リセマラ
「だからもう、私はほんとにバカだなぁと……!」

「あーうん、同感」



土曜の夕暮れ、目の前には酒の空き缶。そして天然パーマの同僚。机に突っ伏して涙ながらに絞り出した言葉を、彼――坂田くんは一刀両断した。


なんとも異様に思えるこんな状況だけれど、事の発端は私の片思いである。

私は以前から会社の上司に恋心を抱いていて、同僚の坂田くんに度々相談をしていたのだ。……いや、相談というより一方的に話を聞いてもらっていたという方が正しいかもしれないけど。何にしろどうでも良さげに話を聞いてくれるこの人のペースが心地よかったのである。

そして、そんな坂田くんの助けあってか、上司との恋路はなかなか順調に進んでいった。何度か食事に誘われたり、二人で映画を観に行ったり。決定的な言葉こそまだ貰えていなかったけど、確実にそこへ近づいていると思っていた。――そしてやってきた、Xデー。


『金曜の夜は空けておいて』
その言葉に従って空けておいたその金曜日、私は少し良いホテルのディナーに連れて行かれた。メインディッシュも食べ終えて、デザートが運ばれた頃。彼は白ワイン片手に『実は今日、部屋とってあるんだ』と。

それまで決定的な何かが存在していなかったこの関係に、終止符を打つその言葉。私は夢見心地だった。夢見心地のまま、ふかふかのダブルベッドに組み敷かれて、甘い言葉を注がれて。でも、ことが始まろうとしたそのとき、彼の口が動いた。私を夢から覚ますように


『婚約者がいるんだ』
『それでも、いいかな』


一瞬、わけがわからなかった。





「今まで他に恋人がいる素振りなんか見せてなかったのに゛!」

「そりゃ見せねーだろ。若いバカ女抱ける良いチャンスくらいに思われてたんじゃねーの」

「否定はできないけどこれ以上傷をえぐらないで」



ヤケになってまた手元のチューハイを空にすれば「にしてもお前ほんとにバカだな」と坂田くん。



「そのまま黙って帰ってくる女そういねーだろ」



普通そのままフレンド就任か、そうでなくとも一発くらいはぶん殴るな、なんて。
いかにも私はその衝撃発言を聞くやいなやその場をあとにした。そして一晩眠って、起きて、スーパーで酒を山ほど買ってきて、坂田くんを呼んだ。

バカと言われればそうかもしれないけれど、思考が追いつかなかったのである。坂田くんに全てを洗いざらい話し終わってようやく現実を受け止められたくらいである。

それに、浮気相手には絶対になりなくなかったし。

「あのままあそこにいたら泥沼劇場に仲間入りしちゃう気がして」

「いやもう大分仲間入りしてっけどな」

「これ以上深入りしたらヤバイなって話!」



ずずっ。鼻をすすりながら言うと「へェ」興味なさげに彼はまた新しいビールを開けていた。



「坂田くんほんとに興味ないよね私に」

「当たり前ェだろ、俺はそこで上司に馬乗りになっておっ始める女が好み」

「超アグレッシブ」



まあ彼のそんな無関心さがありがたいのだけど。そうでなきゃこんな相談できやしない。恥ずかしすぎる。というか今更だけど私月曜からどんな顔して出社すればいいのかな、一線越えそうになっちゃったんだけど。浮気のお誘いもちかけられちゃったんだけど。

気まずさに頭を抱えたそのとき、「つーか」と坂田くんがこちらへ視線を投げた。



「結局お前はまだ好きなの?野郎のこと」



それはなんとも、核心に迫る質問である。好きなのかって、そりゃぁ、なんというか。いくら衝撃的なことを言われたって一晩で気持ちが消えてなくなってくれるわけじゃない。そろりと目をそらすと「やっぱバカだな」今日幾度目か、そんな言葉が身を襲う。



「身にしみてわかってるってば」

「何回かあのまま帰らなきゃ良かったとか考えただろ」

「…………」

「だったらもっとずりィ女になってりゃ良かったもんを」

「……ズルい女って、なに」



坂田くんへ視線をあわせて、聞いた。ズルい女。バカな私とはきっと対極に位置するだろうそれになれていたとしたら、なにか変わっていたのだろうか。



「何ってもな。少なくとも野郎はソウイウ関係になる気があったんだろ。なら『側にいて』とか『今夜は一人にしないで』とか言っときゃよかったんだよ」

「……そんなこと、相手の女の人がどう思うか」

「お前ェはそこがバカだっつってんの。綺麗事の通用するもんじゃねーだろ、色恋ってのは」



そういうもんなのかな。坂田くんに言われたらなんだかそんな気がしてきた。もっと、ズルくなるべきなのか、私は。

脳裏に蘇るのは昨晩のひと時である。乱れたシーツの上、男の腕の中で、もしも、私が。



「……じゃぁ、もし。もし昨日、私が頷いて、あの人に抱きついて、それでもいいから側にいてとか言ったりしてたら」



何かがどうにかなったり、しちゃってたのかな。それともただの都合のいい女、昼ドラの悪役に就任することになってたのかな。

私の問いかけに、彼は「さあ」とビールを飲み干した。空き缶をまた一つ机へ転がして、「知らね」



「まァでも、今ごろお前の隣にあいつがいたことだけは確かじゃねーの」



それが地獄の幕開けなのか、略奪愛の始まりなのかはわかんねーけど。

彼の言葉を噛み砕きながら、私はまた新しいチューハイのプルタブを引いた。レモンの爽やかな香りが鼻を抜ける。――そうか、綺麗事なんか捨てて、ズルい女になってたら。そしたら今頃、隣には。……それが幸せなのかは、私にもわからない。

でも、今とは違う結末だったことだけは、事実。



私が弾ける炭酸とアルコールを飲み込んでいると、「ってやべ、もう6時じゃねーか!」坂田くんの焦ったような声が響いた。急いで帰り支度をしている。どうやら観たいドラマがあるらしい。それは大変だ、早く帰って録画しないと。……そう、思いはした。思いはしたけれど、



「奢りならまた愚痴聞いてやるよ。そんじゃまた、」
「まって」



気づけば動いていた、手と口。玄関へ向かおうとする彼が私の横を通り過ぎようとしたそのとき。気づくと引き止めるように、その手首を掴んでいた。

「あ?」坂田くんが、気の抜けた声でこちらを見下ろしたのがわかる。私は俯いたまま、ぎゅうとその手に力を込めた。



「そばにいて」

「……あ?」



また、同じ音を吐いた彼。けれど今度は、先程より怪訝な色の乗った音。
こちらへ向けられる訝しげな視線に、勇気を出して目を合わせる。



「今夜は、ひとりにしない、で?」



見上げた先の坂田くんが、静かに目を見開いた。数秒の間、静寂がこの部屋を満たす。
これまで決して私たちの間に流れたことのない空気が、段々と充満していくのがわかった。……もう引けない。もう逃げ道は、塞がれた。



「……おまえ、何のつもり」

「ズルイ女に、なろうと思って」

「……ヘェ。ちなみに、」



――俺はソウイウ女、大好きだけど、
言うやいなや、カーペットの上へ組み敷かれる。彼の逞しい腕が、顔のすぐ隣につかれた。



「そこんとこ大丈夫?」



アルコールの匂いで満たされた部屋に、ふたりの吐息が混じってとける。坂田くんはいつものどうでも良さげな顔なんてしていなかった。そこには、ただの、男の顔。

小さく頷くと同時、開始されたそれは一体何になるのだろう。地獄か不幸か、もしや幸福の幕開けか――なんて思ったのは、一瞬。

余計なことを考える余裕など、彼の手によってすぐ、消し去られてしまうのだった。


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