白翼は私を包む


 これまでの人生でいくつもの失敗を繰り返してきたが、こんなにも悲しくなる失敗を犯したことは果たしてあっただろうか。
 少尉、と呼ばれて身を縮めそうになるのをなんとか抑えて、前を向く。上司であるキンブリー少佐は眉を顰め、普段の冷静さを欠いた声色で私を咎めた。
「ああして単独行動をとったのは何故です。あのときの貴女は狙撃手にとって格好の餌食でしたよ。自分が立っているのは戦場だと本当に意識していましたか?」
「……申し訳ございません、思慮不足でした」
 幼少時代から両親に叱られるたび泣いていた私は、士官学校に入学した後も、晴れて軍人になった今でも、叱責に慣れないままだった。彼の部下としても恋人としても申し訳が立たないし、呆れられたかもしれない。使えない奴だと見限られたかもしれない。ほら、気を抜くとすぐ涙が出そうになる。
「貴女は事の重大さをまだ理解していないようだ。言っておきますが、演習は遊びではありませんよ。あの場面で列を乱し一人で行動するなど――」
 分かっている。けれど私は、少佐の落とした上着を拾いに戻っただけなのに。
 ぽたり、と床に雫が落ちたと同時に、少佐が一瞬目を丸くし、椅子から立ち上がる。駄目だ、駄目だ、こんな所で泣いてしまうなんて。急いで手の甲で涙を拭うと、彼がそばに近寄って、また溢れてきた目尻の雫を優しく指で拭いとってくれた。
「少々言い過ぎましたね。謝ります」
 ふるふるとかぶりを振り、申し訳ございませんと謝罪する。彼を非難したくて泣いた訳ではない。どうにかして自分の涙の話題から逸らそうとして、関係のないことを呟いた。
「私も少佐のように何でもこなせるようになりたいです」
 現場の指揮から、銃の扱いまで難なくこなす彼に憧れているから咄嗟に出た言葉だったのだろう。おまけに彼は国家錬金術師、そういったありとあらゆる才能に生まれつき恵まれていて、それらを遺憾なく発揮している。きっと努力をしなくても、何でもすいすいと要領よく出来てしまうのだろう。
「……貴女は櫛風沐雨しっぷうもくうという言葉をご存知ですか?」
 彼はペンを執り、反故にした書類の隅に、櫛風沐雨と右肩上がりの字を書いた。
「いえ……」
「風にくしけずり、雨にかみあらう。つまり風で髪をすき雨で体を洗うという意味で、さまざまな苦労をすることの例えですよ」
「な、なるほど……」
「私はまさしくそのようにして生きてきました」
 少佐は私の予想と真逆のことを口にし、窓の外に目をやった。失礼だけれど、全然そんな風には見えない。だって少佐はいつだって完璧で、白鳥のように美しい。何かに苦労している様子なんて見たことがあっただろうか。
「何せ異端ですからね。それゆえ苦しむことはありましたよ」
 異端だと自分で告げるくらいなのだから、人一倍苦悩したのだろう。理解できないことは多かっただろうし、人と違う自分に戸惑い、懊悩したに違いない。自分を認め、自分の生き方を貫くにも勇気がいる。周りから浮かないようにと、けれど自分を尊厳しようと、そんな思いで処世術を身につけていったのだろうか?
 振り返った少佐は、微笑んでいた。様々な苦しみを全て乗り越えてきたから、こうして笑うことができるのだろう。右肩上がりの文字の重みは、私の胸にしっかりと刻まれた。この話は、湖を優雅に泳ぐ白鳥が、実は水面下ではいそいそと足を動かしていることと似ているように思える。私は白鳥の苦労を知らなかった、否、知ろうともしなかった。水面下の努力を知り、更に白鳥が美しいと思えた。
「すみませんでした少佐、軽率なことを言ってしまって……」
「いえ、構いませんよ。……話を戻しますが、くれぐれもあのような行動は――」
 また、叱責される。体をこわばらせた私を、彼はあろうことか優しく抱きしめてくれた。彼の匂いがし、心臓が高鳴った。
「いえ、私の落とした上着を拾ってくださり感謝しています。ですがあそこが戦場ならば、貴女は一つ間違えると命を落としかねませんでした。そんなことがあっては、耐えられませんから」
 そうか、少佐は頭ごなしに怒ったのではなく、私の身を真剣に案じてくれていたのか。浅はかな自分の考えを恥じると同時に、どうしようもなく満たされた気持ちになって、また涙がこみ上げてくる。
「反省、しています。迂闊な行動をとってしまったと……」
「ええ。私も同じく反省していますよ」
「え……?」
「貴女を泣かせてしまいましたから」
 すまなかったと言うように強く強く抱きしめられ、頬にすうっと涙が伝った。ああ、そうやって優しくされたら、また泣いてしまうではないか。
 いつだってあなたの優しさが涙を誘う。白鳥はそのことにきっと気づいていないし、できることなら気づかぬままでいて欲しい。窓の外にはいつしか夜の帳が降りていた。
 今だけはどうか、このままで。


Afterword

おそらく13回目のキンブリーデーのもの。 お題は「櫛」「右肩上がり」。 ネットプリントの折本に収録しました。印刷してくださった方々、ありがとうございました!
(20181222)