シェアハウス!

 もうすぐあじさいが咲きそうな、やわらかな風吹く初夏のこと。
 私と「友人」は、セントラル・スパイアー・アパートメントに引っ越しをした。
 大都会セントラルの南のほうに建つ、グレーで統一されたスタイリッシュな物件。二階建て、そして地下付きの、豪華でありながら派手さを抑えたオシャレなおうちがそれだ。
 地上からエレベーターに乗り、二階に到着する。群青色の玄関ドアが、これからの生活への期待を胸に膨らませる私たちを、「新入りだ」という顔で出迎えているような気がした。
 友人は、白いスーツのポケットから新しい鍵を出す。
「さあ、今日からこの家が私たちの家ですよ」
 にやりと若干不敵に笑う彼は、普段よりも楽しそうだ。彼は本当に楽しみなとき、決まってこの表情をする。
「あ〜嬉しい! 早く開けて、キンブリーさん!」
「まあそう焦らずに」
 鍵穴にシルバーの鍵が差し込まれる。それはライトの光を受けて、きらきらと、ちかちかと光った。
 カチャカチャ、ガチャリ。
 ――この音で、私たちの第二ステージが始まった。

 現代日本で暮らしていた私がアメストリスにやってきたのは、今から三年前のことだ。
 大ヒットマンガ『鋼の錬金術師』の熱狂的なファンである私は、あの日、同マンガの生誕20周年を盛大にお祝いしていた。ひとり暮らしなのに大きなホールケーキを買って、二十本のろうそくを立てて火を消し、それを食べながらマンガを読み返していた。
 ハガレンは、何度読み返しても面白く、夢中になれるお話だ。すでにマンガはボロボロになるほど読んでいたし、ブルーレイのアニメは親の顔と同じくらい見た。それでも飽きがくることはなかったし、推しはいつでもかっこよかった。
 私の推し。それは、紅蓮の錬金術師、ゾルフ・J・キンブリーだ。
 原作や世間では、白スーツの変態やら爆弾狂やら言われているが、私の目には昔からずっと、一本筋の通ったかっこいい男として映っている。あんなにも生き方や、信念や、去り際が美しいひとを、私は知らない。
 ケーキを半分たいらげて、マンガを全部読み終わった頃、長いはずの夜が明けていた。私はソファーの上に寝転がって、涙の痕が残った目で、カーテンの隙間から朝が来たことを確認した。
 そして、まぶたを閉じた。
 ――ああ、キンブリーさんに会いたい。一度でいいから、会ってみたい。
 上質な物語を読み終えたときはいつも、想像の羽が自由にはばたいている。ロマンチックな空想で頭が満たされる。フィクションを夢見ることが、大いに許される。
 そんな夢見心地のまま、私は眠ってしまった。
 そして朝起きたら、アメストリスにいたなんてこと、一体誰が信じてくれるだろう?
 気づけば私は、知らない街中にぽつんと立っていた。聞こえてくる言語は母国語じゃない。お店の看板の文字も全然読めない。ここがアメストリスだと気づいたのは、近くにそびえ立つ中央司令部を見たときだ。
 俗に言う、トリップかもしれない。夢小説でしか読んだことないあの妄想バンザイな現象が、実際に私の身に起きたなんて。
 のんきな私は、心の中で思わず叫んだ。
『なにこれ! 最高じゃん!』
 だって、これであの人に会えるかもしれない。願っていたことが叶うかもしれない。
 日本に未練がない、寂しくない、と言えば嘘になるけど、この世界で彼に会えたら、そんなこと忘れるかもしれないとすら思えた。
 それからの私の生活ぶりを誰か褒めて欲しい。優しい老夫婦の家に住まわせてもらい、毎日アメストリス語を八時間から十二時間ほど勉強し続けた。英語もろくにできなかった私だけど、大好きな世界の言語なら別だ。夫婦ともたくさん会話し、仲良くなって、ネイティブの発音やアメストリス会話を覚えた。
 一年、二年と、すぐに月日は経った。季節はあっという間に移り変わった。
 そしてアメストリスに来て三年。アメストリスの言語をものにした私は、ようやく彼に出会うことができたのだった。

 きっかけは、不動産屋に行って物件探しをしたことだ。
 いつまでも老夫婦の厚意に甘えていられないと、お世話になったふたりの家を去り、私は賃貸物件を探した。最初はワンルームでいいと思っていたけれど、シェアハウスができる物件があるとのことで、そちらに決めた。パン屋でバイトしていただけの身としては、初期費用が抑えられるのが嬉しかったのだ。
 セントラル駅から徒歩十分の距離にあるそこは、『二十一チック・ストリート・アパートメント』と言った。アパートとしては申し分ない。けれど、一緒に住むひとが男性だと聞いて、少し身構えてしまった。別に取って食われるとは思わないけど、男性との交友関係がない私は緊張してしまうのだ。
 だが、その住人の名前を聞いて目の色が変わる。
『今は、キンブリーさんという方がおひとりで住んでいます』
『そこに決めます』
一秒の間も空けずに即答する私。だって、こんな偶然ある?
 契約を済ませた三日後に鍵を渡され、私は意気揚々としてアパートを訪ねた。
 ――憧れのキンブリーさんと一緒に生活できる……!
 心臓がバクバクした。玄関ベルを鳴らして、扉が開いた瞬間、私は思わず息が止まった。
 白い帽子に白いスーツ。まとめ髪にあぶれたふた筋の前髪。つり上がった眉に、重たそうなまぶた。
 その目がゆるりと細められる。
『ああ、貴女が新しいルームメイトですね。私はゾルフ・J・キンブリーです。これからよろしく……どうしました?』
『ウ、ウワァーッ!』
 う、嬉しすぎて息がうまくできない……! さらには奇声を上げてしまった……! 最初が肝心なのにもう変人決定だ……!
 だって、だって仕方がない。あの、焦がれに焦がれた憧れのキンブリーさんが、目の前にいるんだもん。ちょっとぐらい挙動不審になっても仕方がないよ。春は出会いの季節というけれど、私にとってはこれはもう運命の出会いだよ。
 キンブリーさんは、涼しい顔で小首を傾げている。不思議な生き物を目にするときの表情をしている。
『……とにかく、中へ』
『ハ、ハイィッ』 
 私の挙動不審ぶりは丸一日続いた。キンブリーさんは『面白いひとですね』と、夢小説の定番台詞を言っていたけど、実際私は違う意味で面白い人間に映っていたに違いない。

 あれから季節がひとつ過ぎた。
 彼と一緒に生活できるという跳ね上がるような喜びと、地の底に沈みたくなるような悲しみを経験して(思い切って告白してあっさりフラれた)、私は今も彼と一緒に住んでいる。
 そう、住居を一新して。
「フー! こんにちは、新しい我が家! あ〜、すっごい素敵! 部屋は広いし、吹き抜けもあるし、地下にプールもある!」
「なかなか住みやすそうですね。ここに決めて正解でしたよ」
「ふふ、もうお隣さんの騒音に悩まされることもないしね」
「ええ」
 私たちが引っ越しをした理由はふたつある。
 ひとつは、お隣さんの騒音問題だ。なにかにつけて感情表現の激しいカップルが住んでいて、しょっちゅう怒鳴り声が聞こえていた。仲が良いときも困ったもので、夜になればお熱いウフンアハンの声も丸聞こえだった。その度に、私たちは何度も気まずくなり、また眠りも浅くなってこりごりしていた。
 もうひとつの理由は、キンブリーさんが国家錬金術師資格試験に合格したこと。その合格祝いとして、これまでの生活に区切りをつけたのだ。
 そうそう、時間軸で言えば、私がトリップしたのはまだ原作のストーリーが始まっていない頃だ。イシュヴァール殲滅戦もまだ決まっていない。だから、キンブリーさんは原作よりも結構若いのだ。
 資格試験に合格した彼は、目玉が飛び出るくらいの額のお給料を稼いだ。その資金で引っ越して、私は彼と生活を続けることになった。お金の面では彼に甘える代わりに、引き続き家事全般はすべて私が担うことになっている。キンブリーさんと一緒に暮らせるなら、お安いもんよ!
 彼にフラれたといえども、私はもうそのときのことを気にしていない。あれは出会ってまもないときのこと――。ふたりで一緒に春のお祭りに行った後、遅い夕食を食べながら、酔いのまわった私は勢いで『好きです』と言ったのだった。
 キンブリーさんは、くいと片眉を上げた。
『貴女、勘違いしているんですよ。一緒に住み始めたから、私を意識し始めた。貴女の恋愛経験が少なさが、余計に私を異性として意識させた。それだけのことですよ』
『違うんです、いや、違わなくはないかもしれないけれど……』
『まだ出会って間もない。私はまだ、貴女のことをなにも知らない』
『あ……』
『話はこれで終わりです。さあ、もう寝ましょう』
 あっさりと会話が終了し、私はベッドで枕を濡らした。
 一緒に住み始めたから? 恋愛経験の少なさがあるから? それだけじゃない、それだけじゃないのに。
 私はずっと推しとしてキンブリーさんが好きだった。何年も、何年も好きだった。それが、一緒に住むようになって、確実に恋愛感情へと育まれていっただけなのに……。
 そう言っても、彼にはきっと分からないだろう。理解できないだろう。出会ってまもないルームメイトから告白されても、迷惑なだけなのだろう。これは、時間が解決するしかないと思った。
 最初は、推しと一緒に暮らせるだけでめまいがするほど嬉しかった。けれど、やはり、人間は欲深い生き物だから、だんだん自分を『女性』として見て欲しくなる。だから、一度フラれても、自分を磨いて磨いて、いつかキンブリーさんに似合う自分になったら、また告白しようと誓った。
 そう! 私は諦めがすこぶる悪い女であった! その決意は、今も私の胸にふつふつと燃えている!
「待ってろよキンブリーさん! 絶対に振り向かせてやるから!」
「なんの話です?」
「あっ、なんでもないです」
 キンブリーさんは小首を傾げて、ダイニングテーブルに座る。人差し指でくるくると家の鍵を回した後、それを私に手渡した。
「これは貴女の分です。どうかなくさないように」
「はーい、分かりましたー!」
彼は無言でじっと私を見つめた。なにか顔についてる? と思いつつ、照れる。そんなに見つめられると、やっぱり照れる!
「あ、あの? どうかした?」
「……この先、無事に私を振り向かせることができたら、なにかご褒美を差し上げましょう」
 にっ、と口の端を上げる彼。まるで、なにかのゲームを始めようとしている主催者側のように、挑戦的で、余裕に満ちている。
 ……っていうか、さっきの言葉の意味、分かってるし!
「え! あっ、うわ、忘れてください、さっきのは!」
「ご褒美はなにがいいでしょうか? そうですねぇ、ご褒美と銘打っているのですから、貴女の喜ぶものにしましょう。ステーキにします? アクセサリーにします? なんでしょうねぇ。今から楽しみですね」
 頬杖をつきながらにっこりと笑うキンブリーさんは、自信満々で、悔しいぐらいにかっこよかった。ああ、手のひらで転がされている感がすさまじい!
「ウワーッ! は、早く振り向かせたいぃ……!」
 テーブルにうつぶす私に、キンブリーさんが「ふふ」と笑う声が聞こえた。
 まずは、料理の腕を磨いて『胃袋わし掴み作戦』を決行しようと、心に決めた私であった。
 待ってろよ、キンブリーさん!


Afterword

夢オンリーのために、連載予定として書いていました。続くといいな……!()
(20210927)