは、アヤの前に再度現れた。
 ラッピング済みのアバランチェを一輪差し出して、にっこりと笑う。
「ラシャードさん、これは私からのプレゼントです。これからよろしくどうぞ」
 アヤの心はたちまちバラ色になる。彼女の輝く目にはもう、彼しか見えていない。
 ――ああ、キンブリー少佐。私、あなたのもとで一生懸命働きます……!
 キンブリーが去った後も、幸せのあまり立ち尽くしていたアヤは、レオの一声でやっと我に返った。
 彼女は、透明なフィルムから覗くアバランチェの花びらにキスを落とす。そして、一番お気に入りの花瓶を用意しにバックヤードに戻った。


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