黒猫と白悪魔

 見てはいけないものを見てしまった。
「うわあああああやめろおおおおおお」
 聞くはずのない悲鳴を聞いてしまった。
「やめろおおお……お、ぉ……。……」
 ベッドに縛られたままイヌと合成された軍人は、ひとしきり叫んだ後、私の目の前で喀血し、息絶えた。
 これは悪夢? 映画の撮影? それとも現実の、凄惨な人体実験……?
「拒否反応か。どこが悪いんだ、細胞か遺伝子か、それともこいつらの相性か?」
「おまえたち早く死体の解剖を始めろ」
 研究者や数名の将校たちが動きだしても、時間が流れている気がしない。ずるずると引きずられて行く被害者の軍服とその床は紅蓮に染まっている。
 私は部屋の隅で膝をつき、ただひたすらうるさい心音と吐き気に耐えながら、平静を保とうと肩を上げ下げしていた。
「やはりそう簡単にはいくまい。人との合成獣か、本当に上手くいくだろうか」
「実験に失敗はつきものだ。ましてや初めから上手く行く訳がないだろう」
「目指すものは違えど前例はある。現に大総統、いやラースは石の力に耐え抜き誕生したではないか。それに比べれば合成獣の作成など容易いさ」
 ベッド横のケージに入れられた一匹の黒猫が威嚇している。まだ子猫だというのに毛を逆立て、尻尾を上げ、低い唸り声をあげて、研究者たちを赤い目で睨んでいる。
 それをなだめようと褐色の肌の将校がケージの横に立ち、膝を曲げて黒猫を見つめた。レイヴンと呼ばれる将校は愛想良くも下品な笑みを浮かべ、猫からこちらへと視線を移す。
「次はおまえと君の番だ。そう君、君だよ准尉」
 震えが恐ろしい速さで爪先から背骨を伝い、つむじへと駆け上がる。
 本能が、細胞の一つひとつが警鐘を鳴らす。ここに居てはいけない。是が非でも逃げなくては。さもないと自分の命は……。
 目線を出口へやるも、全身の力が入らずへたり込んでしまったまま動けない。笑みを絶やさないレイヴンが、こちらに手を伸ばしつつじりじりと近寄ってくる。
「そう怯えなくてもいい。さっきはたまたま失敗しただけだ。君はきっと上手くいく。そうだ、もし成功したら私の部下にしてあげよう。責任を持って君の身の安全を保証するよ。大丈夫、君ならきっと、上手くいくだろう……」
 大きな影が私の上に落ち、全てが闇に閉ざされる。震える唇からは抵抗する声も余力もなく、か細い息が途切れ途切れに漏れ出していた。

 そろそろ五年経つかな、との中将の呼びかけで、忘れたいあの日の出来事が一瞬にしてよみがえってしまった。
 むごい記憶には静かに蓋をして、書類の一行目に目を通す。今日はよく冷えるから紙も捲りにくい。
「准尉、君が私の配下になってから五年経つと言ったんだよ」
 窓に映る私の顔がしかめっ面になっていることに気づかないまま、白髪の中将はニコニコと繰り返す。この卑しい将校の顔だってまともに見られるようになったのは、たった数年前だ。
「……もうそんなになりますか」
「そうだよ。その間君とは一度もお茶を飲みに行ったことはなかったね? もう少しガードを緩めてくれるとありがたいんだが」
「レイヴン中将、お仕事の手が止まっていますよ」
「いやあすまんすまん」
 彼は眉を下げるだけで作業を再開しようとはせず、目を細めて私の全身を舐めまわすように見る。その仕草にまた苛立ちが募った。
「しかし……夜の色の髪、銀色の瞳、形の整った唇。どれをとっても美しい。君のような部下を持てて光栄だよ。おまけに君には特別な能力も備わっている」
 視線で制すると、老人は笑ってごまかし今度こそペンを動かした。
 その特別な能力とやらは望んで手に入れたものじゃない。むしろ私はこの秘密の体質を、私をこんな体にした奴らを恨んでさえいる。
「こほん。この後のご予定ですが、十三時十五分から六階の会議室にて……」
「ああそうだ言い忘れていたよ。今日の会議は欠席するんだ」
 聞き慣れない言葉に目を丸くすると、レイヴンは笑顔を消して窓の外を見つめた。
「いやぁそれがね、とても珍しい来客が訪ねてくるらしいんだ」

 二階の応接室に向かう途中、中将は背中越しに他愛無い世間話をし、私はそれに無難な相槌を入れつつ思考を巡らせた。会議を断ってでも会う必要のある人物とは一体誰だろう。軍人ではないことは明らかなのに、なぜかあまりいい予感はしない。
 私は応接室のドアノブを引いて中将を通す。来客はすでに到着していたようで、レイヴンが先に陽気な挨拶をし、続いていやに丁寧な男性の声が聞こえた。
 人払いのため部屋には入らず扉を閉めようとすると、君も同席したまえ、と大きくあさ黒い手が顔を出し、手招きする。失礼します、と声をかけて廊下と異なる白いタイルを踏む。入ると床の一部が盛り上がったのかと思うほど、全身白づくめの服装でかためた男性が目に入った。
「どうも」
 彼は口元だけの笑みを私に向けて、かぶっていた真っ白いソフト帽を軽く上げた。紳士然とした品の良い容貌をしているのに、同時に真実も嘘も全て見透かされてしまうような冷徹な威圧感も感じる。ただ一言挨拶をしただけの男に、底なしの恐怖に似た心許ない感情を覚えてしまったのだ。
 それをおくびにも出さず事務的に会釈をし、紅茶を準備するためその場から一旦さがる。
 仮にも軍人である私が一般人におののくなんて。一体何者なんだ、あの客人は。
「出所おめでとうキンブリー。久しぶりの司令部はどうかね、懐かしいかね」
「そうですね、七年前に戻ったかのようです。中将は以前とあまりお変わりないようで」
「そうかね? 皺は増えるし、この頃は動くのも少し億劫でね。やれやれ本当に歳はとりたくない……」
 ソファにかけた二人の会話は、小さな給湯室からもよく聞こえた。
 中将の発した、出所という言葉が引っかかる。また、客人は七年前は司令部に在籍していたらしい。という事は、私がまだ士官学校にいた頃は軍人だったのだろうか。
「……エンヴィーには会ったかい?」
「ええ。ここまで送ってもらいました」
「そうか、そりゃ良かった。ところで北へはいつ出発するつもりかね?」
「ご所望とあれば今日にでも。石とともに、先立つものも頂きましたからね」
「お話し中申し訳ございません。紅茶をお持ちしました」
 木製のトレイに二つのカップとソーサーを載せ、コーヒーテーブルにそっと置く。礼を言う来客の前から手を引く際、彼から長く注がれている視線に耐えきれなくなった。ふと顔を上げると、紳士はまた口元のみに笑みを宿して私を見つめていた。
 その間はときめきを覚えるどころか、得体の知れぬ焦りと恐怖に胸の内が黒く塗りつぶされていくようにさえ感じた。まるで蛇に睨まれたかのように彼の目から視線を外せない。私はただ、瞳の奥に隠した負の感情まで読み取られていないことを祈った。
「キンブリー。私の大切な部下に無駄な色目は使わんでくれよ」
「おや、これは失礼いたしました。あまりに美しい目をしていらしたので、つい」
「まあ女っ気のない務所に七年も居れば、美人を見つめたくなるのは無理もないか。はっはっは」
 キンブリーと呼ばれた男は、笑みを中将に向けた後、一言断りを入れてカップに手を伸ばした。
 美しい目、か。灰のようなくすんだ目の色を美しいと形容するのだから、刑務所はどれほど過酷で寂しい場所なのだろう。
 何より、私の野生の勘は見事に当たった。この男から感じた恐怖は本物だった。彼は長きにわたる間、獄中生活を強いられた元犯罪者だったのだから。
 私は表情に細心の注意を払って再び会釈をし、出口の前に立とうと踵を返そうとしたが、上司の声で引き留められ、客人に自己紹介をするように命じられた。
「レイヴン中将の補佐官を務めさせて頂いております、**・*****准尉です。何卒よろしくお願い申し上げます」
「*****准尉初めまして。私はゾルフ・J・キンブリーです。こちらこそ、よろしく」
 握手のため差し出された右手のひらには、タトゥーが刻まれていた。私の視線に気づいた彼はわざわざ両手を胸の前に出してその模様を見せる。タトゥーは左手にも刻まれている。
「ああ失敬。私は国家錬金術師でして、掌に錬成陣を組みこんでいるのです」
「准尉、君も士官学校時代にイシュヴァールを経験したから知っているだろう。爆弾狂の異名を持つ、あの紅蓮の錬金術師だよ」
 キンブリー、爆弾狂、紅蓮の錬金術師……。記憶を遡ってみても思い当たる節はない。
 中将は無言のまま眉をひそめる私の顔を覗き込む。
「覚えていないかい? ド派手な爆発で次々とイシュヴァール人を死に至らしめたキンブリー少佐、いや中佐を」
「すみません、ご無礼ながら……」
 中将は立ち上がって私の右肩に手を置き、微妙な力加減で二の腕を撫でる。慣れた行為だとはいえ、この不快感と嫌悪感は一向に晴れぬまま蓄積していく。
「許せキンブリー。彼女はとある事情で記憶の一部がとんでしまったんだ」
「いえ、何も謝ることはありませんよ。むしろこちらとしては都合が良い」
 別段気にした素振りを見せることなく口端を上げていた客人は、中将の手の動きを一瞥した後、それとなく話の続きを要求した。
 思い出したように私から手を離し、元の席についた中将は自分の隣のスペースを叩き、ともに座るようにと示す。そこから距離を取ってそこに腰を下ろすと、上司はわざと眉を下げてこの場に相応しくない質問をする。
「准尉。そんなに私のことが嫌いかね?」
 満面の笑みで肯定してやりたい気持ちを抑え、とんでもございませんと慌てて返す。その返事に納得していない様子の中将は、肩を竦めて正面を向いた。
「……と言っているがね、彼女はもう五年も私の配下にいるのだが、一向に距離が縮まらないんだよ」
 私も客人も同じ冷笑を貼り付けている。中将はそれを気にも留めず、指を組み、前のめりになって客人に話し続けた。
「そこでだキンブリー。うちの准尉を連れて北へ向かってはどうだろう?」
「准尉も短期間とはいえ、私以外の者と行動するのは願ってもない幸運だろう?」
 突然の提案に私はどんな表情をすればいいのか分からなかった。中将の元を少しの期間だけでも離れられるなら万々歳だ。代わりの補佐官などいくらでもいる。
 とは言いつつ、これから得体の知れぬ初対面の客と同行するというのも考えものだ。彼は爆発狂とも呼ばれた元犯罪者であることを忘れてはならない。紳士を装っているが、中身はきっと冷酷で血も涙もない薄情な人間なのだろう。
 私は自分の冷えた指先をぎゅっと握りしめた。中将は客人を見据えて更に言葉を続ける。
「君も外の世界は久しいだろう。案内役はもちろん、こちらの世界に慣れるためにも話し相手は必要だとは思わんかね」
 正面に座った慇懃な紳士は、ふむと顎に手をやり、考える素振りをする。
 中将の魂胆は読めている。彼は私を見張り役、つまりスパイとして同行させたいのだ。やはり中将としても、この客人を心から信用できないのだろう。
「どうかねキンブリー? 悪い話ではないと思うんだが」
「なるほど。分かりました」
 キンブリーの眼前に垂れた黒髪が微かに揺れ、アイスブルーの瞳がこちらに向けられる。
「*****さん。貴女さえ良ければ、私とご同行頂きたい」
 元より私に選択権も拒否権などないのだ。腹を決め、一息置いて頭を下げた。
「はい……。色々とご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」


Afterword

黒猫キメラの夢主がキンブリーさんと同行する話。連載予定だったんですが、この1話しか書けませんでした。残念!
(20190323)