「す、ごい……」
「えへへ、綺麗でしょ? 私が知ってる中で、一番最高な景色だよ」
空から見下ろした街は、下から見る街並みとは全く違う姿を見せていた。黒い外壁から連なる家々の、オレンジを纏った灯りは驚くほどに綺麗で。その光景を例えるなら、夜空に輝く星屑そのもの。街全体がイルミネーションのようだった。
綿うさぎの家に、時計台。それから、時計台と同じくらいの高さの、物々しい雰囲気が漂う砦のような建物。あれは、ミッドナイトさんの家らしい。綿うさぎの家だけでも充分豪華で驚いたけれど、ミッドナイトさんの家は格段に規模の大きさが違った。その見た目は本当にお城のよう。さすがは街の管理者、といったところか。
白鳥が空中でしてくれる零番街の案内はとても楽しくて、どんよりとしていた気分が晴れて夢中になった。片腕で僕を支え、もう片方の手で示しながらひとつひとつ、丁寧に説明してくれる。重くないのか聞いてみると、やはりはそこはポケモン。全然ヘーキだよ、と明るい笑顔で返された。
「あっ、それとね! もうひとつ、見てほしいのがあるの!」
「わっ、ちょっと急にスピード出さないで…!」
「ほら、見て!」
僕の言葉なんて何のその。街外れの森の奥、猛スピードで辿り着いた場所には、碧く煌めく湖があった。 森すらも黒く塗り潰されたこの世界で、その輝くような碧色はすごく異彩を放っていて。曇りひとつない、透明な水面が月や星の光を反射してキラキラと揺らめく。あまりの美しさに、目だけでなく心までも奪われてしまったような感覚。そのくらい、とても綺麗な湖だった。
「私、この場所がすごく好きなんだ。詳しくは分からないけど…水の石が大きく固まって、こんな風に碧く光って見えるんじゃないかって言われてる。ミッドナイトさんと綿…それから私しか知らない、秘密の場所だよ!」
「そんな場所、僕に教えてよかったの…?」
「うん、せっかくだしね! それに……話したいこと、あったし」
「話したいこと……?」
ふと、彼女の声に陰りが見えた気がした。聞き返した後、長い空白。不思議に思って彼女の顔を窺おうとするが、自分の位置からはあまり分からなくて。ただ、遠くを見つめていて、どこか上の空のような気がした。
「……私ね、この街が大好きなの。綺麗な夜空がずっと見られるこの街が好き。自由に羽ばたけるこの街が好き。傲慢でずる賢くて、嘘つきな大人達がいない、この街が好き」
「は、白鳥…? なんか、変だよ。どうし、」
「元の街になんて戻りたくない。あんなところ、大っ嫌い。戻るわけには…いかないの。絶対に嫌。絶対に、絶に絶対に…!! いくら君でも、この街をなくそうとするなら、許さない」
湖のことを楽しげに話していた様子が、一転。急にネジを巻いたオモチャのように、彼女は違うことをペラペラと途切れなく喋りだす。僕は、ここに集められた住人はみんな、外の世界に戻りたいのだと思い込んでいた。白鳥がこんなにもこの街のことを想ってるなんて、知らなかった。
余程、元の街で嫌なことがあったのか、彼女の言葉には怒気が混じっていて、荒げた声が突き刺さるように耳に届く。綿うさぎと僕の会話を聞いて、それがとても憎らしく思えたのだろう。大好きな街を失う可能性が見えて、恐ろしくなったのかもしれない。どちらにせよ、僕に対する怒りは本物で。……強く握り絞められた、右手が痛い。
「君はさ、この街の特性のこと知ってる?」
「……っえ、と…、言霊……のこと、かな?」
「うんうん、そのこと! ふふふ、察しがよくて助かるな! それでね、私……昨日、すごいこと聞いちゃったんだ」
「すごい、こと…?」
「うん、君の名前」
また、コロリと表情を変えて、今度は笑顔で語りだす白鳥。その態度の変化に戸惑いつつも答えると、彼女は嬉しそうに頷いて髪の毛を揺らす。
すごいこと、というから何かと思えば……聞いたのは僕の名前だと彼女は言う。崩れ落ちたミネの元へ駆け寄ったとき、呆然と振り返ったミネは確かに僕の名前を呟いていた。白鳥も近くまで来ていたから、それが聞こえていたのだろう。わざわざその事を伝える彼女に、何か違和感を感じる。
言霊と名前の、深い関係性。
それを考えていたとき、僕の脳裏に嫌な予感が駆け巡った。
「君、アマルくんって言うんだね。ふふ、素敵な名前! 君とは、仲良くなれそうな気がしたのにな」
「…待って、白鳥……まさか…」
「この街に居続ける、それが私の夢で…希望なの。だからね、邪魔しないでほしいの」
「ねえ、白鳥! 話を……!」
見えない殺意を感じた。変わらない笑顔で話す彼女だけど、確実に僕を殺そうとしている。いくら話しかけても、彼女は全く聞き入れようとしない。まるで、僕の声が聞こえていないかのように。
そして、緩やかに動いた口からいつもの明るくて通る声が、僕の頭上に降り注いだ。
「アマルくん。その両手、離して?」
一瞬にして、寒気に襲われる。僕の手を握っていた彼女のそれは、完全に力を無くしていた。僕の身体を支えるものはもう、僕の両腕しか残されていない。ここで放してしまえば、待っているのは…死。水面に叩きつけられて死ぬか、そこで運よく助かったとしてもその先には深く沈む水の中。僕に助かる余地はない。
そうだと頭では分かっている。分かっているのに、その意思に反するように彼女の手から少しずつ剥がれていく僕の指。違う、そうじゃない。何度も頭で反復させるけど、まるで手だけ別の生き物のように動き出す。死への恐怖から、心臓にはドクドクと忙しなく血が流れ、額からはジワリと汗が滲み出た。
「バイバイ」
――いやだ、死にたくない。
そんな僕の願いは届かず、僕の指は彼女の手からするりと抜け落ちる。重力に引き寄せられる身体はみるみるうちに、加速し始めて。段々と小さくなっていく彼女は、薄く微笑むように綺麗な笑みを浮かべていた。
◆◇◆
綿うさぎが家を出た頃、時計台前。
片目だけを覗かせた幼い少女が、一人その大きな時計盤を見つめて立っていた。二つのみつあみを風に揺らす彼女は、何かをぶつぶつと唱えるように独り言を呟いている。その手には、太くて丈夫そうなロープが握られていた。
「…これは、しょうがないんだもん……まだ、私…死にたくない……。だから、こうするしかないの…」
ズッ、と足を擦るように歩き出した彼女は同じようなことを繰り返しながら、一歩ずつ時計台の方へと近づいていく。時計盤が組み込まれたその下にぶら下がる巨大な鐘、 その前で立ち止まると彼女の足が徐々に光を帯び始めた。そのまま全身を包み込むように頭まで伸びた光は、やがて彼女の身体を淡い光で覆い尽くす。
数秒後、光が止んで中から姿を見せたのは大きな尻尾をしならせるオオタチ。手に持っていたロープを口にくわえると、時計台の柱をするすると器用に登り始める。鐘の近くまで登り終えてそれに飛び移った彼女は、時計台と鐘の結合部分にロープをきつく巻き付けた。
鐘に結ばれたロープ、垂らされたその先は丸い輪っか状に括られていて、まるで――。
「えへへ、上手にできた……これなら、シオンも苦しまずに済むかなあ…?」
「あっ、ラスカ! こんなとこにいた! どこに行ったのかと思ってたよ〜!」
「……シオン、ちょうどよかった」
鐘から飛び降りてくるりと一回転した彼女は、再び人の姿へと戻っていた。トン、と難なく着地した彼女が鐘に吊るされたロープを見て、満足そうに目を細めていたとき。その背後から誰かの声が投げ掛けられる。彼女の不在を心配して探していた熊耳の少女、彼女の言葉に反応して振り返った片目の少女は、にこりと口端を緩めるとパタパタと軽い足取りで彼女の元へと駆け寄る。その様子に、熊耳の少女も嬉しそうに手を振り返した。
普段通りの日常の風景。
彼女は疑いもせずそう思っていた、この時までは。
「珍しいね、ラスカが一人で外にいるなんて」
「……って」
「え? なあに?」
「シオン、あの縄で首を吊ってほしいの」
楽しい会話のように、時計台を指差す彼女は笑顔で話す。あまりにも自然に紡がれたその言葉に、熊耳の少女は笑みを浮かべたまま、ぱちりぱちりと目を瞬かせる。そして、無意識に動き出す両足に段々と彼女の意図を理解し始めた。途端に恐怖に襲われた少女の顔が、ぎこちなく歪んでいく。口は震えて、顔は青ざめて。それでも、その足は止まることを知らないかのように、死刑台へと歩みを進めていく。
「ら、ラスカ…やだ……ねえ、冗談だよね? ねえ、ラスカってば!!」
「……ごめんね、シオン。聞こえないや」
「ラスカ! 止めてよ、ラスカ…ッ!!」
片目の少女は胸ポケットに忍ばせていたらしいイヤホンを手に取ると、ためらいなく耳につけてその上からさらに手のひらを重ねる。死に刻一刻と近づく熊耳の少女は、大粒の涙を流して訴え続ける。
助けて、止めて。けれど、それには目もくれず、彼女は瞳を糸のように細くして笑顔を作る。
――少女の叫びは、彼女の耳には届かない。
「いやあああああッ!!」
喚く少女が涙を流しながら首に輪をかけたとき、時刻はちょうど午前0時。カチリと針が重なりあう音と共に、真夜中を告げる鐘が鳴る。彼女の悲痛な声と唸るような鐘の音が混じりあい、残酷にも動き出すその光景は――まるで、悪夢のよう。
「……、っ縞いたち、ここにいたの。月熊が心配して…、」
ほんの僅かな差、綿うさぎが駆けつけたときにはもう遅かった。
括られた紐は大きくしなり、鐘の動きに合わせて彼女の身体が振り子のように揺れ動く。彼女の細い首を締め上げる縄から逃れるように、少女はもがきながら首元をガリガリと爪を立てるがそれが叶うことはなかった。
幾度か揺れた鐘が止まった頃、彼女の腕が力なくだらりと垂れ下がる。そこに映るのは、首を折って項垂れる少女の無惨な姿だった。肩で息をする彼女の目の前には、元気な少女の面影は、もう、どこにもない。
「……嘘、でしょう…」
余韻を残す鐘の音だけが、不気味に街中を埋め尽くしていた。
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