寒いと感じて、徐にパチリと目を覚ました。
チェックのカーテンの向こうに見えるのは僅かな月明かりに照らされる物陰だけで、そこに昼時の明るさは望めそうにもなかった。この寮で過ごしてきた日々もそれなりの長さになったからか、すっかりカーテンの外側に広がる景色も、見えずとも脳裏に浮かぶくらいにはなっている。

そんなことを寝起きでまだ覚醒していない頭で考えてながら、シーツに手をついて起き上がった。スプリングが不快な音を立てたのと殆ど同じようなタイミングで、目尻に貯まっていたらしい雫が頬から顎へと伝い落ちていくような、感覚。一滴だけのそれは左の手の甲に落ちて、その異物感に耐え切れないままに私は、力強くシーツにその手をすりよせる。
それを涙だと認めて思うがままに泣いてしまえば、もう戻れないような気がした。覚醒したらしい頭でそんなことを考えながら、いつの間にか蹴つ飛ばしていたらしいふかふかの掛け布団を右手で掴みあげ、それにうずくまるような体勢のまま顔を埋めてしまう。

少し考えごとをしただけで直ぐに覚醒して眠気も吹っ飛ぶような、ある意味単純とも言えるような頭の作りになったのは何も最近のことではない。ずっと前、それこそ物心のついた3〜4歳の頃からのこの症状ともこの先共に生きていく覚悟は、それこそ申し分ないくらいにはしている。

けれども、いくら眠りが浅くとも得をすることなんて、そうないというのが現状だ。この先、プロヒーローとして生きていくことを考えれば確かに役立ちはするのかもしれない。だけど私はまだこの学校という空間にいる間、睡眠を求める一生徒に過ぎないのだ。
趣に、壁にかけた木製の時計を睨む。すっかり定番と化したデジタルではなく、12の数字が並ぶそれはこの学校に入学する時に一目ぼれして買ってもらったものだ。理由はないのだけれどもどうしても目が離せなくなった私に何を思ったのか、当時家業を継ぐために国立の医大に通っていた兄が、入学祝いと称して買ってくれた。
そんな私にとって数少ない兄からの贈り物のと言える時計の短い針は今、一周のうちの4分の3も回ってはいない。数えてみれば、最後に時計を見てからまだ、2時間もたっていなかった。どれだけキツく見積もったって、あと2〜3時間は寝れる。いつもだってそんな時問に起きているんだから、支度に手間取って遅刻しました、なんてことにはならないだろう。

どう考えたって寝ておくべきだ。うちの学校、それもうちの科はそう生ぬるくはないのだから。

雄英高校のヒーロー科と言えば、それこそこの国随一と言ってもいいほどのヒーローになるための常道、という奴だろう。かく言う私だってここに入学することをずっと目標にしてきて、その目標を叶えたのだ。

だけどもうすぐ、そんな日々も終わる。
先週から始まったカウントダウンは既に卒業までの日にちが1ヶ月、三十日もないことを明示している。私に、私たちに残された日々はもうそれぐらいしか無いのだ。明日だって、タダでさえも母数の少ないヒーロー基礎学がある。寝不足で満足な動きが出来ませんでしたなんてそんな言い訳はしたくないし、何よりも私のプライドがそんなことを言うのは許さない。

そんなことを思いながら掛け布団を引っ掴んで目を瞑ってみても、どんどん目は冴えるだけだった。ちらりと目を開けて時計を見てみてもやっぱり五分も立ってない。
これっぽちも、眠気が襲ってこない。ため息をついたら負けな気がして、瞬きをするだけに留めておいた。寝ろよ、と自分にかたりかける。

私のこれは、「不眠症」と言われるのだそうだ。二年前、USJのあの事件があったすぐあとに病院で診断された。今までもその兆候はあったけれど、高校に入ってからよりわかりやすい症状が出てきたから、その診断に至ったらしい。
高校に入ってから酷くなったことに何か覚えはないかと言われたけれど、ありますだなんて言えなかった。言ったら、きっと迷惑をかけていただろう。私はきっと、余計なことも言っただろうし。

そう、私は物心がついた頃からずっと共存してきたこの「病」に関しての心当たりがあるのだ。
夢を見るのが、怖い。だから私は寝たくないと思って、夢を見たくないと思って、気付けばこんなふうになってしまった。もう今では、寝たいと思っても寝れないぐらいだ。


夢。それはきっと、誰にでも平等なものだ。逃れることは、出来ないもの。
私も夢を見る。誰にも吐露することの出来ない、夢。


一組の男女がいる。男は高校の教師で、女はその教え子だった。2人の年は一回り近く離れてはいたが、女が高校を卒業した後すぐに籍を入れた。身内だけで開かれた密やかな結婚式。
幸せだった。もうその幸せが永遠に続くと過信して、だけど何処かでそれが終わることを恐れるくらいには、とても幸せだったのだ。


だけど男は、ヒーローだった。

家族以外も守る、ヒーローだったのだ。


絵に書いたような幸せは、男があるクラスを受け持ったことで、音を立てるようにして崩れていくことになる。
初の実習に行ったと思えば生死の淵を彷徨うほどの大怪我をし、意識不明で帰ってきた。林間合宿に出向いたかと思えば、世間からの罵声を投げ付けられた。

女はそれを見て、どうしてこうなってしまったのかと毎晩泣いた。男の帰ってこない部屋で、一人でずっと。だけどヒーローを辞めてだなんてそんなこと、言えるはずもなかった。
彼はヒーローだ。出会った時からずっと、今まで、彼がヒーローじゃない時なんてなかった。ヒーローを好きになって、ヒーローと籍を入れた。

こうなることはもう、覚悟していたつもりだった。だけど、だけどやっぱりダメだったのだ。
少しでも彼を支えられるように、必死で医学を学んだ。腕は立つようになった、国内外で頼りにされるようにもなった。

だけど私の手は、届かなかった。


卒業式。あの人は朝早くに、部屋を出ていった。珍しく笑顔だった。心の底から、自分の教え子たちの卒業式を嬉しいと思っている表情。

その成長を、自分のことのように喜ぶ、表情。




彼は、死んだ。

彼の同僚であるプレゼントマイクの連絡を受けて部屋を飛び出して、そこに向かった時にはもう、遅かった。冷たくなった身体。閉じられた瞼。
二度と、もう二度と私の名前が呼ばれることはない。その大きな掌が私の頭を撫でることはない。そっと私の腕を引くことはない。抱き締められることはない。

彼は二度と、目覚めない。

マイクは泣いていた。彼の生徒も泣いていた。先生達も、多分泣いていた。私も、泣いていた。


『今日、は…卒業式、だったんじゃ、ないんですか。』

『……卒業式、だったの。』

『な、ならどうして…消太さん、ねぇ、ねぇ消太さん、先生、相澤先生、』

『先生は、僕を庇って……』

緑谷、出久くん。
校内外でも何度か会うことはあったし、何より、私は彼からこの子の話をよく聞いていた。

先が楽しみだと、少し照れくさそうに彼が笑いながら、それでも本当にそう思って言っているのを、私は、何度も聞いていた。この耳が、確かにそれを捉えていた。彼の自慢の教え子を、私は知っていた。
私はそんな彼の教え子に、顔をあげてと言わなくてはならなかった。顔を上げて、泣かないで。ヒーローなんだから。そう言わなくては、ならなかったのだ。

でも、ダメだった。やっぱり私はそんなに、出来た人間ではなかった。


『ねぇ、ねぇ先生……!!わたし、私、子供がね、出来た、んだよ。先生との、子だよ……!!なの、に、なんで、なんでぇ………!!』

ミッドナイトに、彼の同僚であった香山さんに止められても私は必死で、その冷たくなった身体に手を伸ばす。届く気がした。今手を伸ばせば彼に届くような、そんな気がしていた。

――行かないで、お願い。置いていったり、しないで。



「っ!!はぁ、はぁはぁ…はぁ、はぁ……」

跳ねるようにして飛び起きて、胸に手を当てながら必死で呼吸を落ち着かせようとする。折角拾った掛け布団がまた私の動きに合わせて落下したけれど、それを取ろうと考える余裕すらも私にはなかった。
もしもこのまま過呼吸になったりすれば、また1年生の頃のようにこの寮中、下手すれば学校中を巻き込んだような大騒ぎになってしまうだろう。それだけは、防がなくてはならない。これ以上もう私は、彼に、迷惑を――

そう思いながら深呼吸を続けていれば、次第に昂っていた心臓はいつもと同じように平坦な心拍数を刻み出す。だけどそうなってしまえばもう、私に残るのは言葉にし難いほどの虚無感と悲しみと憎しみと喪失感だけになってしまうのだ。それ以外にはもう、何も残ってはくれない。


「ふっ、う……っふ、」

今までどうやって堪えていたんだと言うくらいの涙が頬を伝い出して、部屋着にしている灰色のジャージの色が少しずつ、雨が降った時のアスファルトのように変色していく。こうなってしまえばもう何をしたって私にはこの涙を止めることは出来なくなってしまうから、自分で言うのはなんだけど困ったものだ。
そんなふうにこの状況を、何処か客観的に見ている私がいた。

それから暫く。涙もやっと止まってきて、私は恐る恐る時計を見上げる。いつの間にか寝落ちしていたのか、時計の短針は5の少し手前を指していた。
ボンヤリと透けるカーテンの向こう側では、薄らと雀が鳴いている。この時期に鳥の鳴き声なんてそう聞こえるものではないから、きっと誰かの個性だろう。そんなふうに冷静に考えてから少し、また涙が頬を伝い出してそれを裾で強引に拭い取る。
まぁそんなことをしたって止まるものではないけれど。


不眠症と診断されてもうすぐ早2年、物心ついた時からもう15年近く。
ずっとだ。ずっと私は、一つの夢を見続けている。
もうすっかり細かいところまで覚えてしまえたそれは、なかなかにバリエーションが豊富だ。2人がまだ生徒と教師の間柄だった時のことも、見たりする。

この15年間をその夢と共にしてきて、そしてこの学校に入学して私は、一つ確信したことがある。その確信を得られるまでに、辿り着いてしまった。

この夢に出てくる女性は間違いなく、私だ。違うところと言われれば夢の中の私はヒーロー科ではなく普通科に進んだことと、今の私よりも少しだけ年が上なことくらい。

あぁそして、そしてこのヒーローは、『私』の愛した男は、間違うこともない、相澤先生なのだ。私の担任である先生が、立派なヒーローである先生が、『私』の夢の中で死んでいく。
私を置いて、残して、手の届かないところに行ってしまう。

そう。先生はこのままじゃ一ヶ月後に、新たな門出を祝う日である卒業式のその日に、敵から緑谷を庇ってそのまま――



死なないでと意味もなく呟けば、また涙が止まらなくなった。やっぱりまだ私には、手を伸ばして掛け布団を拾う余裕すらない。


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