――約1年前くらい前のこと。
せせらぎの丘、森の奥。二人の少女を前にして、森中の様々なポケモンが集まっていた。中には彼女たちと同じように容姿を人の姿に変えて、そわそわと落ち着きなくその様子を伺っている者もいる。
「……よし、お前ら! 今日から新しく入る仲間を紹介する、名前は小夜って言うんだ。みんな、仲良くしろよ」
「え、えっと……よろしくね……」
小夜、と呼ばれた少女は、名前を呼んだ彼女に軽く肩を叩かれると、おずおずと指をいじりながら小さな声で呟く。そんな小夜を見て、集っていた者たちの間に微かなざわめきが起こった。その音は次第に大きくなっていき、小夜の隣にいた白髪の少女は騒がしくなる彼らの様子に、怪訝そうに眉を寄せる。
「おい、みんなどうし……」
「……なあ、しずり。そいつ、何か見覚えあると思ったら……せせらぎのぬしだろ。そんな奴が仲間になるとか、冗談だよな?」
ざわざわと隠しきれない話し声に包まれる中、一人の少年が小夜に向かってスッと指を向ける。その敵意を秘めた目に、彼女は白髪の少女――しずりの後ろに、縮こまるように身を隠してしまった。不穏な空気にしずりはさらに眉間のシワを深くすると、スタスタと彼の元へ歩みを進める。その口は、不機嫌そうにへの字を作っていた。
「冗談なんかじゃねえよ。大体、ここのぬしだからって仲間にしちゃいけねえ理由はねえだろうが。……もしかしてアマネ、お前"噂"の内容信じてビビってんのか? 自分が怖えからって、それをこいつのせいにするのは筋違いだと思うぞ?」
「ち、ちげーよ! んなもん……信じて、ねえし……別に、そんなちっちぇー奴……怖かねえよ!」
「おう、なら仲良くできるよな?」
「だあーっ、ガキ扱いすんじゃねえ! バカしず!」
――噂。
彼女の言うとおり、この森にはとある噂が流れていた。それは、"せせらぎのぬしは力を得るために、周りのポケモンを誰彼構わず食べてしまう"というもの。しかし、その噂は彼女がぬしであるということ以外、根も葉もない嘘ばかりで。凶悪なイメージだけが尾ひれのように連なり、想像上のぬしを象っていた。
そのことに気づいたしずりは、一気に気の抜けた表情で、はあ……とため息をつく。呆れたように彼――アマネに問いかければ、それは図星だったようで。彼女は慌てる彼の頭をなだめながらポンポンと叩くが、その手はバシリと勢いよく弾き飛ばされてしまった。その彼女たちのやり取りを見て、周りにいた彼らの間にくすくすと小さな笑いが起こる。……どうやら、せせらぎのぬしである少女を警戒する空気は、笑い声と共になくなったようだ。
「……よかったな、小夜。こんだけいりゃ、お前も寂しくはないだろ」
「うん、ありがとう……しずりちゃん。しずりちゃんはやっぱり、小夜の王子様だよお!」
「……いや、あたしは女なんだが……」
しずりが小夜の元に戻って、今度は彼女の頭を撫でると、彼女はぎゅうとしずりに抱きつき幸せそうに笑みを作る。先程まで堂々としていた彼女の戸惑う姿に、周りには再び笑顔が溢れた。
――何てことはない、穏やかな1日の始まりである。
◆◇◆
小夜が仲間に加わり、幾日が過ぎた夜のこと。
静けさに染まる森の中に、ひときわ元気な声が響き渡る。
「しずりちゃーん! 一緒に遊ぼー!」
「……お前な。もう夜なんだから、さっさと寝ろよ」
「やだあ! 寝てるより、しずりちゃんと遊んでたいもん!」
「なんだそりゃ……まあ、お前がそれでいいんなら、別に構わねえけど」
「えへへー、やったあ!」
どこからかぴょんぴょんと走り寄ってきた小夜に、思わずしずりはじとり……と目を細めた。しかし、すっかり懐いてしまった彼女に悪い気はしていないようで。小夜の提案を断ることはせずに受け入れの言葉を示すと、彼女はさらににぱりと笑みを深めてしずりの懐へと抱きついていた。
「……で、今日は何をしたいんだ?」
「んーと、今日はねえ……お月さまがきれいだから、一緒にお月見したいなあ!」
「遊ぶんじゃねえのかよ」
しずりの質問に小夜は思案顔でしばらく考えると、パッと閃いたように人差し指を立てた。そののんびりとした内容に、しずりはつい苦笑いを溢す。だが、彼女の言うとおり空に映る月は満月で、月見にはもってこいの空模様だった。
「よし、じゃあ……奥に月がよく見える場所があるから、そこまで歩くか」
「うん! しずりちゃんとお月見、うれしいなあ〜!」
「そんなに嬉しがることか……?」
歩き出すしずりの手を小夜は楽しそうに握ると、ブンブンと揺らしながら隣に並ぶ。ただ月を見るだけだというのに嬉しそうに話す彼女を見てしずりは仕方なさそうに微笑むと、変わらぬ足取りで歩を進めた。
そして、目的地であるせせらぎの奥。目の前に広がる大きな湖には、綺麗に丸く縁取られた満月が水面の上に浮かぶように映っていた。目映く輝く月は、どこか幻想的な印象を与える。
「きれい、だねえー……」
「おう、見晴らしいいし……ここ辺りで、」
「……っしずり! こんなとこにいたのか、早くお前も逃げろ!」
「……は、急になん……」
「森が、襲われてる!!」
湖付近、そこにしずりが腰を下ろそうとした時。誰かの切羽詰まった声が、彼女へと掛けられる。
突如届いた声にしずりは反射的に振り向くと、その先には青ざめて息を切らすアマネの姿があった。見るからに様子のおかしい彼にしずりは聞き返そうとするが、彼の言葉にそれは遮られる。
――森が、襲われている。
そんな、前触れもなく起こった予想だにしないこと。汗を滲ませながら話す彼がわざわざそんな嘘をつくとは思えない、だとしたらきっと彼の話は本当で。隣で不安げに見つめる小夜を視界に入れた彼女は、自分を落ち着かせるようにスッと目を閉じて彼が続ける話に耳を傾けた。
「誰だか知んねえけど、あいつら森を全部燃やす気だ! もうせせらぎの入り口には水で消せねえくらいの火の手が回ってる、早くしねえと逃げれなくなるぞ!」
「……ここは、入り口から一番遠い場所に位置してる。今から行ったって、着く頃には火の勢いはもっと強くなってるはずだ。そんな危険な真似、させるわけにはいかねえよ」
「ッ、んなこと言ってもよ……! 出口はあそこしかねえんだぞ!? そこがダメだっつーなら、もう他に出る方法は……!」
「……いや、方法ならひとつだけある」
相当焦っているのか、話す彼はどんどんと口早になっていく。それを察したしずりは再び目を開けると、冷静にゆっくりと返事を返す。今からせせらぎの入り口まで戻ることがいかに危険か、それは彼にも分かっていたのだろう。
核心をつかれたような顔で――それでも、勢いの止まらない彼に、しずりはひとつの逃げ道を提示した。
「唯一、ここの湖だけは外の海まで繋がってるんだ。そこからなら、そいつらにも気づかれずに逃げることができると思う」
「待てよ、確かにそれなら逃げ切れるかもしれねえけど……逃げるにしたって、泳ぎに慣れてるやつばかりじゃねえんだ。それに、外に出れるほど深くまで潜れるやつなんて、そうそういねえぞ!」
彼女が示したのは、湖の中だった。
島の端に位置するこの湖だけの特性、彼女はそれを利用しようとしているのだ。しかし、その方法は希望であり……危険な行為でもあった。
この森に暮らすポケモンたちは泳げない者がほとんどで、ましてや島の外まで出るとなるとそれ相応の体力が必要となる。その考えが過り不安をあらわにしながら詰め寄る彼に――彼女はニッと口端を上げて笑った。
「バカ、小夜がいるじゃねえか」
「……ど、どういうことだ?」
「小夜、今すぐぬしの姿に戻れるか?」
「う、うん……それはできるけど、どうして……?」
得意気に笑う彼女が親指を向けた先に、アマネは動揺したように視線を合わせた。当の本人である小夜も、まさか自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったのか、目を丸くしてしずりを見上げている。
彼女に対面するように向き直ったしずりはその肩に両手を乗せると、懇願を込めた声で彼女に話し出した。
「お前には森の仲間たちをかくまって、せせらぎの外まで出てほしいんだ。小夜ほどの大きさがあれば、それができるだろ。これはお前にしか頼めねえことなんだ。仲間の命、お前に任せていいか?」
「なっ……! こいつの口ん中に入れってのか!? そんな、食われるかもしれねえのに……!」
「お前、まだ小夜のこと疑ってんのか? 小夜がそんなことするやつじゃねえってのは、もうアマネにだって分かってるだろ。……な、小夜。お前なら、できるよな?」
「……ッうん! 小夜、がんばってみるよ……!」
"ぬしの姿になった彼女の口の中に入り、そのまませせらぎの外へと抜ける"――それが彼女の考えた、不可能を可能にする脱出方法。あの大きなぬしの中に入ることに抵抗する彼ではあったが、それが本心ではないことは彼女にはお見通しだったようで。
グッと口をつぐむ彼を尻目に、彼女は小夜の頭を優しく撫でる。願いを乗せた言葉で問われた小夜は、やる気充分といった表情で強く頷いた。
「……っ、つっても、森のやつら片っ端から集めるなんて、どうやって……」
「それはあたしがやる。だから、アマネはここで仲間の数を確認してくれ。……そして、あたし以外の人数を確認したら、お前も小夜に乗ってせせらぎから抜けるんだ」
「バカ、それじゃあお前はどうすんだよ!」
「そ、そうだよしずりちゃん……しずりちゃんも逃げなきゃ、死んじゃうよ……!」
しずりの言葉に、二人は愕然とした。
共に逃げるものだと思っていた。しずりも共に逃げ延びて、また違う場所で共に暮らすのだと。
――しかし、彼女にとっては違っていた。彼女は危険を承知の上で、仲間を探す役目を一人でかって出ると言うのだ。アマネも小夜も、必死で止めようとするが、彼女の瞳に揺らぎはない。その強い意志に、小夜の目からは大粒の涙が溢れた。
「……あたしはそんなヤワじゃねえよ。それに、森のことについては誰よりも知ってるつもりだ。心配しなくても、ちゃんとあたしも逃げるからよ」
「で、でもよ……お前を置いてなん、ッ!」
「いいから! あたしは小夜とアマネを信じてる。だから、お前たちに仲間の命を託すんだ。いいな、絶対死ぬんじゃねえぞ!」
「やだ……、やだよお、しずりちゃん! 待って、行かないで!」
泣きじゃくる小夜に、しずりは安心させるように晴れやかな笑顔を返す。だが、これ以上一緒にいても彼女たちを不安にさせるだけ。そう考えた彼女は、渋るアマネの背中をバシリと叩き、その場から離れるように二人に背を向ける。
"絶対に生き残ること"、ただそれだけを告げて。引き留める小夜の声が聞こえなくなるまで、しずりはひたすらに月光に照らされた夜道を走り抜けた。前を向いて、余計なことは考えずに、自分の足音のみに集中して……仲間の元へと駆け走った。
――そして、入り口から二つ目、せせらぎの奥から三つ目に位置する湖の側。しずりはそこまで来ると、ずっと走らせていた足をゆっくりと止めた。彼女は乱れた息を整えながら辺りを見渡すが、そこには変わらない森の群衆と大きな湖の光景がある。まだ、ここに火の手は回っていないようだ。
「……探すとは、言ったものの。さすがに、宛もねえのに走り回るのは、無理があるな。……一か八か、仲間に賭けてみるか」
彼女はぼそりと呟くと、おもむろに両腕を空へと掲げた。満月と星空、深い暗闇の中で煌めくそれらは、森が襲われているなんて思わせないほどに綺麗で美しくて。しずりはこの理不尽な状況に憤りを感じながら、満月に重なるように掲げた手を動かした。
――その直後。月からの輝かしい光が一直線に彼女の手のひらへと降り注ぐ。夜空への架け橋のように伸びる月光の道、それを見れば仲間が集まるかもしれないと彼女は考えたのだ。"ムーンフォース"……月の光を借りるこの技が、彼女が賭けた最後の望みだった。
「チッ、これじゃダメか……?」
「……しずり、ちゃん? やっぱり、しずりちゃんだあ!」
「……っこの声は、キノか? よくここに……、」
5分、10分……刻々と時間が過ぎゆく中で、いくら待てども仲間たちは姿を現さない。やはり、無謀な賭けだったのかと彼女が諦めかけた時、森の茂みからガサリと何かが揺れ動く音が聞こえた。
仲間たちにこの光は、願った通り届いていたのだ。彼女の中に再び希望が生まれる。待ち望んだ、聞き慣れた声にしずりは勢いよく振り向いて――全身が凍りつくような、寒気を覚えた。
「お、前……どうしたんだ、その腕は……!!」
「えへ、へ……さっきね、しらない人に会ったんだけど、その人にやられちゃった……でもね、ツユちゃんは両目、やられちゃって……もっとひどいの。だから、早く治療してあげてほしいなあって……っ!」
「ッ、クソ……!」
しずりの前に現れた二人の少女は、光を道しるべに彼女の元へと辿り着いたのだが――既にその身体は手負いだった。キノと呼ばれた彼女はぐったりとしたもう一人の少女を支えるも、その対になる腕は跡形もなく消えていて。それでもなお、彼女は両目から血を流す少女を青ざめた顔で心配していた。
目を覆いたくなるような惨状に、しずりは唇を噛み締める。どうしてこんな目に遭わなければいけない。どうして、彼女たちが傷つかねばならない。そればかりが、彼女の頭の中を反響していた。
話したいことは山程ある……だが、そんなことをしている暇はない。そう言い聞かせた彼女は、荒れ狂う怒りを抑え込みながら。静かに二人の少女へと話を続けた。
「……悪い、キノ。奥の湖まで急いでくれるか? そこにアマネたちが待ってる。小夜が外まで連れていってくれるはずだから、それまで二人とも耐えてくれ……!」
「うん、……うん……! ありがとう、しずりちゃん。しずりちゃんも、絶対あとから来るんだよ?」
「……ああ」
しずりの影に覆われた地面には、ポタポタと小さな黒い染みが滲んでいく。そうやって、手を掲げたままうつ向く彼女に、キノはこくりと涙を流しながら何度も頷いた。また後で会うことを誓って、キノたちはフラつきながら奥の湖へ歩みを進める。
その誓いはきっと、叶うことはない。そう分かっていながらも、彼女は嘘を告げる。――せめて、仲間の命だけでも救わなければ。
キノたちが去ったあと。
それを皮切りにするかのように、次々と仲間たちが集まってきた。ほとんどが傷を負う者ばかりではあったが、命を落とした者は誰一人としていなかった。全員が、生きていた。
最後の一人をアマネたちの元へ送り出すと、しずりの手に伸びていた光はほどけるように消えていく。技を出し続け消耗しきった身体は立つことすらもままならず、彼女は崩れるようにその場に座り込んだ。
身体はもう動かせない、火もすぐそこまで回っている――そんな状況でも。彼女は満足そうに笑った。
「……きっと、これで終わり、だな。みんな、気づいてくれて……助かっ、……ゴホッ、ゴホ!」
充満する煙に、しずりは強く咳き込んだ。まとわりつくような熱気、体内を侵す火煙、薄くなる空気……それらすべてが彼女の体力を奪っていく。
腕を奮わせながら残りの僅かな力で、彼女は森の奥を睨み付けて口を開く――それには、見えない首謀者に対する執念が混じっていた。
「……ックソ、クソ……いったい何のために、こんなこと……っ!! 森を襲ったやつら、絶対に……許さ、ね……から、な……」
目に染みる煙のせいか、はたまた悔しさからか。憎しみを込めた瞳で涙を流す。――そして、途切れゆく意識の中。ついに力をなくした彼女は地に伏せるように倒れ、目を深く閉じた。
◆◇◆
――ふと、目を覚ましたとき……彼女は見知らぬ部屋の中にいた。
「……おや、お目覚めですか? 眠気覚ましに、温かい紅茶でも……」
「ッてめえ、誰だ! ッゴホ、ゴホ……っ!」
「貴方様は今非常に衰弱しておられます、そんなに動いては治るものも治りませんよ。とびきりおいしい紅茶をお持ちしますから、少々ここで休まれててください」
現状を把握できないまま、突然掛けられた声に彼女は寝かせていた身体を素早く起こす。が、しかし。警戒する彼女の意思とは裏腹に、その身体は悲鳴をあげた。側にいた老人は苦しそうに背を丸める彼女を労りつつ立ち上がると、その場から立ち去る。
敵か、味方か――朦朧とした記憶を辿る彼女には、まだ判別がつかない。
「どうぞ。熱いですから、お気をつけて」
「……毒とか、盛ってねえだろうな」
「ほっほ、殺意があるのならそのような面倒なことはしないでしょう。寝ている間にブスリ、とひと突きすればよいだけの話ですから」
「……、」
しばらくして戻ってきた彼の手には、アンティーク調のカップが握られていた。先程の宣言通り、紅茶を淹れてきたらしい。だが、警戒を緩めず、なかなか受け取ろうとしない彼女に、彼はからりと笑い返した。
"殺すつもりならば、寝ている間に"
もっともな彼の言い分に、それもそうだ、としずりは黙り込む。少なくとも敵ではなさそうな彼が淹れた紅茶を、彼女は渋々ながら手に取った。
「……何で、助けた」
「偶然、でございますね。たまには、と思い先日空を回遊していたのです。そのとき、ちょうどアーカラ島に訪れておりまして……そして、貴方様が湖のほとりで倒れているところをお見かけしました。放っておくわけにもいきませんから、ここにお連れした次第でございます」
「そう、か……それは、手間をかけさせてしまったな……」
「とんでもございません。私が勝手にしたことです、貴方様が気に病むことではありませんよ」
湯気が立つ紅茶を冷ましながら、しずりは静かに彼の話を聞く。どうやら、森の外にいたおかげで気を失う程度で済んだようだ。そこを偶然通りかかった彼が保護してくれなければ……きっと彼女に命はなかっただろう。
疑われてもなお、にこにこと笑顔を浮かべる彼に、しずりは申し訳なさそうに視線を下げる。そんな沈んでしまった彼女に、彼はさらに笑みを深めた。何となく居たたまれなった彼女は、程よく冷めた紅茶を口に含むと芳醇な香りがその喉を通り抜ける。――とびきりおいしい、とは本当のことらしい。
「……して、あの状況はただ事ではないとお見受けしましたが……あの場所で、何があったのですか?」
「……あそこには、森があって……仲間がたくさんいた。だが、突然誰かも分からねえやつに、その森を燃やされて……仲間も、居場所も失ってしまった。きっと、仲間たちは逃げ延びてくれたと思ってるが……あたしの故郷は、一瞬にして消えてしまった……!」
「なるほど、そうでしたか……昨日のニュースは、その放火事件のことだったのですね」
優しげな表情から一転、真剣な表情に切り替わった彼からの質問に、彼女はぽつりぽつりと話し出す。仲間のこと、森のこと――そして、そのすべてが失われたこと。消えるはずのないと思っていたものが、正体も分からない犯人によって全部消されてしまったのだ。理不尽で許しがたい惨劇……思い出すだけで、彼女の中に沸々と怒りが宿った。
――島の一部を全焼させた、目に余る厄災。
その大規模な火災は、後に"せせらぎの丘放火事件"として瞬く間に世間に広がった。それを彼もニュースで知ったのだろう。納得するように頷くと、彼は再び笑顔に戻って1つの案を彼女に提示した。
「……それならば、提案がございます。ここのお嬢様となるのはいかがでしょう?」
「……は? どういうことだ、意味分かんねえぞ……」
「私もずっと一人で寂しいと思っていたところなのです。そして、貴方様も帰る場所がないと仰いました。ですから、これからはこの屋敷に住まえばよいではないですか。そうすれば、私も寂しくありませんし、貴方様にも新しい居場所ができます。まさに、利害の一致でございましょう?」
「それは……ありがてえ、けど……」
突然出てきた"お嬢様"の単語に、彼女は困惑を隠せないでいた。元々野生で育ってきた彼女にとって、それは全く縁のないもので。一生関わるはずがなかったであろう存在に、この場でなれと彼はそう言うのだ。金も、大した取り柄もないことは目に見えて明らかなのに。……利害の一致など、よく言えたものだ。
「……お前は、それでいいのか……?」
「はい、私から申しているのですから。駄目な理由などございませんよ」
「そうか……だけどよ、お嬢様ってのは何なんだ? 別に、そんな扱いする必要ねえぞ」
「ほっほ、これほどの大きな屋敷です。貴方様がお嬢様、そして私が執事となれば……いかにもそれっぽいでしょう?」
「ますます意味分かんねえな……」
どうしても彼に利益があるとは思えなかった彼女は問い直してみるが、彼の意見は変わらないようで。同様に、彼の"こだわり"も変わることはなかった。感謝を通り越し呆れ果てるしずりだったが、彼の考えを変えることは難しいようである。
「要は慣れでございます。それが、この屋敷に住まう条件とでもしておきましょうか。今日から私は貴方様の執事ですので、困り事などありましたら何なりとお申し付けください」
「変なやつだな……まあ、お前がそうしたいって言うんならそうするが……。じゃあ、そうだな……とりあえず、名前でも聞いておくか。"執事"と呼ぶわけにもいかねえだろ?」
「そうでございますね、それでは……私のことは"じい"とお呼びくださいませ」
「じ、じいだあ? それ、名前っつーか……」
「ほっほ、よいのです。その方がそれっぽいではありませんか」
「またそれなのか……」
頭を垂れてすっかり執事に成りきった彼に名前を尋ねると、彼はじいと名乗った。一見、ふざけているようにも聞こえる彼の言葉。しかし、様子を見る限りでは冗談ではないことが伺える。
それっぽい、で片付ける彼ではあったが、その顔は非常に嬉しそうに笑っていて。彼が喜ぶ理由を理解するには、しばらく時間が掛かりそうだった。
「今度は、貴方様のお名前をお聞かせ願えますか?」
「……あたしはしずりだ。好きに呼ぶといい」
「しずり様、でございますね。それでは、本日からよろしくお願いいたします、しずりお嬢様」
「おじょ……その呼び方、当分慣れそうにねえな……まあいい。これからよろしく頼むぞ、じい」
"お嬢様"と"じい"。
不思議な関係を結んだ彼らは、どちらからともなく握手を交わす。窓から見える外には、白い花々が穏やかな風に吹かれ揺れていた。