「あ、#name一#さん。おはようございます!」
「どーも」
 爽やかな挨拶に引き攣った笑顔を返す午後六時。夜を迎えようとしているコンビニには似合わない笑顔を浮かべるのは、最近入って来た大学生バイトのタローくんだ。本名はわからないが店長やら他のバイトからそう呼ばれているのをなんとなく覚えている。短期バイトらしいとなんとなく小耳に挟んだけれど、この人手不足店舗に舞い降りた若手労働力には変わりなく、その絵に描いたような好青年さも相まって同僚各位からは大層可愛がられているらしい。なにしろほんの数回顔を合わせた程度の私にまでこの対応である。相当なコミュニケーション能力の持ち主とみた。現に私の反応の薄さもさして気に留めていないらしき彼は「今日は#name一#さん早上がりなんですね」とレジ横のおしぼりを補充しながらにこやかにこちらを見遣った。
「あー、お陰様で?」
 というのも、タローくんがバイトに入ってからの一か月弱、彼が深夜帯に希望を出してくれていることもあり私の夜勤の頻度も多少低下しているのだ。彼の短期がいつまでかもわからないような一時的な措置だけれども、お陰様で私の自律神経は好調である。それゆえ彼のことはまぁそれなりに好感度も高い同僚の一人として認識していた。少し気を抜けばメシアと呼んでしまいそうではある。
「さすがに女性一人じゃ危ないですよ、あの時間。お客さんも独特だし」
 この前怒鳴りこんでくる人とかもいましたよー、と。男とはいえ線が細いタローくんも絡まれやすいのだろう。気の毒なことだ。「早いところお客さんを人間と認識しないようにできるといいですね」先輩として真正面から放ったアドバイスを愛想笑いで受け流されながら、なんとなく脳裏には坂田さんが浮かんだ。タローくんもあの天パのくそめんどくせえ客と内心で毒づいているのだろうか。全くその通りなんだけど。
 瞼の裏から銀髪天パをかき消すように、溜まったレシートをゴミ箱へぶち込んでいれば、タローくんが話題転換を図るかのように「そういえば!」と笑顔を浮かべた。
「そろそろバレンタインですよね」
「……あぁ……」
 その日の名前をここまで嫌味の無い笑顔で発する人間を久しぶりに見た気がして目がちかちかした。既に店内を埋め尽くすピンク色やら、もうあと一週間足らずで回ってくるだろうそれらの片付けに思いを巡らせ心底憂鬱な感情を持て余す私とは大違いである。こんなイベントを純粋に楽しめるとはやはり好青年は格が違う。しんみりそんなことを考えていると「#name一#さんは何か渡す方いるんですか?」そんな言葉に、思わず先ほど振り払ったはずの人影を再び思い起こしてしまった。
 バレンタインデー、そこから連想されるのはまずチョコレート、そして次点で恋人といったところだろうか。少し前の私ならば縁もゆかりもありゃしねえと一蹴し、なんならスルメと鮭とばをやけ買いしてこのチョコレート商戦にアンチテーゼを叩きつけていたところだろう。だがしかし、現在は少々事情が変わっていた。原因は脳裏の銀髪天パである。
 坂田さんとの関係に変化が起きたのはもう一か月弱ほど前のことになるのか。なんだかんだであやふやだった一線を明確に超えて、格好のつかない形でお互いこう、なんというか、意思疎通のようなことをして。そして常連客と店員と評するには少々近すぎる距離に落ち着いているのが今現在の状況だ。
 だからバレンタインに何かを渡す相手、と言われてついつい浮かぶその顔ではあるけれども、しかし。しかし一方で違和感も残っている。そもそも私と坂田さんは恋人なのかという一点において。
 坂田さんはこう、彼氏っぽい存在なのだ。なんやかんやで一線は超えたし、以降もなんやかんやで親交を深めてはいる。ただ、深めてはいるけれども、明確な言葉を交わしたことは未だ無いし。お互いのキャラクター性の問題かもしれないけど。それになにより、坂田さんに恋人とか彼氏とか彼女とか、そういった浮ついた類の言葉が似合わなさすぎる。坂田さんに似合うのは社会不適合とか家賃とか独身とかそういった類の言葉なのだ。だからどうにも、明確にはなっていないというか。
 押し黙って考える私に、タローくんは「#name一#さん、彼氏さんですか?」と笑いかけてくれている。いやあ、彼氏。彼氏っぽくはあるけれども、彼氏って柄か?  アレは。葛藤の末「あー……うーん?」曖昧に濁せば「……なるほど」彼も苦笑を返してきた。いやはや、何やら察されてしまったらしい。追撃して訂正した方がいいか、と考えて取りやめる。変に弁解しても不自然だし、まぁタローくんからしても重要な事項ではないだろう。ということで流しておく。退勤ラッシュをすぐそこに控えた店内にはようやく沈黙が返ってきた。もしかすると好青年には刺激が強かっただろうか、少々申し訳ない。でもこれが現実だ。耐えてくれ好青年。君ならできる、黒髪ストレートだし。そんなことを好き勝手に考えつつ、店内BGMを聞き流しながら黙々と作業を進めた。


 地味な作業を終え、退勤ラッシュにも今日もきっかり八時間働いたらしい真人間たちの輝きにも耐え、やってきた上がり時間。いつもの通り帰り支度を済ませた私が向かったのは無論我が家――ではなく、坂田さんの家だった。
 坂田さんとの関係に多少の変化が生じてから少し。生活面での一番の変化は坂田さんの家に入り浸る頻度が増えたくらいだろうか。なにしろ、既にやることはやってしまったし、それに今更ドギマギするような歳ではないし。それに何より手軽だし炬燵もあるし近いし。というわけで週の半分以上は坂田さんの家にお邪魔してしまっているのが現状だった。
『いきます』『あとで』休憩中に送ったメッセージには『りょ』数フリックすらも面倒になったらしい返答を受け取っていた。というわけで今日も今日とて見慣れた階段を上り、これまた慣れた動作でインターホンを押せば「おー、ようやく来たか」ドアの向こうから顔を覗かせた銀髪天パ。
「なんか機嫌よくないですか?」
「人が機嫌いいだけでそんな訝し気な顔しないでもらえる??」
 とっとと入れフリーター、と急かしてくる声に従って靴を脱ぐ。上機嫌の理由を告げるように「鍋パすんぞ、手洗ってこい」坂田さんが楽し気に笑っていた。
 先ほども述べた通り、坂田さんとはそれなりな頻度で夕飯を共にしているけれども、その内容はカップ麺だったりコンビニの廃棄だったり、簡単な手料理だったりと様々だ。そんな中、鍋パ。久しぶりに聞いた気のする文字列を少し噛み締めた。コンビニからの道のりで冷え切った手先が温まるようである。
「それは天才ですね」
「やっとわかったかよ、敬え」
「今日はイチゴ牛乳持ってきたので私も天才ですけど」
「マジかよ流石に崇めるわ」
 内容の伴わないやりとりを交わしつつ、各荷物を置いて手を洗う。いつのまにかそんな諸動作をとてつもなく自然にできるようになってしまっているあたり慣れが見えて少し痒くなった。
 手先を中心に石鹸の匂いを纏いながらこたつに収まれば、ガスコンロと鍋がセットされている。「とりあえず鍋の素と具材だけぶちこんだわ」「うわ、有能」どうやらあとは待つのみらしい。微かに上る湯気を見つめる私の隣に坂田さんも収まった。
「坂田さん、いかにも鍋ばっか食べてそうなのに考えてみると初ですね」
 坂田さんと鍋というあまりにも親和性の高い光景にそう発する。しかし、聞いてみるとどうやら一一月あたりから年始にかけて毎日鍋を食べすぎてうんざりしていたらしい。ここのところは休鍋期間だったようだ。やば、毎日鍋とか。私は家のコンロ最後に使ったのいつだったっけ、と考えかけてやめておいた。
 少しずつ熱を蓄える大鍋を前にして、坂田さんとの間に設けられた距離は当たり前のように近い。けれども、既に違和感を覚えない程度には私も慣れてしまっている。お互い触れ合う肩など気にも留めずぼうっと鍋を眺める中、「そういえば」不意に坂田さんが世間話を繰り出した。
「そろそろバレンタインらしいな」
 繰り出されたのは先ほどコンビニでも話題に出たそれである。迫りくるそのイベントの名に思わず眉根が寄った。無論伴う諸業務を思い出したためである。「二週間前からそれ一色なんでもう胸やけしてます」げっそりした顔でため息を吐く私に対して、坂田さんは少々考える様子を見せたのち、いつも通り気の抜けきった顔をこちらへ向けた。
「俺は手作り希望で」
 右手を怠そうに持ち上げながらの宣告である。図々しいことこの上ない。というか坂田さんてこういうの興味あるタイプだったっけ。驚きと面倒くささから一気にバレンタインに対する意欲を失いそうだ。
「やな行事ですよね、ギブアンドテイク精神を取り戻すべき」
「話聞いてた? つかギブでもテイクでもなんでもいいからチョコくんね? 最悪量があればなんでもいいわ」
「一番主旨から外れてるのに一番チョコレートメーカー支えてそうでうけますね」
 坂田さんが興味を抱いているのはバレンタインでもイベントごとでもなく甘味だった。そりゃそうか。そうであるなら余計に面倒なんだけど。廃棄で満足しないかなこの人。
 と、そんな思惑の渦巻くバレンタイン論争に終止符を打ったのは沸騰の音だった。ぐつぐつと煮立つ主役が吹きこぼれないうちに火を弱めて、布巾越しに取り外した蓋は机の端へ置く。「チョコより鍋じゃないですか、今は」「今だけだけどな」そんなわけで訪れた合意の上、質素なパーティーは開幕したのだった。


「――もう寝ます?」
 満足するまで鍋を食らい、余った分はキッチンへ納めて、後片付けやら風呂やらまで済ませた午前一時。
 録画してあったドラマも見終わり、室内がくつろぎモードで満たされる中、私はといえば隣で欠伸をかみ殺す坂田さんを見上げていた。坂田さんは普段から眠そうな目をしているせいでこういう時とても分かりにくいが、なんとなく眠気を纏っているように見える。ような気がする。実際私の提案に対し「そーだな、明日仕事だし」と伸びをしていた。両腕を伸ばしきったのち、持て余すように片手で私の髪を弄んでいる。
「ストレート、羨ましくなりました?」
「天パに誇り持ってんだよこちとら」
 いつもよりキレがないツッコミである。耳元近くに差し込まれているその左手を押しのけるように立ち上がって「電気消します」と告げれば、彼はのろのろとベッドに向かっていった。手のかかる子供のようである。
 部屋の電気とエアコンを消せば、残るは静寂と月明かりのみ。この季節は空気が澄んでいるせいか、寒色の輝きの存在感が際立っている気がする。お陰様でさして視界に困るということもなく、私もベッドへ向かえば坂田さんが掛布団を持ち上げてくれていた。
「厚待遇ですね」
「たまにはな」
 こうして同じベッドに収まることにもいつの間にか完全に慣れてしまっている。ありがたくその隣に体を滑り込ませながら、これまたどこかで痒さを感じた。誤魔化すように坂田さんと距離をとるも、ベッドの横幅が許したのは数センチのみ。「シングルベッド、狭いんですけど」なんとも今更な不平に対して坂田さんは「うるせーな床で寝ろ」。これ以上なく怠そうな呟きと共に抱き寄せられた。骨ばった腕が背中に回って、体温が共有される。
 あーあ、今日も好青年の対義語はうるせえな。
 微睡む脳裏では憎まれ口を叩きつつ、でもそのあたたかさにどうしても安心してしまうから、結局固い胸板にくっついて朝を迎えた。


prevtop--