ドタバタと、やけに騒がしい音によって意識が掬い取られた。
うっすらと目を開いた私の瞼の上に、眩い陽射しが降り注ぐ。逃げるように布団をずり上げれば、我が家とは異なる匂いが鼻を掠めた。細かいことは気にせず二度寝にしけこもう、と再び瞼を閉じるが、しかし。掛布団越しがなにやら騒がしい。あっちへこっちへと足音が駆け巡っている。
しびれをきらして布団から顔を出せば、見慣れた後ろ姿が歯ブラシを咥えたままネクタイを結んでいた。
「さかたさん……?」
全く覚醒しきっていない頭で投げかけると、「おー起きたか」ちらとこちらへ目を遣るその人。しかし一瞬にして洗面台へ消え去った。彼は超特急で口を濯いだのち、いつものモッズコートを羽織っている。慌ただしく鞄も抱えた。一方、覚醒しきっていないにしろ、私の記憶は確かだった。この間の抜けた面の男と、昨日は踏んずほぐれつ、大人の夜の大運動会を繰り広げた記憶がある。事実、現在下着の上に身に着けているのは坂田さんのものらしきトレーナーのみだった。
で、その末にこの状況ということはつまり。
「おきましたけど、……ヤリ逃げ?」
「違っげーよ!! どこにてめーの家でんなことする男がいんだよ! 逃げるならもっと遠い場所と相手選ぶわ!」
私の名推理は儚くも打ち砕かれたようである。完全にそういうことだと思った。坂田さんのツッコミどころのおかしさに関しては今更言及するまでもないのだけれども、……それよりも、じゃあ一体これは何の騒ぎなんだ。訴えかけるようにその眼を見つめ返せば、「そうじゃなくて遅刻の危機なの今ァ!! あと五分で出ねェと授業始まっちまうの!!」朝だというのにギャーギャーとうるさい声が響いた。
「明日仕事なのに知り合いと遊んでたとか正気の沙汰じゃないですね」
「だからなお前……、……だァークソ!」
坂田さんはヤケクソになったように頭をわしゃわしゃ掻いた。ちらと時間を確認したのち、ため息とともにこちらへ向き直る。玄関先とベッドの上で視線だけが交わった。昨夜はゼロ距離、むしろマイナス距離まで到達していたというのに酷い差である。まぁそんなことは置いておいて。未だ半分ほどは寝ぼけたままの私へ、坂田さんが声を落とした。
「お前今日バイトは」
「夜の一二時からですけど」
「んじゃ一七時までには帰ってくっからそれまで絶対ェここにいろ」
「はあ……?」
何言ってんだこの人。戸惑いの声が漏れるが、坂田さんももう余裕はないようだった。「いいな、絶対だぞ。いなかったら覚悟しとけよ」視線は交えたまま靴を履こうともがいている。
「……はあ」
「ナニその納得してなさげな目」
「いや、まぁ寝起きで半分理解してないんで……。出すもん出しといて勝手なこと言いますね」
「お前も挿れるもん挿れられてただろーが、悦んどいて勝手なこと言いますねェ!?」
「コンビニ出禁にしてやる」
なんとも爽やかな朝の光に似つかわしくないやり取りが交わされる。私の脅しも坂田さんは取り合わず、「つーかもうマジでやべェ、また減給されちまう。俺行くからな、ここにいろよお前ェ! 帰ってきたら話し合いだ覚えとけ!!」それはもう慌ただしく玄関から飛び出していった。バタン。乱暴に閉められた扉が数拍置いて音を立てる。結果、私は坂田さんの家に一人きりだ。わけがわからない。
「話し合いって」
なにそれ、学級会かよ。
半分機能していない頭ではそのくらいのことしか考えられなかった。そもそも私は連日の睡眠負債を抱え込んだ寝不足なのである。疲労を吐き出すようにため息を吐き、再び布団に倒れこむと坂田さんの匂いがした。当たり前か。坂田さんの家で坂田さんの服着て坂田さんのベッドに寝てるんだった、私。いやなんだこの状況は。もう疲れた。一旦休憩が必要。「……二度寝しよ」力なく呟いた声は、一日の始まりに消えていった。
坂田さんを見送り、二度寝を満喫した私が目を覚ましたのは昼過ぎのことだった。付けたままの暖房が暖気で満たした部屋で大きく伸びをしたのち、私はとりあえずシャワーを浴びた。流石に下着は使いまわし、それ以外は坂田さんの家着らしいものを勝手に拝借する。残念ながら既に坂田さんに対して遠慮という概念は残っていないため我が物顔だった。シャンプーもトリートメントも二プッシュ以上押してやった。
さっぱりとシャンプーの匂いに包まれた私は、昼過ぎまで飲まず食わずだったということもあり、空きっ腹を満たそうと以前発見した坂田さんのカップ麵貯蓄を覗き込んだ。その中から、一番高そうなものをピックアップ。コンビニ勤務の腕の見せ所である。選ばれし黄金の醤油味の三分を待ちながら、適当にテレビも点ける。あ、坂田さん昼ドラ録画してんじゃん。ナイス。New! のマークが付いた最新話を再生した。そんなこんなで、録画の消化や冷蔵庫に仕舞われていたプリンの味見に精を出すなどしていたら、いつのまにかやってきていた一七時。
「いやめっちゃ満喫してんな」
一七時一一分。躊躇なく開いた扉の向こうから現れた間抜け面、そして開口一番に落とされた言葉はそれだった。朝ぶりに交わった視線の先で坂田さんが呆れたように笑っている。
「出たなヤリ逃げ男」
「帰ってきてんだろーが、労働者をいたわれ」
ふんぞり返りやがって、だなんだと言いながらコートを脱いでいる坂田さん。「家主より馴染んでね、この空間に」新たな録画の再生ボタンを押した私を横目にぐぐぐと伸びをしている。その姿を見るに、どうやら仕事も終わったらしい。彼は各防寒具を取り外し、身軽になるやいなや温かなこたつに滑り込んできた。外気を纏った坂田さんにより、こたつ内の温度が少々低下する。
「どーも、……おかえりなさい? ですかね。この場合」
「そんなあたりじゃね。たでーま。お前一日何してたの」
「何って別に、風呂入って録画消化して食べて寝てって感じですかね」
「人んちでよくそんな寛げたなオイ。……つーかコレ俺のプリン? お前食べた? もしかして食べた!?」
目敏くもテーブル上のプリンの残骸を発見したらしい坂田さんの声。まずいな、面倒臭い。「早速本題といきましょうか」「さらっと話ずらしてんじゃねェよ、本題議題追加だわ! 人のご褒美奪いやがっててめー!!」素知らぬ顔で話題転換を試みるも無駄だったらしい。全く転換させてくれる雰囲気ではない。
「ちっちゃい男ですね、大体私だって美味しく頂かれたんだからプリンの一つくらい美味しく頂いてしかるべきでしょ」
「どういう理論?? 急に反論しづらくなるんだけどヤメテもらえる」
「因果応報です」
「ったく……。まぁでも話はつけなきゃならねーしな」
本題に切り込んでやるよ、と。同じこたつにおさまりながら私の方を見遣る坂田さんから目を逸らした。
朝からこの男は話をつけるだとかなんだとか言っていたけど、一体何を企んでいるのか。正直、この一日私は半ば現実逃避をして昨晩のことを考えないようにしていた。だって考えると坂田さんを殴りたくなるし。自分のちょろさにも頭を抱えたくなるし。てっきり坂田さんも無かったことにしたいのかと思っていたから、こういった展開は予想外だったのだ。
「そもそも話すこととかあります?」どんな態度をとればよいのか分からず、なんでもないことのように告げれば「あ?」気の抜けた声が返ってくる。
「だって普通に遊ばれただけじゃないんですか、私。深ぼっても地獄ですよ」
「遊ばれた奴の態度じゃねーじゃんお前。何も恐れるものねーじゃん」
「大体、……もし遊びじゃなかったなら何なんですか」
投げた言葉は文字通りの疑問だった。だってこの人は坂田さんだ。爛れた恋愛しかしたことがないしする気もないしできもしないと顔に書いてあるようなダメ男。そんなのと晴れてセックスフレンド就任! だとか御免被るのである。でも、それでも家に帰らずにここに留まってしまったのは、まぁ、仄かな淡い期待というか、甘さというか。見て見ぬふりをしていたものがとうとう疼きだしてしまったというか。人間とは欲深い生き物なのだ。溢れ出した葛藤には無表情で蓋をして、空になったプリンの殻をテーブルの奥へ押しやった。押しやりついでに坂田さんを見上げてみる。いつも通りの間抜け面は、その感情を読ませてはくれない。
「お前、ホントに俺が誰でも良かったと思ってんの」
「マジのガチで思ってますけど」
「曇りのない瞳しやがってよ」
だァー! と坂田さんがやけくそにでもなったかのように自身の髪の毛をわしゃわしゃかき混ぜている。「天パが悪化しますよ」「誰のせいだよ誰の!」そりゃ先天性でしょうが。そんな一歩も進まないやり取りの中で、ひと息が吐かれる。じろり、坂田さんの両目が私を捉えた。何やら覚悟でも決めたかのように「……だからまぁ、」重く紡がれたのは低いその人の声だった。
「別に、誰でもよかったわけじゃねェよ」
それは、直球とは程遠い。何が伝えたいのかも読み取れない。けれど確かに、この胸に期待を持たせてしまう、どこかあたたかい響き。真意を探るように坂田さんを見つめる。「……その心は?」私とて、二〇代も半ばに差し掛かった女だ。決してその先が予想できないわけではない。ただ、この人が予想通りを紡ぐことが信じられない。
「お前じゃなかったら抱いてなかったんじゃねーの」
そして、与えられた予想内。遠回しではあるけれども、その本音のしっぽを捕まえた気分だ。
私はてっきり、本当に手近なところで欲を発散させたかっただけかと思ったんだけど。酒におされて、生物学上女が目の前にいて、そう拒否もされなかったからついつい、みたいなノリ。ここにいたのが誰だろうと変わらぬ結果になっていたと思っていたのだけれども。どうやらそれは全て間違いだったのか。仄かな、胸の奥底で揺れたちいさな期待の方が、正しかったということなのか。
先ほどこたつの中に入り込んできた外気も布団の下ですっかり熱を纏ったようだ。下半身を覆う温かさを感じ、しかし別の要因で手のひらが汗ばんでいく。金縛りにあったかのような混乱の中、「……なんで?」ようやく絞り出した一声は戸惑いのあまり掠れていた。
「あ?」
「いや、だって。私だったから、ですか?」
「そう言ってんだろ」
「私の、どこが良いんですか」
何しろこちとら性格も良くないし、職もアルバイトだし。顔は良いけれども坂田さんに対しては愛想を振りまいた覚えもない。現に散々あぁだこうだと口うるさいことを言われている。
正直、坂田さんには面倒な生命体程度の認識しかされていなかったのではないかと――は、思っていないか。脳裏に過るのはクリスマスでの彼の視線やら、看病をした際に見せた特有の熱やら。彼に女として見られていることはどこかでわかっていた。けれど、そういった情の対象になるとは思っていなかったのだ。
私の問いを受けて、坂田さんはこたつの上で投げやりに頬杖をついた。
「んなもんこっちが聞きてーよ。誰が嬉しくてこんな可愛げも愛想も胸もそんなにねェ女」
「……」
「無言で銀さんの銀さん潰しにくるのやめてもらえる?」
少々湧いた殺意からもいでやろうと伸ばした右手。その腐れ息子を刈り取るつもりが、呆気なく手首を掴まれて引き寄せられた。バランスを崩して坂田さんの膝の上に倒れこむような姿勢になる。全面を坂田さんの所持物で囲まれているとはいえ、やはり本人が一番坂田さん感が強いんだな、とよくわからない回想をしていた。数時間ぶり、至近距離にあるその仏頂面が、しかし温かみものせて私の方を見下ろしている。
「仕方ねーだろ。……もうちっと見たくなったんだよ」
「……なにを」
「笑った顔」
どこが良いのか全くわからねーけど。見たくなったら仕方ねーじゃん。とかなんとか。いかにも不本意そうに紡いでいる割に、私に触れる手はひどくやさしい。目も、声も。
「あと勃ったし」
「最低ですね」
本当、こういうところさえなければこの人ももう少し真っ当な人生を歩めただろうに。背面にも側面にも坂田さんの熱を感じながら、気が抜けて笑えた。こういうところがなければ、私はこの人とこんなことになっていなかったかもしれなかった。お互いさまというやつだろうか。
緩んだ空気の糸を手繰り寄せるように、坂田さんが私の額を軽く叩く。「るせーな。そんで? お前ェは?」そこんとこどーなの、と。聞いてきたくせにその顔は既に答えを知っているようである。ムカつく。でも、実際問題彼の隣が安心できる場所になってしまったことは、事実。そこにいたいと思ってしまっていることも、キスもその先も受け入れてしまったことだって。ハァー。大きな大きなため息を吐いた。
「……何が悲しくてこんなちゃらんぽらんの天然パーマ」
「あ゛? ぶっとばすぞクソアマ」
頬をヒクヒク言わせている坂田さんを見上げた。ほらね。こんな状況だって甘い言葉の一つも吐けないような男だ。でも、分厚い分かりづらさにくるんで大きな大きな温かさをくれる優しいひと。わかってる、認めたくないだけで。大分前から気づいてはいる。ずっと悔しくて認めたくなかったのだ。ハァー。再度吐き出した息には諦めの色がのっていた。
「私、なんとも思ってない相手に体を許すほどビッチじゃないです」
「具体性足りてなくね?」
よくもそんなことを飄々とぬかせるものである。さっきの自分の言葉を振り返ってから声を発してほしいものだ。が、まぁ、譲歩してやろう。今くらい。
「……坂田さんに、惚れるとか。一生の不覚です」
少し目をそらして白状すれば、彼は満足げに口角を上げる。「上出来」揶揄うような視線が向けられるのが分かった。対照的に、私の眉間にはみるみるうちに皴が寄る。「照れてんの?」「はあ? 誰が」「顔赤けェけど」「うざ」「かぁーいいね」自身の頬に赤がさしている自覚はあった。なので余計に仏頂面が加速する。同じように坂田さんも上機嫌が加速しているようである。かなりとても、面倒くさいし面白くない。
視界の端に映る窓の外では、漆黒に粉雪がちらついていた。こんな季節だというのに、私をとりまくこの熱さは何事か。冷静さを取り戻すように坂田さんの膝から重心を奪還。今日のところは平静までは奪還できそうにない。というわけで選ぶべき道は一つ。
「というか、もう用は済みましたよね」
コンビニバイトと、常連客。そんな関係性を脱してしまった居たたまれなさに耐えきれず転がっていたスマホを拾った。つまるところ退却の一手というわけだ。「私家でバイトの準備しなきゃなんで」服とかはまぁ、今度がありそうなのでそのとき返すとして。今は一旦自陣へ帰還することが最優先だ。「カエリマース」だがしかし、放とうとしたそんな言葉は、無念にも彼の唇に吸い込まれて消えていった。
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