愛及屋烏 三





 午前の陽光が窓から差し、椅子に腰掛けたキンブリー少佐の片側の輪郭を照らす。軍服を着たアヤは敬礼したまま、眩しいキンブリーをじっと見つめている。
 四月はじめの今日は、彼のもとで働く記念すべき一日目だった。
「それでは最後にお聞かせ願いたい。貴女はなぜ、アメストリス国軍に入隊したのですか?」
 アヤはすうと息を吸って、答える。
「臆病な自分を変えるためです。そして国民を、守るためです」
 これは軍人を志したときからの決意だが、アヤは未だに自身の臆病さを乗り越えられていないと感じている。彼女は拳をぎゅっと握り、しかし笑顔で続けた。
「これから、勇敢な自分自身に成長できるよう、邁進して参ります。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」
 キンブリーは薄く微笑み、立ち上がる。
「……こちらこそ。ラシャード少尉」
 そうして伸ばされた右手を、アヤは笑顔で握った。頬はさわやかに紅潮していた。

 その日からアヤは、キンブリーのもとで働き始めた。彼は、上司としてはこの上なく優秀な方だった。会議をサボる訳でもなく、提出書類の締め切りを過ぎたこともなく、約束の時間を守らなかったこともない。合言葉は『完璧な仕事』とでも言えそうなその完璧な働きぶりに、アヤは驚いた。そして、部下である自分も、完璧なサポートを求められているとのプレッシャーが少なからずあった。
 ミスのないように、完璧に、と上司を支えようとするアヤだったが、初めての部署で慣れない仕事も多かったので、やはり間違うこともあった。そんなときは「すみません、すぐやり直します」と頭を下げた。しかし、大抵のことは「仕方がないですね」の一言で終わり、厳しい叱責も、嫌味を言われることもないので、アヤはひそかに胸を撫で下ろしていた。
 終業時には、以前約束していた通り、彼女の錬金術の指導をしてくれた。アヤが質問をまとめたノートを読み上げ、キンブリーがそれに淀みなくすらすらと答える。ノートをとりながら、キンブリーがどこか楽しげに錬金術を語る姿が見られるその時間が、アヤは一番好きだった。仕事終わりという安堵感に加え、好意を寄せる人とふたりきりで共通の話題に華を咲かせられるという、自分だけが感じられる特別な幸福感がある。勉強への意欲も俄然沸いた。
 休日は、家族の了解を得て家業を午前中で切り上げ、午後からは国立中央図書館で勉強することにした。勉強時は、キンブリーと同じように後ろで髪を結って、モチベーションを上げている。彼とのおそろいを喜んでペンを持てば、彼女は自然と集中できるようだ。
 勉強モードのアヤが一息入れようと顔を上げたとき、いつの間にか向かいの席にキンブリーが座っていたことがある。アヤは驚きと喜びのあまり、あっ、と声を上げ、すぐに口元を抑えた。するとキンブリーは、本から顔を上げて人差し指を自身の口元に当て、「お静かに」と唇を動した。そして、蒼い目を細めてゆるりと微笑んだ。
 アヤの胸が大きく高鳴ったのは言うまでもない。

「……ってことがあったのよ〜!」
 日曜日の朝、花屋の開店準備に勤しみながら、アヤは兄にルンルン気分で想いびとの話をする。
「そのあとキンブリー少佐とはじめてお茶できたの! 三番通りのカフェに行ったんだけど、コーヒーを飲む姿がまた素敵でさ〜!」
「へー。ピンクのラナンは?」
「まだ出してない。でね、少佐ってば掌に錬成陣のタトゥーを刻んでるでしょ? 太陽と月の! カフェでその話をしてもらったのよ〜!」
「ふーん。このアネモネ、水下がってんだけど」
「分かった、水切りしておくわ。でねー、『最初、少佐の掌を見たときは、直接手に刻んでるのを見てびっくりしたんですよ』って、率直な感想を言ったら、両手を見せて『今はどうですか?』って聞くの。で、少佐らしいなって思います、って言ったら……」
「ああもう、分かったから仕事しろって!」
「あっ」
 おしゃべりに夢中で、アヤの両手はガラ空きだ。それはごもっともな意見だったので、アヤはしぶしぶピンクのラナンキュラスを店の前に運ぶ。
 だが、耐えきれず喋り出した途端に笑みがあふれてしまう。
「……それでね、少佐、にっこりと微笑んで『私らしいとは、最高の褒め言葉ですね』って言ってくれたのよ。もう、その笑顔ときたら、それはそれは眩しくって……!」
 レオは、はあ、とため息を吐いて白ユリのバケツを置く。
「あの人は変わってる。あんま深入りすんなよ」
「ど、どういうこと?」
 腰に手を当て、レオは横を向く。呆れたように目を閉じ、吐き捨てるように言った。
「あの人、俺の錬金術を見て『雷鳴は爆発音に似て非常に良い』つって、ずっとニヤニヤしてるような奴だぜ!? 爆発ラブのヤベー変態じゃん」
「変態とはなに!? 自分の錬金術への愛が深いってことじゃないの! 今度そんな悪口言ったらその口縫ってやるからね!」
「おーおーやってみな。色ボケ貧乳女め」
「だっ、誰が色ボケ貧乳女よー!!」
 アヤの大声に、通りかかる人々は怪訝な顔でひそひそ話をしている。自身の大声で、自分にかけられた悪口を近隣に広めているその滑稽さに、苛立つアヤは気づいていなかった。


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