※名前変換はございません 「それじゃああなたは、自分の顔が『まとも』であったなら全てが上手くいったと思っているのね?」 オペラ座の地下深く、湖のある住まいで食卓を囲むふたりの姿がある。それはオペラ座の真の主であるエリックと、彼を慕う一介の歌姫にすぎない娘だった。 娘は牛肉のポワレにナイフを刺し入れる手を止め、冷静に問うた。先ほどまでの和やかな雑談はどこへやら、エリックの嘆きを含んだ弱気な発言の数々が、ひそやかに不穏な風を連れてきた。 エリックは静かにフォークを置いた。 「そうだ。おまえもそう思うだろう? この憎き顔面こそが私の人生を破滅に追いやったのだと」 「破滅? あなたは破滅したの?」 「ああそうだとも。両親には愛されず、人目を避け地下に巣ごもるしかなく、挙句、唯一焦がれるほど愛した女性にも振り向いてもらえない! これが破滅でなくてなんと言おうか」 娘は一度、視線を落とした。 「あなたには、才能があるじゃない。それも多彩な才能が。建築も、デザインも、それに音楽だって思いのままでしょ」 「だが、私を愛する者はひとりもいない」 娘はなにか言おうと口を開きかけたが、再度唇を引き結んだ。そうして、顔を背ける。 彼女は悔しかったのだ。自分はこんなに彼を愛しているのに、彼に気持ちが届いていないことが。『彼を愛する者』の中に、自分の名前が含まれていないことが。 だから、似合わぬ毒を吐いたのも、彼女にとっては致し方ないことだったのだ。 「……そうやって、被害者のふりばかりするのね」 エリックの片眉がくいと上がる。怒気を含んだ声が、びりびりと空気を振動させた。 「ああ! おまえには分からんだろう! 私の苦しみが! 私の痛みが! 私がどれほど傷心してもおまえたちはその心をひとつも分かろうなどとしない!」 「……エリック」 「どうせおまえは、『可哀想』な私に手を差し伸べるふりをして、その己の慈悲深さに陶酔しているんだろう! そうでないとしたら、私に同情や憐憫の目を向けて『自分はあんな人間でなくて良かった』と優越感に浸り、高みにある安心の塔から私を見下ろしたいからだ! 私に近づいたのは、そのどちらかなのだろう!?」 「……エリック!」 「おまえたちのような、さもお人好しの善人面した偽善者の考えることなど私にはお見通しだ! 出て行け! 私の城に二度と近寄るな!」 なぎ払われた腕の下からパリン、とティーカップの砕ける音がした。白の欠片が飛び散り、紅茶の小さな湖が足元に広がった。 エリックは肩で息をしている。心の痛みを無意識に示すかのように、仮面を押さえて呻いている。 娘は、震える両手を膝の上で握りしめた。目には涙を浮かべている。 「……私が、あなたに近づいたのは」 目の縁から、玉のような涙の粒が滑り落ちる。 吐息に近い声が、震えながら発せられた。 「エリック、あなただったからよ」 わっ、と娘は顔を覆った。白魚のような手の裏側で、悲哀の雫がいく筋も滲んだ。 湖の空間は静まり返った。さめざめと泣く娘は、空虚な孤独に苛まれ、今にも押しつぶされそうだった。 わずかな沈黙の後、椅子を引く音がした。背後から肩にそっと手が置かれ、娘は驚いて顔を上げた。 小刻みに震える男の指が、滑り落ちた彼女の清らかな雫を拭う。すまない、と謝罪する声も、指と同じく震えている。 娘はおもむろにその手に手を重ね、静かに目を閉じた。 まるで、男の目の縁に光るものを見つけまいとするかのように。まるで、自分とそろいの雫を、しかし自分とは異なる感情を宿した罪悪感の雫を、受け止めるかのように。 娘は、男の罪を許し始めていた。 Afterwordファントム夢第一号はなぜかシリアスなものに。 |