役割論にアンチテーゼ
「あ、恵くん」それはある日のことである。高専の廊下にて見つけた、真っ黒な後ろ姿に私は迷いなく声をかけていた。
「……どーも」
「今日もテンション低いね〜!元気?」
「おかげさまで」
「わー!全然元気そうじゃない!」
無気力な応答に思わず手を叩いて笑っていると「#name1#さんは相変わらずですね」これまた冷静なトーンで恵くんが返してくれた。「それほどでも〜」「全然褒めてないです」相変わらず辛辣な彼に、また笑いが増してしまう。
恵くんは、呪術高専の一年に所属する呪術師だ。そして私の……なんだろう、兄弟子?腐れ縁?弟分?のようなものだ。簡単に説明してしまうと、昔五条の分家で爪弾きされていた私をたまたま悟さんが高専に連れ出して庇護下に置いてくれたのである。その時同じように庇護下に置かれていたのが恵くんで、それ以来の付き合いなのだ。
時間が経つのは早いもので、当時15歳だった私は晴れて21歳、今では補助監督の仕事にも慣れ始め、小学生だった恵くんもなんと高専に入学するまでに成長していた。身長もいつのまにか抜かされてしまって、なんとも感慨深いものである。もう見上げないといけなくなったその端正な顔を見つめて、様々な思い出に浸っていると「仕事ですか、今日は」恵くんが社交辞令的に問うてくれる。
「そうそう。今報告書提出してきたところ〜。恵くんは?」
「俺も今日はもう終わりました」
「流石だねえ、無傷だし」
「まぁ、低級相手なんで」
「そう言えるのが凄いって」
何しろ私は五条家に生まれながら呪術は味噌っかす程度しか扱えないのだ。悟さんに連れ出される前、家で冷遇されていた理由もそのあたり。現在補助監督という職に就いているのもそこに起因しているし。
だから本当に、恵くんのことは尊敬している。これといった他意もない純粋な褒め言葉を、恵くんは「ウス」と心地悪げに受け取っていた。
「もうちょっと嬉しそうにすればいいのに、素直じゃないんだから」
「……人を反抗期みたいに言うのやめてください」
「あはは、いいね、反抗期」
なんだか高校生らしくて可愛げが倍増だ。恵くんの場合子供らしさを感じられる場面があまりにも少ないから余計に。……と、可愛げという言葉からそこで不意に2つの顔が浮かぶ。そういえば今日ほかの一年生はどうしたんだろう。姿を見かけていない気がするけど。
「恵くん今日は一人なの?釘崎ちゃんと虎杖くんは?」
「あいつらは任務です。出張らしいんで、多分今日は帰ってきませんよ」
「そうなんだ」
「用事あるなら伝えときますけど」
「あ、ううん。そういうんじゃないけど」
でも、そうか。ほうほう、と頷きながら頭を巡らせる。あの二人が帰ってこないということはつまり、恵くんが一人ということで、そして恵くんは現在寮に住んでいて、それはつまり――と、そこで私は天啓を得た。
「そしたら恵くん、うちでご飯食べる?」
「は?」
「最近一緒にご飯食べてないなって思って」
高専を出た後、補助監督という職に就いた私はその多忙さに目を剥いた。呪術師は万年人手不足のフィジカルハード職、そのサポート全般を担う補助監督も言わずもがなであったのだ。
学生時代は悟さんも交えつつ恵くんとご飯を食べたりする機会も少なくなかったけれど、最近では恵くんも術師として任務にあたっていることもあってめっきり減ってしまっていた。
「私結構上達したよ、料理!」
力こぶを作って見せれば呆れたような視線で一瞥される。「それに一人じゃ寂しいでしょ」重ねて言えば今度はため息まで降ってきた。
「俺を何歳だと思ってんですかアンタは」
「いくつだろうとご飯は誰かと食べた方が美味しいに決まってるよ」
あと健康状態も気になるし?
高校生男児のひとり暮らしでバランスよく毎食を摂っているとはとても思えないのである。
「たまには人のご飯食べたくならない?」
ダメ押しのようにそう問えば、ようやく恵くんも諦めてくれたようだった。「わかりました、食いに行きます」どこか不満そうな顔だけれど、やっぱり反抗期なんだろうか。でもまぁ何がともあれ本日の恵くん我が家来訪は決まったのである。
「恵くん、でも今日ちょっと料理するの面倒くさい日だから鍋でもいい?」
「疲れてんなら休んでください。なんでもいいです」
「おーけい!」
「いただきます」
「どうぞ、好きなだけ食べてね〜」
こじんまりとしたアパートの一室。4人掛けの食卓を共に囲んでいるその人が柔らかな笑みで言った。高専でいつも見るスーツ姿ではなく、少し前までよく見たラフな姿だ。なんだか注視するのも憚られて、逃げるようにテーブル中央の鍋へ視線を遣る。
彼女――#name1#さんとこうして二人で向き合うのはいつぶりだろうか。この人と過ごすときは高確率で五条先生がいたはずだから、それなりに久しぶりな気がする。
#name1#さんと初めて会ったのはまだ俺が小学生くらいの頃だった。引き合わせたのは無論五条先生である。
『なんか実家でグレかけの子いたから攫ってきた』
『攫うってアンタ……』
『一応高専に通わせようと思って。あそこなら寮だし同年代もいるし、更生するでしょ』
今思い出してもあまりにも適当すぎるやり取りが脳裏をよぎる。蓋を開ければ#name1#さんもグレかけていたというよりも人間不信になりかけていたと言うべき状態だったし。
「恵くん?ぼーっとしてる?疲れてるなら言ってね」
「そんなにヤワじゃないんで」
そう考えてみるとこの人も随分柔らかくなったものだ、と感心してしまう。最初は五条先生に対しても警戒心むき出しで、辛うじて子供の俺とは普通に接することができる程度だったはずなのに。今となっては立派に補助監督業をこなしているし、虎杖や釘崎からの信頼も篤い。それになにより、こちらが心配になるほど、人への警戒心が薄くなった。
……それについてはちょっとは前のを取り戻した方がいいと思うが。
一応妙齢の女性であるはずなのに、何の抵抗もなく他人を自宅に上げてしまっている彼女をため息交じりに見つめる。と、「おいしい?」こてん、首を傾げられた。
「…………はい」
「え、言い淀んでない!?美味しくなかったら言ってね!?」
「鍋はうまいです」
「鍋は!?逆に何が美味しくない!?空気!?」
ひとり目を白黒させている#name1#さんは一旦放っておく。こういうときは放置に限るのだ。代わりに、適当な世間話はないかと頭を回す。
「そういえば、最近五条先生とは連絡とってるんですか」
「何もなかったように流すねぇ……。
うーん、まぁ雑用聞きくらいかな。便利使いされてる」
「相変わらずですね」
「恩人だからそのくらいいいけどね、たまに殴りたくはなるけど」
「恩人、ってそこまでなんですか」
何の気もなしに繰り広げた世間話の中、ふと気になって尋ねてみる。
そういえば五条先生から『グレかけの子攫ってきた』だとか本人から『家で冷遇されていた』と聞いただけでそのあたりの事情は知らないのだ。まぁ、呪術師、それも御三家の内部事情など碌なものではないのだろうが。
俺の問いを受けて#name1#さんは「いやあ、悟さんいなかったらどうなってたことか」苦笑交じりに肩をすくめた。
「そんなにですか」
「あのままだったら今頃、適当な良家の慰み者になってたらいいとこじゃないかな」
それか血だけは遠くないから『第二の五条悟を孕む可能性のある母胎』としてとんでもないことになってたか、と。
あっけらかんと言ってのける彼女だが、最悪の可能性を創造すると眉根に皴が寄った。同時に、今目の前で#name1#さんが笑っていられることに安堵も湧く。
「あーもう、恵くん顔超怖いって!済んだことなんだから気にしない気にしない!」
「……、白菜ウマいです」
「そうそう、それでよし」
と、そこで窓の向こうが騒がしくなった。「あ、雨だ」#name1#さんが斜め上を見上げて呟く。ゆらりと、華奢な肩を滑る幾束かの髪から反射的に目をそらした。
「うーん、結構強そうだし弱まるまでうちにいなよ。お風呂入っていけばいいし」
アンタ、マジで、そういうところ。
もう少しで言葉になりそうだったあれやこれやを、なんとか飲み込む。この人は本当に、危うすぎる。目の前の男があの時と変わらず“小学生の恵くん”であることに一抹の疑いも抱いていない。俺は決して、ここ数年彼女が思うような純粋さで彼女に接していたわけではないというのに。
危機感も警戒心もきれいさっぱり忘れ去ったかのような瞳が不思議そうに俺を見つめている。観念するように「……じゃぁ、それで」声を絞り出せば「りょうかい!」微笑まし気な笑顔が咲いた。
「そしたらちょっとお湯だけ溜めてくる!恵くんはまだ食べてて!」
引き留める間もなく見慣れた小さな背中が小走りでお風呂場へ向かっていく。
……無論、自身の立場をいいことに彼女に付け込んでいる俺が言えたことではない。それは分かっているものの、
「……ほんと、俺の自制心に感謝しろ」
やるせない呟きは我慢できなかった。
決して彼女の耳に届くことはないそれにため息を吐いて、鍋をお玉でかき混ぜた。
青空が特徴的なある日、高専にて。私は業務用の車にエンジンを入れていた。高専前の車道に横付けして必要なものを簡単に確認していると、「おはようございます」コンコン、と運転席の窓ガラスをノックされた。相手は今日の私の担当呪術師、もとい、
「おはよー恵くん。今日も元気そうだね」
恵くんである。私は基本的に高専に所属する呪術師の担当につくことになっていて、生徒を担当することもよくあるのだ。特に恵くんは単独での活動を始めるのが早かったからそんな機会も多かった。
というわけで、「はいこれ今日の資料!」ipadをいつも通り恵くんに手渡して、後部座席に誘導する。もう慣れたものだ。
「今日はちょっとだけ遠いから、車の中寝てていいよ」
「#name1#さん事故らないか不安なんで起きてます」
「ゴールド免許なめてるでしょ??」
全く心外である。シートベルトを装着しつつ、バックミラーをわざとらしく睨んでみた。「それ怖いと思ってやってんですか」「失礼だなぁ」と、まぁ一旦そんなおふざけは置いておいて。
今日の任務地は山奥の廃ホテルだ。どうやら低級呪霊が湧いているらしい。恵くんだから手こずらないだろうとは思うけれど、遠出だしきっと疲労は溜まるだろう。
「帰りにご飯奢ってあげるよ、何がいい?」
「#name1#さんの食べたいもん」
「は〜、これだから恵くんはさぁ〜」
ほんといい子だねキミ。
浄化されていく心を噛み締めながら、アクセルを踏む。いわくつきの地を目指して、エンジンが唸り声をあげた。
「――“闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え”」
恵くんが屋内に入っていくのを視認後、ホテルの建物を覆うように帳を下ろす。少し車を走らせてたどり着いたここは、先ほどの快晴が嘘のように曇り空で覆われていた。
たった今帳で覆ったホテルの中には低級呪霊が沢山発生しているらしい。先ほど少し中を伺った時も確かにそんな気配がした。でも多分、恵くんの実力からしたら吹いて飛ばせる程度だろうとも思う。相当なことがない限りかすり傷すらつけてこないんじゃないだろうか。
多分コレは1時間かからないな。もうなんだかんだ恵くんを送り出してから10分ほど経っているし、30分程度で戻ってくるかもしれない。
車を廃ホテルの駐車場へ停めながら、今後の算段を立てる。早いとこ帰って眠りたいよね、恵くん。明日も授業と言っていたし。となると明るいうちに山を下りてしまいたいな。帰りはどのサービスエリア寄ろうかな、エトセトラ。帳の真隣にいるとは思えないくらい呑気な考え事をしていた、そのとき――不意にゾクリと、背筋が粟立つのを感じた。
「――……え、」
違和感の正体は前方である。現在停車中の駐車場、その隅の方でわやわやと蠢く、黒い影。
呪霊だ。
そう気づくやいなや、心臓がバクバクと動き出す。――屋内だけって聞いてたのに!
念には念を重ねて、駐車場まで帳を下ろすべきだった。ハンドルを握りしめる手に力が入る。
呪霊は多分、屋内で発生しているものと変わらない低級だ。ちょっとだけ量が多いけれど、中よりは多分全然少ない。きっと恵くんなら玉犬で一発だろう。玉犬を使うまでもないかもしれない。……しかし。しかし一方で私は、雑魚なのである。このレベルであればタイマンで死ぬことは流石にないだろうけれど、量が揃ってしまっている以上、全て祓えるかと言われると。
「……フゥ、」
いや、やめだ。今は余計なことを考えるべきじゃない。
自分の息を整えて、非常用の呪具を手に取る。今やるべきことは、恵くんの帰宅手段を確保すること。恵くんが戻ってくるまで、生き延びること。
意を決して車から外に出ると久しぶりに独特の瘴気を感じて眉根を寄せた。低級呪霊はニタァと笑みを浮かべて私の方へ寄ってくる。
とりあれず、アレだ。こんな山奥で車をダメにされてはことである。まずは車から距離をとって、飛びかかってきた一体目を祓った。……呪術スキルなんて、数年前にしまい込んだきりだったのに。命の危機ともなれば案外身体も思い出してくれるらしい。そのまま、とにかく何も考えず、目の前に向かってきたそれらを倒すことだけに専念する。
ギャァ、とか、ァ゛、とか、決して人間のものではない声が鼓膜をなでる。たまに身体をかすめる呪霊の感触が、なんとも不快で仕方なかった。
そんな不快を祓って、食らいそうになった攻撃を避けて、態勢を立て直してまた祓って。それをどのくらい続けているのか、もうわからなくなってきた頃。しかしあたりを見回しても呪霊の数は減ったように思えない。
こういうとき、ほんとに雑魚なのが嫌になるなぁ。
情けなくも震える右手に気合を入れなおして、飛びかかってきたそれらを呪具で防ぐ。そのまま一歩後退して――しかしそこで、小さなミスをした。
「――い゛っ、」
舗装されていない砂利の駐車場は着地先としては最悪だったのだ。右足を思い切り捻った感触に顔をゆがめる。ゆがめながらも、その隙をついて襲い掛かってきた1体は気合で交わした。
ジンジン痛みを訴える右足を、今だけは構っている余裕がない。なにしろここは呪術界なのだ。付いていれば・・・・・・、ラッキー。痛覚まであるのだから満点だろう。
けれど一方で、ただでさえ雑魚の私が捻挫まで抱えてこの局面を凌ぎきれるとは思えなかった。全身に冷や汗がにじむ。
でも、時間間隔が少し曖昧だけれど、そろそろ恵くんは屋内の呪霊を祓い終える頃ではないだろうか。それまで、それまでだ。一抹の希望に縋るように、呪霊をまた祓っていって――そして、ようやく。
「……!」
視界の端で、廃ホテルを覆っていた暗黒が晴れていくのを捉えた。大人なのに、とか、恵くん仕事終わったばっかなのに、とかそんなことは気にしていられない。もう一も二もなく、
「恵くぅーーーーん!!!!!!!ヘルプ!!!!!!!駐車場ーーーー!!!!!!」
腹の底から叫ぶと、一瞬間を置いて玉犬の遠吠えが聞こえた。心の底から安堵して、腰が抜けそうで、
「#name1#さん!無事ですか!?」
見慣れた式神に続いてやってきた恵くんの焦り顔を見たら、本当に全身の力が抜けていった。
「で」
「ハイ」
「これは?」
私の苦戦は一体何だったんだろうなぁ、と思ってしまうくらい迅速に、恵くんが呪霊を祓い終えて、現在。
抜けた腰が戻っておらず、未だ座り込んだままの私と視線を合わせるようにして、恵くんが事情説明を促した。にじみ出る苦笑いを隠さず、「あはは」乾いた笑いを挟んでみる。場は全く和まなかった。
「……帳下ろす範囲を、ミスったみたいですね……」
「……ハァ」
返ってきたのは重い重い溜息である。いやほんとごめん、頼りない大人で本当に申し訳ない。
よりによって学生、それも恵くんに尻拭いをさせてしまった申し訳なさで縮こまっていると「それで」さらに何かを追及するかのように恵くんが声を上げた。
「怪我、どこにしましたか」
「したことは確定なんだ……」
「どこですか」
なんだろう、この、信頼の無さ。
私一応恵くんのお姉さん的立ち位置でやらせてもらってきたつもりなんだけどな。立つ瀬なさすぎ?
しかし否定もできないので、仕方なく恵くんに向き直る。
「……そこらじゅう擦りむいてるのと、あとちょっとだけ足ひねったくらい」
「本当にそれだけですか」
「本当です、神に誓います」
「それでも全然よくねぇけど」
「なにめっちゃ顔固いじゃん」
「誰のせいだよ」
綺麗な顔をしかめた恵くんはため息を吐きながら「で?」。この接続詞を向けられるのは本日二度目である。しかし、「え?」残念ながら全くその意図は伝わってこない。
視線で補足を求めれば、むっとした顔で恵くんは「大丈夫なんすか」と。
「大丈夫、って、こんな軽傷だけだしぜんぜん、」
「そうじゃなくて」
――#name1#さん、呪霊嫌いだろ。
続けられた言葉に、思わず思考が停止する。
「……恵くんそれ、いつから」
「俺には隠せてると思ってたんだろうけど、昔からバレバレです。
そもそも、俺相手に虚勢張る必要、ありますか」
「……」
「べつに、見なかったことにするんで」
弱音吐くなら今のうちですけど、と。
あぁもう、情けない、情けなさすぎる。自己嫌悪が内心で爆発した。
だってこんな15の男の子に助けてもらって、秘めたはずのもやを察させて、その上気を遣わせまくっている。大人としてどうなんだ、私。もう21だってのに。
恵くん相手でも――恵くん相手だからこそ、虚勢も嘘も必要あるのだ。
だって私はこの子たちを守るべき、大人なのだから。拠り所のない、仄暗いこの世界で、この子たちが頼りにできる存在でいなければならないんだ。光を、手を、差し伸べてあげなければならないのだ。
……そう、頭では分かっているのに、
「……めぐみくん」
「はい」
「――こわかった」
結局、少し震える口から零れ落ちたのは、どうしようもない本音だった。
私が呪術師にならなかった理由は2つある。一つ目は明らかな実力不足。呪術師の道を選んだとして、早々に人生から退場するだろうことは火を見るよりも明らかだったから。
そして、もう一つ。これはもう単純だ。呪霊が何よりも怖かったから。
五条の家にいたときから私は人の負の感情が苦手だった。父や母の怒鳴り声やら、使用人からの蔑みやら、そんなものを日常的に受け取っているうち、恐怖が蓄積されていった。まして呪霊なんて、人の負の感情の集合体のようなものだ。流石にもう泣き出しはしないようになったけれど、怖いものはどうしても怖い。それはずっと変わらなかった。
でも、表面上は隠せるようになってきたのに。学生時代だって、学校関係者や悟さんには見破られど、まだ子供の恵くんには隠し通せていると思っていた。それが蓋を開ければバレバレだったとは。
そのうえ、現在進行形で簡単に見破られてしまうなんて。付き合いの長さの為せる業なのか、それとも恵くんの洞察力のせいなのか。……なんにせよ、
「……恵くんには、敵わないなあ」
「まぁ、よく見てるんで」
「視力いーね」
茶化して笑えば無言の恵くんがおもむろに学ランの上着を脱いだ。どうしたんだろう、暑かったのかな。呑気に考えていたら、バサリ。頭上に振ってきた真っ暗闇。
「――これで、何も見えてないんで。無理して笑わなくていいです」
「……うん」
「俺は#name1#さんのそういうところ、蔑ろにしてほしくない」
「……こんなに情けないのに?」
「情けないんじゃなくて、人間として大事なもん忘れてないだけだろ」
視界が遮られたせいか、思わず溢れるものがあって、ずず、と鼻水を啜った。
学ランの中は恵くんの匂いがして、どうしようもなく安心する。どこかで入っていた余計な力が、すっと抜けた。
やっぱり恵くんは凄いな。しみじみそう思っていたら、――「ん゛!?」
不意に膝裏に何かが差し込まれた、と思ったら体が浮き上がって品のない声が漏れた。しみったれた空気が突如一掃される。
「め、めめめめぐみくん!!?」
「なんですか」
「なんですかじゃなくってコレいったいどういう状況、」
反射的に学ランから顔を出せば、思ったより近い場所に恵くんの顔があって黙り込んでしまう。フリーズ状態というべき私に対して、クールな無表情をキメたままの恵くんは「捻挫だろ」「捻挫だとしてもね!?」高校生に、この――お姫様抱っこをされるというのは、いかがなものか。
「あ、歩けるから!おろしてもらえるかな!?」
「嫌です」
「嫌!?」
「暴れられると面倒なので大人しく捕まってもらえますか」
「…………」
どうしよう、恵くんから、交渉に応じる気が、まったく感じられない。
じっとりと恨みがましい視線で彼を見つめるも、怯む様子は一切なかった。
恵くんは一見クールや無気力に見えるけれど、その実中々頑固である。だから多分、……ここで粘っても膠着状態が続くだけだろう。
ここで私は諦めた。一時の沈黙ののち「摑まるってどこに」なんとかひねり出せば動作で首を示される。
昔は、私が抱っこしてあげたのになぁ。
よくわからない悔しさを抱えつつ、おずおずと恵くんの首元に腕を回せば、思ったよりもしっかりした身体つきに少し驚いた。想像の数倍安定感がある。
「お、おっきくなったね、恵くん……」
「この期に及んで成長の実感しないでください」
「そんなこと言ったって」
恵くんと初めて会ったのはもう6年ほど前のことだ。当時恵くんはまだまだ小さな男の子だった。
「それがまさかお姫様抱っこされるようになるとは……」
「俺は想定内ですけど」
「それもそれでどうかと思うよ」
「そうですか」
単調に言葉を返してくる恵くんは、その平坦さを保ったまま「まぁでも、早いとこ認識改めてもらわないと困るんで」何でもないようにそう続けている。
「……認識?」
「#name1#さんの中での。俺はいつまで子供の枠に入ってるんですか」
「そりゃまぁ……大きくなっても恵くんは恵くんだし、いつまでも可愛いでしょ」
「……へえ」
昔の恵くんからは想像もつかなかった低い声で相槌を打った恵くん。そのまま長い足が任務用の車の方へ進められた。恵くんが一歩踏み出すたび伝わってくる振動や、すぐそこにある温かさになんだか不思議な心情を味わっていると、
「のせるんで、鍵開けてください」
丁度運転席の目の前に到着したらしい。
「おっけーい」恵くんの腕の中にいる、というこの気まずさを誤魔化すように軽く返して、車の鍵を開ける。彼は私を丁寧にシートに座らせてくれた。
……くれた、のだけれど。
「ありがとね、運んでくれて――」
「#name1#さん」
と。
私を座らせた後も、私に覆いかぶさったまま、シートの背もたれに右手をついて退く様子を見せない恵くん。
どこかいつもと異なるその雰囲気に、息を呑んだ。
「……なに?」
「あまりにもアンタが強情なんで、もう言わせてもらいますけど」
ハンドルと座席の間に、成人とそう変わらない身体つきの人間が二人。これまでに経験のない窮屈さの中、恵くんが、一体何を続けようとしているのか。何を言いたくて、伝えたくて、その先で私に何を求めているのか。
わかるようで、わからない。でもそんな私のことを、恵くんは変わらずまっすぐ射抜いている。
「――俺は男です」
「え、」
「男だし、#name1#さんのこと、それなりにどうこうしたいと思ってます」
恵くんの角張った左手が、ツウと私の首筋をなぞった。予想していなかった刺激に肩が跳ねる。
恵くんは男で、それで私のことを、どうこう。
たった今発された言葉たちが頭の中をぐるぐる泳ぐ。異性の骨ばった指先が、素肌をなぞる理由に、見当がつかないほど私は子供でも、鈍感でもない。
もしもそれを言葉通りに受け取るのだとしたらそれはつまりそういうこと、で――けれど。けれどもそれは、私たちの関係には、どうしようもなくそぐわない。
ありえないのだ、そんなことは。
「……やだな、またそんな、どうこう、とか、あは、……ドッキリ?」
「……まだ信じないならこっちもそれなりの手を打ちますけど」
瞬間、恵くんがシートの横にあるレバーを引いた。背もたれが後部座席に沈み込んで、視界には灰色の天井と、真っ黒な瞳。曇り空はいつの間にか少し晴れ間がのぞいているようだ、と今更気づいた。そんなことを気にしている余裕は決してないのだけれど。
「め、めぐみくん……?」
さすがに、ジョーダンだよね、アハハ。
そんな色をのせて恵くんの名を呼ぶ。だがしかし、「どこまでしたら、信じますか」どこまでいってもその声に乗せられるのは真剣さだけ。私へ迷いなく――熱をもって注がれる、眼差し。
思わず黙り込んでしまえば、長い指がスーツのボタンを外した。首筋に恵くんの唇が寄せられて、頬を彼の黒髪が撫でる。生温かくて柔らかな感触を素肌が受け止めたのと同時、流れるような動作でネクタイが解かれた。そしてその下のワイシャツに手がかけられたあたりで――コレハヤバイ。固まっていた脳内に、今後の展開予想が流れ込む。ようやく動き出した頭が警鐘を鳴らした。
「ちょ、ちょっとまった!」
着々と私を紐解いていく恵くんの手にストップをかけるよう握りしめて、まずは貞操を確保。触れられた首筋をもう片方の手で押さえ、不服そうな彼を視界の中央に捉えると、「――ろ、六歳差だよ!?」言いたいことは多々ある。それこそ洪水のように渦巻いている。その中で真っ先に出てきたのはそんな言葉だった。
「それがなにか」
「も――問題だよ!高校生でしょキミ!わ、……私は、大人だし、恵くんのことなんか小さいころから知ってるわけだし、」
「だからダメなんですか」
「ダメっていうか……」
あくまでも冷静沈着な返答に、ぐ、と口ごもってしまう。一方の恵くんは、私の動揺を誘うかのようにまた数センチこちらに顔を寄せた。互いの吐息がかかるような距離の中、「少なくとも、俺は#name1#さんのこと手に入れたいと思ってるので」囁くように注ぎ込まれる声が、とんでもなく心臓に悪い。
「#name1#さん。今、俺のこと意識してますよね」
「……してない」
「顔、めっちゃ赤けぇ」
「…………」
「……ある程度満足したんでここまでにしときますけど、そういう訳なんで。
これからは多少そういう目で見てもらえると、助かります」
それだけ言うと彼は眼前から退いていった。「じゃぁ帰りの運転お願いします、安全運転で」あっさり後部座席に乗り込む恵くん。……放心状態の私とはとんでもない違いである。
未だ衝撃から抜けきっていない脳内を𠮟咤して、「ウン、安全運転ネ」私はまず背もたれを起こした。補助監督、私は補助監督。ひたすらそう唱えつつ右肩からシートベルトを装着して、エンジンをかけてハンドルを握って。
「め、恵くん」
「なんですか」
「アクセルってどっちだっけ」
「……右です」
本日も呪霊は難なく祓い終えた。恵くんなので当然である。私は補助監督なので、帰ったらちゃんと報告書を書いて提出しなければならない。あ、あとアレ。家の掃除しなきゃ。ゴミ出しと洗濯溜まってた気がする。
混乱する頭を落ち着かせるように、事務的なTODOリストを整理。ハンドルを握る手にも実感が伴ってきて、少しだけ落ち着いた。
同時に、頭が少し整理されたことで、現実が現実として牙をむいてくる。……まだ引かない顔の熱だとか、少し緩んだままのネクタイだとか。あまりにも連想ゲームの舞台が整いすぎていた。
「…………ほんと、成長ってこわぁ」
「それはどうも」
「…………六歳って恵くんが思ってるより大きいよ」
「だから何ですか」
どうしよう、恵くんなのに可愛くない。
高専までは高速を飛ばしてもあと1時間半ほど。いつもなら楽しいドライブに心を弾ませるけれど今回限りは訳が違う。
今日はもう、バックミラーに視線を向けられそうになかった。