ワンコイン本命チョコ
少しだけ冷たい風が特徴的な冬の終わりのある日。いつも通り居酒屋で働いていた私は、お客の気配で顔を上げた。横引きの戸が開いて、ささやかな喧騒で満ちた店内に冷気が流れ込む。


「よー、熱燗で」

「あ、銀さん。毎度どうも」


暖簾をくぐるなり注文を投げたその男には見覚えがあった。近所で万事屋を営んでいるこの男――銀さんは、もう長いことこの居酒屋に通ってくれている常連である。慣れた様子でカウンターに腰掛けた彼は頬杖をついてこちらを見上げた。


「こんな日まで仕事たァおやっさんは相当なブラック居酒屋立ち上げたとみた」


こんな日、とその言葉に横目で先月おろしたばかりのカレンダーを確認する。本日にあたるその日は2/14と示されていた。なるほど、確かに“こんな日”である。


「そういえばバレンタインだったっけ。年中仕事してるのかしてないのかわかんない男に言われたかないけど」

「本当にデキる男は他人に努力を見せねーもんなんだよ」

「あえて見せないのと見せるもんが存在しないのとじゃ酷い違いだけどね」


いつも通りのらりくらりと冗談を吐くその顔にため息をぶつける。ついでに、「ちなみに、銀さんどのくらいチョコもらったの」良い具合に熱を持ち始めた徳利を確認しつつ、季節感にのせて尋ねてみた。「ナニ?気になってんの?」まるで私をからかうように浮かべられたその笑みは無視である。


「まァ俺モッテモテだから?見てみろコレ、10個くらい」

「へえ」


ちらと見せられた懐に除くカラフルなパッケージ。相槌と共に熱燗を手渡すと不満そうな顔で受け取られた。


「聞いたんだから興味持てやコラ」

「そんなこと言ったってチロルチョコだし」

「チロルナメてんじゃねーぞ!ビックサンダーもあったからな!」

「たいがいだよ」


ワンコインでお釣りくるもんしか貰ってないわけ、とケラケラ笑ってやった。銀さんは「うるっせーな!俺だって本気出しゃ本命チョコの10や20余裕なの!まだ本気出してねーだけ!」だなんだと喚いている。
その姿に呆れた視線を向けつつ、……しかし、内心では銀さんの言うこともあながち間違いでは無いだろうと思っていた。飲み屋の店員と常連という関係でも、長い付き合いなのだ。彼のフクザツな性質やら魅力やらも、不本意ながら理解出来てしまっているのである。

この男はロクデナシのくせに、変に人を惹き付けるから。彼が受け取ったという、指先で摘めるほど小さなそれには、いったいどれだけの想いがのせられていたのか。この男相手に募らせるものがあったとして、直接伝えられない女心は大いに察することができる。間の抜けた顔でズカズカと人の心に入り込んでくるくせに、まるで独占できる気がしない男なのだ。直接伝えるのは癪だし、伝えたところで叶うとも思えない、叶ったところで我が身が滅びそうだとも思う。
彼に想いを寄せている誰かに心の底から同情した。残念ながら、他人事ではないのだけれど。


「ハイハイ。そんなにモテモテなくせにバレンタインの夜に1人でこんなとこ飲みに来てくれてありがと」


一瞬迷い込みかけた思考の渦を切り裂くように投げて、注文されたつまみを手渡す。これで会話も一区切り、銀さんも他の馴染みの客と盛り上がり始める頃か、と思ったけれど、予想に反して会話は続いた。


「1人でを強調してんじゃねーぞクソアマ」

「あれ、寂しさに耐えられなかったのかと思って」

「誰がウサギだコノヤロー。大体1人たァ言ってねーだろ」



そこで思わず、カウンター越しに作業していた手が止まってしまう。銀さんに、まるで好い人でもいるかのような言い回し。あまりにも予想外で、「……連れ、いるの?」恐る恐るそう尋ねていた。


「惚れた女とベッドインの予定くらい立ててるに決まってんだろ俺を誰だと思ってんだよ」

「常連の天パ」

「もうちょっと肉付けして認識してもらえる!?」

「うるさいよ。……でもまさか、銀さんにそんな浮いた話があるなんて知らなかった」


先程の真剣なトーンを誤魔化すように明るく言う。どこかで感じるチクリとした痛みには気付かないふりをした。笑顔に見えるだろう顔で、銀さんから視線を外す。


「お相手、かぶき町の人?ちなみに脅しは犯罪らしいよ」

「どこまで信用ねーんだよ!腹決めたんだよ俺も。……ま、 ベッドインは向こう次第だな。俺はまだ予定立てただけだし」

「……なんだ、妄想だね」

「お前マジでなんなの!?哀れみの目で見てんじゃねーよぶん殴るよ!?」


ったくよォ、とウンザリしたようにまた酒を煽った銀さんは、一息つくやいなや「そんで」その死んだ魚のような目をゆるりと私の方へ向けた。この男の、気力など微塵も入っていないくせに妙に色っぽいところは本当になんでなんだろうな。先程の“好い人”疑惑が妄想だった線が濃厚になったこともあり、これといった身構えもせずそんなことを考えていると、「お前はこの後あいてんのかよ」「……え?」気を抜いている間に矛先がこちらへ向かってきていて目を見張った。もしかして間の話を聴き逃したのか。そう思って「何の話?」首を傾げればまたため息を吐かれる。


「今日腹決めるって言っただろ」

「…………それが、なに」

「決める相手、お前」


居心地良さに甘えちまってたけど、そろそろカウンターも邪魔だろ。
続けられた言葉が、右から左へと流れていく。――いや、いやいや。動揺が広がる中、彼が返事を待つように頬杖をついた。フリーズした私を面白がるような、したり顔。懐には無数の女からの想いをしのばせて、それでもその眼に私を映していた。だから、コレは――


「……ベッドインは、今日じゃないでしょ」

「上等」


あぁ、我が身が滅びる予感。
けれど、ふっと笑ったその顔にどうしても高鳴るものがある。その事実がやけに悔しくて、カウンターを越えたらまずは殴ろうと心に決めた。


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