彼女は見るも無残な光景に立ちすくんだ。
「……なんだ、これは…」
手に持つ、大きく詰まったビニール袋が手を離れて地に落ちる。玄関を抜けた先のリビング、そこにいるはずだった二人の姿はどこにもなく、ただあるのは、脳を揺るがすような衝撃。分厚い壁に開いた穴から抜ける風が、ばらばらと彼女の白い髪を揺らす。
――何が、いったい……なにが。
思い詰め、考えを駆け巡らせながら口を結ぶ彼女を、隣にいた少女は不安気に見上げる。しかし、彼女はジッとそこから視線を外そうとはしない。今まで過ごした中で、初めて見る彼女の顔。たまらず、ぎゅっと握られた一回り小さな手に、彼女はそのまま呟くように少女へと語りかけた。
「…小夜、悪い。じいが帰ってくるまでここにいてくれるか」
「し、しずりちゃん、どこか行っちゃうの? 小夜、ひとりはやだよ…!」
――また、ひとりになる。
彼女が今にも消えて、いなくなってしまいそうな、そんな予感。それを何よりも恐れた小夜はすがるように、さらにその手に力を込める。
嫌だ、行かないで。いやいやと首を振る彼女に、しずりはようやく振り向くと、その気持ちを察したようにゆるく微笑んだ。
「……大丈夫だ、時間はかからない。それに、戻ったときに誰もいなかったら、じいも一人で寂しい思いをするだろ? だから、お前が待っててやれ」
「……おじい、ちゃん…。…っ、うんっ、分かった! 小夜、ずっとまってるから……絶対に戻ってきてね、しずりちゃん…!」
「おう、留守番頼んだぞ」
目線を合わせて、数回小夜の頭を撫でた後。目尻に少しだけ浮かんだその雫を拭うようにして、しずりは彼女の頬を撫でる。
その言葉は、まるで魔法のよう。
不思議と勇気が出る、不思議と元気になる、不思議と……大丈夫な気がしてくる。彼女の落ち着いた声は少女の胸に響いて、じんわりと染み渡った。自然と笑顔になった彼女の目から、一粒だけ涙が落ちて。しずりはまたそれを親指ですくうと、もう片方の手でポンポンとその頭を撫で、玄関の方へと向かった。
傘立てに入った、執事からの贈り物を手に取る彼女は、「じゃあな」と一言呟くように。後ろをついてきた小夜に、しばしの別れを告げた。
「…クソ、どこに行った霙……!」
ガチャリ。閉ざされた扉の音が鳴った後、しずりは苦々しく眉間に皺を寄せる。
――消えた霙とヒメ、そして壁の空洞。それらが無関係とは到底思えない。元からフラフラした男ではあったが、仕事は出来るやつだった。ヒメを置いてどこかに行く、ということはないだろう。それに、以前に比べ、随分と"護衛"という役割に対して責任を持つようになったと思う。……と、なれば。
外から回り込み、崩れた壁へと近づいたしずりはその付近を注意深く見渡す。――そして、見つけた。壁の側面とそこから点々と続く小さな赤。気を抜けば見逃してしまいそうなその足跡は、森の奥の方まで続いていた。
行く先を確認した彼女は、おもむろに手から光る胞子を出し、傘の芯へとそれを入れ込む。そして、森へ向かって傘の仕掛けを動かせば。噴き出された胞子は、暗い森の中に星のような煌めきを放ちながら、満遍なく広がっていく。
「……こっちか」
――今日は、風が強い。
吹かれる胞子は、地面に着いては離れを繰返し
遠くまで消えていく。……ただ。血に付着した胞子だけは、その場に身を留めて。道しるべのように暗闇を照らす小さな光は、森の中へ誘うかのごとく不気味に、淡い輝きを放っていた。
◆◇◆
目まぐるしく、刃の交じり合う音が鳴り響く。
霰と霙、二人の激しい攻防。目の前で繰り広げられるそれを、彼はただただ静かに眺めていた。
「……、ッ!」
「どうしたの、霰。いつもより調子悪いんじゃない?」
「うる、さい……っ!」
挑発するように軽口を叩く彼に、彼女は苦し紛れに返答する。硬質な水の刃を片手に持つ彼は、まるで遊んでいるかのように、軽く笑いながらその刃を彼女へ向けては振り降ろしていた。
対する彼女は、両手に持ったクナイでそれを受け止めるのが精一杯といったところ。素早く繰り出される容赦ない攻撃に、彼女の身体はジリジリと後退していく。……口では強がっているが、彼女が劣性なのは目に見えて分かることだった。
――恐らく……いや、ほぼ確実に。
霰は彼に対して、ためらいがある。肉親である兄、その相手をしているのだ。普通ならそうなってしまうのも仕方のないこと。しかし、彼はどうやら違うらしい。このままいけば敗者になるのは、きっと。
「……うーん、それはつまらないなあ」
目を細めて呟く彼は、指をひとつ弾いてにこりと怪しく微笑む。その手中、風の巻くような音が鳴り始めたかと思うと、それはたちまち肥大して。瞬きをする間もなく、巨大な風の渦となって彼の手ひらの上を踊るように回り続けた。
それを、彼女の方へ投げると。その渦はほどけて、彼女の背後から彼に向かって流れてゆき、段々と強い風圧となって彼に押し寄せた。――まるで、彼女の背中を後押しでもするかのように、その勢いは止まることなく増していく。
「…ッてめ、っ!」
「灯様…!?」
「あはは、いいじゃないですかこれくらい。霰も女の子ですからね。ちょっとしたハンデですよ」
「……なーにが、ちょっとだよ。かなり、の間違いじゃ、っ!」
――"追い風"。
森の木々をさざめかせ、地に生える草花を散らすほどの強風が、霙の視界を遮り動きを鈍らせる。足元がぐらつき、彼の守りが緩んだその瞬間――、彼女はそれを見逃さなかった。
風の流れに乗って地を蹴った霰は、クナイを逆手に持ち変えて彼の懐にめがけ勢いよく飛び掛かる。突くように、みぞおちに埋められた彼女の膝に霙は僅かなうめき声を出して、ばしゃりと飛び散る水と共に背中から崩れ落ちた。その身動きのとれなくなった彼の上、髪を舞わせて馬乗りになる彼女の手には、二つの鋭い刃。それが、ゆっくりと彼の喉元にひたりと当てられる。
――動けば、命はない。
そう、彼も心を決めていたが。いつまで経っても動く気配のない彼女を不思議に思った彼は、閉じていた瞳をそっと開ける。
……それと同時のこと。彼女の目に浮かんだ一粒の雫が、彼の頬にこぼれ落ちた。
「……霰、泣いてんの?」
「っ、泣いて、なんか…!」
「……なはは、霰はほーんと優しいよね」
水滴が浮かんでは流れ、流れては落ちて。涙を流しながら否定を口にしていた霰だが、その強がりは長くは続かず彼女の両腕はだらりと力をなくす。カラリと地面に落ちたクナイに霙が目を丸くしたのもつかの間のこと、すぐに彼はふ、と笑みを浮かべると、彼女の頭を優しく撫でた。それは、まさしく兄の表情で。
すさぶ風も落ち着きを取り戻して、木々のざわめく音が止む。そして、彼は静かな声でこう言った。
「その甘さが命取りになるんだって」
彼の優しかった瞳が一気に鋭さを増したかと思うと、素早く彼女の左腕を掴み引き寄せる。突然のことにバランスを崩した彼女は、くるりと体勢を変えた彼の腕に、瞬く間に地面へと押さえつけられた。
止める間もなく、攻守が逆転する様を見ていた夕日色の彼はぽつりと感心の声を人知れず漏らす。
「……へえ、なかなかやるじゃないですか。俺も一度、手合わせ願いたいなあ」
彼がにこにこと変わらぬ笑みで眺めている間、霙の右手に水の粒子が集まり再び硬質な刃を形成していく。先ほどの刃とは比べ物にならない巨大な手裏剣を片手に作り出す彼は、諭すように彼女に言葉を投げ掛けた。
「形勢逆転〜、つってね。……"誰が相手でも"隙を作るな、って親父から習わなかった?」
「……っでも、…でもあたし、おにいを殺すなんて、できないよ…っ!」
「…そっか。俺だって、霰には幸せになってほしいって思ってたよ。……ダメな兄ちゃんで、ごめんな? せめて、苦しまないようにしてやるから」
首元を押さえ、のし掛かる彼の腕を掴む彼女は、糸が切れたように弱音の言葉を口にする。ぼろぼろと溢れる涙と共に崩れ落ちる彼女の虚勢に、彼は僅かばかり眉を寄せるが。ゆっくりと、深く下ろされた彼の瞼から再び覗いた瞳には、まだ強い意志が残っていた。
"彼女は敵"、そう思わせるような敵意を宿した視線。ギュルギュルと水の圧縮される音が鳴り止み、研ぎ澄まされた刃先が彼女に狙いを定める。――ただ一度だけ。彼は寂しそうに微笑んで、その刃を彼女へと降り下ろした。
その時だった。
「やめろ、霙!!」
――残り、数センチ。
寸でのところで、霙の身体がピタリと止まる。聞き間違えるはずもない、凛とした彼女の声。
本来、聞こえるはずのないその声に、彼は勢いよく振り返る。
……そこにいたのはしずり、紛れもなく彼女の姿だった。
「しず、り……」
「しっかり息、止めとけよ!」
切れぎれな息に、乱れた髪。相当、急いでいたのだろう。彼女は呆然とする彼に目もくれないまま、手にしていた鮮やかな傘をバサリと広げると、張り上げるように声を鳴らす。
その声にハッとし、反射的に彼がしずりの元へと飛び移った直後。回転する傘の先端から粉状の何かが吹き出て、宙を舞い広がる。不意の攻撃、当然敵対する彼らに警戒する間はなく。それを吸い込んでしまった霰と灯は、ぐたりと力をなくすように意識を手放した。
――しずりの、眠り粉だ。
「……お前なあ、無闇に人を殺すんじゃ…っ、ゴホ、ッ…!」
「しずり、咳が…! 体調悪いんじゃないの、無茶しないでよ! それに、なんでここに……」
「ったく、会って早々うるせえやつだな……走ったから、ちょっとむせただけだ。それより、ヒメは?」
「……ごめん、連れていかれた」
二人の寝息を立てる姿を見たしずりは、ふう…と安堵の息を吐く。そして、じろりと霙を睨み忠告をしようとした彼女だったが、むせ返る咳にその言葉は遮られてしまった。慌てて駆け寄ろうとする彼を制し、彼女は傘を閉じながら今度は質問を投げかける。
ヒメの安否。森一帯に視線を巡らせるしずりだったが、彼女の姿がないことに疑問を感じたのだろう。……彼女はいない、なぜなら。霙は伝えるべきか言い淀むが、きっと彼女に嘘は通らない。
目をそらして、気まずそうな面持ちで彼は話す。
だが、意外にも彼女は驚くような素振りは見せなかった。
「そいつは……もしかして、眼帯の男か?」
「え、なんで知って……」
「チッ、やっぱりか。……その男にはあたしも用があるんだ。こいつらが起きる前に、さっさと追うぞ」
顎に手を添え考察する彼女の、的を得た問いに霙の方が驚かされる。目を見開く彼の反応で確信した彼女は舌打ちをすると、行く先を尖るような目で見つめながら歩き出した。
草木を分けるようにして作られた獣道、きっと、あの先に――。
「……類、てめえは必ずあたしが捕まえてやる」